その日の大広間は、羽ペンを動かす音や生徒たちの囁き声、そして参考書のページを捲る音に包まれていた。
遊びに興じる生徒はごく僅かだ。故に、大きな騒音は聞こえない。
それでも尚、不快と言わんばかりに顔をあげる生徒がいるのは、明日の予定に対して神経質になっている証拠だろうか。
そんな中、文音はいつものように、いよいよ目前に迫った試験に向け勉強に励んでいた。
ハリー・ポッターらの罰則に帯同してから数日後。
あれからというもの、禁じられた森の探索中に遭遇した黒いフードの人物の正体は、依然として不明のままであった。
ユニコーンの血を飲むような異常者が、ホグワーツの敷地に潜んでいる。
ただでさえ試験前で緊張しているというのに、新たに加わったこの事実は文音の胸を更にざわつかせた。
そもそも黒いフードの者のみに留まらない。ハロウィーンの日にトロールが校舎内に侵入した件も、未だに原因は分かっていない。
探索時の記憶に紐づけ、文音は数か月前の出来事も振り返る。
ホグワーツは優秀な教師陣と、校舎中に魔法が施された学校だ。
――きっと考えすぎに違いない。大きな異変が起こるはずなんて無いのだ。
文音は不穏な気配を嗅ぎとったものの、すぐさまそれを打ち消すようにノートに向き直る。
何かあったところで、それに対応するのは教師の仕事だ。一介の生徒である人間が背負うことではない。
不審者や謎に想像を巡らせるよりも、集中すべきことがある。
無事に二年生に進級するべく、文音は気を引き締め魔法薬学の配合計算問題を解いた。
「もう無理、絶対変身術でやらかすわ。皆、私がもう一度一年生をやる羽目になっても仲良くしてね」
「フリットウィックって過去問から同じ問題を出した事ある?」
「僕ぜんぜん勉強してなくてさ、本気でまずいかも」
(うげえ!『勉強してないアピール』をするやつって、どこにでもいるんだ)
雑音に混じり、四方から生徒たちの弱音や悲鳴が耳に入ってくる。
往来から聞こえてきた話の一部に、文音は口をへの字に曲げた。
マホウトコロでもテストの前になると、試験勉強を疎かにしていると吹聴する者がいた。
しかし、文音は知っている。そういう人間に限って、いざ試験が終わると良い点数をとっていたりするのだ。
これでもし本当に点が悪かった場合に備えて、事前に言い訳をしているのか。あるいは多感なお年頃故に、ガリ勉と思われるのが嫌なのか。はたまた周りを油断させる狙いがあるのか。
いずれにせよ、英国の試験事情すら知らない文音は、付近で繰り広げられる「勉強していないアピール」に焦燥感を煽られていた。
このような人でごった返す場所で、勉強しようと思ったのが間違いだった。
テーブルに置かれた菓子をつまみながら復習に臨もうと大広間までやって来たはいいものの、他者の声にどうしても気が散ってしまう。
文音は椅子から立ち上がり、大広間をあとにした。
(……?なんだあれ)
寮へ戻ろうと歩いている文音の目に、妙な光景が映る。
大広間を出てすぐの場所にある廊下。そこへ置かれている甲冑の前で、彼女は立ち止まった。
ホグワーツは古い歴史を持つ学校だ。校舎内には魔法じかけの調度品が置かれており、文音も社会奉仕活動の一環でそれらに触れる機会がある。
丁度目の前にある騎士の甲冑も、そのうちの一つだ。
しかし現在文音の目に映る甲冑は、片手を頭、もう片方の手を腰に当て胸を強調したセクシーなポーズをとっている。その一方で両足のつま先は外側へ向いており、滑稽ながに股になっていた。
魔法界で生み出されたかの甲冑は、昼夜を問わずひとりでに動く特徴がある。しかし姿勢を上手く元に戻すことができないのか、甲冑はもぞもぞと震えるばかりだ。
――おそらく、悪戯な生徒によって変な恰好をさせられたに違いない。
文音は間抜けな姿勢の甲冑を見て少し吹き出した後、哀れな調度品に情けをかけた。
教材をすぐ近くの窓枠に立てかけ、自由になった手で甲冑に触れる。
