ある日の放課後、文音は図書館で授業の復習に勤しんでいた。教科書の横に英字で書いたノートを広げ、そのさらに横には英和辞典を広げている。
普段の日常会話程度なら、「話者の飴」が無くても殆ど問題ない程度に文音の英語は上達した。しかし授業となると話は別だ。教師の話を聞き取りはできるものの、魔法に関する用語が出てくると理解するのに時間がかかる。飴の効果が発揮されるのは口頭でのやりとりのみだ。ノートに書き取りをする時は、自分自身の努力をもとに英字を書き込まなければいけない。そのため復習に臨む際、文音は授業のおさらいと用語の翻訳を並行して行わないといけなかった。
まだ先の話だが、年度末には進級試験もある。
(スネイプなんて絶対意地の悪いひっかけ問題を出してきそうだし、他の科目以上に勉強しないと……)
スリザリン寮監兼魔法薬学教師の男の顔が脳裏をよぎり、文音は苦い顔を浮かべた。つい先日、話者の飴の残りが少なくなったため新たに依頼したところ、それはそれは有難い激励の言葉を貰ったばかりである。
突如蘇った記憶に身震いしながらも、気を取り直すように文音は復習に集中した。
途中、薬の素材元である魔法生物のことも調べようと椅子から立ち上がる。
魔法薬学に関連する書籍の棚まで移動し、参考になりそうな本を探していると、ふと見覚えのある本が二冊ほど目に入った。
一つ目は非常に分厚い、錬金術に関係する事項をまとめた本である。そしてもう一つはドラゴンやユニコーン、サラマンダーなどの魔法生物について纏めた本だ。
――ホグワーツに原語版が置いてあったのか。
みっちりと本が並べられた棚から二冊を取り出そうと、文音が腕を伸ばす。
しかしその腕に重なるように、もう一本の腕が伸びた。
「へ?」
「えっ?」
文音が驚いて隣を見ると、そこには同じように目を丸くして立つハーマイオニー・グレンジャーの姿があった。
グリフィンドールのガリ勉。
ホグワーツに入学してから短い間で、彼女の評判は文音の耳にも届いている。
どことなく悪意を含んだ表現なのは、実際に噂をしていた人間の感情も混じっているからだろう。
文音自身も、魔法薬学や飛行訓練で合同授業をした際に、彼女の学生として模範的な姿勢を目の当たりにしてきた――ついでに、自分に向けて対抗心溢れる視線を送ってきたことも。
そんな彼女は優れた成績に胡坐をかかず、今日も今日とて知識を蓄えに来たようだ。
「……あなたもこの本を借りにきたの?」
グレンジャーが口を開いた。彼女は文音が興味を示した本のうちの一つ、錬金術関連の書籍を借りようとしているらしい。
文音は慌てて手を引っ込め、グレンジャーに謝罪しながら否定した。
「いいえ、違います、ちょっと気になっただけ。借りるつもりはありません。どうぞそちらが借りてください――――それに、私はもう読んだから」
それだけを言い残し、文音は自分の文房具を置いていた机に戻った。ハーマイオニー・グレンジャーも彼女にこれ以上接触するつもりはないようで、再び復習に励む文音に声をかける人物は現れなかった。
◆◇◆◇
それから暫く経ち、ハロウィーンの日が到来するとホグワーツ場内は賑わいをみせた。
残念ながら祝いの日であっても授業は通常どおりに行われるため、多くの生徒は不満をたれている。
午後、御馳走に舌鼓を打とうと生徒たちが大広間へ向かうのを尻目に、文音はひとり女子トイレへと歩いていた。
ハロウィーンと言えど授業があるように、文音にも社会奉仕活動の時間があるのだ。
もとより、マホウトコロ出身の文音にとってハロウィーンはそれほど重要な行事でもない。近年、一部の若い魔法使いは面白がって外国の催しに興じる姿勢をみせている。だが依然として、日本魔法界では未だに節分などの国内の伝統行事のほうが重要視されていた。古い系譜の家なら尚更である。
それ故、文音はハロウィーンと言っても精々同級生とお菓子の交換会をした程度の思い出しかなかった。
おまけにホグワーツ内に限定すると、文音の交友関係は非常に狭い。特に親しい人間がいない中、寮生たちとハロウィーンに参加するのは居た堪れない空気に包まれるだろう。ついでにスリザリン生がまた何かをして他寮生と衝突するところも見たくない。
そう考えた文音はハロウィーンの食事会に出ず、自らに課された奉仕活動を優先することに決めた。
今日の社会奉仕活動の内容は女子トイレの清掃である。
単純な活動内容だが、魔法薬学の教室に行く必要がないのだと思うと文音の口から安堵の息が零れた。
いつものように清掃用具を手に女子トイレに到着すると、文音はがちゃがちゃと音を立てながら道具をタイルの上に置いた。
用意した布巾で洗面台を拭いていると、丁度目の前の鏡に映った自分と目が合う。手を動かしながら、意味もなく顎をしゃくったり鼻の穴を膨らませ変顔をしていると、後ろから小さい声が響いた。
「……ぐすっ、」
「!?」
てっきり、トイレには自分ひとりしかいないと高を括ってふざけていたのに、もう一人来客がいたようだ。
自分の醜態を見られたのかと、恥ずかしさで顔を赤くしながら文音が周囲を見回す。すると、トイレ最奥の個室のドアが閉まっているのを発見したのであった。
(何やってるんだ、私のあほ!人がいるのに気が付かなかったなんて……!!)
