幕間 作:瀬田薫だいすきクラブ
絆、というものを鎖に例えるとしたのなら。私と「彼」を結ぶ鎖は、きっと歪な形をしているのだろう。
最近読み始めた小説の内容に、そんなことが書いてあった。絆とは、人と人を結ぶ鎖のようなもの。だからこそ人は出会い、結びつき、繋がり、離れていく。そんなことが綴られていて。これを読んだ時最初に思い浮かんだのは、他でもない彼のことだった。
彼と私を繋ぐ鎖は、今も彼の腕にきつく結ばれている。シャツの隙間から覗く包帯の白が、今日はより痛々しく見えた。
彼は、私より二歳ほど年上の人。普通の人より少し身体が弱くて、趣味は水彩画。物腰柔らかで、困ったように笑う笑顔が素敵な人。将来の夢は画家で、その夢を叶えるために舞台スタッフのアルバイトをしながら美術大学に通って「いた」。
そんな華やかに色づくはずだった未来を、私が奪ってしまった人。
「……駒沢さん。まだ、痛むかい?」
「ええ、ちょっとだけ。でも、おかげさまでだいぶ良くなりました」
「そうか、それならよかった」
ほら、こうして触ってももう痛くないんですよ──そう言って彼は「絆」の証をなぞって、私に微笑んでみせる。その微笑がやけに美しいものだから、つい言葉を失って、慌てて笑みを返した。
……彼、駒沢さんは、私がきっかけの事故で大火傷を負った。経緯としては、本来、演出で使うはずの機械が誤作動により、本番中に発火。ちょうど舞台の上で演技をしていて、逃げ遅れそうになった私を近くにいた彼が庇ったが故に火傷を負った、そんな事故。
駒沢さんの左腕は、事故以来、思うように動かなくなったらしい。利き手だったその腕には、今も痛々しいギプスが巻かれている。
あの時、彼が私を庇ってくれたから今私はここにいる。どこにも後遺症を負うことなく、五体満足のまま今も演劇を続けられている。それに対して、彼はどうだろう。
たくさんの美しい作品を生み出していた左手を失って、夢だった画家の道は絶たれて。介助がなければ簡単な日常生活すらままならない。
……だから私は、せめてもの罪滅ぼしとして彼と一緒にいる。彼が失った未来を、時間を、少しでも埋められるように。
彼は助けたくて助けただけですから、気にしないで。と笑っていた。でも、その優しさに甘えて自分がしてしまったことに向き合わないことがどうしてもできなかった。
少し前、彼のアトリエに連れて行ってもらって、彼が産み出した作品を見せてもらったことがある。とても綺麗で、優しくて、温かくて。彼にしか描けない、儚い作品だと思った。
──だからこそ。
隣にいる駒沢さんと目が合う。ぱちり、と瞬きをして、また彼は、優しく笑った。
「瀬田さん。ため息ばっかりついてると、幸せが逃げちゃいますよ」
「ああ、そうだね、すまない」
「ハロー、ハッピーワールド!でしたっけ。世界を笑顔にするバンド、たしか、瀬田さんはそのメンバーでしたよね? なら、たくさん笑わないと。笑う門には福来る、って言うじゃないですか」
そう言って、駒沢さんは右手の人差し指を自分の頬に当ててにこ、とジェスチャーをやってみせる。私を元気づけてくれる優しさが嬉しくて、つい、笑みが溢れた。
そうだね、こうして落ち込んでばかりいるのは、私らしく、いや、瀬田薫らしくない。瀬田薫たるもの、私と舞台を共にしてくれる駒沢さんの人生を、儚く彩らなければならない。
駒沢さんがつまづいてしまわないように、ゆっくりと足取りを合わせて、共に歩き出す。
梅雨入り前の湿った匂いが、少しでも晴れやかになるように、そう祈りながら、歩みを進めた。
〜
この関係が始まったのは、三ヶ月前。あの時私を助けてくれたお礼が言いたい。怪我は大丈夫なのか、具合は問題ないか、それも、まとめて全部聞きたくて。スタッフさんに頼み込んで駒沢さんの連絡先を教えてもらい、なんとか約束を取り付けた。
約束時間の五分前。彼は、左腕にギプスを巻いて私の前に現れた。
「お久しぶりです、瀬田さん」
