座敷童の恋   作:quiet

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「え、櫻子ちゃん?」

 一番最初にそれに反応してくれたのは、知っている顔だった。

 

 三田村幸多だ。登川の橋の近く。こんな冬だから寒くて仕方ないだろうに、友達と一緒になって釣り糸を垂らしている。

 

「だ、誰か、大人の人……」

「櫻子さん、どうしたんですかっ?」

 

 他の子どもたちも、多くがここに来ていたらしい。次に反応してくれたのは畔上郁だ。

 

 退屈そうに水切り石を川に投げていた彼女は、それを放るとすぐにこっちに駆け寄ってくる。たぶん、髪を見ているのだと思った。彼女は血相を変えて、

 

「あの、何が、」

「は、店長と、友達が、崖から落ちちゃって、」

「崖?」

「うそっ、どこどこどこっ!」

 

 今度は幸多ほか、もっと多くの子どもたちがこっちに駆け寄ってくる。櫻子は切れる息を懸命に整えて、その方向を指差そうとする。

 

 ダメだ、と直前に気付けて良かった。

 子どもたちにその場所を教えたりなんかしたら、かえって危ないことになる。

 

「おと、なの人は、いないかな。私一人じゃ、引き上げられなくて」

「てんちょーどこに落ちたの?」

「崖ってどこ? そんなとこあんの?」

「どんくらい高い?」

「今、ここにいるのは私たちだけで……」

 

 子どもたちが口々に心配の声を上げる中で、郁だけがしっかりと訊きたいことを答えてくれる。ダメか、と櫻子は思った。誰か一人でも監督に来ている大人がいればと思ったのだけれど、

 

「おねーちゃん!」

 そのとき叫んだのは、幸多だった。

 

 そうだ、と気付いた次の瞬間には、その『おねーちゃん』は姿を見せている。

 川の中から、冷たい水を弾いて現れる。その姿は他の子どもたちには見えていないのか、あるいはもう彼らにとっては慣れ親しんだ姿なのか。水の中から出てきた女は黒く濡れた髪を払って、堂々と櫻子に問い掛けた。

 

「なんだ。櫻子、どうした」

 登川の主だ。

 

 彼女なら、と思った。彼女なら、何とかしてくれるかもしれない。そう思って櫻子は、ようやく呼吸を落ち着け始めて、もっと詳しい事情を口にする。

 

「今、山の中で急に夜が来て」

「夜?」

「そうしたら肇さんと、私の友達が崖の下に落ちて、呼びかけても、全然答えなくて」

 

 みるみるうちに、登川の主は顔を歪めていく。

 それは、と彼女は言った。

 

「すまん。助けてやりたいが、おれが行くと余計にこじれる」

 

 一瞬、櫻子は絶望的な気分になる。

 けれど――

 

「お前が出てこられたなら大丈夫だ。すぐに引き上げられるだけの人手を連れて、その崖まで戻れ。いいか、必ずその二人をまとめて引き上げられるだけの人手を連れていけ」

 

 言葉はそう続いて、主は空を見た。

 

「まだ日が高い。大丈夫だ。間に合う」

 

 どん、と励ますように彼女が背中を叩く。

 だから強く、櫻子も頷いた。

 

「――はいっ」

「あ、自転車!」

 

 郁が叫んで、ぱっと櫻子は顔を上げた。このあたりで自転車に乗っている人なんて、郵便配達の人を除けば一人しか知らない。

 

「千枝さん、おーい!」

 少し距離の開いた橋の上。郁に釣られて子どもたちがみんな声を出すものだから、きっと戸惑ったのだろう。その自転車もキッと音を立てて止まる。

 

 今だ、と櫻子は橋の上まで駆けて行った。

 松波千枝は自転車に跨ったまま、困惑した様子でこちらを見ていた。

 

「わ、え、何――何ですか? 何かの催し?」

「千枝さん、今、じて、んしゃ」

「なになになになに、何ですか。というかどうしたんですか先生、その髪」

 

 落ち着かなきゃダメだ、と自分に言い聞かせる。あのね、といつも通りの口調を意識して、

 

「今、山の中で人が滑落しちゃって」

「え!」

 

 大変じゃないですか、と千枝が慌てる。どこですか、と自転車から降りようとする彼女の肩を掴んで、押し留めて、

 

「二人いるから、私だけじゃどうにもならなくて。お願い。誰か他に、大人の人を連れてきてくれないかな」

「わ、わかりました! 任せてください!」

 

 後は、颯爽と言って差し支えのない動きだった。

 

 夏から乗っていたがために、もう手足のように扱えるようになったらしい。彼女は自転車を滑らかに漕ぎ出すと、「お父さんたち呼んできます!」と言い残して、ぐんぐんと背中を小さくしていった。

