美術館の一角で、文音は未だ後方で絵を眺めている兄を待ち呆けていた。
マホウトコロの上級生である光は既に学校の寮に入っており、長期休暇の間にしか家に帰ってこない兄であった。しかし帰省中は、嫌な顔一つせず妹を外に連れ出し面倒をみてくれる。
隅に立ったまま、片方ずつ足首を回す。光が前方の文音のもとに辿り着くまでまだ時間はかかりそうだ。
マホウトコロでは優秀な成績を修め金色のローブを身に纏う光も、ああしていれば一般人と何ら変わらない、至って普通の少年のように雑踏に馴染んでいる(ちなみに、目立つことを好まない光は名誉とは知りつつも金色のローブの着用に恥ずかしさを感じている)。
将来は目ざましい功績を残す闇祓いになるだろう――。
周囲からの期待を一身に受ける文音の兄は、一つひとつの絵画の前で立ち止まっては感嘆の溜息をこぼしていた。
普段から勉学に励んでいる光は芸術分野にも造詣が深い。一方で妹はと言うと、芸術的な才能に恵まれるよう「文音」と名づけられたものの、著名な抽象画を見ても良し悪しが分らない癖に「自分の絵日記のほうがまだレベルが高い」と根拠のない自信を持つ子どもに育っていた。そして、まるでタイムを測っているかの如き速さで一階の展示品を見終えていたのである。
やがて足首を回すのにも飽きた文音が、今度はポシェットの紐で遊び始めた頃。
ようやく光が妹のもとへ辿り着いた。
「おそいよ兄ちゃん。わたし立ちっぱなしでつかれた」
「あれ、そんなに待たせてしまっていた……?ごめんね、文音」
「わかった。ゆるしてやる」
不満を打ち明けながらも、申し訳無さそうに眉を下げる兄の顔に文音もすぐさま謝罪を受け入れる。もとより、別に怒っていた訳ではない。
すぐに機嫌を直した文音の姿に安心した光は、手を差し出した。まるでそれが当然かのように、文音も手を伸ばし握り返す。
兄のことは好きだ。
賢くて運動神経も良い。いつも柔和な笑みを浮かべている温厚な努力家。身内の贔屓目もあるかもしれないが、顔も悪くはない。
どこに出しても恥ずかしくない立派な兄だったが、もはや格が違う故にこれっぽっちも劣等感は湧かなかった。それは文音が幼かったのもあるが、何より光自身が妹にも優しかったのが大きな理由である。
手を繋ぎ二人で上階へ向かう最中、不意に光が足を止めた。
疑問に思った文音が兄の顔を見上げる。光もまた、文音の顔を見つめていた。
「どうしたの兄ちゃん。トイレ?」
「ううん、違うよ」
「じゃあなに?早く行こうよ」
痺れを切らした文音が視線を兄から前方へ戻し、握った手はそのままに階段に向けて一歩進む。しかし、それでもなお光は動こうとしない。
いよいよ意味が分らなくなってきた文音が怪訝な顔で再び見上げたとき、光が口を開いた。
「文音は行けないよ」
◆◇◆◇
文音がスリザリン寮へ組み分けられてから、数日が過ぎた。
組分けによってスリザリン生となった日の夜。
大広間から寮の談話室へ到着するや否や、パンジー・パーキンソンという少女から「あなたはどこの家の人間?」と不躾に質問されて文音は大層驚いた。
日本マグル界の社交場で政治・宗教・野球の話を避ける傾向にあるのと同様に、日本の魔法界では政治・血統・クィディッチの話題をあけすけに語るのは好まれない。
だからこそパーキンソンの直截的な発言に、文音は苦笑いを浮かべながら歯切れの悪い返答をした。
自ら質問しておいて、パーキンソンは文音の答えに「ふーん、あっそ」と興味をなくし生返事を残した。そして、人目も憚らずハリー・ポッターやマグルの悪口で盛り上がるドラコ・マルフォイ一味の輪に加わっていったのだった。
日本の魔法界と同じく、イギリスでも純血やらマグルやらの話題は根深い問題らしい。
「(うおーん、異文化……。それとも今のが特殊なだけ?)」
文音はカルチャーショックを受けたものの、幸いにして同じ寝室の生徒たちはマルフォイやパーキンソンとはグループの違う子どもたちばかりであった。ダフネ・グリーングラスもトレイシー・デイビスも文音にとっては友達とは言える程の間柄でもなかったが、挨拶やちょっとした会話ぐらいなら交わす仲である。
