タクティカル祓魔師 -境界対策課 作戦記録-   作:ヴォーパルのっち

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第四話:「誰も知らぬ神への祈り」

#1. 井出 鉄之心は戦士と対峙する

 

 戦士。それが男の第一印象だった。

 二(メートル)に届こうかという巨躯に太い(くび)

 無造作にうねる黒髪の下に、厚みのある眉骨と鋭い目。全体的な印象としては精悍と言える。

 顔の下の身体は服の上からでもわかるほどに厚く骨太で、身長に負けぬ三次元の存在感を醸し出していた。

 毛皮(ファー)の付いたサマーコートを羽織った偉丈夫が、井出 鉄之心(いで てつのしん)の前に立っていた。

 初夏、時刻は午前二時五分。東京都某市にて行われている、廃神社封印業務中のことであった。

 

 対峙する井出は、環境庁 神祇部 境界対策課第八班に所属する祓魔師である。

 身長百七五(センチ)、決して小柄ではなく、引き締まった身体に加え心胆も強い。

 整えた金髪をポンパドゥールに固め、戦闘訓練過程も修めている。

 戦い慣れた男だからこそ、井出は眼前の相手がただの肝試しや野次馬の類でないことを即座に看破する。

 

 ――慣れてやがる。

 男の顔に飛び散る返り血(・・・)以外に、佇まいがそう告げていた。

 少し前に通信が途絶えた後輩祓魔師のことを案じながら、井出は眼の前の男に集中する。

 男はゆっくりと参道を歩きながら、井出の前方5mのところで歩みを止め、顔の返り血を指で拭って捏ね弾いた。

 

 男は数度瞬きした後、「なぁ」と声を上げる。

「お前、"神"を信じているか?」

 

#2. 武邨 剛人の呪殺師注意報

 

 時刻は午前一時四十五分に遡る。

 環境庁 神祇部の内部部局である「中央神祇室」は、境界異常に際する諸々の業務の立案、及び境界異常発生時における他部門の統括を目的に設置された組織である。

 その中には、境界異常への直接対処以外に儀式技術を悪用した犯罪への対処(・・・・・・・・・・・・・・・)も含まれている。

 

 中央神祇室に所属する神祇官の一人、武邨 剛人(たけむら ごうと)は手元のタブレットから一通のメールを発信し、一息つく。

 彼は警察庁から環境庁に、刑事一課の捜査官から神祇官へと転身した異色の経歴の持ち主であり、犯罪捜査においては他の神祇官より一日の長がある。

 武邨の専門は「呪詛犯罪」と総称される、儀式技術や縁起、祭具、その他を用いた超自然的犯罪行為への対処と捜査、そして呪詛犯罪者の捕縛指揮である。刑事としてのキャリアは、超常犯罪においても有用であった。

 

 彼は今、東京都内で目撃情報の上がった、ある呪詛犯罪者の情報を神祇部内の責任者に共有した所である。

 飲み干した紙コップに武邨が目を落としたその時、新しい紙コップがデスクに置かれた。

 湯気の立つ珈琲を武邨のデスクに置いたのは、同じく中央神祇室に所属する同僚の御代川 詩帆(みよかわ しほ)――環境庁 長官の神祇筆頭秘書を務める才女であった。

 

「珍しく神経を尖らせているようですね、武邨神祇官。怖い顔になっていましたよ」

 御代川は身振りでテーブルの紙コップを武邨に勧めつつ、自分の分の珈琲を口にした。

 眼鏡の奥に光る理知的な瞳が柔らかく微笑み、自然と口角を緩めさせる。

「おっと、そうでしたか。これは申し訳ない」

 武邨は軽く会釈しながら珈琲を手に取り、眉間を解しながらひと啜りする。

 彼は自身の経歴と、その屈強な体格が他人に齎す威圧感についてよく理解し、時にそれを利用する。しかし、同僚たちにプレッシャーを与えることは可能な限り避けていた。

 

「……何か、気になる案件でも?」

「端末を見ればわかりますが、要注意人物が都内で目撃されたとの情報が入りましてね。班長以上の人員に注意喚起と、該当地域での任務時の配慮を要請したところです」

 御代川は自身のタブレット端末を確認し、僅かに目を細める。

二階堂 壊鍍(にかいどう かいど)ですか」

 

 二階堂 壊鍍は全国指名手配されている呪殺師である。

 儀式技術や祭具を不法に保持し、犯罪に用いる者を呪詛犯罪者と呼ぶ。

 その中でも、強盗や殺人、暴行といった強行犯を特に区別して呪殺師と呼ぶのである。

 報酬の対価に標的を呪い殺す者、祓魔師を襲い黒不浄(ブレード)を強奪する者、体内に"黒蟲"を飼い慣らしばら撒く者、その形態は様々であるが、皆一様に危険極まりない凶悪犯罪者である。

 

 二階堂という男は、「標的に重傷を負わせる」か「標的を暴行の末に殺害する」というシンプルな罪状を重ね続けている。その対象は祓魔師、呪詛犯罪者を問わないが、皆儀式技術に関連する者たちである。