 

 安堵して膝を突くには、登川の主の言葉がまだ気になった。

 必ずその二人をまとめて引き上げられるだけの人手――とはどのくらいのものなのだろう。千枝の父だけで足りるだろうか。たくさん呼んできてと言い添えればよかった。けれど、後悔したところで今から千枝に追い付くことはできない。

 

 どうしよう、と考えて、

 

「――そうだ」

 近くにバス停があることを、櫻子は思い出した。

 

 

 

 

「……さっきは、ごめんなさい」

 とうとう沈黙に耐えかねてというところだったのだろうか。

 

 崖の下。冬枯れの草と、冷たい空気を纏った木々に囲まれて二人は並ぶ。先に口を開いたのは、エリカだった。

 

「お気になさらず。おかげさまでこのとおり、怪我もありませんから」

「そっちじゃなくて。言いすぎたから」

「本当にそう思います?」

「…………」

「私はあんまり思いません。もし自分の他に櫻子さんに同じことをしている人間がいたら、同じように詰め寄るでしょうね」

 

 エリカはその言葉に、いかにも嫌そうな顔をする。

 

「それ、まさか私たちが似た者同士だって言ってる?」

「嫌われちゃったな。もう少し仲良くしませんか」

「する理由がない」

「ここの二人の仲が良ければ、櫻子さんがあなたと出掛けたり遊んだりしやすいじゃありませんか」

 

 その顔が、不思議そうな表情に変わった。

 

「……何それ」

「確かに、結婚相手がどんな友人と付き合いがあろうが何の関係もない話ではありますけどね。しかし櫻子さんはそういうの、気にしてしまう性質でしょう」

「そうじゃなくて。わざとやってる?」

「自分でもわかりません」

「はあ?」

「櫻子さんをどうしたいのかがです」

 

 ぽつりと滴が落ちるように、肇は呟いた。

 凄みかけたエリカは、その静けさに何かを感じ取ったのかもしれない。鼻白んだように言葉を飲む。

 

「私は、道具屋ですから」

 肇は言った。

 

「求められればその通りに答えます。ダメな店主なのでお客を見て出し渋ることもありますが、『髪を染めたい』『誰に憚ることもなく外に出てみたい』と彼女が言うのなら、そのくらいの願いは簡単に叶えられると、いつでも見せて差し上げます」

 

 でも同時に、と。

 落ち着かないのだろうか。肇は冬の砂を指に取る。乾いているはずなのに、冷たさのために濡れているような心地すらするそれを、さり、と指の間に流して、

 

「変わるべきなのは櫻子さんではなく、周りの方なのではないかと思う気持ちもあるんです。あれだけ綺麗な髪なのだからというだけではありません。他のどんな形だったとしてもです。……人と違っていることは、何か悪いことでしょうか」

 

 独り言のようにも、祈りのようにもそれは響く。

 

 肇の言葉を、ただ黙ってエリカは聞いていた。小さく翼が動く。爪が岩肌を撫でる。黒い髪が、ほんの僅かに夜風に揺れる。

 

 閉じられた口からは、牙は見えない。

 

「妖のいない国って、どんな国だと思います?」

 

 不意に、肇が言った。

 それにさして驚いた風でもなく、エリカは答える。

 

「案外、何も変わらないんじゃないの」

「そうかもしれませんね。見えない人にとっては、いないのと同じですから」

「……そうね。そうかも」

「でもきっと、私たちなんかは『寂しい』と思ってしまうんでしょうねえ」

 

 エリカが息を呑んだ。

 しかし次の瞬間には、彼女はいつもの高慢にも映るような調子に戻って、

 

「そんなの、どっちの世界にいたって同じでしょ」

「そうですか?」

「ええ」

「私は、櫻子さんに会ってからは寂しくなくなりましたよ」

 

 肇はそこで、ようやくエリカのことを見た。

 

「便利な道具だったら、そのまま手元に置きます。道具屋ですからね。しかし、私にはそうは思えません。そして、これは本当に甲斐性のないことなんですが」

 

 エリカもまた、彼を見つめ返す。片や微笑んで、片や何かを守ろうとするような、険しい顔で見つめ合う。

 

「大切な『人』をどう扱っていいのかわからなくて、毎日右往左往しているんです。去って行かれたらまた寂しくなるとわかっているのに、やっぱり、自分の好きなように『どう生きるのか』を決めてほしいと思ってしまうから」

 

 その言葉を聞き終えてから、ほとんど間を開けずのことだった。

 

 二人は、同時に視線を上に向ける。崖の上。いまだ奇妙な夜が広がる空を、肩を並べて見上げている。

 

「……さっきは、」

 微かな声。

 