――この手の話には介入しないでおこう。どっちにしろ自分はイギリス魔法界の人間ではないし。
身の平穏のためにも、文音は心に誓った。
何より、彼女にとってこの生活はダンブルドアからの提案によって与えられたものである。故に、彼が義務付けた「社会奉仕活動」をこなすことのほうが文音にとっては重要なのであった。
「やーい!『名誉しもべ妖精』のご登場だ!今日はだれのゴマを擦る?マクゴナガル?フリットウィック?それともポンフリー?」
ピーブズの声が耳に入ると、文音は無言で耳あてを着用した。ちょうど先日、校舎の清掃に励む彼女が厄介者のポルターガイストに絡まれる姿を不憫に思ったのか、薬草学を教える教師スプラウトが貸してくれた道具である。マンドラゴラの採取時に使うだけあって、機能性に優れておりピーブズの声も僅かしか耳に入らない。
何を言っても反応を返さない文音に痺れを切らしたのか、ピーブズは文音から耳あてを引ったくると縦にした状態で文音の頭につけ直した。丁度ファーの部分が鼻柱と後頭部にあたる。
しかし、それでも尚文音は無反応を貫いた。こういった輩は無視するのが一番である。
ホグワーツに入ってすぐ、文音はいま目の前にいるピーブズや、もう一人のマートルというゴーストに悩まされるようになった。正式な新学期を迎える前より、ダンブルドアとの約束どおり「社会奉仕活動」を行っている彼女であったが、この騒々しい存在たちは作業中でもお構いなしに喚きたててくるのである。マートルはキーキーと捲し立てるだけで邪魔はしないが、ピーブズは違う。箒を手に埃を掃いていれば風を巻き起こし、ノートを運べば真上から真っ黒いインクを落としてくる始末だ。決して反応を表には出さないが、内心は「コイツさっさと消滅しねえかな~」と常々思う文音であった。
ホグワーツに来た初日にダンブルドアから言いつけられた「社会奉仕活動」は、彼が言ったように校内の清掃や入学の前日に行った厨房作業、そして教師たちの雑用が中心である。その日、どの仕事を行うかは副校長のマクゴナガルが決めており、一週間ごとにスケジュールの書かれた紙を渡してくる。
入学時より、文音は授業中や課題期間、教師の同席がある場合を除いて杖の所持を制限されている。そのためこの活動時間中も当然杖なしで作業に取り組まなければならない。
とは言えマホウトコロ退学後、しばらくの間マグル界で生活していた文音にとって、杖の無い生活はそこまで苦ではなかった。マグル界で魔法を使うことは固く禁じられているものの、その代わり便利さを求めるなら科学の発展に縋ればよいのだから。
しかし、今日だけは違う。
目的地まで一歩、あと一歩と近づく度に文音の深呼吸を繰り返した。ちょうど鼻にファーがあたっているせいでフゴフゴと間抜けな音が響く。
――ああ、今日だけは、今日の社会奉仕活動だけは杖があれば素早く終わらせられたのに。
文音はやがて魔法薬学の教室の前で立ち止まった。
今日は、スネイプのお膝元である魔法薬学の教室の清掃を言い渡されていたのであった。
文音がホグワーツで苦手に思う大人は三人いる。そのうちの一人が寮監でもあるセブルス・スネイプだった。
ダイアゴン横丁で醜態を晒した苦い記憶は勿論、何より彼のねちっこい口撃に毎度毎度心がささくれ立っていくのである。もしも玄関の表札にスネイプの名前が書かれている家があれば、そこには胡散臭い勧誘は立ち寄らないし近所の迷惑な住人も怯えて鳴りを潜めるだろう。自治会の回覧板も回されなくなりそうだが。
スネイプがご近所になった想像をして文音の手足が震えだした。
きっと、この教室の扉を開ければスネイプがいるはずだ。今日は何を言われるのやら。
文音は死地に向かう戦士になった気分で足を踏み入れた。
「本日は、魔法薬の効果を確認する作業を行う」
「……へ?」
シンデレラの継母の如く己をこき使うであろうと身構えたものの、スネイプは予想とは違う内容を告げた。
魔法薬の効果を確認する作業?そんな大層な仕事をたかが1年生の生徒に頼むのか。そもそも掃除は?