 厄介なのは、その行動原理の読めなさであった。

 殺害、暴行の対象や時期はバラバラでありながら、積極的に自身の手で対象を殴り殺す。

 更に、逃走時は自然と幸運に恵まれ、いつも捜査の手から逃れてしまう。

 衝動的でありながら用意周到で、逃走経路は運任せ。

 神出鬼没の暴力装置、それが二階堂 壊鍍という呪詛犯罪者の特徴と言えた。

 

「先日、都内の某所にあるバーで喧嘩があり……大怪我を負った奴が出ましてね。詳しく調べてみたら、まぁなんというか……あまり行儀の良くない店だったのですが」

「そこに、二階堂が居たと?」

「目撃証言です。馬鹿でかい男が突然店内で口論を始めて、相手の顔をテーブルに叩きつけたと」

「……よくある喧嘩に思えますが」

相手の顔でテーブルを叩き割った(・・・・・・・・・・・・・・・)んですよ。中々できることじゃない。それに……店内に居た者が、その男が話し始めた時の言葉を聞いていましてね」

「口癖のようなものが、二階堂の特徴と一致したと?」

「えぇ。男は相手にこう問いかけていたそうです」

 

「お前、"神"を信じているか?」

 

#3. 清洲橋 咲果の受難

 

 時刻は午前一時五◯分。環境庁 神祇部 境界対策課第二班所属の祓魔師、清洲橋 咲果(きよすばし さくら)は廃神社入口の大鳥居前に居た。

 二〇四五年の永慈時代において、寺社仏閣は廃統合を繰り返す傾向にある。

 地域の人口流出が限界を迎え、運営者からも見放された寺社は一時的に封鎖されたり、場合によっては取り壊される。

 しかし、行政の出した統計に依ると、放置された神社や寺院では境界異常が発生する割合が有意に高い。

 具体的な原因はわからない。信仰を集めた場所から信仰が失われたことによる反動(・・)という説が有力視されている。

 だから、寺社が廃棄される際には、行政主導による封印措置の執行が義務化されている。

 清洲橋は、そのための護衛として駆り出されていた。

 

 清洲橋は、第二班所属の祓魔師である。

 境界対策課には"班"と呼ばれる幾つかの実働部隊があるが、第一、第二班は新人育成部隊としての面を持っている。

 その中でも、自分の実力は「上の中」くらいだと、清洲橋は認識している。

 驕りや慢心ではなく、訓練結果と実地任務の実績を客観的に考慮した上での自己評価だ。

 今日の任務は、先輩祓魔師二名に同行しての廃神社封印業務の護衛。

 神社奥に安置されている御神体に対して結界管理課の職員が封印儀式を執り行う間、その周囲で界異が出現した場合に備える任務。

 界異が出現するとは限らない。だからこそ、どのような界異が出現したか、相手の数と性質は如何様か、手持ちの戦力で対処できるか、応援を呼ぶか。柔軟な判断力が要求される極めて実戦的な――否、これは実戦である。

 清洲橋は腰に挿した黒不浄の柄を撫で、改めてカラビナORZ-90(中型遠隔祭具)を構え直した。

 

 五分と経たない内に、鳥居の前に男がやってきた。

 その男は毛皮の付いたサマーコートを羽織った巨漢で、清洲橋との身長差は四十(センチ)以上はある。

 

「止まってください。この廃神社は現在封印措置の執行中です。民間人は立入禁止よ」

 清洲橋はマニュアルに定められた通りの内容を、一片の淀みもなく唱える。

 それを受け、男はウェーブの強い黒髪の下から億劫そうな眼差しで清洲橋を見下ろした。

 いつの間にか、眼前2(メートル)の距離まで男が歩いてきていた。

「止まりなさいと言ってるのが聞こえませんか。私は環境庁の職員です」

 清洲橋は恐れない。神祇部は境界異常関連事象についてのみではあるが、ある程度強い権限を持っている。

 狩衣(ジャケット)の襟についた神祇部の徽章を指差し、毅然とした口調で相手に警告する。

「この神社への侵入は我々の業務に対する妨害行為と見做されます。場合によっては逮捕――」

「お前、"神"を信じているか?」

「へ?」

 

 想定外の言葉が男の口から飛び出してきて、清洲橋は素の声を出してしまう。慌てて口を噤み、相手の出方を伺った。

「神社……封印? よくわからん。それを邪魔するつもりは無ぇ。で、お前信じてるか?」

「な、何の話です」

「お前、"神"を信じているのか? お前にとって"神"って何だ? 実感はあるか?」

 男は清洲橋の眼前2(メートル)で足を止めたまま、低い声で問いかけてくる。

 ――こんな夜中に神社に出向いてきて……神学問答?

