11月にもなると、ホグワーツは凍えるような寒さに見舞われた。
寮の談話室は暖炉に火が灯され暖かいが、一度外に出てしまえば指がかじかんで震えが止まらなくなってしまう。
授業で校舎内を移動するたびに冷たい風が身体を突き刺し、ぞわぞわと背筋が小刻みに踊る。
まるで雪だるまの中に埋め込まれた気分だ。
そんな寒空の下、文音はグラウンドの隅で森の番人と一緒に箒の手入れを行っていた。社会奉仕活動の内容は、予めマクゴナガルに決められている。残念ながら、そこには季節も場所も関係ないのであった。
ガタガタと震える指で、文音は箒についた霜を取り除く。
丁度ホグワーツはクィディッチ・シーズンに入り、明日にはグリフィンドールとスリザリンの試合を控えていた。
「おまえさんは、クィディッチの試合を見ないつもりなのか?あまり興味がなさそうだ」
「ん゛え゛?」
すぐそばで、別の箒の手入れをしているハグリッドが文音に話しかけた。ふさふさと伸びた顎鬚と髪を有している彼は、更に丈長のモールスキン・コートに身を包んでいる。全身もこもこと着膨れており、厳しい冬の寒さに対抗するにはうってつけの装いだ。彼の格好を見た文音は、火のついたマッチを投げつけたらたちまちキャンプ・ファイヤーになりそうだという感想を抱いた。
対する少女の装いもマフラーに手袋、そして耳あてと必要な防寒具は着用している。だが如何せんイギリスの寒さに慣れていないので、喋る度にいちいち震えた声が喉から絞りだされていた。
ハグリッドから話しかけられた今も、歯をカチカチと鳴らして返事をしている。
「わだじ、日本のグィディッヂの試合じかみだごとなぐて、いまいぢビンどぎでないっでい゛うが」
「なんだって?何と言ったんだ今?」
荒馬に乗って喋っているかの如き発音だ。ハグリッドは大きな声で聞き返した。
見かねて小屋でココアでも飲んで休憩しないかと優しく提案したが、一刻も早く作業を終わらせたかった文音は遠慮して手入れを続けた。一度暖かい場所で休憩したが最後、再びグラウンドに戻って手入れに励む意欲は二度と蘇らないという確信があったのである。
「そ゛れ゛に゛……」
文音がまた声を発したのを聞き、ハグリッドが手元の箒から顔をあげる。
「……ほがの寮の子だぢが噂じでだんです。ズリザリンは毎年ラフプレーばがりで他寮生に怪我ばがりざぜでるっで。わだじ、見だぐない。自分の寮のヂームがぞういう行動ばがりするのも、ぞれで周りとどんどん隔たりを深めていぐどごろも」
「……」
彼女の告白に、ハグリッドは黙っていた。
それが彼女の気持ちを慮ってなのか、度の過ぎた震え声を聞き取れなかったからなのかは定かではない。
◆◇◆◇
翌日の土曜日。
グリフィンドールとスリザリンの試合はシーカーを務めるハリー・ポッターの活躍により、グリフィンドールが勝利を修めた。
おかげでこの土日の間、スリザリン談話室はグリフィンドールの悪口大会で大いに盛り上がっていた。
休みが明けた平日。文音は放課後、社会奉仕活動を行う前に大広間へと寄り道をした。
学生が集う大広間のテーブルには、常に何かしらのお菓子やドリンクが置かれている。午後の最後の授業が終わり小腹が空いた少女は、作業に出向く前に間食をくすねていこうと考えたのである。
大広間へ辿り着くと、丁度室内から出ていくポッター少年とすれ違った。両脇にはロン・ウィーズリーとハーマイオニー・グレンジャーもいる。あのトロール襲撃事件以降、グレンジャーは二人と仲を深めたらしく一緒にいるところを見かける機会も増えた。
新たな友達と仲睦まじく過ごす優等生の様子を見て、文音は密かに祝福した。これでもう、トイレに籠ったマートルと彼女を勘違いすることも無いだろう。
一瞬だけ彼らと目があったが、すぐさま前を向きテーブルへ近づく。三人もわざわざ立ち止まって文音に話しかける様子はみせない。
テーブルを彩るお菓子の中から適当にマフィンを一つ取り振り返ると、彼らの姿はもう何処にも見えなかった。
文音も用事を果たすと足早に踵を返す。
そのとき、彼女に向かって揶揄いの声がとんできた。
「おっと、『ボランティア係』の登場だ!なあ頼むよ、ウチのところのテーブルが汚れてるんだ。何とか綺麗にする方法が思いつかないかい?」
驚いた文音が横を見ると、背の高い赤毛の生徒二人が、グリフィンドール寮のテーブルを指さし笑っていた。二人の顔立ちや背丈は非常に似通っている――双子だろうか?