いやいや、あのスネイプのことだ。お得意の皮肉めいた表現だったり隠語かもしれない。
言葉の裏を解き明かそうと、向けられた言葉を脳内で繰り返す文音を見下ろし、スネイプは続けた。
「
寮監のいつもの言葉の刃に、文音は漸く耳あてを外した。本当に、言葉通りの作業をさせるつもりらしい。
男の口から第二の刃がとんでくる前に、文音はガチャガチャと手にしていた掃除用具を教室の隅に置いた。どんなに細かい仕事を言いつけられるか分かったものでは無いので、予め箒やバケツ以外に、ワックスやポリッシュなどありとあらゆる掃除用具を持って来たのである。だが到着してすぐ戦力外と通達された道具たちは、結局その日の社会奉仕活動が終わるまで使われることなく、寂しげに隅に立てかけられていた。
教卓の前に移動したスネイプに駆け寄り詳細を訪ねようと口を開きかけると、それに遮るように低い声が被さった。
「『話者の飴』はどこにある?」
「え?か、鞄の中に入れて持ってきています」
「ならばすぐに口に入れたまえ」
「い……今ですか?」
文音は飴を舐める前から渋い顔をした。
授業中でもない、ただ掃除に来ただけなのに何故それを口にしなければならないのか。
学用品を揃えに行く日以降、重要な用事や授業を除きなるべく使わないようにしている例の劇物の名前を不意に出され、困惑が湧き上がる。
どんな意図があり舐めろと言ったのかは知らないが、あの不味さを知ってしまったからにはそう易々と口にするのは難しい。
だからと言って、目の前に立つ教師に逆らう度胸も文音には無かった。臆病者には断る資格など無い。
観念して鞄から話者の飴を取り出すと、早くしろと促すスネイプの視線が背中に刺さる。
「スゥー……ッ、ハァーッ……」と深呼吸を繰り返しながら、文音は恐る恐る左頬の内側と歯茎の間に飴を押し込んだ。
どんな時でも強烈な風味で舌に殴りかかってくるスネイプお手製の飴は、今も元気に文音の精神を弄んでくる。
「大丈夫大丈夫……口に入れる瞬間さえ乗り越えれば後は……、ア゛ーッやっぱ無理、オ゛エ゛ェ゛……!」
悲痛な呻き声を無視して、スネイプが紐で纏められた紙の束を机の上に置いた。そして小声で何か呟くと、紐がひとりでにうねうねと動き、結び目が解かれる。続きざまに紙束から一枚、一枚と文字の書き込まれた紙が宙を舞い、今もなお苦しむ文音の眼前をふわふわと漂った。
「君が今日こなすべき仕事は、掃除でも、ゴブストーンでも、マンドラゴラの真似をすることでも無い。我輩の作成した『話者の飴』を舐め、その精度を確認するための被験者となることだ」
「いや、あの……マグゴナガル先生からは魔法薬学室の掃除をするよう言われたのですが……」
「まだ耳あてをつけているのかね?」
「す、すみません、やります。やらせてください、はい、よろこんで!」
マクゴナガルの名前を出したものの有無を言わさないスネイプの物言いに、やはり立ち向かう気概の無い文音は居酒屋のアルバイターの如き承諾の返事を示した。
あたふたともたつきながら、飴のほかにもう一つの道具を鞄から取り出す――ダンブルドアから受け取った木製のトーテムだ。
そして、忘れないうちに今やすっかり耳慣れた合言葉を口にした。
「涸れ井戸に雫、杯を満たそう」
文音の口から合言葉が出てくると、トーテムはたちまちその木彫りの体を透明なクリスタルガラスへと変化させた。校長室で手渡された時と同じく、内部の底には透明な液体が溜まっている。
その姿を確認し、トーテムを逆さに立てた。するとトーテムの上部にあった液体は少しずつ、中央部分の窄まりから底へすり抜けるべく、非常にゆっくりと動き始める。
文音は砂時計のようなこのトーテムの正体が、水時計――クレプシドラと呼ばれるものだと最近になって知った。砂時計と原理は同じだが、この魔法界で使われてきた背景から分かるように、勿論魔法じかけのアイテムである。
大昔、それこそ魔法史で習うような時代の裁判で使われていた道具だとマクゴナガルから教わったが、現在は文音の社会奉仕活動に従事した時間を証明するために使われている。合言葉を言ったのち、仕事をこなした時間に応じて雫が膨らみ、やがて落ちてくるのだ。反対に、合言葉を言わなければどれだけ働いても雫が形成されない。平たく言えば、マグル界の会社によくあるタイムカードに近い使われ方をしている。