後悔と羞恥でない交ぜの心を持て余し、来客者の様子をドア越しに探る。
今しがた耳にした声は嘲笑と思いきや、よくよく観察すると泣き声のようにも聞こえた。
文音は頭を捻った。生徒たちは今の時間、大広間でハロウィーンの食事会に参加している筈だ。
――では、一体誰がトイレの向こうで泣いているのだろう?
この問いに、文音は今やすっかり顔馴染みとなった存在を思い浮かべた。
「どうしたの?また男子に『芋地味女』って呼ばれたこと気にしてるの?そんなもんに落ち込まんでいいよ」
「……」
慰めるように文音は扉越しの人物へ語りかけた。
当然だがドアが閉まっている以上、向こうにいる人物の姿は見えない。だが、相手が息を呑む声が聞こえた。
文音は気にせず、そのまま会話を続ける。
「それとも『捻くれたクソ女』って馬鹿にされた件で泣いてるの?大丈夫だよ、私からしたらおたくは捻くれたクソ女じゃなくて可愛いクソ女だよ、マート――」
――バァン!
その瞬間、いきなりトイレのドアが勢いよく開かれた。反動で壁にぶつかったドアから音が鳴り、湧きおこった風が文音の前髪をぶわっと浮かせる。
文音は、扉の向こうにいる人物がマートルという少女だと思い込んでいた。
マートルとは、ホグワーツに出没する女子生徒のゴーストである。主に校舎3階のトイレを中心に現れるが、時折違う階の女子トイレにも姿を見せる。
性格は卑屈ですぐに被害妄想を抱きがち。おまけに事あるごとに泣いて取り乱すので、文音からは少々扱いに面倒な女だと思われていた。
とは言え、ビーブズのように直接文音の邪魔をすることは無い。適当に話に相槌を打って同情しておけばやり過ごせるのでそこまで苦にはならない存在だった。
しかし。
扉を開けて姿を見せたのはマートルではなく、かの秀才ことハーマイオニー・グレンジャーだった。
「うおっ!?」
文音が驚いて間抜けな声をあげる。グレンジャーは文音を睨みつけたが、その目は潤んでおりずっと泣いていたことを物語っていた。
「グ、グレンジャーサン、どうしてここに?みんなハロウィーンの食事に行ってるのに」
「ぐすっ、『芋地味女』、『捻くれたク……クソ女』ですって?あなた、私を馬鹿にするためにわざわざ後をついてきたの?そんな風に悪く言われてる事ぐらい知ってるわよ。み、皆が、私のこと、我慢できない存在だって思ってるのも!」
「ち、違う!ごめんなさい、私、トイレに別の人が入ってると思ってた。あなたがいるって知らなかった。だから、」
「わ、私以外にいる訳でしょう。こんなハロウィーンの当日に、友達もいなくて一人ぼっちでいる人間なんて!」
「大丈夫だよ!私も友達いないよ!」
「知らないわよ、そんなこと!」
怒りと悔しさ、涙でグレンジャーの声は震えていた。大方、寮生の誰かと喧嘩する最中暴言を吐かれトイレで泣いていたのだろう。
自分が慰めていた人物が彼女だと分かるや否や、文音は先程の赤面から一転し、今度は顔を青くさせた。
傍からすると、人間関係で落ち込んでいる少女に追い打ちをかけていじめている場面にしか見えない。慌てて謝罪し弁解するが、グレンジャーは全く信用していない様子だった。
自分も友達がいない、と見当違いなフォローをするが一蹴される。それに対し文音は複雑な気持ちを抱いたものの、相手からすると本当に知る必要のない情報だったので致し方ない。
文音に抵抗するように啖呵を切ったグレンジャーだったが、やがて堰が切れたように手で顔を覆って激しく泣き出した。
マシンガンのように謝罪の言葉を連呼しても彼女の涙は引っ込む様子がない。
慰めるどころか、余計に事態を悪化させた文音はどうすれば良いかも分からず、ついには真顔で天を仰いだ。
屋内だけあって、ハイランド地方の空は見えない。視界には魔法で照明がついたトイレの天井と、そして端にはトロールの頭が映る。
――――ん?トロール?
