涸れ井戸に雫   作:るりつばき荘

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【16】雫がはねる

 ハリー・ポッターが意識を取り戻してから一夜が明けた。

 次の日、渋るマダム・ポンフリーに何回も頼み込んだ末、彼は短時間だけロンとハーマイオニーに会うことを許された。

 

「ハリー!」

 

 許可が下りた瞬間、真っ先にハーマイオニーがハリーのベッドまで駆け寄った。友人の顔色を確認して瞳を潤ませる彼女の後ろから、続けてロンが顔を覗かせる。

 四階の廊下の先にある試練に臨んだのは、なにもハリー・ポッター一人だけではない。直接クィレル――もといヴォルデモートと対峙したのは彼一人だが、そこへ辿り着くまでの道のりには友人二人の支えもあったのである。

 特にロンは道中巨大なチェスピースに頭を殴られ気絶していたが、いま目の前にいる彼は至って元気そうだ。

 友人の無事を知り、ハリーはほっと安心して笑顔を浮かべる。

 

 

 

 その後、ハリーはロンとハーマイオニーに事の顛末を語って聞かせると、二人は驚きながらも彼の話を最後まで聞いた。

 そして話が一段落した直後。ハリーから話を聞き終え率直な所感を述べているロンは、突如小さな悲鳴をあげた。

 

「ダンブルドアってまったく変わっているよな――うわっ!」

 

 彼の手は、ベッドの傍らにあるパーテーションに添えられている。

 どうやら隣の空いているベッドに座り、ハリーと会話を続けるつもりだったらしい。しかし、その目論みは外れたようだ。

 ロンの視線はハリーのベッドの横――隣のスペースに注がれている。

 彼の眼差しの先には、スリザリン生であるフミネ・ハツノがベッドに横たわる姿があった。

 

「びっくりした。フミネ・ハツノもいるなんて思わなかったよ」

 

 目を見開いたロンが、ハリーとハツノを交互に見ながら呟く。

 余程深い眠りなのだろうか。隣で彼らが音を立てているというのに、ハツノが目覚める様子はなかった。一瞬だけ身じろぎをしたものの、再び規則的な寝息を立てている。

 

「……ハツノは、クィレルのハンカチにユニコーンの血がついているのを見つけたんだ。それで慌てて他の先生にユニコーン殺害の犯人を教えようとしたら、あいつに襲われたんだって」

「それじゃ、スネイプとの繋がりは無かった訳ね」

「スネイプのお気に入りなのか聞いたら、くしゃみした時のファングみたいになってた」

 

 ハーマイオニーの台詞に、ハリーは昨夜の勢いよく水を吹き出したハツノの姿を思い出しながら答える。

 

「頭に包帯巻いてる」

「あんまりジロジロ見ちゃ失礼よ」

「そうだね。それで君は直接ハツノに怒られたみたいだし」

 

 一瞬だけ見えたハツノの装いにロンが言及すると、ハーマイオニーが優等生らしく注意する。しかしロンに禁じられた森での件を皮肉っぽく持ち出されると、口を噤み顔を顰めた。

 そして言い返す代わりにフンと鼻を鳴らし、ロンがずらしたパーテーションを元の位置へと戻した。

 

「魔法で吹っ飛ばされて壁に激突したって言ってたよ」

「クィレルたちに襲われて生き残るなんて、相当運が良いんだな。まあ、首にも怪我した痕があったし、流石に軽い傷では済まなかったみたいだけど」

 

 パーテーションは几帳面なハーマイオニーによって綺麗に戻され、隣で眠るハツノの姿はもう見えない。

 それでも先程目にしたハツノの容貌を、ロンはしっかり記憶したらしい。

 肩までデュベカバーを被っていたため、確認できたのは首元から上までの姿だけである。パジャマの襟元からわずか覗く、ケロイドの痕も見逃さず目で捉えたようであった。

 

「…………首の傷は、クィレルに襲われたものとは違うと思うわ」

「え?」

「いいえ、何でもない」

 

 不意に、ハーマイオニーがぽつりと呟く。

 しかしその声はあまりにも小さかったため、ハリーもロンも彼女の台詞をよく聞き取れなかった。すかさず二人は彼女に聞き返す。

 だがハーマイオニーはこれ以上、ハツノについて喋ることはなかった。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇

 

 

 

 

 文音が無事医務室から脱出を果たしたのは、学年度末パーティから一夜明けた日のことであった。

 マダム・ポンフリーに療養上の注意をこれでもかと聞かされ、ようやく解放された彼女はすみやかにスリザリン寮へと帰った。

 

「し、失礼します……」

 

 自分の所属する寮であるが、久しぶりに戻るとなると些か緊張が走る。

 心情を表すかのように、彼女の手はそろそろと扉にかかる。

 そして合言葉を唱えたのちに寮の扉が開かれると、見知った人物が駆け寄ってきた。

 

「フミネ!もう大丈夫なの?」

「あなたが倒れてたって聞いて心配したんだから!頭から血を流して気絶してたって……!」

 

 文音のもとに一番に近づいてきたのは、トレイシー・デイビスとダフネ・グリーングラスであった。

 彼女たちの声を皮切りに、他の一年生たちも顔をあげ扉のほうへと目を向ける。そして文音の帰還に気付くと次々に彼女の周りに集まった。

 「大丈夫?」「痛くない?」と心配そうに顔を見つめられ、文音は照れながら無事を伝える。いつも寮内でも大人しく過ごしていたため、注目される機会など殆ど無かった。故に、輪の中心に立たされる状況に落ち着かない。

 

 一年生に後れて、監督生のジェマ・ファーレイも文音のもとへと歩み寄ってきた。

 ダンブルドアの話によると、気絶したまま行方不明になった文音を捜索したメンバーの中には、監督生も含まれていたらしい。

 つまり、今こうして自分が治療を終え寮に戻れたのも、彼女たちの協力あっての事である。

 文音はジェマの姿に気付くと、深々と頭を下げた。

 

「フミネ、もう治療は済んだのね。あなたが無事で本当に良かったわ!」

「ご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした。ダンブルドア校長から、ファーレイサンら監督生の先輩方も、先生と一緒に私のことを探してくれたと聞いています。本当に、ありがとうございました」

「迷惑をかけただなんて、そんな風に思わないで。ああ可哀そうに、怪我のせいで年度末パーティーにも参加できなかった」

「……」

 

 視界に映ったファーレイの顔には憐憫の念が浮かび上がっている。だが対照的に、哀れみの眼差しを注がれている文音は、年度末パーティーにさして興味は無かったので特に落胆はしていなかった。

 しかし、彼女の沈黙を気分の落ち込みと捉えたのだろう。二人の横から、慰めのつもりなのか他の生徒が口を挟んだ。

 

「フン、年度末パーティーの事なんて気にしなくていいさ!大したものでもなかったんだから」

「……え、え?」

「ちょっと、帰ってきたばかりの一年生の前でイライラしないでよ!」

「病み上がりの子に聞かせる話じゃないでしょうが」

 

 唐突に苛々した様子で会話に割り込んできたのは、上級生の男子生徒だった。

 すかさず、別の上級生の女子生徒たちが口を挟んだ男子生徒を窘める。すると注意を受けた上級生の生徒は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 文音は割り込まれた話の内容についていけず、困惑して首を傾げた。

 昨日まで医務室の中に閉じこもっていた為、文音はパーティーのことを全く知らない。何ならポンフリーが巡視に来るまで、昨夜は床頭台のランプの光を頼りに影絵遊びに熱中していた。これまでの人生の中でもっとも上手くうんこの影絵を作れたのもあって、ベッドの中でずっとほくそ笑んでいたのである。

 

 文音が何かあったのかと尋ねると、生徒たちは気遣うようにゆっくりと語った。まるで、彼女の身体だけではなく心まで傷がつきかねないと心配しているようだ。

 少しずつ語られる話の内容を、文音は黙ったまま最後まで聞いた。

 

 学年度末パーティーが開かれたのは昨夜のことだ。

 それまで、誰もがスリザリンが寮杯を手に入れるものだと確信していた。実際、パーティーが始まった時点では、スリザリンの点数が最も高かったのだから。

 だがしかしその途中、どんでん返しが起こったのである。

 寮の順位を発表していたダンブルドアは突如、グリフィンドールの生徒四名に計170点もの高い点数を与えたのだ。これにより、寮杯はスリザリンからグリフィンドールへと渡ってしまったのである。