――よし、これで大丈夫だ。
合言葉を言い忘れずに済んだ文音は、クレプシドラを生徒席の机に置き、宙に浮いた書類とスネイプの顔を交互に見ては頭を捻った。
「スネイプ先生、私は具体的に何をしたら良いんでしょうか、モゴ」
「その書類の内容を声に出して読め。読めなかった箇所があれば伝えるように。『話者の飴』に改善の必要性があるかどうかを調べる」
「わかりました」
なるほど。それならば確かに話者の飴を舐める必要があった訳だ。
単なる嫌がらせ目的で舐めさせたのではなくて良かった。
文音は自身の中で燻っていた可能性が間違いである事実に安堵した。この点から、彼女がセブルス・スネイプという男をどれだけ信用しているのかが容易に推察できる。
そうして指示された通りに、文音は紙に書かれた内容をスネイプに聞こえるように読み上げた。
「えっと……、アスフォデルの球根にニガヨモギを煎じたものを加えると眠り薬になる。そしてその薬の効果は非常に強く、『生ける屍の水薬』とも呼ばれている」
「大抵の薬に対する解毒剤として名を挙げられるのがベゾアール石。これは山羊の胃から取り出す石である……」
「続けたまえ」
「ま、魔法薬学を学ぶにあたり、多くの生徒が間違えやすいのがトリカブトの名前である。トリカブトはモンクスフードやウルフスベーン、アコナイトなど複数の別名で表現されるため、全て違う植物であると捉えられやすい」
内容は全て、魔法薬学に関する表記だった。そのうちの何個かは、文音が予習のために開いた魔法薬学の教科書にも載っていた項目だ。
しかしここで、新たに疑問が湧いた。
「(どうして今更飴の効果を確認しようと考えたんだか。学校が始まる前にやればいいのに遅すぎない?)」
夏休みの間から文音はホグワーツにいた。ダイアゴン横丁でのエピソード以降、文音が自らスネイプと接触しようと思う機会は皆無であったが、それでも時折ホグワーツの中でスネイプの姿を見かけた覚えがある。
どうせならその期間中にやっておけばいいものを。もしこれで今になって不具合が見つかり修正しようとしても、日々の授業と並行しなければならなくなる筈だ。そうなれば苦労するのはスネイプ本人じゃないのかと文音は思った。
単純に、休みの日にはなるべく仕事を持ち込まないようにしているだけかもしれないが。
だが、これ以上スネイプのプライベートを考える必要性など無いので、文音は己の中に浮かび上がった疑問を放り投げ書類を読み上げることに集中した。
そして翌日、疑問はすぐに解消されることとなる。
◆◇◆◇
入学式を終えてからはじめての金曜日に、はじめての魔法薬学の授業が行われた。
スリザリンとグリフィンドールの合同で行われた授業は、始業の前からお互い嫌味の応酬が飛び交い既に嫌な空気が蔓延っていた。(残念なことに、応酬を先に仕掛けたのはマルフォイを初めとするスリザリン生のほうであった)。
しかし、それも束の間。スネイプが表れた途端ピタリといがみ合いの声は止み、教室内は瞬く間にシンと静寂に包まれたのである。
一瞬で空気が変わったことを気にも留めず、登場するや否やスネイプはすぐさま出席をとり始めた。
「ハリー・ポッター。我らが新しい――スターだね」
それまで無駄を厭うように淡々と出席を取るスネイプであったが、ハリー・ポッターの名を読み上げる時だけは含みのある言葉を添えた。ポッター少年を馬鹿にする機会ならどんな些事でも見逃さないマルフォイ一味が、さも愉快そうに冷笑する。
文音はこの一ヶ月の間、他の生徒たちよりも早いうちからスネイプの皮肉を聞いて過ごしてきた。つまり、1年生の中ではスネイプという男について比較的理解しているほうとも言える(と言っても、精々1ミリ程度の誤差の範囲だが)
故に文音はたった一言付け加えられたその台詞だけで、スネイプのポッターに対する態度が、自分に向けられるものより格段に鋭いことを何となく感じ取ったのである。
セブルス・スネイプはハリー・ポッターを特に嫌っている?