その笑顔は、舞台裏ですれ違う際、初めて挨拶した時と一切変わらなかった。驚く私に、駒沢さんは優しく笑ってこう言った。「立ち話もなんですし、喫茶店に行きましょう?」と。
行きつけの喫茶店。何度も味わったはずのコーヒーは一切味がしなかった。言葉をうまく紡げない私の代わりに、駒沢さんが話を回してくれる。
「びっくり……しましたよね。正直、僕もです」
そう言って、駒沢さんは微笑む。その笑顔がどこか無理をしているような気がして、どうにかうまく言葉を紡ごうにも、どの偉人の言葉も違う気がした。
本当にすまない、唯一出た言葉は、それだけ。大丈夫ですよ、気にしないで。駒沢さんはそう言ってくれるが、私の気持ちは収まらなかった。
もっと、私が早く逃げられていれば。スピーカーのコードに躓かなければ。彼は、こんなに痛々しい姿にならなかったはずなのに。
数時間前までの自分の能天気な考えにぞっとする。きっと、お医者さんがなんとかしてくれるはずだ、そう思っていた私の浅はかさが、嫌になる。
現実はおとぎ話のようにいかないことを、改めて思い知った。
「……やけどの具合は、大丈夫かい?」
声が震える。駒沢さんは悲しそうに笑って、左腕のシャツを少し捲り、素肌を見せてくれた。そこには、見るだけで痛々しい生傷がじわりと広がっていた。
「……見苦しいものを見せてしまって、すみません」
謝る駒沢さんに、私は見せたくないものを見せてしまってすまない、と返す。駒沢さんは気にしないで、ともう一度口にして、コーヒーでも飲んでゆったりしましょう、と勧めてくれる。
たくさんのミルクに、お砂糖は三つ。僕、そうやって飲むのが好きなんです。駒沢さんは、嬉しそうに話す。意外と甘党なんだね、そう返すと彼は照れくさそうにはにかんで、えへへ、と溢した。
そんな時、彼の右手がぷるぷる、と不器用に震えているのに気がついた。うまくバランスが掴めなくて、ミルクも砂糖も入れづらそうで。
「……ミルクはたっぷり、砂糖は三つでよかったかな?」
「え、あ、はい……」
「少し待っていておくれ」
私はテーブルにあったミルクピッチャーを手に、駒沢さんのコーヒーの上で、くるりと一周させる。駒沢さんは最初驚いた目でこちらを見つめていたが、「もう一周お願いします」と恥ずかしそうに教えてくれた。
そのリクエストに応えるように、もう一周。角砂糖を三つつかんで、できる限り低い高さから落として。ティースプーンでくるくると混ぜて、駒沢さんに差し出す。
「……あ、ありがとうございます」
「お礼なんていらないさ。私でよければ、どんなことでも手伝うよ」
「……っ」
駒沢さんは、感極まったように瞳をキラキラと輝かせ、私の方を見つめてくれる。よかった、喜んでくれたみたいだ。
そのあと少しの間もじもじと唇を動かして、私にこう言った。
「じゃ、じゃあ……」
「コーヒーを飲ませて、くれますか?」
私は一瞬びっくりするが、すぐさまその理由に気づき納得した。思えばずっと、難しそうに右手を使っていたような気がして。念のため、私の推測は間違っていないか彼に問いかける。
「駒沢さんは、左利きなのかい?」
「……ええ。実は」
よかった。やっぱりそうみたいだ。だからこそ、彼は大変だと思う。私はコーヒーカップを手に取り、駒沢さんの口元に寄せる。そのまま少しずつ駒沢さんの口に向かって傾けて、飲みやすい位置をキープする。
駒沢さんは少し唇を開き、こぷ、こぷと上品な音を立てながら甘いミルクコーヒーを飲んでいく。まるで一心同体みたいに飲んでくれるものだから、びっくりしてしまった。
もう大丈夫です、と伝えるように頷いた駒沢さんの合図を最後に、コーヒーカップを元の場所に戻す。駒沢さんはなんだか嬉しそうだった。
「瀬田さん、優しいんですね。ふふ、本当に王子様みたい」
「……そう、かい?」
普段ならありがとう、と答えるはずなのに、今日だけは何故か聞き返してしまった。彼の前だと、どうにも私は調子が狂ってしまうみたいだ。
僕がそんなお世辞を言うような人に見えますか? むうと、拗ねたように頬を膨らして、駒沢さんはそう口にする。
「……ありがとう、嬉しいよ!」