 てっきり、今年も寮杯を頂けると見込んでいたスリザリン生は大いに失望した。そして一夜明けた今も、事情を聞かされ苦笑いを浮かべる文音の傍らで、ダンブルドアとグリフィンドールに対する文句を並べ立てている。

 

 文音が為しえなかったクィレルの撃破を、ハリー・ポッターらは成功したのだ。彼らの奮闘を考えれば加点にも納得がいく。

 しかし今年一年、寮杯を目標に励んでいた分ショックも大きいのだろう。とんだ肩透かしを喰らって意気消沈する同胞たちの背中には、怒りともの悲しい雰囲気が漂っていた。

 一方、やはり文音の心情は大きな落胆もなく、至って平坦なままであった。それはもともと寮杯争いに興味が無かった事も原因だが、他にも理由はある。

 

 

「そっ、そう言えば!学年末試験の結果が返ってきたけど見た?あなたの成績、凄く良かったわよ」

「アッ、ハイ、医務室で治療中にマクゴナガル先生に教えてもらいました。えっと、良い結果が残せて良かったです……へへ」

 

 暗い空気を打破するかのように、ジェマ・ファーレイは唐突に年度末試験の話題を切り出した。突如話を振られた文音は、少しだけ驚きながらも反応を返す。

 実際にファーレイが言うとおり、文音は優秀な成績を修められた。

 なんと彼女はスリザリン内で二位、そして一学年全体の上位十人の中に名前が入っていたのである。

 流石に同寮内でも秀才と評されるセオドール・ノットや学年トップのハーマイオニー・グレンジャーより高い点数をとることは出来なかった。だが、マホウトコロ在学時代は毎度一夜漬けでテストに挑み平凡な点数をとっていた文音にとって、今回の成績は目覚ましいものだったのである。

 

(やっぱ勉強って、しておいたほうが良い点取れるんだな……)

 

 至極当然な事柄をしみじみと実感しながらも、これまでで一番良い成績を残せた文音の心は浮き立った。顔がにやにやと緩みそうになるのをぐっと抑え、努めて普段と同じように振る舞う。

 この望外の喜びもあって、文音は寮杯争いの顛末など気にも留めていなかった。

 

 

 そして、理由はあと一つ残されている。

 

 

「……あの、そうだ。医務室にいる間、皆さんから沢山差し入れを貰いました。……有難うございました」

「私が持っていった蛙チョコレートは食べた?何のカードが入ってた?」

「先月号の雑誌の特集、面白かったでしょ!」

 

 医務室での出来事を思い出した文音は、再度周囲に集まった同寮生の面々に向け頭を下げた。

 彼女の台詞に、デイビスやグリーングラスを筆頭に、同学年の子どもたちが次々と文音に感想を求めてくる。

 

 クィレルの襲撃から目覚めた直後は、ダンブルドアやハリー・ポッターとの会話に意識が向いていたせいで分からなかった。しかし二人と会話した翌日、文音は床頭台の上に、同胞からの差し入れが届けられていたことに気付いたのである。

 寝室が一緒であるデイビスやグリーングラス以外にも、セオドール・ノットやブレーズ・ザビニらその他の生徒からも見舞いの品が贈られてきた。差し入れされた品には送り主の名前が書かれていたので、文音は誰がどのプレゼントを送ってきたのかがすぐに把握できたのである。会話をしたことがあるかどうかさえ怪しいぐらい交流の無かった生徒からも差し入れを送られたと知ったときには大層驚いたものだ。

 余談だが、差し入れの内容は主に菓子や退屈しのぎの読み物が中心であったが、中には妙な物も含まれていた。

古典的な悪戯道具や、犯人の名前に赤い線が引かれた推理小説もあり、英国魔法界の贈り物事情に困惑したのは記憶に新しい。

 

 しかし、悪い気はしなかった。 

 これまで寮内でも殆ど人と関わらず、明確に友人と言える間柄の存在も作ってこなかった。それでも尚、スリザリンの生徒たちは律儀に文音を気遣ってくれたのだ。

 

(そう言えば、誰から贈られたのか分からん差し入れがあったな)

 