予想は的中し、その証拠は授業内で如実に表れた。
「ポッター!アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」
「ポッター、もう一つ聞こう。ベゾアール石を見つけてこいといわれたら、どこを探すかね?」
「ポッター、モンクスフードとウルフスベーンの違いはなんだね?」
スネイプは、事あるごとにポッターに問題をあてては彼が答えに困窮する様子を見つめていた。流石にこの光景を異様に思い、一人の勇気ある少年が助け舟を出したが即座に一蹴される。文音も隣に座るダフネ・グリーングラスと顔を見合わせながらポッターに同情した。
しつこいぐらいにポッターの名を呼びすぎて、スネイプの鳴き声は「ポッター」なのかと錯覚してしまいそうになる。
何も此処にいる生徒は彼だけではない。グリフィンドールの席に座るハーマイオニー・グレンジャーは質問に答えたいあまり脱臼しそうなほど腕を天高く伸ばしているが、スネイプは完璧なまでに無視を決め込んだ。
様子を観察する文音の視界に、宝くじの最高額に当選したかのようなマルフォイの笑顔が映る。
そういえば、こいつの鳴き声も「ポッター」だったな。
文音は失礼なことを考える一方で、もうひとつだけ嫌な事実に気付いた。
先ほどからポッターが答えられない問題は、昨日スネイプとの社会奉仕活動の中で読まされた書類と内容と重なっている。
そして社会奉仕活動の終わる頃、スネイプは最後にこう言ったのである……「明日の魔法薬学の授業では、必ず話者の飴を舐めながら受けるように」と。
――いや、そんな。まさか。
ある可能性を払拭しようとした瞬間、文音めがけてスネイプがキラーパスを送った。
「さて――たった今、諸君には魔法界のスターにものを教えるという、名誉な機会が訪れたようだな。では……フミネ・ハツノ。ポッターが答えられなかった我輩の質問を、代わりに答えなさい」
今日は耳あてを着けてこなかったのに、スネイプが何て言ったかを文音はすぐに理解できなかった。一拍遅れて漸くその言葉を把握し、驚いた顔でスネイプを見つめ返す。
嫌な予感がしたが、まさか本当になってしまうとは。
ぽかんと口を開けたまま固まっていると、いつの間にか教室中の人間の視線が自分に集中している。文音は慌てて声を発した。
「えっと、アスフォデルとニガヨモギを合わせると非常に強い眠り薬ができます……。その効果の強さから『生ける屍の水薬』とも呼ばれています、モゴ」
「……ベゾアール石は?」
「べ、ベゾアール石は山羊の胃から取り出す石で、多くの薬に対する解毒剤として使われます。モンクスフードとウルフスベーンの違いは、ありません。どちらもトリカブトの別名です」
「左様……。諸君、なぜ今のを全部ノートに書きとらんのだ?」
自分たちに矛先が向けられたと分かると、生徒は一斉に羽ペンと羊皮紙を取り出す。
その音を背に、スネイプは続けて告げた。
「ポッター、君の無礼な態度で、グリフィンドールは一点減点」
急遽学校が台風で休みになったかの如き笑顔を浮かべるマルフォイに加えて、鼻白むポッター少年の顔が文音の視界に映った。ついでに、お株を奪われ不満げなハーマイオニー・グレンジャーの顔も。
「(あ、あのおじさん……やばすぎるって…………)」
質問に正解することのできた文音であったが、これでは素直に喜べない。
しかし、この場でわざわざ前日にスネイプから答えを教えてもらったと暴露する正義感も、勇敢さも無い。
理由は知らないが、スネイプはポッターを激しく憎んでいる。彼を貶めるダシにされたのだ、どう反応したら良いものか。
スネイプからとんできた質問には答えられたものの、自らの中に湧いた疑問の答えは、授業が終わっても見つからなかった。
◆◇◆◇
結局、あの後もポッターは他の生徒が実験で失敗したのを止められなかったからと理不尽な減点を受けていた。つくづく同情するが、あそこまでスネイプに嫌われるなんて一体何をしでかしたんだろうか。