途中「ゴキッ」と嫌な音が聞こえたが、錯覚だと捉えておこう。こうして大雑把な手振りで対象を元の状態へ戻した文音は、いつもの荘厳な佇まいになった甲冑をしげしげと見つめた。
そして、ぼそりと呟く。
「礼はいらないよ。ただ、この廊下を先生が通りかかったら、フミネ・ハツノは真面目で品行方正な生徒だって伝えるんだよ」
情けは人のためならず、ということわざは日本魔法界で育った者にも馴染み深い言葉である。
もしも最悪なことに、明日からの試験で悪い点数をとったとしても。
(――内申点を稼いでおけば、救いは残されるかもしれない)
下心丸出しの現実逃避に溺れながら、文音は己が未来の安泰を願った。
だが、例の甲冑は魔法じかけ故に動き出すことはあるが、喋っているところをついぞ目撃されたことはない。
声も発さないのに、どうやって人の善行を喧伝できるというのか。
甲冑は、海を越えてやって来た少女を一瞬だけ見下ろした後、すぐに顔をあげ前を向いた。兜には目も口もついてないが、その顔は呆れ果てているようにもみえた。
◆◇◆◇
そして更に数日経ち、年度末試験の日程が全て終了した。
最後の試験科目を終えると、生徒たちはみな歓声をあげ教室を出ていく。
真っ先に飛び出したのは学年内でもひょうきんと有名な男子生徒だ。その後ろをお喋り好きな女子生徒、そのまた後ろをしょんぼりと肩を落とす男子生徒が続いていく。
文音は他の生徒たちの背中を見届けた後、最後に教室を去った。
(……意外とイケる気がする。あーダメダメ、これで点数悪かったら悲しくなるから期待しないでおくか)
すっかり、教室棟には文音以外の生徒は見当たらなくなっている。
静寂の中、今回のテストを振り返った文音はその手応えに些か高揚していた。
社会奉仕活動以外の時間を勉強に充てることが多かったせいか、試験に出てきた問題のほとんどは念入りに復習した箇所ばかりだった。ひっかけ問題や状況設定問題など、解答に少し詰まった部分はあったが、どの教科も時間に余裕を持って記入できたのである。
逸る気持ちを抑えるように自分に言い聞かせるが、回答欄のズレや氏名の書き忘れが無い限りは、まずまずといった点数をとれる可能性が高い。
文音は周りに誰もいないことを確認すると、スリザリン寮までの道中をスキップで進んだ。
しかし、やはり高揚のあまり確認が十分で無かったのだろう。ついには鼻歌でボイスパーカッションを始めた文音の耳に、自分以外の声が届いた。
「ミス・ハツノ。校舎内では歩いて移動するように」
「オワァッ!」
突如、淡々とした声が文音めがけてとんできた。
驚くあまり、ご機嫌な鼻歌は悲鳴へと変わる。文音が目を見開いて振り返ると、後方でミネルバ・マクゴナガルが両手を重ねて立っていた。
「す、すみませんでした、気を付けます」
「そうしてもらえると助かります。スキップをしながら鼻歌を歌う生徒を注意するのは、今日で五回目ですから」
既に、文音のように試験が終わり浮かれる子どもたちを散々見てきたらしい。
少女の奇行に特段珍しがる様子もなく、マクゴナガルは文音のもとへと近づいた。
面白がられるのも勘弁だが、何事もなかったようにされるのも何だか恥ずかしい。羞恥心と複雑な感情を抱え文音は顔を赤くする。
まあ、減点されなかっただけでも幸いだと考えよう。
醜態を晒したものの、何とか前向きに捉えた文音は頭を下げてその場から離れようとした。
しかし話はまだ終わっていないのか、厳格な教師は立ち去ろうとする文音を制したのである。
「待ちなさい、ミス・ハツノ。あなたに声をかけたのは、ただ注意をするためだけではありません」
「え?えっと、どういった御用でしょうか?」
首をかしげる文音をよそに、マクゴナガルが話を続ける。
その内容は、ここ数日ほど免除されていた事項に関してだった。
「一年生の年度末試験は今日で全て終わりました。ですから、早速ですが社会奉仕活動も再開します」
「そ……それって今からですか?」