 文音は生徒たちに礼を言いながら、ふと気がかりになっていることを思い出した。

 医務室に届けられた品の中で、一つだけ送り主の名前が書かれていないギフトがあったのである。

 特にメッセージカードも添えられていない、上品に包装されたチョコレートの差し入れだった。差し入れの菓子類の中でも特に美味しかった記憶がある。しかしチョコレートの包装とは対照的に、上品な表現力に欠ける文音は、かの美味しさを上手く言い表せないまま「金持ちチョコレート」と俗物極まりない例えをした。

 

 贈り主が不明なので、誰に礼を言えばいいかも分からない。

 ――差し入れ自体は嬉しかったが、困ったものだ。

 

 どうしようか考えている最中、不意に視線を感じ文音はあたりを見渡した。

 周りには差し入れを贈ってくれた生徒たちが彼女を囲んでいる。

 その後方――談話室のカウチを占領する一味の中心に、ドラコ・マルフォイの姿があった。彼は一瞬だけ文音と目が合うと、すぐさま顔を逸らしグラッブやゴイルと雑談に戻った。

 禁じられた森でマルフォイの口に「話者の飴」を突っ込んで以降、彼との接触はない。文音としても自分の醜態を晒した苦い思い出があるため、積極的にマルフォイに絡む理由もなかった。

 場所が離れているせいで彼らがどんな会話をしているかは聞き取れない。だが、どうせグリフィンドールの悪口大会を開いているに違いないだろう。

 いつものマルフォイの様子を振り返りながら、文音は一方的に決めつけた。

 そして、再び生徒たちに差し入れの礼をする作業に戻ったのである。

 

 

 

 

 ◆◇◆◇

 

 

 

 

 そしてさらに日数が経つと、ホグワーツの生徒たちが家へと帰る日がやって来た。

 子どもたちの殆どはホグワーツ特急の時間に遅れぬようにいそいそと朝食を終え、何度目になるか分からない荷物の確認をするべく寮へと戻った。

 対照的に、夏季休暇もホグワーツで過ごす文音は荷造りの必要もない。故に、忙しそうに動き回る生徒を尻目に、いつもより遅い時間に起きてのんびりと過ごしていた。

 

「フミネ!」

 

 朝食をとりに大広間へ向かう途中、ふと文音の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 振り返ると、驚いた顔をするセドリック・ディゴリーが立っている。

 他の生徒たちは既に朝食を終え寮へ戻っているため、あたりには文音とセドリック以外に誰もいない。

 そのぶん周囲の目を気にすることもなく、文音はセドリックに返事をした。

 

「おっ、セドリックじゃん。ご無沙汰してます、元気だった?」

「それはこっちの台詞だよ。君、怪我のせいでしばらく医務室のお世話になってたんだろう?」

「もう治ったよ。あっ、そういえば差し入れのお礼をまだ言えてなかったや。どうも有難うございました」

 

 文音が答えると、セドリックは心配そうに彼女のもとへと駆け寄った。

 セドリック・ディゴリーと最後に話したのは、試験の一週間前だ。それ以降は試験勉強やその他の事情もあり会えず仕舞いだったのである。

 セドリックも文音の怪我のことは把握していたようで、医務室で彼の名前が書かれた差し入れを受け取った覚えがある。だが、体調の都合から誰とも面会を許されていなかったため、こうして文音がセドリックと直接会うのは実に二週間ぶりのことであった。

 

 久しぶりに会ったセドリックは、未だ文音の顔を痛ましげに見つめている。しかし、彼とは裏腹に普段通りの様子で喋る少女の姿に、やがて安堵の表情を浮かべた。

 普段は早朝の社会奉仕活動中の僅かな時間にしか会えないため、こうして堂々と話を出来るのは珍しい機会である。

 ここ最近は何かと災難に巻き込まれがちであったが、幸運も巡ってくるものだ。

 思いがけず友人との再会を果たして喜ぶ文音に、セドリックは更に嬉しい提案をした。

 

「フミネも今から朝食?だったら一緒に食べよう」

「あれ?他の人達はとっくに朝食も済ませて帰り支度でバタバタしてるのに、そっちの準備は大丈夫なの?」

「荷物は昨日で全部纏め終わったからね。おかげで少しだけゆとりがあるんだ」

「はぇーさすが優等生。スケジュール管理も完璧ってか」

 