「……それは、神祇部の見解を聞きたいということかしら?」

「会社じゃなくてお前の見解を聞きたい。お前自身が……神を、世界をどう認識しているのかが知りたいんだ」

 ――中毒者(ジャンキー)かな、これ。

 清洲橋は相手に対する警戒レベルを二段階引き上げる。

 治安の悪い店では、従来の薬物以外に"穢れ"を加工した向精神作用薬物が出回っているという。そうしたものを常用する人間は理性が緩く、常人と噛み合わない言動を取る傾向が強い。

 

 清洲橋は襟口の通信機を起動し、小声で短く先輩祓魔師に連絡を取る。

「マルヒトゴーゴー、不審人物が鳥居に現れました。追い返します」

 眼前の男はぼんやりとした様子でそれを眺めている。

「なぁ、何ブツブツ言ってんだよ。聞かせてくれよ。お前の、答えを」

「神は居ない。それが私の見解よ」

 清洲橋は若干の苛立ちを混じらせて男に答える。神祇部の徽章を見せてもまるで怯む様子のない男に、清洲橋は言語化できない不快感を抱いていた。

「神学校で色々な講義を受けたわ。境界異常と儀式技術、中には神の奇蹟と解釈する人たちもいるけど……私にとっては"未知の物理法則"の延長みたいなもの。加護と穢れの振る舞いが見せる世界の法則に過ぎない」

「……学がある奴か、お前」

 男が顔を顰める。理解に苦しむといった様子で。

「その法則に神を見出したければ勝手にしなさい。私もこの国もそれを咎めはしないわ。さぁ、わかったら此処を立ち去りなさい。それ以上ここに居座るなら――」

 

 清洲橋が再度の警告を発する前に、男は一瞬で彼女の眼前数(センチ)の距離まで詰めてきた。少なくとも、彼女の目には追えない速度の動きだった。

「残念だよ、お前」

 

 遥か頭上から、男の声がした。

 

#4. 加賀 千白は神々を信じ、しかし過度の期待をしない

 

 時刻は午前二時五分。環境庁 神祇部 境界対策課第六班に所属する祓魔師、加賀 千白(かが ちしろ)は廃棄予定の廃神社の境内を走っていた。

 結界管理課から派遣された職員がこの神社の御神体を封印する間、不測の事態に備えて護衛を務めること。それが加賀の率いる境界対策課の祓魔師に課せられた任務であった。

 

 今回の任務にあたり、動員された境界対策課の祓魔師は三名。

 まず第二班の優等生、清洲橋 咲果。

 訓練過程で優秀な成績を発揮しており、実地任務でも問題行動は起こしていない。単独での判断力と柔軟な対応力を要求される任務経験を養うため、本作戦にアサインされた。

 次に第八班の祓魔師、井出 鉄之心。

 祓魔師としてのキャリアは一年目で若手ながら、既に前線での任務も数度経験している成長株。高い加護出力を持ち、繰り出す徒手格闘術は穢れや物理障壁に阻まれず敵の霊体を砕く。

 この二名を率いる、第六班の加賀 千白。

 突出した攻撃力は持たないが、儀式技術に関する豊富な知見を持ち柔軟な作戦立案と不測の事態へのカバーを得意とする参謀。多彩な手札で現状を突破する人材。

 

 その加賀は今、少し前に通信の途絶した後輩祓魔師の許に急行している。

 ――不審人物が現れたため追い返す。

 ある意味、当たり前の反応。しかし、嫌な予感(・・・・)がした。

 加賀にとって、予感とは意識に表出しない経験則の総称である。そのため、今は詳細を吟味するよりもその時予測される最悪の事態に向けて手を打ち始めるべきだと考えた。

 

 周囲の同僚たちは、少しだけ加賀 千白という人物を誤解している。

 加賀は不測の事態を常に予測し、涼しい顔で先手を打つ人間だと思われている節がある。

 そんなことはない。いつも割と手一杯だ。

 だからこそ、僅かな予兆を見逃さず、可能な限り早く妥当な手を打ち続ける。

 そして、加賀は絶対に焦った顔を見せない。

 医霊者が憔悴した顔を見せることが患者に齎す悪影響を、嫌と言うほど知っているためである。

 

 本殿と鳥居の間、参道の脇で待機している井出とすれ違い、事情を説明する前に駆け抜ける。

 気怠そうに参道の中央(・・)を歩く大男とすれ違う。清洲橋の報告にあった不審人物だろうが声を掛ける暇はない。

 軽く息を切らせながら、塗装の剥げかけた大鳥居に到達する。

 そこに居たのは、狩衣を赤黒い血で染めた清洲橋 咲果の姿だった。

 

 加賀は冷静に清洲橋の脈拍と呼吸を測る。乱れているが、どちらも反応はあった。

 素早く手持ちの医霊器具を取り出し、応急処置に移る。放置すれば明らかに危険な状態。

 結論から言えば、清洲橋 咲果は両手足を折られ、戦闘能力を奪われていた。

 両腕が肩口から歪な方向に折れ曲がり、手首には紫色の痣が刻まれている。

 女子用狩衣下衣の一つである厚手のレギンスからは血が滴り、大腿部外側が盛り上がっていた。大腿骨が折れている。

 おそらく、両手を掴まれた上で内側に折り伸ばされ、反撃手段を封じられた上で両脚を潰されたのだろう。

 更に、清洲橋は狩衣の下に着ていた白のシャツを破り裂かれ、下着を剥ぎ取られていた。

 単なる下卑た欲求の発露か、両手足を潰されても立ち上がってきた場合に備えた嫌がらせか。

 