「今からです」
文音の問いに、マクゴナガルがきっぱりと返す。
てっきり、明日を迎えるまでは自由な時間を過ごせると思っていたが、とんだ見込み違いである。
解放感から一転、水をさされた心地になったものの、文音は真面目にマクゴナガルの指示に頷いた。
彼女の言う通り、試験はもう終わった。活動を再開しようがしまいが、最早テストの点数には影響しない。
それに卒業までにクレプシドラの底を水で満たすのが、文音に与えられた第一の努めだ。それを思えば、活動の再開に拒否を示す理由も無かった。
マクゴナガルから言い渡された本日の活動内容は、「闇の魔術に対する防衛術」で使う教室の清掃だった。
試験が終わって最初の社会奉仕活動が、クィレルの根城の掃除とは。
文音は渡されたスケジュール表を睨みつけながら、目的地へと移動した。
ちなみに追い打ちをかけるように、明日は魔法薬学室の掃除の予定が組まれている。
もしかして自分は、マクゴナガルの親でも殺してしまったのだろうか。今日、明日と続けて苦手な人物に対面しなければならない事実に文音の気は重くなった。
「失礼します。クィレル先生はいらっしゃいますか。スリザリン寮のハツノです。社会奉仕活動で清掃に伺いました」
教室へ続く扉の前で声をかける。しかし、返事がない。
声も気も小さいクィレルのことだ。自分の耳に届かなかっただけで、彼なりに返事をしたのだろう。
文音はもう一度「失礼します」と断りを入れた後、扉を開け教室へと入った。
「……クィレル先生、いらっしゃいますか?」
しかし予想に反して、教室内にクィレルの姿は見当たらなかった。
周囲に響くのは文音の声だけである。何回か尋ねても、一向に返事がない。
どうやらクィリナス・クィレルは此処にはいないらしい。
彼の不在を察した文音は、腕を組んで思案した。
社会奉仕活動で教室を掃除する際、大抵はその教科を担当する教師が事前に文音を待っていたのだ。だが、今回は違う。
教師のいないまま、勝手に掃除を始めてよいのだろうか。
確認もとらずに行動しては、注意を受けるかもしれない。
しかし――。
文音は誰もいない教室を見渡した。
今からクィレルを探しに行くのも手間がかかる。職員室や他の場所を訪ねたところで、彼がいるとも限らない。
それに何より、文音はクィレルが苦手だ。いちいち彼を掃除の前に呼び戻して、二人きりの空間で作業に励むのもできれば避けたい。
幸いにして、教室内には生徒が触ってはいけないような危険な道具は置かれていない。試験が終わったばかりだが、他生徒の答案用紙と疑わしき書類もない。生徒一人で清掃に入ったところで、問題になるような品はどこにもなかった。
ならば彼が戻ってくる前に、さっさと掃除を終わらせよう。
「涸れ井戸に雫、杯を満たそう」
いつもの合言葉を唱えると、文音はクレプシドラを近くの台に置いた。
結局、個人的な感情を優先した彼女は、彼の捜索をせずワイシャツの袖をまくったのである。
まずは机の拭き掃除から始めていく。
ブリキの中に突っ込んだ布巾を取り出すと、文音はそれを水で濡らし固く絞った。
こうして手前にある生徒用の机から、一台一台と拭きあげる。授業中、熱心にノートに書き込む生徒もいるので、ところどころに黒いインクのしみが付着していた。
机についた汚れを素早く除去すると、今度は窓とその下にある調度品を磨く。そして最後に床の掃き掃除をすれば、教室内の清掃は終了だ。
使い終わった布巾を片付け、室内の隅に立てかけた箒を取ると黙々と床に落ちた埃を集める。
しかし順調に埃を掃き集めていたところで、文音はとある物を発見した。
「……?」
教室と研究室を仕切る扉は閉ざされている。だが扉の下の隙間に、何やら白い布切れのようなものが落ちていた。
不審に思い、腰を屈めてドアの隙間に指を差し入む。くたりと落ちていた布切れは、抵抗もなくするりと引っ張り上げられ、その全貌を文音に晒した。
(げっ、あの時のハンカチじゃん!)