 文音が茶化すと、セドリックは笑いながら彼女を席へと促した。

 それから二人は、様々な話をして過ごした。

 怪我をした当時のこと。夏季休暇の予定のこと。進級後の授業のこと。

 途中、文音が休暇中もホグワーツに残ることをつたえると、セドリックは同情の眼差しを向けた。

 

「家に帰れないなんて。仕事が忙しいとは言え、フミネの家族もすごく寂しがっているはずだよ」

「どうかな。うちの父親、昔から仕事ばかりで滅多に家に帰ってこなかったし。多分、父さんから仕事を取り上げたら干からびてミイラになるんじゃない。そうなったらホグワーツに寄贈して、毎日会えるようになるかもね」

 

 家に帰れない理由について、文音は家族の仕事の都合が理由だと彼に嘘をついた。実際、文音の父親が昔から家を不在がちであった。福木夫婦に会えないのは寂しいが、日本にいた頃も父親に会う機会が少なかった分、大きな悲しみもない。

 それよりも、文音は別のことを懸念していた。

 

「クリスマスの時もやることが少なくて退屈だったのに、さらに長い期間の休みが来る。どうやって暇を潰そうか、今から悩んでるよ」

「それは大変だ。……ああ、そうだ!」

 

 溜息をつきながら文音が呟くと、セドリックは突如閃いたように声をあげた。

 すぐさま懐から杖を取り出し、文音の前で一振りする。

 すると、イングリッシュマフィンを載せた皿のすぐ横から緑色の煙があがり、一冊の本が現れた。

 

「何これ……『魔法生物と水辺の神秘』?」

「少し前に、父さんが送ってきてくれた本なんだ。確か、後ろのページに……あった。魚が釣り餌に食いつきやすくなる魔法について書かれてる」

 

 首を傾げる文音をよそに、セドリックが本を開く。

 そして後ろのあたりのページを捲ると、そこには水棲の魔法生物や魔法を使った水遊びについて記載されたページがあった。

 ――どうしてこんなものを、自分に見せるのだろう。

 文音が考えあぐねていると、セドリックは再び口を開いた。

 

「確かクリスマスの時、湖が凍って釣りが出来なかったって言ってただろう?」

「あー、そんなこともあったっけ。よく覚えてたね。私自身セドリックに聞かされて、いま思い出したよ」

 

 以前に少しだけ語ったクリスマス休暇中の話を、彼は覚えていたらしい。

 文音がセドリックの記憶力の良さに感心していると、彼は言葉を続けた。

 

「でも今の時期なら、十分釣りを楽しめるはずだ。夏季休暇の間、この本を君に貸すよ」

「えっ……でも、その本はお父さんから貰ったものなんでしょ。それを私に貸すってのは、」

「君が楽しい夏休みを過ごせるよう願っておくよ」

 

 そう言うと、セドリックは文音に本を差し出した。

 どうやら、退屈を杞憂する彼女への厚意らしい。

 釣りは慣れない人間にとっては時間や手間のかかる趣味だが、その分退屈を持て余す文音には丁度良い暇つぶしになるだろう。

 はじめは遠慮した文音だったが、セドリックは依然として本を取り下げる様子はない。文音が本を受け取るのを待っている。

 しばらくすると、根負けした文音は何度も礼を言いながらおずおずと本を受け取った。

 

「本当にありがとう、新学期が始まったらすぐに返すから。……それにしても、これは大物を釣り上げないといけなくなったな」

「どんな魚を釣り上げたか、土産話を楽しみに待ってるよ」

「釣れた魚はホグワーツに寄付しようかな。新学期が始まって一週間ぐらいは、大広間にフィッシュポリッジが並ぶ予定だから覚悟しといてよ」

「アハハ……せめて日曜日にはサンデーローストが食べられるよう、屋敷しもべ妖精に伝えておこう」

 

 ――牛や豚、羊が釣れる魔法も書かれてあると良いのだが。

 彼の台詞を聞いた文音はパラパラと本を捲ったが、そんな魔法はどこにも載っていなかった。

 

 

 

 

 