体格からして上級生であろう少年達は、肩を組んで文音が近づいてくるのを待っている。
思わず顔を強張らせた。どう考えても、彼らは自分を小馬鹿にしている。
社会奉仕活動の経緯を知らない他人からしてみたら、文音はまるっきり内心稼ぎの点取り虫にでも映るのだろう。
文音は戸惑い、辺りをキョロキョロと見回ったのちに立ち尽くした。
真正面から言い返す度胸はない。ただしおいそれと近づいたとして、良い結果が訪れやしないのは目にみえている。
困った事態になった――。
「おい、こっちだ。こっちに来い」
マフィンを手にしたまま動揺する少女のもとに、突如助け舟があらわれた。
入口のほうへ顔を動かすと、ドラコ・マルフォイが立っている。いつも彼の後ろに控えているグラッブとゴイルの姿は見当たらない――珍しいことに、今は一人でいるようだった。
「こっちだ」
そのままつかつかと文音のもとまで歩み寄った彼は、強引に彼女を扉の外へと連れ出したのであった。
「きみはスリザリンの恥になる行動を慎むべきだね」
「ん゛え゛?」
校庭の裏側へと文音を連行したマルフォイは、開口一番に厳しい声音で告げた。
相変わらず屋外は冷えきっている。
ただでさえ、突然外へ連れ出され件の寒さに震えているのに、マルフォイ少年の言葉に心まで凍えていくようだった。
さあっと血の気が引く思いで、文音は彼の言葉を反芻する。
――彼は憤慨している。あの双子にも、私にも。
てっきり、他寮の上級生に絡まれていた不憫な同級生を助けてくれたのかと思った。しかし冷静に考えれば、こんな温室育ちの坊ちゃんが腰巾着なしに上級生に挑む筈がない。
大変失礼な断定を下したのち、後ろ手を組んで推理してみる。
彼の大嫌いなグリフィンドール生やマグルと密に交流をした記憶はない。それに、己の行動によってスリザリンが減点されたこともない。
じゃあマルフォイは私の何が気に食わなかったんだ?
理由が分からぬまま、文音は不可解な表情を隠しもせず、マルフォイの次の言葉を待った。
「きみは他寮の人間から、自分が何て呼ばれているかこれっぽっちも把握していない!」
「へ?……あの、なんですか」
「『ボランティア係』だって?ああ、その呼び方だけならまだマシだったさ。『名誉しもべ妖精』なんて大層な名前に比べたら!それだけじゃない、『ウ……ウ……婦人……』なんて呼び名も……」
「ウンコ婦人?」
「その汚い言葉遣いはやめろ!」
途中、彼が言い淀んではっきりと聞こえなかった言葉を確認するように、文音が口を開く。
すると由緒正しい貴族令息として生きてきた少年は、顔を顰めて彼女を強く窘めた。
彼の注意に文音は目を丸くした。
――その呼び名は以前、飛行訓練で怪我をしたロングボトムを慰める時にしか口にしていない。どうしてマルフォイまで知っている?
(ロングボトムのやつ!皆に言い触らして回っているな!)
