緩慢な××の手引   作:水ようかん -Mzyukn-

2 / 3
追憶、本懐

 

 得難いものを手放してしまった、そういう自覚はあった。

 けれど、後生大事にそれを抱えていることは、傷付けてしまったという負い目が許さなかった。拒絶は、忘却は、呵責は、得てして罪深い。(いわん)や、致傷はよりいっそうの悔悟を伴って戒野ミサキ(わたし)を苛む。

 罪深いと言うならば、そこには罰が必要だ。普段シニカルを気取っているくせに、ちょっとしたことで外れてしまうような(たが)と、その中身の曝露に対しての、とびきりの罰が。

 元より、自罰的な嫌いのあった(というよりは、厭世主義、虚無主義の方が正鵠かもしれないが)私にとって、己に咎を課すことなど何の逡巡も(きょく)(ちょく)もなかった。

 尤も、甚だ忌むべきことに、この身体は(なま)じ頑丈にできており、尋常の方法では傷一つつかない。外傷は私に対する罰としては不適当だろう。そう考えた私は、他のアプローチを検討することにした。

 例えば、昔受けた拷問訓練で、こういうものがあった。

 まず、(しもと)(註、竹製の鞭)で幾度となく打たれる。それは(いとけな)く柔い童女の肌には充分な痛苦を(もたら)し、打たれ続けた皮膚は赤く腫れ上がり、やがて感覚もなくなった頃に鋭い痛撃で裂けて(とう)(とう)と液体が流れ出す。笞が振り上げられ、振り下ろされる。振り上げられ、振り下ろされる。そうした繰り返しの中で、私は、いや、私の身体は、振り上げられる笞を視認しただけで疼痛を発するようになる。曰く、条件反射だのレスポンデント何某だのに起因する生理的学習の一形態らしいが、そういった事物の名称と表象に興味がなかった私にとって、そんなことは極めて瑣末だった。肝要なのは、私達の身体にそういった機能が備わっており、その骨子を理解することで活かすも殺すも自在だという演繹的な事実だ。

 これを私自身に適用するならば、私自身の罪を贖うに値する方法は、自ずと瞭然に輪郭を呈する。

 

「――とかいうのは全部後付けのこじつけかもしれないけど」

 

 誰にもなく自嘲しながら、私は懐のシガレットケースから煙草を取り出し、慣れた手つきで火を点ける。

 フィルターに濾された煙を肺に取り込み、呼気として宙空に吐き出す。舌を撫でながら口腔を出ていった副流煙が苦味を置いていき、少し遅れて酩酊感にも似た眩暈が脳を揺らして一瞬ではあるが私から体幹を奪う。

 

「ふー……」

 

 吐き出され掻き消えた煙の向こう、あの日失った特別な人の姿が脳裏にちりちりと浮かび上がる。煙草の巻紙が灰となって短くなるにつれて、白昼の市街戦で指揮を執ってくれていた声や、連日徹夜漬けでも嫌な顔一つせずにPCの明かりに照らされていた真剣な横顔、誰に対しても真摯に向き合う温厚な眼差し、晩春の(しゅう)()に足止めを食らっていた所に駆けつけてきてはにかみながら差し出されたビニール傘とホットココア、煙草休憩をしている隣で過ごして体温を感じていた時間、ジャケットやブラウスに染みついて落ちない灰と膠の臭いが、追憶という形を伴って蘇る。

 この追憶は痛みだ。

 どんな身体的自傷をも上回る精神的苦痛だ。

 その痛みを享受するのが、見当違いの明後日の方を向いているのは承知の上で、それでも私は、何でもそつなくこなすあの人みたいに器用にはできないから、こうして無理矢理折り合いをつけていく方法しか思いつかなかったのだ。

 かつこつとブーツの踵で土瀝青(アスファルト)を鳴らしながら夜半のシャッター街を歩く。

 昼より夜の方が好きだった。

 私が自らを「日の下を歩けない身の上」と規定していることを差し置いても、夜闇に身体を半分溶かし込んでいるようなこの感覚は、適度に心身を緊張させて少し心地良い。

 この心地良さは、咎人としての私を喫煙という行為の中でよりいっそうに際立たせ、些かの快も許さぬ漫然とした贖罪の日々に比して明瞭な起伏を表される。

 先述したように、追憶(いたみ)を受け容れることそれ自体は何ら忌避すべからざる罰ではあるが、継続的に特定の不快刺激のみを与えられた生体はその刺激に対して馴化するため、私は選択的にこれを受容する。

 鈍化した罰を罰と呼び称すことに意味はない。そんなものは、惰性と慢性に任せた()(たい)に他ならない。誰に後ろ指を差されるわけでもなく、誰に悪し様に罵られるわけでもなく、()わば格率として、瑕疵のない(かん)(せい)に身を投じ続ける為に、私は――。

 

「…………着いた」

 

 銜えた煙草が丁度燃え尽きた時、見憶えのある外観のビルが眼前に現れた。以前と変わらず聳え立つ真白の威容に見下ろされながら、吸殻を処理する。

 街灯りは星海を塗り潰さんばかりに煌々として、けれど通りに人の姿はなく、現実との乖離を感じさせる。数区画向こうの方から聞こえてくる銃声と爆発音とサイレンが、地を踏み締める感触を確かにしていた。