「咲果ちゃん、もう大丈夫だからね。絶対助けるから」

 加賀は努めて冷静に、懐から忌竹(いみだけ)製の水筒を取り出す。中身は彼女が医霊行為に使用する液体薬――"変若水(おちみず)"である。

 清浄な場で汲まれた水を溶媒に、加護が込められた霊薬。エリクサーや仙丹に連なる儀術体系に属する代物である。本来は適量を経口摂取するのが用法であるが、悠長な手段は避けたかった。

「ちょっとチクっとするよ。大丈夫になる霊薬だからね」

 加賀は忌竹の水筒を緊急注射器(インジェクタ)に接続する。注射器は樹脂製の現代的なもので、医療現場で用いられるものとほぼ同等品である。

 清洲橋の外腿、レギンス越しにニードルカバーを当て、握り込んだ注射器を強く押し付ける。

 筋肉注射された変若水は体内に吸収され、肉体、霊体双方への鎮静回復作用を齎してくれる。

 適量の変若水を注入した後、加賀は手早く清洲橋の外傷を処置する。霊体の損傷は薄く、その殆どは物理肉体の負傷であったため、霊的アプローチよりも衛生医療の知見に基づいた処置を施す。

 

 ――第二班の祓魔師とはいえ、この短時間に七枚の形代を散らした上でここまで追い込むとは。

 加賀は自身の纏う厚手の狩衣を脱ぎ、半裸に剥かれた清洲橋の肩に掛けた。

 更に簡易的な儀術過程を経由し、自身の形代数枚の権限を清洲橋に譲渡する。

 界異の出現可能性は薄いが、ここまで無防備な状態で捨て置けば何が起きるかわからない。この廃神社が棄てられた神の居所であることに、加賀は注意を払っていた。

 

「医霊器具はほぼ使い果たし、手持ちの形代は数枚。おまけに相手は武闘派って感じかな」

 随分と身軽になった全身を感じながら、清洲橋を鳥居の傍に預けて本部へと応援要請を送る。

「今のところ、キミだけが頼りだよ。井出くん」

 

#5. 二階堂 壊鍍は神の声を聴く

 

 時刻は午前二時五分。井出 鉄之心の前に男が現れ、「神を信じるか」と問いかけた直後。

 二人の男は向かい合っていた。

 

 井出は参道の外側。棄てられた場所とはいえ、参道には敬意を払う。

 対する男は参道の中央。本来であれば神の歩む場所に、屈強な男が佇む。

 

「なぁ、聞かせてくれよ。さっきの女はまるでダメだったんだ」

「……その女って、小柄な子か?」

「ん? あぁ、小柄……だと思うぜ。俺から見りゃ大抵の女は小さいけどな」

 井出は冷静に情報を分析する。

 ほんの数分前、先輩祓魔師である加賀が神社入口の方に向けて猛然と走っていくのを目にしたためだ。

 加賀 千白は身長百八十(センチ)の長身であり、眼前の男から見ても"小柄"には映らないだろう。この場合、男が言及しているのは清洲橋――通信が途絶えた方だ。

「その女を、どうしたんだ?」

「イカれてたから、大人しくしてもらった」

 男は躊躇いなく答えた。少し困った様子すら浮かべていた。

「おい、お前ばっかり訊いてずるいぜ。今度はそっちが答えろよ」

「あぁ、悪い。神を信じるか、か……」

 

 井出は若干ながら逡巡する。相手を"敵"と看做すための出鼻を挫かれた気分だった。

 状況証拠的に、眼の前の相手は清洲橋に何らかの危害を加えている。にも関わらず、男からは一切の敵意が感じられなかった。

 それは、圧倒的な強者が弱者を前にした時の余裕――とも異なる。少なくとも井出には、男は心からの質問を投げかけているとしか思えなかった。

 ならば、応えなければなるまい。

 

「俺は……俺の信じる神を信じる。神学論争は昔ッから苦手でね」

「ほう。もう少し詳しく聞かせてくれよ」

「上手く言えねぇんだけどよ。俺は昔、身体が弱くて根性も無かったんだ。それが……まぁ色々あってだ。こうして今元気に生きて、仲間と一緒に誰かを守るために働けてる」

「いい話だな」

「俺はそれ自体が、神様のおかげっつーか……恩寵ってやつなんじゃねぇかと思ってるぜ」

「病気が治ったことが、か?」

「それは一部に過ぎねぇよ。世界がより善く……少しでもあったかくなる方に向けて働く、色んな巡り合わせって言えばいいのか? それが俺にとって信じるモノだ」

 