 しかしそこから先に、何か思い直すところがあったらしい。わずかに間を置く。それからとてもはっきりとした、誰の耳にも届くような美しい声で、エリカは言った。

 

「さっきは、ありがとう」

 

 肇は、口元に手を当てた。

 別のところに目をやる。何かを考えるような、迷うような素振りをしてから、

 

「まいったな」

 ふ、と微笑んで答えた。

 

「とぼけようと思ったのに、上手いやり方が見つかりません」

 

 とうとうエリカも笑った。

 く、と喉を鳴らして、赤い瞳を細くする。

 

「櫻子って、趣味悪いわ」

「ねえ。お友達もちょっと、変わった方みたいですし」

 

 言うじゃない、とエリカが肇を見る。

 言わなければよかったです、と肇は肩を竦めた。

 

 

 

 

「春河さん、こっちの方ですか?」

「そうです、待って、崖で、危ないので――」

「いいからほら。春河さん。みんな足元に気を付けてれば大丈夫だから」

 

 そう言って肩を叩いてくれるのは郁の母の畔上で、山の木々をかき分けて皆を先導してくれるのは、幸多の父の三田村だ。

 

 バス停まで行くと、狙った通りに三田村が見つかった。さいはて町の中でも終点になりやすい停留所だ。これからしばらくの時間を待って、駅へと向かう便に切り替わるのだろう。三田村はバスの昇降口を閉め切って、自分は待合の椅子に座って、湯気の立つ水筒を口に運んでいた。

 

 そしてそこには、畔上もいた。日曜日だというのに、これからまた会社の方に出勤するつもりだったのだろうか。いかにも不慣れな手縫いの、しかし温かげな手袋を嵌めて、三田村と何かの言葉を交わしていたらしい。

 

 そこにいきなり自分がやってきたわけだから、と櫻子は思う。さぞかし驚いたことだろう。

 

 もう足は使い切っていて、郁や幸多の方が先に停留所に着いて説明を始めてくれている有様だった。着いたときにはもう、何か良くないことが起こったくらいのことはわかってくれていたらしい。二人は確かに一瞬、自分の姿を見て戸惑った。けれど、

 

「山に、肇さんと、友達が、」

 

 そこまで言えば、二人はすぐさま腰を上げる。片や「大丈夫」と背を撫でて励まして、片やそのままバスに乗せて近くまで運んでくれた。

 

 気付けば大所帯だ。千枝が大層張り切って声掛けをしてくれたのか、彼女の父の松波だけではなく、祭りのときなんかに知り合った住人たちまでそのバスは拾い上げる。山の中までは流石に入り込めなくて、そこから先は歩きで進む。

 

 もういい加減、体力も尽き果てている。それでも櫻子は、できるだけ前の方へ前の方へと向かっていった。

 

 この気持ちは、ただ『助けに来てくれた人がまた崖に落ちてしまわないように』という思いだけなのだろうか?

 

 きっと違うと櫻子は思っている。その代わりにどれが理由と明確に決めることもできないけれど、少なくともそれだけではないことは確かだった。

 

 今、真っ白な髪を人目に晒しながら、櫻子は歩いている。

 誰もがそれを、少しは気にしているだろう。そのことがわかっている。一方で、それでも皆が一緒に来てくれていることも、同じくらいにわかっている。

 

 エリカの問い掛けが、ときどき頭の中で聞こえてくる。

 

 

 ――自分を押さえ込んで生きているわけじゃないんだよね。

 

 

 どうなんだろう。本当のところ櫻子は、まだそれに答えを出せていない。でもきっと、と。それでも、心の中では思っている。

 

 いつかその答えを見つけられるとしたら。

 

 自分はきっと、この日のことも思い出しているのだろう。

 

「ここ、ここです!」

 

 櫻子は大きく手を広げて、それ以上は進まないようにと後続を留めた。

 

 今や自分より先を進んでいたのは三田村だけだ。彼もまた、櫻子と同じようにそれを覗き込んでいて、一緒に付いてきてくれた畔上も、千枝も、それから町の人々も、それに続いた。

 

 深い、深い、何だって飲み込んでしまうような、大奈落。

 その先だけが夜のように暗く映る、深い崖の下。

 

 こんなところあったのか、これは危ない、この縄の長さで足りるか――口々に皆が言う。きっと大丈夫だ、と櫻子はわかっている。だって、ここからかつて帰ってきた人がいるのだから。まだ間に合うと励ましてくれた妖だっているのだから。

 

 だから、最後の一仕事。

 崖に向かって、両手を口の横に付けて、疲労困憊。それでも精一杯の声を、春河櫻子は絞り出した。

 

 

 おーい。

 

 呼び掛ければ、当たり前みたいに声は返ってきた。

 

 

(第十一話・了)

 

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