文音はネビル・ロングボトムの姿を思い浮かべながら臍を噛んだ。
あのおっちょこちょいでぼんやりとしている少年のことだ。恐らく寮内の人間や同級生に雑談の種として喋ったに違いない。
特に秘密にするよう約束した訳ではないが、多くの人間に吹聴されるのは予想外だった。
しかし、いま目の前にいる少年が特に気にしているのは『ウ……ウ……婦人……』という呼び名ではない。その他の呼び名に由来する、文音のとある行動が彼の目に留まったのである。
「スリザリンに組み分けされてから、きみはホグワーツの至るところでしもべ妖精のように掃除をこなしている。どういうつもりで奴らの真似事なんかしているんだ?まさか罰則を受けているのか?」
「ち……違う。私、埃とかあるとくしゃみが止まらなくなるから掃除しているだけ。それに、先生たちに生活態度の良さをアピールして、寮の得点に繋げようと――」
「鼻のことなら医務室やスネイプのもとに駆け込めばいいだろう。こんな振る舞いをして、自分の家族を失望させたいのか?挙句には、他寮の連中にまで馬鹿にされて、ひいてはスリザリン全体まで笑われかねないんだぞ」
「(何だよ急に。あんただって、前に人のことマホウトコロ呼ばわりしてた癖に!)」
咄嗟の誤魔化しをあっさり論破したマルフォイも、当初は文音を揶揄いの意図を含んだあだ名で呼んでいた。しかし今の彼は、怒っているものの件の名称を持ち出していない。
自分の振る舞いを棚に上げる少年の言動に、些か納得のいかない気持ちが湧きあがってくる。
不意に、彼の口からとある言葉が出てきた。
「父上から聞いたぞ。きみはツネヅカの家の人間だ。間違ってもメイドに扮したまね妖怪じゃない」
「!」
寒さに震える少女の身体が、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
その様子に正解を言い当てたと確信したマルフォイは続けた。
「家名を背負うことの重大さが分かっていないんだよ、きみは。必要なのは掃除じゃなくて自覚だ」
「……アハハ。家名って、
「それでも変わりないだろ――日本魔法界でもっとも古く、もっとも力を持つ一族に連なる存在だって事実は」
「……」
口をきゅっと結び、文音は押し黙った。
項垂れると、足元の芝生にも霜がついている様が目に映る。
彼女の沈黙を反省と受け取ったのか。マルフォイは最後に一言付け加え灰色に彩られた校庭をあとにした。
「とにかく、もうこれ以上屋敷しもべ妖精じみたみっともない真似はするな。スリザリンの、いや……同じ純血の家に生まれた者としての忠告さ」
◆◇◆◇
ドラコ・マルフォイから叱責を受けた文音は大いに悩んだ。
ダンブルドアから課された活動こそ、己にとって最も優先するべき事だ。しかし、事情を知らないマルフォイら生徒にその理由を説明する訳にはいかない。何せそれは、文音がかつて犯してしまった過ちを語るのと同義なのだから。
懐にしまっていたクレプシドラを取り出し、いつもの呪文を唱える。
「涸れ井戸に雫、杯を満たそう」
彼女の合言葉に、すぐさまクリスタルガラスへと変化した水時計の底は、ほんの数滴だけ雫が落ちている。
ホグワーツで学ぶ7年間。その長い時間をかけてクレプシドラの底を満たさなけばならないのだ。たか二か月の間に溜まった雫の量など、雀の涙よりも少ない。
文音は溜息をついた。残りの六年と数か月、他の生徒から隠れて社会奉仕活動を行わなければ、マルフォイからまたお説教がとんでくる。
――どうにかして人目に触れずに作業をする方法を考えなければ。
幸い、たった今から行う活動内容は「闇の魔術に対する防衛術」で使う教室・研究室の清掃だ。トイレや大広間といった場所と違い、授業以外で生徒が足を踏み入れぬ空間なら見つかる可能性は低い。
しかし、それでも尚溜息は尽きない。
マルフォイに自身の家が知られていること、そして今から対面する人物のことを思うと文音はさらに気が重くなった。
「ハ、ハ、ハツノ君。つ、机の拭き掃除が終わったら、つ、つ、次は窓を、拭いてくれ」
「はい、分かりました」
クィレルの指示に頷くと、文音は布巾をテーブルの端まで滑らせた。
「闇の魔術に対する防衛術」の授業を教える男――クィリナス・クィレルは文音の挙動の一つ一つに肩を震わせ身を竦めている。
彼の視線を背に受けながら、文音は黙々と掃除をこなしていた。
文音がホグワーツで苦手に思う大人は三人いる。一人目は寮監のセブルス・スネイプ、二人目はホグワーツの管理人を務めるフィルチ。そして三人目こそが、まさに今、文音に視線を送るクィリナス・クィレルであった。
別に例の二人と違い、クィレルは嫌味も言わないし意地の悪い当てつけもしない。ただ、かつて休暇中に不幸に遭遇したようで、それ以来ありとあらゆる物事に怯えている気の小さい人間だ。
しかし、文音は彼と会うたびに上手く説明できない、不気味な思いを抱いていた。
生徒用の机を拭き終わり、すぐそばの窓を布巾でなぞる。
すると、窓のすぐ真下に置かれた調度品の隙間に隠れるように、白い布が落ちているのが目についた。
首を傾げ、文音が指でつまんで布を引っ張る。以前に掃除をした際に置き忘れてしまった布巾だろうか。
だが引っ張り上げられ全貌を現したそれは、布巾と呼ぶには滑らかな手触りをしており、よくよく見ると不釣り合いな刺繡が施されている。
そのデザインに、文音はかつてトロール事件で鼻血を垂らした際、クィレルが親切にも汚れた顔をハンカチで拭いてくれたことを思い出したのであった。
騒動の最中であまり意識していなかったが、確か怪我をした時に貸してくれたハンカチも、こんな見た目だった気がする。
だが、奇妙な点が幾つかあった。
調度品の隙間に押し込まれていたハンカチは、点々と赤黒いしみがついて汚れている。まるで、自分の血を拭きとってから洗われていない様子だった。
(へっ、なんであのハンカチがこんなところから出てくるの。それよりもこの汚れ、私の血が洗われてないまま残ってる?)