それは、以前トロールに襲撃された際にクィレルが貸してくれたハンカチであった。
確か、数か月前の社会奉仕活動の際にも、このハンカチを目にした覚えがある。
あの時と同じように、ハンカチには茶色いしみがついていた。その汚れの正体は、おそらく少女の酸化した血液だ。丁寧で繊細な刺繍を施された上品さに、まったくそぐわない痕である。
しかし、茶色いしみの他にも新たに汚れがついているようだ。文音はハンカチを広げ、まじまじと確認した。
茶色いしみに被さるように、鈍色の汚れがある。
――まるで絵具でも垂らしたみたいだ。
きっと、掃除をしているのが他の一年生であれば、そう思うだけで終わるだろう。
だが、文音は違った。
「……!」
誰もいない空間の中、少女の息を呑む音が響く。
ハンカチを穢す鈍色に、文音は心覚えがあった。
(この色……、完全に乾いているのに、うっすらと特徴的な光沢がある。間違いない……!)
「勝手に教室の清掃をするのは如何なものか」
「ひッ……っ!」
急いで他の教師へ報告せねば。
ハンカチを握ったまま、震える足を叱咤して動かす。
そしてすぐさま職員室を目指すべく振り返ると、そこにはクィリナス・クィレルの存在があった。
――音など何も聞こえなかった。いつから其処にいたのだ。
思わず声をあげてしまったが、文音はすぐにぎこちない笑みと会釈をした。
「す、すみません。マクゴナガル先生に今日から社会奉仕活動を再開するように言われて、掃除に伺ったんです。先生は不在なようでしたけど、きっと試験の採点をしていると思って……。それで、お邪魔しないよう声をかけずにいたのですが、やっぱり生徒だけで教室の掃除をしたら駄目でしたよね」
「いつもと違って、今日はよく喋るな」
「!……先生がいると気付かなかったせいで、驚いて口数が多くなっているのかも。不快だったらごめんなさい」
(いつもと違うのはあんたもだよ……!)