 彼から本を受け取った文音は、朝食を終え彼と別れると、早速黒い湖へと向かった。

 出発前、クリスマスの時と同じようにハグリッドから釣り具も借りて準備は万端である。

 彼女がいる場所から遠く離れた先、湖のふ頭のほうには小舟がひしめき合っている。今頃、他の生徒たちは大慌てで特急に向かう舟に駆けこんでいることだろう。

 雑踏に発見されないよう、文音は湖の端まで移動して釣り具を広げた。

 セドリック・ディゴリーに大口を叩いたはいいものの、釣りに関して文音は初心者である。釣り具のセッティングひとつにも一苦労だ。

 どうにか釣竿をそれらしく整えると、竿の先を湖へと沈めた。

 

(どうしよう。本には釣り餌に魚が食いつきやすくなる魔法が載ってたけど、杖はスネイプが持っているからなあ。釣りがしたいからって理由で杖を持ち出すのは許可されないだろうし)

 

 今は授業の時間ではない。故に、文音の手元には杖は無かった。

 ――ここはやはり、杖なしで魔法を試してみる他なさそうだ。

 本が濡れないよう荷物の上にそっと広げながら、文音は呪文の確認を始めた。

 竿の先が少しだけ動いた。しかし、風によって揺れているだけで、獲物が引っかかる様子はまだない。

 

 

 こうして竿の先と本を交互に見ながら呪文の練習をしていると、不意に後ろからがさごそと物音が聞こえた。

 一瞬、風で草木も揺れているのかのように思えた。だが、風が止んだ隙にも音は絶え間なく耳に入ってくる。

 怪訝に思った文音は、視線を釣竿と本から外して後ろを振り向いた。

 するとそこには、すたすたと彼女のもとへ歩いてくるハーマイオニー・グレンジャーの姿があったのである。

 

「あ、ど、どうも……」

「あと少しで舟が全部無くなるわよ。あなた、こんなところで釣りなんかしてていいの?」

 

 思いがけない人物に遭遇したものだ。

 文音が驚きながらもぎこちなく会釈をすると、グレンジャーは不可解な面持ちで彼女に尋ねた。

 確かに、他の生徒たちは家に帰るべくホグワーツ特急を目指している。

 そんな中、ふ頭から離れた目立たない場所で釣り具を広げたのに、よくも自分を発見したものだ。文音は彼女の目敏さに感心した。

 ハーマイオニー・グレンジャーと喋るのは、彼女らの罰則に帯同して以来である。

 あの日、頭に血が上った文音はマルフォイやロングボトムの他に、彼女にも不満をぶつけた。それ以降は全く接触していない。

 居た堪れない空気に包まれ、文音は視線を泳がせた。 

 

 ――何のために、自分に話しかけてきたのだろうか。まさか、あの時に文句を言われたことを根に持って、やり返しに来た訳じゃないだろうな。

 

 和解もしないまま、今日まで時間が過ぎていった。

 またしても物事を悪い方向へ捉える癖に苛まれながらも、文音は彼女の質問に答える。

 

「……私は夏休みの間もホグワーツに残るから」

「そうなの?ふ頭にあなたの姿が見当たらないから、変だと思ったのよね」

 

 文音の返答にグレンジャーは少しだけ驚いていたが、別段怒っている素振りはない。禁じられた森での一件については水に流してくれたのだろうか。

 しかし、そうであれば余計に彼女が自分に近づいてきた意図が分からなくなる。彼女の傍にはハリー・ポッターもロン・ウィーズリーもいない。どうやら一人でここまで移動し、文音に話しかけてきたようだ。

 彼女とは特に親しくもない上、お互いがグリフィンドールとスリザリンという、それぞれ冷えた関係性の寮に所属する身だ。

 たかが自分が釣りをする姿を見つけてからと言って、わざわざ気になって声をかけてもらえる程の間柄でもない。

 

(……ん?)

 

 ふと、文音は先程のグレンジャーの台詞に違和感を覚えた。

 そして恐る恐る、慎重に彼女に聞いてみる。

 

「……あの、グレンジャーサン。さっき、ふ頭で私の姿が見当たらなかったって言ってたよね」

「ええ。それがどうしたの?」

「つまり、私を探してたってこと?なんで?私に用事でもあるんですか?」

「えっ」

 

 指摘された瞬間、グレンジャーは声をあげて固まった。

 ――図星だったのだろう。一体何のつもりなのか。

 確か少し前、暫くの間彼女にコソコソと観察されていた時期があった。しかし、それはスネイプと文音がホグワーツに管理されている“賢者の石”を盗み出そうしていると疑われていたのが原因だった。