その時、私は自然と笑っていた。思えば、今日はずっと柄にもなく暗い顔のままで、上手に笑えていなかったから。彼は人を笑顔にする才能があるんだと思った。
こころのような天真爛漫さと、花音のようなあどけなさが入り混じった、そんな人だと思う。近いようで遠い二人を思い出してしまう彼は、不思議な人だ。
「ねえ、瀬田さん」
ふと、空いていた右手を右手で握られる。その手は、私より幾ばくか大きくて、骨がしっかりと出ていた。その感触から、いくら彼が華奢で線が細くても、紛れもない男性であることがわかる。
……子猫ちゃんたちの手を取るならまだしも、こうして男性としっかり手を繋ぐ経験は、あまりないものだから。意識しすぎないように、彼の話に耳を傾けることにした。
「瀬田さんさえよければ、なんですけど」
「この怪我が治るまで、僕と一緒に過ごして欲しいです」
私は、もちろん、と即答した。私で叶えられることであれば、できる限り叶えたい。それが、せめてもの贖罪になってほしいから。むしろ、これが贖罪で、いいのだろうか。
……正解は、彼のみぞ知るのだろう。だから私は、彼の王子様になろうと思った。王子様みたい、そう言ってくれた言葉に精一杯応えられるように。
「僕は瀬田さんのこと、よく知りませんから」
「これから素敵なお友達になれると嬉しいです」
改めて、右手同士を使って握手をする。それが、私たちの始まりだった。
〜
それから私と駒沢さんは、たくさんの時を共に過ごすようになった。どこに行くにも、何をするにも常に一緒で、私は彼の動かない左手の代わりとなって、互いの空白を一緒に埋めていった。
駒沢さんはいつも私の左を歩いて、私は彼の右を歩く。どう考えても逆の方が危ない時守れるんじゃないか、と提案しても駒沢さんは首を横に振った。僕だって、何かあった時瀬田さんのことを守りたいんですよ。何気なく放ったその言葉と横顔が、ずっと頭に焼き付いている。
時に恋人に間違われることもあった。私はすぐに否定したけれど、対する駒沢さんはそう見えますか〜? なんてわざと意地悪な言い方をして楽しんでいて、ずるい、と思ってしまう。
彼は、おそらく私と正反対の性質を持った人なんじゃないだろうか。そう思ってしまうほどに、彼はつかみどころがなくて。でも、どこまでも優しい人だった。
あの一件があった後も、駒沢さんは私が出演する舞台やライブに足繁く通ってくれている。本来、トラウマになってもおかしくないはずな
のに。理由を聞けば、瀬田さんが輝く姿を見るのが好きだから、と照れくさそうに教えてくれて。
左手が動けば、その姿を絵に出来たんですけどね。寂しそうに笑う駒沢さんに、また、私はうまく言葉をかけられなかった。
そんな私に、駒沢さんはこう言った。
「かのシェイクスピア曰く……成し遂げんとした志をただ一回の敗北によって捨ててはいけない、ですよ。ふふ、いつもの瀬田さんのモノマネです」
……ああ、彼には敵わないな。気づけば、私は駒沢さんのことを自然と目で追うようになっていた。この温かい感情の名前はまだ知らないけれど、すごく、心地がいいものだった。
そんなある日のことだった。ハロハピ会議も終わり、駒沢さんのところに行こうとした時、私はこころに呼び止められた。
「コマサワ、って人について話があるの」
普段とは違う、冷静なトーンだった。どうしたんだい、そう聞くとこころは真面目な顔でこう口にした。
「あの人、嘘つきさんだわ」
「……えっ?」
……駒沢さん、嘘つき。結びつかない二つの単語に、私は演じることすら忘れてただ驚いてしまう。
けれど、こころがそう言うなら。きっと、何か考えがあるはずだ。私は、どうしてそう思うんだい? とこころに問いを投げかけた。
「あたし、思うの。あの人は、心から薫とおしゃべりしてないような気がするわ」
「ううん、心からおしゃべりしているのは本当だと思うわ。でも……何か、薫に隠してることがあると思うの」
