緩慢な××の手引   作:水ようかん -Mzyukn-

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冠詞

 

「……先生は、なんで煙草を吸い始めたの」

 

 或る日の昼下がり、食後に一服していると、当番としてオフィスを訪れていたミサキがそう尋ねてきたのが始まりだった。

 

「――なんでだっけなぁ。気付いたら吸ってたというか、何かに憧れて、とかだったような気がするというか……」

 

 要領を得ない私の言葉に納得できるような材料を見出せなかったのか、ミサキはニヒルな栗色の瞳を立ち上る煙の方に向けた。

 本来なら、そもそも生徒の前で煙草を吸うべきではないし、自らのその所以を(つまび)らかにすることも推奨されるべき行いではないのかもしれないが、善か悪か、幸か不幸か、不思議と彼女に相対しては、そういった()(はん)や道徳から逸脱することに忌避感を覚えなかった。

 

「あっ、あれかな、緩慢な自殺がしたかったとか」

 

「……月並だね」

 

「いいじゃん、月。一つしかないんだよ」

 

「その『(the Moon)』じゃなくて、『(month)』の方だけどね」

 

「マジレスはよくないよ、ミサキ。それに本来の意味は今と逆だったかもしれないし」

 

「先生が生徒に嘘を教えるつもり?」

 

「ミサキの前では、私は先生でなくてもいいからね。業務範囲外です。そういう意味では、ミサキは私にとって本当の月ってことになるのかも」

 

「……どうだか」

 

 そう言ってミサキは黒い不織布のマスクで口元を覆い、私の隣に座った。

 

「煙草の臭い、嫌いなんじゃなかったっけ?」

 

「嫌いだよ。煙の臭いも、適当にはぐらかす先生も」

 

 ややの間茫然としていた私だったが、すぐに彼女の意図しているところに気付いた。どうやら煙草を吸い始めた理由についての返答が気に入らなかったらしい。とはいえ、とりたてて披露するような大層な理由があるわけでもなく、本当に「いつの間にか吸っていた」のだから、何かを隠匿していると思われるのは心外だった。しかし下手に弁明しようものなら、余計にあらぬ誤解を与えてしまう(おそ)れがあるため、暫し黙考した私は、匙を投げることにした。

 私が煙草を吸っている間、隣のミサキはスマホを取り出してメッセージアプリを開いたり、SNSを眺めたり、かと思えば再びメッセージアプリを開いたり、気も(そぞ)ろといった様子だった。

 喫煙なんてたった数分で終わることのはずだったが、両者の沈黙と、ちりちりと紙が焼ける音、ミサキがスマホを操作する度に画面に爪が当たる音、それだけの数分が、いやに緩やかに感じられた。

 先生と生徒という間柄ではあれど、いつの間にか気の置けない存在になっていたミサキとの時間は、慌ただしく忙殺されていた業務や諸処で巻き起こる騒擾を忘れさせてくれていた。

 私の肩に触れるミサキの肩から僅かながらも体温を感じることができる。静謐を湛える二畳ばかりの喫煙所内で、彼女の息遣いを聞くことができる。

 キヴォトスという喧噪の中にあってなお、彼女が隣にいる時だけは、深い水底に身を預けているような感覚が私を包み込んでいた。

 そんな折、スマホを懐に仕舞ったミサキが、徐に窓の外を見遣って呟いた。

 

「……先生にとって、私のカンシ(丶丶丶)って何なの?」

 

『カンシ』? 監視? 漢詩? それとも鉗子?

 唐突に投げかけられた言葉に、幾つもの同音異義語が頭の中を駆け巡る。

 その答えは、先程まで交わしていた会話の中に見つかった。

 

「そりゃあ、私にとってミサキは一人しかいないし、『the』だよ」

 

 冠詞。

 月が我々にとって定冠詞(the)のつく唯一無二であるのならば、私にとってのミサキも、不特定多数の生徒達とは別枠の、唯一無二(the)たりえる少女だと言えるだろう。

 などと、事も無げに言ってのけたが、徹頭徹尾そうかと尋ねられれば、これを(がえ)んずるのは(いく)(ばく)かの逡巡を伴うのも否定できない話であった。というのも、出会った初めの頃は、確かに彼女は数多の生徒達のうちの一人でしかなく、これはむしろ私自身の問題であったのだが、特定の一個人に肩入れすることを避けている嫌いがあったからであった。これはシャーレの「先生」による生徒達への助力、尽力、恩恵は広く遍く(もたら)されるべきであり、偏重があってはならないという思想に基づくものであった。

 とはいえ。

 とはいえである。

 誰かを特別に思うことが、他の誰かを蔑ろにすることになるかと訊かれれば、今やこれをNOと断ずることに躊躇いはない。皆を等しく愛し、その上で特定の者を大切にすることは必ずしも不可能でないと、そう諒解したのは(じく)()ながらつい最近のことであった。

 そういった(こも)(ごも)の事情や省察を鑑みて、私は、彼女の言うところの「冠詞」を表現していた。

 

「……――ふうん」

 

 即答とはいかなかったが、どうやら満足してくれたらしく、ミサキは触れ合っていた肩に僅か体重を預けてきた。

 手にしていた煙草はとっくに燃え尽きてフィルターのみを残していたが、これを棄てる等の他の行動は、今の私にその気を起こさせなかった。肩を通じて感じうるミサキの細さ、危うさを、新たな行動を起こすことで「仕切り直される」ことを(はばか)っていた。漫然とした慣性に身を委ね、静止した時を享受していたかった。

 けれどそれも、長く続かないことは承知していた。

 ミサキは徐に身体を起こし、私の人差し指と中指に挟まれたゴミを見つめる。

 