 だが、今はとっくに疑いも晴れている。彼女に動向を探られる理由はない。

 文音が胡乱げに見つめると、硬直も束の間、グレンジャーはしどろもどろになりながら口を開いた。

 

「えっと、その、あの…………そう!あ……あなたってマホウトコロ出身なんでしょ。さ、最近、丁度錬丹術に関連する本を読んだわ。東洋で作られていたという霊薬は、たびたびマグルの世界に持ち込まれたけど一定の効果を発揮できず、最悪飲んだ人間が死に至ったという事例もあるのよね。このケースについて、国際魔法機密保持法の成立もふまえて、東洋出身のあなたの見解を聞こうと思ったの」

「へっ?なんだって?」

 

 返答に窮したかと思いきや、突如グレンジャーは早口で呪文を唱えた。文音は彼女の言葉を一度で聞き取れず、間抜けな声をあげる。

 こんなことならば、話者の飴でも用意しておけば良かったかもしれない。

 しかし奇妙なことに、呪文の内容を聞き取れなかったのに、その一方で何故か聞き覚えがあるようにも感じるのだ。

 デジャヴを抱え、文音は首をひねる。

 頭上でクエスチョンマークを浮かべる彼女をよそに、グレンジャーは未だしどろもどろのまま言葉を重ねた。

 

「そ、それに!あなた、錬金術に興味があるんでしょう。前も図書室で本を探していたじゃない」

「え?あれは、昔に読んだことのある本を見つけて懐かしくなったから、手に取ろうとしただけですけど……」

「私、クリスマス休暇の時に勉強用に錬金術の本を買ったの。とっても面白い内容だったから、あなたも興味を持つと思って」

 

 言うや否や、グレンジャーは文音の発言を無視して自身の荷物から一冊の本を取り出した。文音が普段愛用している辞書と負けないぐらい厚みがある。

 ――もしもクィレルに襲われた時にこの本を持っていたら、ヴォルデモートに会心の一撃を与えられたかもしれない。

 最早鈍器と言っても差支えないほどに分厚いそれを、グレンジャーは文音のほうへ押し付けた。

 一体、何のつもりなのか。

 文音が疑問を口にするよりも早く、ホグワーツ一の秀才は先手を打って制した。

 

「新学期になったら感想を聞くわ。それじゃあ、私はもう行くから」

「へ?いや、あの、ちょっ……」

 

 押し付けられるがままに、困惑しながら文音が本を手にすると、グレンジャーは途端に満足したように踵を返した。その速さたるや、金のスニッチにも劣らぬ勢いである。

 瞬く間に彼女のシルエットが小さくなっていくのを呆然と見つめながら、文音は手にのしかかる本の重みを感じていた。

 

「……つまり、私にこれを貸してやるってこと?」

 

 しばらくして手元の本に目を落とすと、ページとページの隙間に栞が挟まれているのが目に入る。 

 

(この本、グレンジャーも読みかけじゃん。絶対私に貸すつもりじゃなかったな)

 

 ――結局、グレンジャーが自分を探していた理由は分からず仕舞いだ。

 依然として謎は残ったままだったが、不思議と嫌な心地はしなかった。

 文音はセドリックから借りた本の下に、グレンジャーから借りた本を置いた。大人の魔法使いが読む専門書だって、ここまで分厚い本は中々お目にかかれない。きっと値段だって高かったに違いない。

 貸してくれと頼んだ覚えはないが、押し付けられた以上汚さないように扱わなくては。

 

 

 顔を上げると、丁度ふ頭のほうでは最後の舟が出発するところだった。

 これでもう、ホグワーツにいる子どもは文音一人だけだ。

 これから長い休みが始まる。

 何をして時間を過ごすか悩む文音だったが、暇つぶしになるものがまた一つ増えた。これで、退屈さに欠伸を零す回数も少しだけ減るだろう。

 

 

 

 ふと、湖のほうからぽちゃんと水音が聞こえる。どうやら竿の先に、獲物が引っかかったようだ。

 文音は慌てて釣り竿を手に取り引き上げる。

 

 

 その拍子に、湖の水面から少しだけ雫が跳ねた。




これにて賢者の石編は終了です。ここまでお読み頂き、有難う御座いました。
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