隠し事。そう聞いて、私はハッとする。けれど、駒沢さんはいつも包み隠さず自分のことを伝えてくれていたように思える。本来なら見せたくないであろう火傷跡だって、見せてくれるぐらいだ。
私は首を横に振るが、こころはまだ不安そうな顔で私を見つめている。その時、駒沢さんからのメッセージが届く。
早く行かなければ。
いや、でも、今はこころと話しているのだから。それに気づいたこころは、薫、と私の名前を呼んでこう口にした。
「あたし、薫が心配なの」
「そのコマサワって人が本当に薫のことが大好きなら、薫を困らせるようなことばかりしないはずよ」
「最近は薫とずっと一緒。忙しいはずの薫のことを隣に置いて、自分の世話ばかりさせるなんて」
「なんだか、薫が、メイドさんみたいだわ」
……その言葉が、その言葉によって気づく駒沢さんへの小さな違和感が、胸に突き刺さって、抜けなかった。
こころに別れを告げ、私は駒沢さんと合流し、河川敷を一緒に歩く。
そんな中、頭の中をこだまするのはさっきこころが口にした言葉。駒沢さんは、私に嘘をついているのだろうか。でも、どうして? 私と駒沢さんの間に嘘をつく必要なんてないはずだ。
頭の中で、疑問と不審と困惑がぐちゃぐちゃに広がる。そのせいだったか、私は「あること」にとっさに気づくことができなかった。
人が倒れる音がする。それも、私のすぐ隣で。慌てて振り返ると、そこに横たわっているのは他の誰でもない、駒沢さんだった。
「……あは、考えごと、してたんですか? 今日はやけに、歩くペースが早いなって」
「僕、転ばないように少しずつ歩いてるから、着いていくのに必死で、気づきませんでした」
「……ああ、腕、また痛めちゃった。これ、治るかなあ」
「でも、大丈夫ですよ」
「これは僕の不注意のせいですから」
ちがう。
ちがうんだ。
これは全部。私のせい。
私のせいだ。
私のせいで駒沢さんにまた怪我をさせてしまった。
私のせいで、駒沢さんはまた傷ついたんだ。
「」
「いいんですよ、瀬田さん。気にしないで」
「」
「ふふ、そんなに自分を責めないで? 瀬田さんが悲しそうに謝るのを見ていると、僕も悲しくなっちゃいます」
私と駒沢さんの間には、暗黙のルールがあった。
間違って彼の腕に触れてしまった時。間違って飲んでもらおうとしたコーヒーを彼の腕にかけてしまった時。私は決まってこの言葉を口にする。
ただ、「」と。その言葉を言わないと、気がおかしくなりそうになる。そう言わないと、駒沢さんに二度と会えなくなるような気がする。私はそれが怖くて、何度も何度も繰り返す。
──「」と。
「大丈夫ですよ、『薫さん』。僕は、怒ってなんていませんから」
今はただ、彼の優しい声と、背中を撫でる手つきだけが、救いだった。私は縋り付くように、許しを乞うように彼の胸に体を預ける。
私は、駒沢さんに嫌われたくないんだ。駒澤さんを失うのが、どうしてか、すごく、怖いんだ。そんな私をあやすように、駒沢さんは繰り返す。
「嫌いになんて、なりませんよ」
〜
その、一ヶ月後。私は、ぼうっとテレビを眺めていた。というのも、最近、駒沢さんと会えていない。いくらメッセージを飛ばしても、いくら彼がいた大学を探しても、彼がいないのだ。
何か事故にでもあったんじゃないか、そう思うだけで怖くて仕方がなくなる。それぐらい、駒沢さんは私の心を占める全てになっていた。
でも、それと同じぐらい、駒沢さんへの不信感も強くなっていた。会えば会うほど、私は彼に入れ込んで、盲目になっていたけれど。あの日こころが私にかけてくれた言葉で、少しだけ彼を見る目が正常になった、ような気がする。
あの後、こころに頼んで駒沢さんについて軽く調べてもらった。そこで知った情報は──
そんな中、突然ニュース速報が入ってくる。その内容には。
──XX劇場火災事件、舞台スタッフの男性が関与か。
──警察は、X月XX日にXX劇場にて発生した火災事件について、現場にいた舞台スタッフの駒沢有馬さんが事件に関与した可能性があるとして、詳しい経緯を調べています。
アナウンサーが淡々と読み上げたその名前に、ハッとする。