「ねぇ、私にも一本頂戴」

 

 僅かに朱の差した薄い唇が言葉を形作る為に動くのを、やけにゆっくりとした主観で捉えていた。

 囁くようにして乞われた私は、ややの間、惚けたようにその意味を(うち)で反芻して、四半秒の空隙を置いて漸く、否を唱えていた。

 

「だ、ダメだよ。ミサキは未成年だし、先生として認めるわけにはいかない」

 

 ミサキは目を(すが)めた。

 上体ごと私の方に向き直って、燃え(かす)の残った吸殻を未だに離せない私の左手を掴んだ。

 

「『先生として』? よく言うよ。ついさっき、私の前では先生でなくてもいいって言ってたのに」

 

「……それは」

 

「普段は先生と生徒で一線を引きたがるよね。こっちが距離を取ると詰めてくるのに、こっちが詰めるとその分引いていく」

 

「ま、まぁ、でも――」

 

「――今、私が話してる」

 

 反駁の余地すら与えられず、ぴしゃりと遮られ私は閉口する。

 ミサキは掴んだ私の手首を喫煙所の壁に押しつけた。抗するに能わない絶対的な膂力の差が、栗色の鋭い眼差しが、知らず私の身体を強ばらせていた。

 

「その線を引きたがる先生が、私にだけは境界を曖昧にして平気で踏み越えてくる」

 

 ぎりり、私の手首を掴む手に力が込められるのを感じる。

 けれどミサキの相貌は常の如く(たん)(ぜん)としており、傍からみればそれはただじゃれついているだけのようにも見えただろう。

 

「けど私がラインを跨ごうとすると、そうやって飄々とはぐらかす」

 

 左手首の骨が軋む。突き立てられた爪が皮膚に食い込んで、やがてぷつりと、堰を失ったようだったが、そちらに一瞥くれてはいられなかった。

 

「そういう時だけ、都合が悪くなると『先生』を行使するの、ずるいんじゃない」

 

 そんな私の左手が、いつまでも燃え尽きた煙草のフィルターを保持していられるわけもなく、それはとうに指の支えを失ってパンツの脚の上で灰を撒き散らしている。

 

「信頼してくれるのはいい。特別扱いするのもいい。けど、どれだけ望んだって、私は先生の『特別』にはなれない」

 

 彼女の凛と澄んだ声色は、淡い鈍色をしていた。

 

「――っ、ミサキ」

 

 その名を呼んで、その後何を言おうとしていたのかは自分でも分からない。ただ口をついて出ただけの言葉が、彼女にどう受け取られるかなど想像だにできない。或いは私に瑕疵があるとすれば、そういった思慮の域の外にこそあるのかもしれない。

 ともあれ、無思慮に、無分別に、ただ「その名を呼ぶ」というだけの(うん)()が、覿面に彼女の精神を揺らがせたのはどうやら間違いないようだった。

 掴まれた手首が弾かれたように解放される。

 どうやら憤っていたらしい彼女の矛を納める言葉が、感情への寄り添いでもなく理知的な説得でもなく、殆ど内実を伴わない(うわ)(ごと)だったというのは、「先生」を公称する私にとって何よりも忸怩だった。

 

「――――」

 

 ミサキは、私の手首を掴んでいた方の手を、私よりも痛めてしまったように他方の手で握って、一歩後退った。

 何も言えなかった。

 これ以上何を取り繕ったところで、綻びを正すには手遅れだと感じていた。

 それでも、私は左手を彼女に向けて伸ばさずにはいられなかった。

 言わなければならない。「ごめんなさい」と、「大丈夫?」と。

 けれど、伸ばされた私の手は、もう一歩退ったミサキによって虚しく空を切り、彼女を慰める言葉を発する喉は凍りついて(おし)黙っていた。

 最初に拒絶したのはどちらなのだろう、そんな謎掛けのような詮無い思考が、穿たれた空白を埋めるように蔓延する。

 ミサキは、徐に私から遠ざかり、後ろ手で喫煙所の扉に手をかけ、背中を向けた。

 

「――――ごめん」

 

 殆ど聞き取れないほどの、ともすれば、室内に設えられた空気清浄機の駆動音に掻き消されてしまうほどの小さな言葉を残して、ミサキは早歩きに部屋を出た。

 私が口にするよりも先に言われてしまったそれに対する返答を喉の奥で持て余しているうちに、硝子越しに俯いた彼女の背中が小さくなっていき、やがて角を曲がったところで見えなくなってしまった。

 後には行き場をなくした左手と、立ち込める煙草の臭いが残るのみだった。

 

 

 少なくともこの時の私は、彼女(ミサキ)との間に生じてしまった確執を、さしたる確信も確証もなく、いずれ修復することができると楽観視していた、などということは決してなかったが、かといって、形振り構わず再会を試みるのは、おそらく既に手遅れになっていた頃のことだった。

 元より連絡を密にしていた間柄ではなかったが、その日のうちに送信したメッセージには既読を示すアイコンが無機質に点灯しており、以来は通話の発信をかけてもメッセージを再送しても音沙汰はなかった。

 連絡が取れないのならば直接会うしかない、と彼女の現れそうな廃墟や一緒に巡ったショッピングモール、共に過ごしたカフェなどを虱潰しに捜したが、彼女の経歴と経験とがその(しょう)(せき)を容易に掴ませなかった。

 彼女と親交のあった生徒達にも訊き回ったが芳しい成果は得られず、彼女の消息は、(よう)として知れないまま、数日、数週、数月と徒に時が過ぎていった。

 そして、捜索に対する熱量と気概がそうだったように、漸く、私は『冠詞(the)』を失ったのだと気付いた。

 

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