 男は井出の言葉を、静かに聴いていた。

 そしてそれが終わった後、ゆっくりと息を吐いた。

「……お前、良い奴なんだな。薄っぺらい嘘って感じが全然しねぇよ」

 男は身に纏うサマーコートを脱ぎ、袖口を腰回りに結ぶ。Tシャツ越しに、屈強な身体つきが顕になる。

「俺馬鹿だからよ、ジンギブ? みてぇな連中と話しても話の筋が掴めなくて困ってたんだ」

 その身体は筋肉だけでなく、適量の脂肪にも覆われていることがわかる。生半可な打撃は通じそうにない。

「けど、お前の言ってることはお前にとって真実だ。それは理解できるつもりだ」

 男は僅かに身を沈め――。

 ――ヤバい。

 井出は反射的に判断し、その場を飛び退いた。

 瞬間、轟音と共に砂煙が上がる。

 

 先ほどまで井出が立っていた地面に、砲丸でも撃ち込んだかのような窪みが刻まれていた。

 窪みの中心には、男の右拳。

 男は先と全く同じ表情で、井出と自身の拳を交互に見つめた。

 

「やっぱり良いぜ、お前。避けるってわかってたけど一発入れたくなったもん」

「わかってた……?」

「あぁ、お前ほどの男なら一発で決まる訳がねぇ」

 砂煙が晴れ、改めて男の全身が見えた。

 結んだコートが腰布様に垂れ、厚い身体が両拳を構える。

 ――どういうつもりかわかんねぇけど、コイツは俺と闘る気らしい。

 井出は突然の攻撃に臆することもなく、相手同様に拳を構えた。

 

「俺は二階堂 壊鍍(にかいどう かいど)。今日の儀式は、お前相手が相応しい」

「俺は井出 鉄之心(いで てつのしん)。やれるもんなら、やってみやがれ!」

 

 互いに短い挨拶を交わした直後、両者は至近距離まで接近する。

 互いに得物は持たず、徒手空拳の身。必然的に見た目上の(・・・・・)戦法も似る。

 しかし、二人の戦い方(スタイル)は全く異なるものだった。

 

 井出 鉄之心は霊体の拳で敵を打つ。それは彼が物理肉体で殴るよりも、高い威力を発揮する攻撃手段である。

 彼の加護出力は境界対策課内でも高水準にある。全身に霊力を漲らせ、身体の動きと同調させて霊的打撃をクリーンヒットさせれば、並の祓魔師が振るう黒不浄と同等以上の攻撃力を発揮する。

 対する二階堂 壊鍍は純粋な暴力の行使者である。恵まれた体格から繰り出される運動エネルギーと頑強な筋骨が、有無を言わさぬ物理法則で相手を打ち砕く。

 

 ――リーチの差が無視できねぇ。こりゃただのケンカだが、だからこそ厄介だ。

 井出の拳が二階堂の脇腹を叩き、霊力の奔流が弾ける。

 二階堂の拳が井出の顎を捉え、砕ける血飛沫の代わりに形代が焼き切れる。

 

「おぉ、お前やっぱ良いな。さっきの女は全然避けなかったんだけどよ。お前まだその……身代わり? 残ってんだな」

「こちとら前線部隊員だぜ。お前くらいの相手できなくて務まるかよ」

「今日はいい日だ。神が俺の前に、お前みたいな男を連れてきてくれたんだからな」

 

 再び二階堂が井出に飛びかかり、鋭い右ストレートを繰り出す。空気を裂く鈍い音と共に、井出の右耳が弾け形代の効果で修復される。

 井出はフェイントを織り交ぜた拳打で再び二階堂のボディを狙う。炸裂。霊力が弾け、加護が(あぶく)立つ。

 

「さっきからチクチク痒いじゃねぇか。変な拳法使いやがって」

「霊的格闘術……だッ!」

 薙ぎ払う丸太のような横蹴りを両腕で受け止め、吹き飛ぶ前に地面に手を付き衝撃を逃がす。追撃は上段、瓦割りの要領で繰り出された拳を払い、地面を転がって体勢を立て直す。

 残りの形代は三枚。

 数度打ち合っただけで理解できた。

 眼の前の男は、自分にとって幾分格上の存在のようだ。

 

「まだ身代わりは残ってるか? こんなに充実した儀式は久しぶりだ。神もお喜びだろう」

「神神って、さっきから、うるせぇな……」

 井出は呼吸を整えながら、二階堂をゴーグル越しに睨みつける。少し時間が欲しい。

「さっきの質問……お前に返すぜ。お前は神を、どう捉えてるんだ……?」

 二階堂はゆっくりと一呼吸置き、人差し指を立てた。

「話せば長くなるが、良いのか?」

「あぁ、好きに話せよ」

 