首をぐりんっと横に向け、文音は固まった。
そして熱に浮かされたようなぼんやりとした声で、グレンジャーに語りかけた。
「……グレンジャーサン、トロール……」
「っ!私はトロールじゃないわ!ちょっと前歯が出てるだけ!信じられない、あなたって――、」
「違う……。グレンジャーサン、横を見て――トロールがいる」
文音がグレンジャーの誤解を正すのと同時に、トロールの大きな唸り声がトイレ内にこだました。
「きゃあああああ!!むぐっ」
続けてグレンジャーの大声が文音の鼓膜を攻撃した。
トロールを刺激しないよう、文音は咄嗟にグレンジャーの口を塞ぐ。しかし既に遅く、甲高い叫び声に呼応するようにトロールは棍棒を二人めがけて降り降ろした。
彼女の口を塞いだが、もう無意味だ。
素早く悟ると、ありったけの力を込め、文音はグレンジャーを前へ突き飛ばした。先程よりかはずっと小さい悲鳴をあげ、彼女が個室のドアにぶつかる。力づくで押し出した反動で、文音もバランスを崩して後ろへと転んだ。
直後に轟音が響く。先程まで文音とグレンジャーがいた場所のタイルは抉れて粉々になっていた。
地面が抉れて吹っ飛んだ拍子に、すぐ近くで尻餅をついていた文音の鼻柱に砕けたタイルの塊が激突した。
痛い。つうっと鼻水がたれるような感覚がする。文音が己の鼻を触ると、手には血が付着していた。
しかし、今は鼻血に気をとられている場合ではない。乱雑に鼻を拭いすぐさま立ち上がった文音は、トイレ入り口のドアめがけて駆け出した。
だが。
(鍵が閉まってる!噓でしょ!)
無情にも、鍵が閉められておりドアが開かない。その現実に更に頭が混乱していくようだった。
――おかしい。自分がトイレへ入った際には入口に鍵なんてかかっていなかったのに。
緊急事態に慌てながらローブに手を突っ込むが、杖の感触もない。何故なら今の時間、文音に杖の所持が認められない時間だからだ。
(何で閉じ込められている!?そもそも何でトロールが校舎内にいる!?訳がわからん、もう、何もかもが訳わからん!)
分からない事尽くしで絶望しながらも、文音はトロールが壊した蛇口を掴み入口の錠を壊そうと試みる。だが、古くとも頑丈なそれは、か弱い子供の力だけで壊すのは容易ではなかった。
ガツン、ガツンと錠に蛇口を打ちつけながら、文音はグレンジャーめがけて叫ぶ。
「グレンジャーサンお願い!わたし杖を持ってない、代わりにアロホモラ、いやもう何でもいいから呪文を唱えて!」
「じゅ、じゅも……」
個室のドアにぶつかり座り込んでいるグレンジャーは蒼白した顔で呟く。しかし動揺のあまり、震えてろくに動くこともできない。
トロールのほうも、一番最初に大きな悲鳴をあげたグレンジャーを第一の獲物に決めたようで、ドシンと足音を立てて彼女に近づいた。
まずい。もう終わりだ。
半ばやけくそに文音は杖なしで呪文を唱えた。未だ開かない入口にはアロホモラを、トロールにはロングボトムが箒から落ちた時のように、思いついた魔法を次々と連呼し唱えた。
肝心のトロールには効果が出ていない。
しかし、幸いにも丁度入口のドアにかかっていた鍵が外され、外から二人の少年が飛びこんできた。
「ハーマイオニー!……ハツノ、なんできみもここにいるんだ!」
「た、助けが来た……?いや先生たちは!?」
「えっ?僕たちだけだよ!」
「せ……戦力外しかいない!せめて大人引っ張って来てよ!」
入口の向こうから女子トイレへ入ってきたのは、ハリー・ポッターとロン・ウィーズリーだった。
どうやらグレンジャーを探しに来たらしく、ついでにいた文音の存在に驚いている。
文音は彼らの問いを無視して質問を返した。教師や上級生の救援を期待していたが、新たな来訪者は少年二人以外に見当たらない。
彼らから質問の答えが返ってくると、文音は自身が助けてもらう立場なのも忘れて彼らに不満をぶつけた。
もしも、二人が突出した才能を持つ監督生であればその登場に感激し涙を流しただろう。しかしここは現実で、仮想の話は通用しないのだ。
彼らは文音と同じ一年生で、魔法だって習い始めたばかりの子供である。そんな人間が来たところで、どうやってトロールを倒せるのだ?おまけに自分は杖なしで、ろくな抵抗もできないのに!