 真正面に捉えた一際高層の摩天楼、その中のシャーレのオフィス、そこが今回の私の目的地であり、運命の交叉路だ。

 懐旧の思いに胸が締め付けられる。

 

「……………………」

 

 私は暫くの間、そのビルの灯りの漏れ出る窓を仰視してオフィス内の光景に思いを馳せていたが、やがて、疼く胸元を押さえてその敷地内に踏み込んだ。

 エントランスに通ずる自動ドアが存外素っ気なく開き、室内照明の眩い光が私の目を眇めさせる。

 ()()から随分と長い間、この辺りの区域には近付かないようにしていた。全ての連絡手段を絶ち、縁のある場所を避けて徹底的に接触を拒んだ。

 自責に耐えられず距離を置いた、と言えば聞こえはいいが、要するに、ただ逃げたのだ。

 甚だ(じく)()ではあるが、それを諒解したのは、つい先日のことだった。

 何か劇的なきっかけがあったわけではない。(たし)か、そう、風が穏やかで、雨の降る夜に、なんとなく内省していて、ふと気付いたのだ。

 なんとなく淋しくなって、なんとなく煙草に火を点けて、なんとなく窓の外を一瞥して、「生涯この路を往くのか?」と、茫漠とした、しかし確かに核心をついた問いが、ずぶりと胸を突いたのだ。

 (ばく)する材料を用意することは簡単だった。或いは、その問いを投げかけたもう一人の自分(アルターエゴ)を直ちに黙らせることも。

 けれど、私がそれを刹那の間逡巡し、一考してしまった。それが故に、その間隙が、理性や建前を放り出した幼稚な我儘の侵襲を許してしまった。「傷付けてしまったこと、逃げ出してしまったことを謝りたい」と。そして、僅かな思考の()(れつ)に滑り込んだその我儘が、徐々に肥大化していき、より(ちょく)(さい)的で感情的で本質的な胸の奥底の言葉を引き摺り出してきて、無情にも露わに曝け出してしまった。

 即ち、「先生に会いたい」と。

 暴かれてしまったその本懐(わがまま)を無視しようと試みることも、一度明瞭な輪郭を得てしまった以上は、無為なことだった。堰は切られ、怒濤の如くして、封じ込めていたセピアが溢れ出す。温もりが、微笑みが、煙草の臭いが、奔流となって網膜の奥をちかちかと灼いて目まぐるしく移り変わる極彩色の情景が頭の中の隅に押し込められていたはずなのに俄かにその版図を広げ瞬く間に蔓延っていった。

 愚かな私にはそれをもう一度忘却の果てに追いやることは能わず、ささくれのように棘ついた喉の奥に気を遣らないではいられなくなっていた。

 これも贖罪の一環だろうか。私は自問する。それを望むのであれば。私は自答する。

 喫煙という行為によって緩慢な自殺を試みるのは、その都度に追憶を手繰り寄せるのは、その正否は別にして、熟慮の末に導き出された罰として充分に功を奏していたはずだった。だが、()()は全く予期していなかった。煙の臭いに眉を顰めるのも、肺を黒く穢すのも、指先が冷えて手が震えるのも、全て許容範囲内だったのに、たった一つの副次効果が、看過すべからざる痛苦へと昇華させてしまった。会いたいと望み(こいねが)うことが、どうしようもなく堪え難い。これが自分自身に対する罰なのだとしたら、或いは、(けだ)しこれこそが全き罰なのだとしたら、私には、これ以上連続性を以て(あがな)うことはできない。

 咎人としての己に否を唱えることは、私が選び採った道程に背を向けることは、(はい)(とく)だろうか。いや、徳に(もと)ると言うならば、そもそも、何もかもがそうだ。あの時先生を傷付けてしまったことも、思わず逃げ出してしまったことも、今日に至るまで(よう)として一切の消息を絶っていたことも、その悉くが赦されざる(あやま)りだろう。

 赦されぬならば、謬りならば、今や、私を構成する(しっ)(こく)は拘泥に足らぬ瑣事と成り果てる。瑣事ならば、(きょう)(ざつ)ならば、不要と断じられ直ちに取り除かれなければならない。そして排除され、(ふる)われた末に、掌に残った()は、(ひっ)(きょう)に純粋で澄明な本懐(わがまま)そのものとなる。

 一切を無価値と冷笑し、一切を無意味と()(しょう)し、逃げたその身を罪悪で凝り固め、挙句(ほう)り投げて、逃げることからも逃げて、とうとう唾棄すべき幼稚な残滓が、贖罪だとか自傷だとかの薄っぺらい欺瞞を引き剥がした。

 全部欺瞞だった。鍍金(めっき)のように表面だけ綺麗に取り繕っても、(もっと)もらしい言い訳を訥々(とつとつ)と並べ立てても、その実、

 

「私はただあの人を思い出したいだけだった」

 

 それだけだったのだ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。