努めてごく自然に振る舞っているつもりだったが、クィレルは目敏く指摘した。
彼の台詞に、文音も心の中で物申す。
確かに普段、クィレルを苦手に思う文音は奉仕活動中も彼とあまり会話をしなかった。
だが文音に送られた言葉は、彼自身にも当てはまる。
クィレルのほうだって、元よりお喋りな人物ではない。話しかけたところで、挙動不審な態度も相まって円滑なコミュニケーションは難しい。
しかしいま目の前で喋る彼は、まるで別人のようにすらすらと言葉を並べている。いつものあらゆる事象に怯え、頬の肉を強張らせて話す様子などどこにもない。
それがさらに、文音の恐怖を搔き立てた。
「あっ、しまった。ポリッシュを持ってくるのを忘れたから取りに行かなくちゃ。えっと、一旦失礼します」
「そうか」
しまった、とわざとらしい顔を作って、文音は未だ自分を見つめてくるクィレルに告げた。
勿論、忘れ物なんて真っ赤な嘘である。一刻も早くこの場を離れるために言った方便に過ぎない。
これ以上クィレルに違和感を持たせぬよう、すたすたと身軽な足取りで彼の横をすれ違う。
特に足止めをされることもなく、クィレルは振り返らないまま文音に言い放った。
ひとまず安堵するが、まだ油断はできない。
文音はくるりと向きを変え、彼のいる方向を見ながら後ろ歩きでドアまで進む。
それは、クィレルに背中を見せることに対する不安の表れだった。
しかし結果として、その行動が良かったのかは疑問が残る。
動揺する文音がいつもと違い多弁になっていたように、クィレルもまた普段とは違う様子をみせている。
それは、ただ単に話し方だけではない。
「……あ……!」
とうとう、文音は演技をやめ狼狽えた姿をクィレルに晒してしまった。
いつも彼の頭部に巻かれているターバンは、今日に限って見当たらない。綺麗に髪が剃られ、地肌の剥き出しになった彼の頭頂部が露わになっている。
彼の後頭部には顔があった。
人と蛇の混じったような、おぞましい化け物の顔が。
「――動くな」
化け物の口が開き、文音に向かい身の毛もよだつような禍々しい声音で言い放った。
その瞬間、文音はドアまで一目散に駆け出した。
だが不運にも、相手のほうが少女よりも素早く動いた。クィレルは文音がドアを開くよりも早く、コロポータスを唱え扉が開かないようにしたのである。
「あっ……!開け、開けったら!アロホモラ、アベルト、ポータベルト、オープン・セサミ!」
ドアノブに手を回しても、ガチャガチャと音が鳴るばかりで扉は開かない。
文音は慌てながら、授業や図書室の本で覚えた開錠呪文を全て試してみる。
だが、文音の杖は彼女の手元にはなく、寮監のセブルス・スネイプのもとにある。その前科故に、杖の所持を制限されている文音が素手で唱えた魔法は、どれも不発に終わってしまった。
「気は済んだか?」
未だドアノブと格闘する文音を見下ろしながら、クィレルが語りかけてくる。
いつの間にか、彼女とクィレル――もとい化け物との距離が縮まっている。いよいよ追い詰められてしまったのだ。
困惑の念は尽きない。緊張で心臓が激しく脈を打つ。それでも文音は、震える声で相手に問いかけた。
「わ、私……ホグワーツに来た時から、先生――おたくのことが、不気味で仕方ありませんでした。でもその理由は自分でも分かんなくて、きっとオドオドした態度のせいだって思ってた」
「ほう?」
「でも今、ようやく理由が分かりました……。きっと無意識に気付いてたんだ、おたくから禁忌のにおいがプンプンすることに。道を踏み外した人間特有の、祝福されないものの気配を抱えていたからだ」
「……随分と、察しがいい。やはり君が来る前に、このハンカチは片付けるべきだった。ご主人様、申し訳ありません。私はまた失敗を犯してしまいました……」
クィレルは文音が手にしたハンカチを見やり言い放つ。
茶色いしみに被さるようについた鈍色の汚れ――それはまさしく、ユニコーンの乾いた血であった。
彼こそが、禁断の森で遭遇した黒フードの正体だったのである。
文音の台詞に、クィレルは何かに対して懺悔するように俯いた。彼の口から「ご主人様」という言葉が零れる。