怒る筋合いが無いのは分かっている。寧ろ感謝するべきなのだ。
分かっているが、彼らの勇猛さを飛び越えた向こう見ずな行動に、文音は心の中で地団太を踏んだ。
「こっちに引きつけろ!」
ポッターが文音が放り投げた蛇口を拾い上げ、壁にぶつけた。トロールが振り向き、音の出所を確かめようと頭を捻っている。
勇気溢れるポッター少年は、本当に自分たちだけでトロールと戦うつもりらしい。
彼には彼のやり方がある。ならば自分も、自分のやり方をするだけだ。
トロールが向きを変え、ポッターめがけて棍棒をふりあげる。
それを尻目に、文音は入口のドアを抜け廊下まで駆け出した。
ぽたぽたと鼻血が襟を汚し、絨毯に数メートルの間隔をあけてしみを作った。まるで物騒なヘンゼルとグレーテルだ。
しかしそんな光景もお構いなしに、文音は教師たちの姿を探した。
全力で走っているのに、廊下ですれ違う生徒の姿は全くない。もしかして、この異変に予め通達を受けて避難しているのだろうか。
救援を呼ぶにも人が見当たらず焦燥する文音のもとに、漸くお目当ての声がかかった。
「ミス・ハツノ!何故寮へ避難せず此処をうろついているのですか!ああ、校長の言う通りでした……。すぐさま寮へ戻りなさい、さもなくばスリザリンに5点減――待ちなさい、その傷は一体何があったのです?」
「マ……マクゴナガル先生!女子トイレにトロールがいます!グリフィンドールの生徒が三人取り残されている!」
「な――!では先程の轟音は……!」
鋭い叱責の声に振り向くと、険しい表情を浮かべる教師のマクゴナガルが立っていた。そのすぐ後ろにはスネイプとクィレルの姿もある。
鼻血を垂らす少女の姿に教師陣が訝しむ。
が、最早そんなことはどうでもいい。文音が追及を無視して緊急事態を告げると、クィレルがひぃぃと情けない声をあげてのけ反った。後ろで置物のように静かに立っていたスネイプも、わずかに表情を強張らせる。
生徒の報告に血相を変えたマクゴナガルは、つかつかと文音が来た道を突き進む。それに続くよう、スネイプとクィレルもマントを翻した。
文音も教師陣の後ろから小走りで続き、再び女子トイレに足を踏み込んだ。
もしかしたら子供三人の遺体が床に転がっているかもしれない。最悪の事態を想定して固唾を呑む。
だが予想とは裏腹に、子供ではなくトロールが床に伏して倒れていた。その大きな体躯をポッター、ウィーズリー、グレンジャーの三人の取り囲んでいる。皆それぞれ満身創痍であるが、目立った怪我はしていない。
彼らの姿を見て、文音は驚きでぽかんと口が開いた。
もしかして、トロールを倒したというのか――たった子供三人だけで?