――まあ、スネイプなぞ見た目通りに陰気で捻くれた男だから、ただ単に英雄扱いされている有名人を僻んでいるだけかもしれない。
複雑な心境で魔法薬学の授業を終え一旦寮に戻った後、文音は「禁じられた森」の端にあるハグリッドの小屋まで向かった。
マクゴナガルに渡されたスケジュールによると、今日の社会奉仕活動はハグリッドの手伝いをするよう書かれている。
大方、畑の手入れや動物の世話の手伝いを頼まれるだろう。
文音はハグリッドが飼っているファングという犬が好きだった。大柄で厳つい外見とは裏腹に、臆病で人懐っこい、愛嬌に溢れた黒いボアーハウンドである。
十中八九、じゃれついてきて涎を垂らされるので学校指定のローブは部屋に置いてきた。それもあって、文音の足取りは軽い。
制服のスカートを翻しながら、文音は校舎を横切り禁じられた森の端まで向かう。そして少しほど歩くとハグリッドの小屋まで辿り着いた。
戸をノックして声をかけると応じるようにドアが開かれる。ドアを隔てた向こうには、ハグリッドとファング、そしてなんと記憶に新しいハリー・ポッターがいた。
「ハグリッドサン、こんにちは。『社会奉仕活動』で伺いまし……、あっ、ドモ……」
てっきり、ハグリッドとファングしかいないと思っていた小屋の中で、思わぬ人物に遭遇してしまった文音は挨拶も尻切れとんぼに、挙動不審な会釈をした。
ハグリッドの小屋の中は一部屋のみだ。そのため入口から一歩でも足を踏み入れると、内部が殆ど見渡せる。椅子にちょこんと座っているポッターの横に、もう一人少年が座っていた。髪の毛と同じ、襟元が赤いローブを着ている。つまり彼もグリフィンドール生だ。
文音の姿を見つけると、小屋の奥からファングが駆け寄ってきた。そして文音の足にすりつき、涎が彼女の靴下を湿らせていった。
「おお、フミネ!そうか、今日は俺のところの手伝いに来る予定だったのか。――ああ、ハリーにも紹介せんといかんな。この子はフミネだ。家の都合で夏休みの間からホグワーツに来とる。日頃ボランティアで教授方の手伝いをしているんだ」
「……ボランティア?」
ポッターの横に座る少年が訝しげにハグリッドの言葉を復唱した。しかし特に追及することは無く、ハグリッドも引き続き今度は文音にポッターたちを紹介した。
「それで、こっちはハリー。その横がロンだ」
「はじめまして。フミネ・ハツノです。……スリザリンの1年生です」
「どうも、ハリー・ポッターです」
「ロン・ウィーズリーさ」
努めてにこやかに自己紹介をしたつもりだが、文音は気まずさを表すかのように視線を彷徨わせている。何と言ったって、一時間前の魔法薬学では、スネイプは彼にあてつけるように自分を使ったのだ。そしてポッターとウィーズリーも文音と同じ気持ちなのか、眉を上げて何とも形容し難い顔つきをした。
「あのー、そうだ、ハグリッドサン。今日は何をしたら良いですか?」
「アー、そうだな……校舎三階の渡り廊下を歩いた先の小部屋に、古くなった箒があってな。手直しするよう頼まれているから、それを持ってきてくれんか」
「わかりました」
挨拶も程ほどに、文音がハグリッドに尋ねる。すると大男は、一刻も早くこの場から退散したい少女に仕事を与えてくれた。
渡りに船と言わんばかりに、用事をいいつけられた文音がそそくさとドアを開けて校舎へと向かう。ハグリッドはその後ろ姿を見送るべく部屋にポッターたちを残し、小屋の入口まで出てきて声をかけた。
「一仕事終わったらファングと遊んでくか?」
「ううん。お客さん来ているみたいだし申し訳ないので大丈夫です。今度、また来たときにお願いします」
「そうか。……寮じゃどうだ?」
「えっ?……そうですね、まあ、ぼちぼち。ハッフルパフには選んでもらえなかったけど、何とかやらせてもらってます、ハハ」
入学式以降、ハグリッドとまともに話す機会がなかった。それは勿論社会奉仕活動や授業に勤しんでいるのが主な理由だが、自身が彼の嫌うスリザリン寮に組分けされてしまい後ろめたさを感じていたのもある。
控えめに笑いながら、文音の姿はやがて小屋から見えなくなった。