――一体何を指しているのか。
文音の中でまた新たに疑問が湧くと同時に、クィレルが後ろを向いた。そして文音と化け物は直接対峙することとなった。
「丁度いい……。賢者の石の前に、もう一つ手に入る……」
「え……?」
「クィレルよ、
「仰せのままに……」
「!」
今度こそ、口から心臓が飛び出るかと思った。
化け物から切り出された言葉に、文音は更に目を見開く。
クィレルは己の後頭部に巣食う化け物に返事をすると、再び前を向き文音を見下ろした。きっと、彼の言う「ご主人様」とは、あの頭に飼った化け物のことに違いない。
「さあ、言え。全部吐くのだ!ご主人様は君の持つ情報を望まれていらっしゃる」
「な、なんの事ですか……?『あれ』って言われても、私、なんの事か分かりません……!」
「しらばっくれるのはやめたまえ。教師たちは皆、君のした行いを知っているのだ。だが、更に詳しいことはダンブルドアしか知らない……」
剣呑な視線を添え、クィレルは文音に問い質した。
しかし彼の追及に、彼女は思い当たるものなど無いかのように、首を横に振って否定する。その姿勢は頑なで、このまま時が経とうが口を割る気配は一向に見せない。
やがて、“ご主人様”の期待に応えようと痺れを切らしたクィレルは、忌々しげに杖を持ち直した。
「そういえば森の中で、君はフリペンドを放っていたな。咄嗟に唱えたにしては、狙いも正確で大したものだった」
「……は?」
「だが、まだまだ不十分だ。君の魔法には、改善の余地がある。だからこそ、お手本を見せてあげなくてはいけない――フリペンド!」
一瞬の出来事だった。
クィレルの杖先から光が出たかと思いきや、瞬く間に文音の身体は吹き飛んだ。
背中から勢いよく壁に衝突したのち、彼女の身体が床に落ちる。衝撃の拍子で、窓下に置かれていた調度品も音を立てて地面に転がった。
声もあげられない程に、文音の身体は苦痛に包まれた。
頭が割れるように痛い。頭だけじゃない。背中も、肩も、足も、何もかもが全てバラバラになってしまったかのように痛い。
「はッ……、うッ……!」
苦しむあまり身動きのとれぬまま、文音が何とか零した呼吸も逼迫していた。
痛みとは別に、じわりと頭に不快な感触がある。それが額をつたう自身の血であると文音が悟ると同時に、クィレルが倒れこむ彼女のもとまで近づいた。
「知らないふりは、自分のためにならないと理解できたかね。もう一度機会をやろう。すべて話すのだ」
クィレルが再び口を開いた。だが、文音の耳にはその声が遠のいて聞こえる。
徐々に視界もぼやけ、彼が再び杖を向けてもまるで抵抗できなかった。
「これは……『破れえない誓い』……?いや、もっと強固で複雑な、呪いのようだ。あれの詳細について、喋らないのではなく、喋れないという事か?」
向けられた杖の先端が、文音の肌についた血をぬぐいとった。それを見分するかのように、クィレルがぶつぶつと呟いている。
――結局、何が目的なんだ。この男の頭に巣食うのは何者なのだろう。
「……あんた、誰だよ…………」
意識を手放す直前。文音は一言だけぽつりと言い残した。
しかしその問いに対する答えはもう、文音の耳には届かなかった。
◆◇◆◇
美術館の一階に展示された作品を全て見終え、人を待っていた。
周囲には少女の他にも見物客が行き来している。だが、彼女のお目当ての人物はまだ姿を見せない。
――あとどれくらい、待てばいいのだろうか。
「文音」
退屈のあまりついつい溜息を零したが、不意に名前を呼ばれ、文音は顔をあげた。
声の聞こえた先は、此処から少し離れた場所だった。視線の先、二階に続く階段の踊り場で、文音が待っていた筈の人物が立っている。
文音は自身が待つ側だと思っていたが、どうやら勘違いをしていたらしい。いつの間にか、相手のほうが先に進み彼女を待っていたのだ。
「いまいくよ!」
文音は相手に合図をすると、慌てて小走りで駆け寄った。
そして階段がすぐ目の前までくると、一段ずつのぼろうと腿を上げる。
だが踊り場で待つ人物は、ここでもう一度口を開いた。
「文音は行けないよ」