しかし文音が話しかけるよりも早く、マクゴナガルの厳しい声がこだました。
「いったい全体あなた方はどういうつもりなんですか」
教師からの詰問に、三人は静かにうつむいている。
だが、やがてグレンジャーが恐る恐る口を開き、助けに来てくれた少年二人を庇った。
「マクゴナガル先生。聞いてください――二人とも私を探しに来たんです」
「私がトロールを探しに来たんです。私……ひとりでやっつけられると思いました――あの、本で呼んでトロールについては色んなことを知っていたので」
二人が如何にトロールを倒したのかを説明して庇い続けるグレンジャーの姿に、文音は開いていた口を閉じた。
トロールが来る直前の様子から、彼女が嘘をついている事は明らかである。
マクゴナガルはグレンジャーを叱責して減点した。ついでに、勇敢な少年二人には合わせて十点の得点を与えた。
「それで、ミス・ハツノ。あなたは何故此処にいたのです?」
突如として疑問の矛先が自分に向くと、文音は慌てて地面にあったモップを拾い上げ教師陣に見せつけた。
最初に持ち込んだ清掃用具は、トロールが暴れていたせいで柄が真っ二つに折れてしまっている。
文音の仕草を見て、彼女がハロウィーンに参加せず社会奉仕活動をしていたのだと理解したマクゴナガルは、大きな溜息をついてエピスキーを唱えた。
たちまち、文音の鼻から痛みが和らいでいく。途中、教師であるクィレルがおどおどと文音の顔についた血をハンカチで拭ってくれた。
「ミス・ハツノ。緊急事態の中、すぐさま教師を呼ぶという冷静な判断を下したあなたに5点あげましょう。ですが、念のためマダム・ポンフリーに診てもらうように。ミス・グレンジャー、彼女を医務室まで案内しなさい」
◆◇◆◇
グレンジャーと医務室まで向かう最中、文音と彼女の間には一言の会話も無かった。
沈黙の中、少女二人の靴音が廊下に響き渡る。
暫くして医務室に辿り着きドアを開けると、文音の顔を見るや否やマダム・ポンフリーが声をあげた。
「ああ、なんてこと!ミス・ハツノ、一体何があったのですか?ハニー・デュークスのチョコを食べ尽くした生徒だって、こんな鼻血を出すことはなかったのに!」
「へ、へへ……」
ポンフリーが誤魔化すように苦笑いする文音に近づき、顔に触れ傷の具合を確かめ始める。
胴体にも傷がないかを診察するべくパーテーションが置かれたところで、グレンジャーが踵を返そうとした。
しかし、彼女をポンフリーが制止する。優秀な癒者は、小さな怪我も見逃しやしないのだ。
「ミス・グレンジャー、あなたもその膝小僧の傷を化膿させたくなければ、そちらに座るように」
「……はい、わかりました」
ばつが悪い顔をして、グレンジャーが文音の隣の椅子に座った。
ポンフリーがガーゼや魔法薬を用意するべく棚のほうへと向かい、仕切りの中には二人だけが残される。
真っ白だった文音のワイシャツの襟は、ところどころに血が付着し汚れている。
診察を受けるため、文音はワイシャツを脱いで上半身はシミーズだけの姿になった。
その横でスカートの裾を少し上げ、膝の傷を露出させていたグレンジャーが、ぎょっとした顔で口を開く。
「あ、あなた……!鼻以外にも怪我をしていたの?」
「え?」
グレンジャーの小さな悲鳴に、文音は己の身体を見下ろした。
丁度ワイシャツの下に隠れて見えていなかったが、文音の身体には首から胸、果ては腕にかけて広範囲に傷跡が走っていたのである。
指摘を受けたものの、文音は特に驚きもせずグレンジャーに返事をした。
「ああ……これは大丈夫。トロールから受けた傷じゃない。もっと昔に怪我した時の傷」
「そう……」
文音の説明に未だに驚いた顔をしているが、グレンジャーはこれ以上追及せず黙った。
再び、二人の間に沈黙が流れる。
――気まずい。
文音はポンフリーが早く戻るように祈った。しかし、中々姿を見せてくれない。
沈黙に耐えかねた文音は、ぼそぼそと呟いた。
「膝の傷、ごめんなさい。私が押し飛ばした時にできた傷でしょ」
「いいえ、大丈夫よ。痛くないわ……こちらこそ、ありがとう」
文音の謝罪に、グレンジャーも口を開く。
トロールの攻撃を避けるために力づくで彼女を押し飛ばしたが、傷を負わせてしまった。
グレンジャーが怒っていない様子をみて安堵した文音は、重ねて続けた。
「……あと、さっき言った『芋地味女』とか『捻くれたクソ女』って言葉、本当におたくに向けて言った言葉じゃないから。いつも女子トイレに現れるゴーストがいて、その子がトイレの個室に籠っているって思ってた。しょっちゅう、誰かが本当に言ったかどうかも分からない言葉に、クヨクヨして落ち込んでいる奴なんだ」
「……」
誤解があったとは言え、グレンジャーを大いに泣かせてしまった例の言葉を再び持ち出して謝罪する。
先程は文音の弁解も聞く耳を持たず信用していなかったグレンジャーだったが、二度目の弁解に対しても特に言葉を返さない。
しかし文音の話を静かに聞き、最後に彼女と目が合うと首を頷いてみせたのだった。
やがて、ハナハッカ・エキスを手にしたポンフリーが戻ってきた。
彼女はさらに二人の間にもパーテーションを置き、順番に治療に取りかかる。
医務室にはもう、二人の怪我に対して注意をするポンフリーの声しか響かなかった。