「お前、太陽が昇ってこないかも……なんて心配をしたことはあるか?」

「ガキの頃なら、ちょっとは」

「あるのかよ。まぁ普通なら無ぇよ。大人ならそんな心配しねぇよな?」

 二階堂は少し笑う。まるで友人と世間話に興じるかのように。

「神ってのはそれ(・・)だ。話の合わない奴が多すぎて、俺には意味がわからん」

 二階堂は真っ直ぐな瞳で、井出を見据えながら語り続ける。

「目を凝らせば至る所に見えるはずだ。耳を澄ませばいつだって聴こえるはずだ。俺達を見守り、試練を与えて俺達を鍛え、啓示によって俺達を導き、また次の試練を与えてくれる神からのメッセージが」

 大男は両手を広げ、太い頸から大声を張り上げる。

「それを知った風な口で、何もわかっていない奴らが……勝手な理屈で神を飾り立てやがる。規律だ戒律だとよくわかんねぇ言葉を並べ立てやがる……! そうじゃねぇだろ!? お前にだって聴こえているはずだ。お前の病を癒し、今この場まで導いてきた神の存在を感じられるはずだ!」

 

 最初から、どこか噛み合わないものは感じていた。

 興奮して捲し立てる二階堂を観察しながら、井出はその違和感の正体を掴んだ。

 二階堂 壊鍍は、神の存在(・・)を当然のものとしている。神が「いる」「いない」という次元の話ではなく、常にそこにあり、自分に干渉してくれるものであることを一切疑っていないという趣旨の話なのだ。

 井出 鉄之心は「自分にとって神と言えるモノ」を信じた。二階堂 壊鍍は「自分を取り巻く凡そ総て」を神と主張している。

 おそらく、この男と同じ視点で話ができる人間は居ない。

 自分の中にしか居ない"神"を、世界の総ての人間が共有できると心から信じ込んでいる。

 稚拙で言語化不足の独りよがりな存在論を、心から共感してもらえると信じて、この男は井出に語りかけているのだ。

 

「おっと、喋りすぎた。好きな話題は口が滑るな」

「あと二時間続けてくれてもいいんだぜ。あまり良いリアクションができる気はしねーけど」

「俺はそんなに独りよがりな人間じゃねぇよ、井出。クールダウンは終わっただろ? 早く再開しようぜ!」

 

 演説を続けていたとは思えない声量で叫びながら、二階堂の猛攻が始まる。

 井出は肉体と精神両方を研ぎ澄まし、被害を最小限に抑える方針へとシフトした。

 この猛獣相手に真っ向勝負は分が悪い。自身の上官たる祓魔師のやり口を思い出せ。

 ――俺は一人で戦ってるわけじゃねぇ。そろそろ着くはずだろ?

 

 ガードが弾かれ、二階堂の拳が井出の横面を捉える。ゴーグルが吹き飛んだ先に、軽装の加賀の姿が見えた。

 

#6. 二人の戦士は闘技場に集う

 

 時刻は午前二時十五分。

 清洲橋 咲果の手当を終えた加賀 千白は参道に向かっていた。

 清洲橋の負傷から逆算する形で、加賀は敵の戦闘能力を考察する。

 

 まず、攻撃手段は物理的なものに限られる。

 尤も、奥の手を隠し持っている可能性は除外するべきではないが。

 次に、誰彼構わず攻撃するような人間ではない。

 これは移動中にすれ違った際、完全に無視されたことからの推測である。

 

「間に……合ったかな」

 加賀が参道中程に戻ると、井出と先程の男が交戦していた。

 形成は井出が劣勢だが、加賀の懸念した最悪の事態には陥っていない。

 

「加賀さんッ!」

「はぁい、才色兼備の体現者こと千白さんだよ~」

 いつも通りの笑みを顔に浮かべ、「増援が来た」ことを相手に印象付ける。

 対する男は加賀の到着に気付くと、後ろに跳躍して距離を取る。

 

「さっきすれ違ったデカ女じゃねぇか。何しに戻って来やがった」

 男は不服そうな顔で加賀を睨みつけ、乱れた髪を掻き上げる。

「こっちは今、最高のコンディションで試練やってるとこだったんだ。邪魔したら殺すぞ手前」

「ほう、試練?」

「神の試練だ! 神の前で嘘偽りなく互いの力を比べ……その戦いを奉じる。邪魔する奴は女相手でも容赦しねぇ」

 加賀の目が細まり、男の言動を観察し始める。次の手を打つための要素を洗い出すために。

 

「こいつは二階堂 壊鍍。"神"のお導き、ってやつで俺とやり合ってるらしいっす」

 井出が呼吸を整えながら簡易的に説明する。二階堂は異議を唱えない。

「こっちはようやくフェアな条件に来てんだよ。井出の身代わり? ももう無い。男と男の真剣勝負……神前死合ってやつだ」

「その身代わりは形代って言うんだよ。知らない?」

「ごちゃごちゃうるせぇな……どうでもいいだろそんなこと」

「井出くん、本当に残り無いの? 私の分は渡せないよ」

「大丈夫……とは断言できねーが、逆境(ピンチ)でこそハートの強さが試されるってやつっすよ」

「ナイスファイト」

 