神経質な一方で、人に貸して汚れたハンカチを適当に放り投げる大雑把さが、クィリナス・クィレルにもあるのかもしれない。
考えすぎかもしれない。自らの所持品を汚してまで、彼は自分に厚意を示したのだ。それを変に疑っては失礼だろう。
だけど――なんだか、気持ちが悪い。
「こ、こ、この前のトロールの事件は、ほ、ほ、ほんとうに、だ、誰も犠牲にならずに済んでよかった。な、なぜホグワーツに入り込んだかも、わ、わ、分からずじまいだ」
「あ、そっ、そうですね……もうあんな経験はこりごり、です」
丁度クィレルが、例の騒動について話題に出した。
文音は彼の話に相槌を打ち、取り出したハンカチを元の場所に隠した。自分の背中に遮られていたのだ、相手も文音がハンカチを発見したことには気づいていないだろう。
そのまま何もなかったように、窓拭きに取り組む。
彼の言うとおり、ハロウィーンで起きたトロール侵入の原因は、未だに不明であると噂されていた。
この話はこれで終わり――かと思いきや、普段は臆病でかなり控え目なクィレルは、意外にも話を続けた。
「き、き、きみは怪我をしていたのに、よ……よく動いていた」
「へっ?いやあ全然、私なんて何もしてないです。先生を呼びに走り回ってたぐらいだし、トロールだってポッターサンたちが倒していたから」
「や、やはり、お父様の教えでもあったの、だろうか?こ、ここ高名な闇祓いから直々に、いざという時、た……戦うすべを」
「ウーン……。どうなんだろう、よく分からないです……」
マルフォイとの会話同様、再び家の話を持ち出されて文音はさらに困惑した。
ホグワーツの編入にあたり、教師たちは彼女の家柄についても把握している。しかし、直接そのことを口に出す大人はいなかった。故に、何と反応したらいいのか分からない。
曖昧に濁しながら、文音は窓を拭く手を止めなかった。
ぴかぴかに拭きあげられたガラスの窓に、室内の光景が反射して映っている。
窓の正面には、顔を強張らせる少女の表情がありありと浮かんでいた。
そしてその少し後ろには、未だ彼女のほうを向いて喋るクィレルの姿もみえる。
反射したガラスに映るクィレルは、一切の感情もみえない真顔であった。
そして生気のない表情で、ただひたすら文音の後ろ姿を眺めている。普段の怯えた佇まいは何処にもない。
「……エット、掃除、終わりました」
「あ、ああ、ご、ご苦労。きょ、今日はもう帰ってよろしい」
「はい、失礼します」
文音がぎこちない声音で作業の終了を告げると、クィレルは存外あっさりと少女を解放した。
去り際に頭を下げ、すたすたと教室を後にする。
丁寧に扉を閉めて道具を持ち直した後、文音は小走りで寮へと駆け出した。
(やっぱり、あの人変だよ。不気味すぎ!)
空いた手で自身の背中をごしごしと摩る。
未だにクィレルの視線がこびりついているような心地に、文音の小さい身体が震えた。