駒沢有馬。それは、間違いなく私の探している人、駒沢さんの名前だった。
私は信じられなかった。信じたくなかった。けれど、今やその真偽を確かめる術は、彼にあって話を聞くことしかないことも、わかっていた。
私は飛び出す。彼に会うため、いや、違う。全ての真相を確かめるために。
住宅街から少し離れた河川敷。彼がよくここでスケッチをしていたと言っていた場所。そこに彼はいた。誰もいない水辺で、彼は、何気ない顔でコーヒーを飲んでいた。何も入っていない『ブラックコーヒー』を、ギプスの取れた『左手』で器用に飲んでいた。
「あは、僕、本当はミルクコーヒーって好きじゃないんですよねえ。それに、お砂糖も。だって、どっちもコーヒー本来の味がぼやけちゃうじゃないですか」
「……駒沢さん。どういうことか、説明してくれるかい」
「おお。その調子だと、ご友人に調べてもらったみたいですね」
こんな大事になっているのに、変わらず呑気な笑みを浮かべる彼が、怖い。前から底が知れない人だとは思っていたけれど、ここまでだとは思わなかった。
でも、もう私は惑わされない。ちゃんと、彼と向き合って、彼自身の言葉を聞き出すんだ。それが、本当の私がしてしまった罪との向き合い方だと思うから。
……どうして、それにもっと早く気づけなかったんだろうか。でも、昔を後悔している暇はない。大事なのは、これからの未来だから。
「……黒服さんに調べてもらったよ。あの日の舞台、機材に細工をしたのは、君なのかい?」
「ええ、はい。あの装置、面倒な作りだったので大変でした。最終的にめんどくさくなったので、無理やり断線させて火をつけて、着火! 足を引っ掛けやすいように引っ張ってあったコードで無事薫さんが転んでくれたので、上手く『庇ってあげる』ことができたんですよ」
……彼は、何気ない顔で淡々と自分が行った行為を説明する。全く悪びれることなく、当然のことをした、と言い切るような態度が、恐ろしかった。
まさか、あそこで私が転んだことも彼が仕組んだ罠だったなんて。彼は、どこまでも用意周到な人だった。
「……私を庇って火傷を負った、その嘘をつくためにたくさんの人を巻き込んだのかい?」
「ふふ、はい! 本当はバレたくなかったんですけどねえ、バレちゃいました」
「……人が、死ぬかもしれなかったんだよ」
「別に、死んだところで、と僕は思いますけど……でも、僕以外に犠牲者が出なくてよかったじゃないですか。ねっ?」
君のそれも、全部嘘じゃないか。そう言葉が出かけて、無理やり喉に押し込む。その代わりに、私は震える声でこう言った。
「……駒沢さん、あなたはおかしいよ」
何がおかしいのか、駒沢さんはケタケタと笑い出す。どうして、こんなことをしておいてそこまで無邪気でいられるのだろう。何が目的で、こんなことをしたのだろう。私は、彼がわからなかった。
「……『薫さん』は、僕のこと、覚えてますか」
「……何を、言っているんだい?」
「はは、やっぱり。非道い人だなあ、君は」
駒沢さんは、寂しそうに笑う。私は、なんで彼がそう聞いてきたのか、悲しんでいるのか、全くわからなかった。
……少なくとも、私は、覚えていない。こんな流暢に嘘を並べられるような人は、いない。そう、そうだったはずだ。
「僕、中学の頃まで、吃りがひどくて。ずっといじめられてたんです。家にも学校にも居場所がなくて、いつも公園にいました」
「その時、いつも僕の話し相手になってくれる女の子がいました。ボロボロの身なりであることなんて気にしないで、吃ってしまうことも、受け止めて。ただ、僕と言う一個人とまっすぐに話してくれました」
「有馬さん。君は、ずっと僕をそう呼んでくれましたよね。僕も薫さん、って呼んでたんですよ。あの時間が、僕にとって唯一の、かけがえのない大切な時間だったんです」
「だから、薫さんが舞台役者になった時は驚きました。でも、そんな薫さんの一番のファンとして、改めて挨拶をしようとしました。そうしたら、君、なんて言ったと思います?」
「はじめまして、子猫ちゃん」