 井出の加護出力が衰える気配はない。相手に霊的攻撃手段が無いことと、井出の心がまだ折れていないことの証左である。

 加えて、加賀は一つの糸口を掴んでいた。ただ、もう少し確信が欲しい。

 

「井出くん、知っての通り私は直接戦闘が苦手でね。加勢はできそうにないんだ」

「おいおい、その図体は飾りかよ」

「二階堂くんは静かにしててねぇ」

 加賀は二階堂の反応を伺う。軽く挑発された程度では、攻撃対象を移す様子はない。

「二階堂くんとしては、井出くんとの"儀式"の決着を付けたいってことだよね?」

「当たり前だろ。こんなに気持ちの良い奴と闘れる機会は中々無い。神も喜んでる」

「じゃあさ、井出くん。悪いんだけど命懸け(・・・)で戦ってくれないかな?」

 加賀はまるで、おつかいでも頼むかのような軽い調子で言い放った。

 二階堂が困惑の表情を浮かべるが、井出は躊躇せずに頷く。

「最初からそのつもりだぜ……加賀先輩よぉ!」

 

 井出が懐から祓串(ペグ)注連鋼縄(ワイヤー)を取り出し、瞬時に放つ。それは攻撃ではない。

 撃ち込まれた祓串と注連鋼縄が象ったのは、周囲四方を囲む一辺五(メートル)の結界枠である。

 結界敷設の儀式を実行していないため、あくまでも今はただの注連鋼縄に過ぎない。

 それはまるで、二人の戦士を内に入れた闘技場(リング)の如きであった。

 

 人差し指を立てながら、井出が説明する。

「俺はこのリングから出たら、負けを認めて大人しく死ぬ」

 次に中指。

「お前はこのリングを気にする必要はない」

 そして薬指。

「その代わり、加賀先輩と清洲橋には今以上手を出すな。それが俺の"神前死合"のルールだ」

 

 井出の申出を、二階堂は静かに聴いていた。

 眉根を顰め、僅かに思案したあとゆっくりと口を開く。

「俺からも提案したい」

 井出と同じように人差し指を立てる。

「リングから出たら殺される、ってのは無しだ。お互い死ぬまでやろう」

 次に中指。

「俺も、リングから出たら負けを認める。フェアじゃないからな」

 そして薬指。

「そこの女は信用できないから武器を捨てとけ」

「あれ、持ってきてるのバレてた?」

 加賀は悪戯っぽい笑みを浮かべ、背中のベルトに挟んだ小型遠隔祭具――カラビナ社製 EW-38を放り投げる。

 

「井出 鉄之心。お前のひたむきな誠実さには感動させられる。一人の男として、正直お前を殺したくはない。神は時に非情だが、お前にもきっと理解できるはずだ」

 どこまでも真っ直ぐな表情を浮かべる二階堂に対し、井出の眼光は鋭い。

「お前が今まで殺してきた無関係の人には、そういう事思わねぇのか」

「女は神の御心が動かんからダメだ。あと俺の試練に横槍を入れる奴は……それも含めて試練なのかもしれんが、だからこそ妥協なく殺す」

 二階堂の言葉に、欺瞞の類はない。加賀はそう感じ取る。人の裏を掻き、時に心の奥すら利用する加賀だからこそ、相手の言動に漂う幼稚さが欺きや自己正当化ではないことが理解できる。

 

「俺も、お前のことを殺したくはねぇ」

 愛用のゴーグルを吹き飛ばされた井出が、真っ直ぐに二階堂を見据える。

「俺は、一人でも多くの人間を助けることが世界をより良くすると信じてる」

 井出の霊体が、清浄な湧き水のような音を立ててその加護を増幅させる。

「だから今、ここで手前を止める――来いよ、二階堂!」

 

 境界対策課でも屈指の加護出力を誇る井出 鉄之心の精神コンディションが、最高潮に達する。

 相手は一撃で人間を死に至らしめる怪力の狂信者。破滅を肩代わりする形代は既に無い。

 狭いリングに逃げ場はなく、援軍も武装を放棄している。

 それでも、井出は恐怖も狂気も、自暴自棄すら感じていない。

 絶体絶命の窮地の中でも自分を見失うことのない、確固たる精神。

 彼はそれを、ハートの強さと呼ぶ。

 

「俺のハートと手前の信心、どっちが強いか決めようぜ!」

「そう来なくっちゃなぁ! 俺も本気で闘らせてもらう!」

 

 二階堂が構えを取ると同時に、大きな脚で地面を踏みしめる。

 加賀は反射的に、自身の戦友――陽の香りを纏う女傑の事を思い出した。

 二階堂の総身に力が漲り、内に張り詰めた加護が更なる筋力を引き出す。

 

 闘技場の中で二人の視線が交差し、戦いの鐘が鳴る。

 

#7. 井出 鉄之心は己と対峙する

 