ホグワーツ校舎の階段は、流れる水のようなものだ。
朝にはそこに存在していたはずが夕方になれば姿を消してしまう階段や、毎回違う場所につながってしまう階段。そんな風変わりな階段が校舎内の至る所にある。
他の一年生より少々早い時期からホグワーツにいる文音でも、油断すると迷いそうになってしまう。只でさえ今日は喜ばしくない出来事に遭遇し浮足立っている。己の波立つ心情を察していた文音は、一層気を引き締めながら目的地まで歩む。
そのお陰か、幸いにも迷うことなくハグリッドの言っていた三階の小部屋まで辿り着くことができた。
三階の渡り廊下の先の小部屋は、錆びた蝶番に支えられた扉で塞がれている。ハグリッドから受け取った鍵を鍵穴に差し込みまわすと、ギギギと音を立てながら扉が開いた。
中は埃まみれの狭い空間で、部屋の壁際には四本の箒が置かれている。どれもこれも長らく手入れのされていないのが一目で分かる程に古い箒だった。これらが彼の言っていた箒に違いない。
文音は両手にそれぞれ二本ずつ箒を持ちながら小部屋をあとにした。
ハグリッドのもとにすぐ帰ったところで、恐らくまだ小屋にいるだろうハリー・ポッターたちとも再び接触しなくてはならない。
文音が溜息を吐きながら来た道を戻ると、件の階段に異変が起きていた。
「げっ!また見たことない階段が増えてるじゃん」
少女の目には、先程までは無かった四階の廊下に続く階段が映っていたのである。
ちょっと離れただけですぐこれだ。どこもかしこも魔法で溢れるホグワーツは壮大と言えば壮大だが、日々雑務を言いつけられる文音にとっては少々厄介さも感じられる。とは言え、帰り道そのものが消えた訳ではないので、幸いにも立ち往生する必要はなかった。
確か、ダンブルドアは四階の廊下には行ってはいけないと話していた。この階段は其処に続いているのだろうか。
先日伝えられた内容を思い出しながら、唐突に現れた階段をじっと見つめる。
他の生徒よりも一足早くホグワーツにいた文音は、入学式でも申し送られた注意事項を事前に教えられていた。
別に掟を破る破天荒さも、興味を追及する好奇心も今は持ち合わせていない。ましてや死ぬだの何だのと言われれば尚更だ。
だが、しかし。
背を向けるのを躊躇うような、そんな不気味さを感じて文音は階段から目が離せなかった。
『文音は行けないよ』
「何をしている!」
突如、響いた大声に文音は肩を震わせて振り向いた。彼女の後方には、いつの間にかホグワーツの管理人であるアーガス・フィルチが飼い猫と一緒に立っていた。
しまった、と焦りを覚える。ホグワーツの管理を任せられているこの男は高圧的な言動で生徒から恐れられている。それは文音に対しても変わらない。
フィルチはスネイプ同様、彼女がホグワーツ内で苦手な大人のうちの一人に含まれていた。
彼は階段の前で立ち尽くす文音のもとに、険しい顔でずかずかと近づいた。その後ろから、彼の愛猫であるミセス・ノリスもついてくる。
「四階の廊下に向かうつもりだったのか、え?」
「い、いいえ。ハグリッドサンから、三階の小部屋にある箒を取ってくるよう頼まれ、その戻りの途中でした」
「口では何とでも言えるものだ。ああ、恐ろしい……、どうして校長はこんな者を引き取ろうとしたのか。日本で犯した悪行を、ホグワーツでも企んでいるんだろう?」
「誤解させる言動をしたのなら申し訳ありません。以後、このようなことが無いように気をつけます」
「罪人の取り繕いなど聞かされては耳が腐る――早くここから出ていけ!」
文音は頭を下げ、事を荒立てないようひたすら謝まった。四階の廊下へ向かうつもりなど毛頭なかったが、疑り深いフィルチの目には既に現行犯として映っているらしい。ましてやその相手はホグワーツに転入してきた経緯に問題のある文音だ。彼女の過去を掘り返すように言及しながらフィルチは嫌悪感を露わにした。
来た道を指さして、フィルチが一層大きな声で叫ぶ。
これ以上この場に留まっていても良いことなんて何も無い。彼の指示通り、文音が両手に箒をぶら下げたまま小走りで退散した。