「そう、言いましたね。僕のこと、全部忘れたような顔して、王子様みたいな顔して」
「僕の人生を救うだけ救っておいて、僕のことなんかいっさら覚えてない。その残酷さに僕は非道く腹が立ちました」
「悲しかったですよ、初恋でしたから」
その言葉を聞いて、私はハッとする。確かに、思い出の中の公園に「彼」はいた。けれど、「彼」はもっと穏やかで優しくて、こんなことをするような人じゃない。
なら、どうして。でも、これを言葉にするのは野暮だと思った。じっと目を閉じて、彼の話の続きを待つ。
「ならいっそ、消えない火傷みたいに、あなたの記憶に焼きついてやろうと思いました」
「仮病でもなんでも、どんな手段であれあなたの中に僕を縛りつければ、もう二度と忘れられない存在になれると思いました」
「僕はただ、あなたに覚えていて欲しかっただけなんです」
「いけませんか?」
……気持ちだけはまっすぐなのに、それ以外のやり方が全部間違っている。私は、ただ、そう思った。
だからこそ、私は彼に想いを伝える。想いを伝えて、分かり合って、私と同じように、彼も罪を償って。そうしたら、きっと、やり直せるんじゃないか。いや、やり直せる。
前向きな祈りを込めて、口を開こうとした。
「これも全部、僕のせいですか?」
口が、うまく、動かない。さっきまで鮮明に動いていた神経が、言うことを聞かない。
「いいんです、僕のせいにしても。全部、僕の一方的な過ちですからね」
口の形が、作り替えられる。あなたのために、あなたが望む答えのために。
そうだ。あなたの覚悟に比べたら私の覚悟なんて、ちっぽけだったんだ。
「」
「はい、よく出来ました」
あなたが私の頭を撫でてくれる。それが、とても嬉しかった。まるで飴をもらった子供みたいに、頭の中が幸福感で満たされて、それ以外何も考えられなくなる。
ありまさん、私は彼の名前を呼んだ。なあに、薫さん。彼は私の名前を呼び返してくれる。それが、嬉しい。嬉しくて、たまらない。
「でも、聞いてくださいよ。この怪我がなくなったら、きっと薫さんは僕と口すら聞いてくれなくなるでしょう? 君は薄情ですから、また、僕を忘れますよね」
「僕は……それが嫌なんです」
「だからね、これからはずうっと一緒にいてほしいです。僕の隣で、一生苦しんでほしい」
「僕を忘れた罰として」
「」
反射的に口がそう動く。有馬さんは、私を改めて諭す。返す言葉は、違うでしょう? と。
私は、はい、と口にすることしかできなかった。今や、私は、この人の前では無力なんだ。ただの、彼が作る舞台の登場人物でしかない。
いや、ずっと前から、私は彼の舞台の上で踊らされていたのかもしれない。彼と舞台裏で再会した、その時から。
「君の言うとおり、僕は嘘つきですよ」
「でも、皆人間として生きているなら嘘の一つや二つつくものでしょう」
「その大小に意味なんてあるんでしょうか?」
「」
「ふふ、よくできました。薫さんは、随分と物分かりが良くなりましたね」
まるで子供をあやすように、有馬さんは微笑んだ。その笑顔を、ずっと見ていたい。有馬さんのことを、ずっと見ていたい。有馬さんのことを、ずっと考えていたい。
有馬さんのためなら、なんでもしてあげたい。
「一時間後、あの駅から遠い遠い海まで向かう電車が出るんです」
「そこには、君の友達、家族はおろか、警察まで追ってこれないでしょう。それぐらい、とっておきの穴場なんですよ」
「……言いたいこと、もうわかりますよね」
「僕をここから連れ出して、王子様」
最早、私に拒否権はなかった。
今、私たちは電車に乗って、知らないはるか遠くの海へ向かっている。
電車の中には、私たち以外、誰もいない。まるで二人きりの世界になったようで、緊張する。そんな私を落ち着かせるように、有馬さんは、ギプスのない左腕で私の頭を撫でる。
だんだんと、瞼が落ちていく。だんだんと、意識が落ちていく。最後に聞こえたのは、「彼」がポツリと呟いた独り言だった。
「僕はね、ずっと君の人生の汚点になりたかったんだ」