 喉の奥が焼けるように熱く、手足の末端が痺れる。

 井出の奥底に焼き付く、幼少期の記憶。

 病弱な身体と、それに起因する内向的な精神に蝕まれていた幼い井出は、境界異常に呑み込まれても呆然とするばかりだった。

 幽世に呑まれ、逃げ遅れた当時の井出を救ったのは、環境庁に所属する祓魔師である。

 暗く寒気のする異界の中で、自分を抱きかかえる暖かくて力強い両手の存在だけが、彼の記憶に残っていた。

 

 繰り出される拳を、紙一重で躱す。右の額を蹴りが掠め、切れた皮膚から血が滴る。

 練り上げた霊力を拳に乗せ、敵の胴を打つ。避けた蹴り足が引き戻される前に跳躍し、急所である側頭部に蹴りを叩き込む。

 形代の残されていない状況下で、井出 鉄之心は二階堂 壊鍍と互角以上に渡り合っていた。

 注連鋼縄に囲まれた闘技場の中だけに注意を向け、全身全霊を戦いに集中する。

 疲労や精神的動揺は感じていない。今の井出は心と魂だけで駆動している。

 二階堂は術で身体能力を跳ね上げたが、ギアを上げた今の井出は眼前の怪物と同じ目線に立っていた。

 

 ――極度の集中による戦闘能力の増幅。

 二人の戦いを見守る加賀は、冷静に状況を分析する。

 井出は普段から基礎訓練を欠かさない。それは霊的な要素に留まらず、本来彼が必要としない身体能力面にまで及ぶ。

 だからこそ、戦闘に過集中した彼の性能(スペック)は底が知れない。

 ――だけど、ずっと維持するのは難しいだろうな。

 

 加賀は今までのやり取りの中で、ある確信を掴んでいた。

 二階堂 壊鍍は、儀式技術に関する知見を殆ど何も持っていない。

 根拠は幾つかある。

 まず、"形代"の存在を知らないこと。

 今日において、破滅を肩代わりする形代は極めて一般的な防性祭具となっており、時に呪詛犯罪者ですらその恩恵に預かる。

 しかし、二階堂は形代の作用や残数という概念を殆ど理解していなかった。

 次に、井出や自分の式法を警戒する様子が無いこと。

 祓魔師であれば、自身の体内や霊体に保持する儀式要素を組み合わせ、何らかの式法を行使することもある。しかし、二階堂の言動や行動からは根本的にそれが抜け落ちている。

 おそらく彼は、今まで闘った相手が使用した式法のことも大して記憶してはいないだろう。

 彼にとっては、それは彼の信じる神が用意した試練に過ぎないからかもしれない。

 そして何より、彼は自分が行使している式法に関してすら無意識に行っている。

 身体能力を増強する式法はかなりの種類が存在するが、その多くは洗練された足運びを必要とする"反閇歩法"と呼ばれるものをルーツとする。

 彼のそれは非合理的且つ無駄が多く、直截に言えば原始的なものだ。

 以上の根拠から、加賀は暫定的な作戦を組み立てる。

武器(カラビナ)は捨てたけど、こっちは祭具だからセーフ……だよねぇ」

 加賀は左腰のポーチから、古びた鈴を取り出す。

 

 心臓が焼けるんじゃないかと思うほどに熱く、壊れそうな程に早鐘を打つ。

 その一方で頭はどこまでも冷たく澄み渡り、両拳の輪郭が明滅を繰り返す。

 霊体の動きが肉体の動きとズレれば、攻撃のリズムが狂って何もかもが終わる。

 今の井出は謂わば、下り峠(・・・)で加速したスポーツカーだ。

 ――あと少し、もう少しだけ。奴を押し切る力を出す!

 既に限界を超えた身体に鞭を打ち、井出は両足を踏ん張ると拳を構える。

 瞬きをした瞬間、眼前に右ストレートを繰り出す二階堂の姿があった。

 井出は深く息を吸い込み、自身も渾身の右ストレートを放つ。

 

 ちりん。

 

 ――鈴?

「……っぐあああ!」

 獣のような唸り声を上げ、二階堂が後退(あとずさ)る。井出の右手に燃えるような痛み。

 井出は呆然と、自身の右手を見た。そこに宿る霊力の残滓が、青白い輝きを放つのを見た。

 胸元が震えるほどに心臓が脈を打ち、両耳からは甲高い悲鳴のような耳鳴りがする。

 その二つの感覚が急激に収束していき、主観からノイズとして弾き出される。

 放心と共に緩んだ井出 鉄之心の霊体が再び輪郭を結び、波一つ無い水面のように整った。

 ――何だかわからねぇけど……今の一発が良い所に入ったらしい。

 ――何でかわからねぇけど……今の俺は、絶好調(トップギア)らしい!

 

「行くぞァ!」

 井出が咆哮を上げ、左フックを放つ。右肘で受ける二階堂に打撃が当たった瞬間、水面を打つように加護が弾け、波紋状に翠色の輝きを放つ。二階堂が目を見開き、衝撃に脚が浮く。

 すかさず右足のローキック、二階堂はこれを跳躍回避し、闘技場の対角へと着地する。

 今まで総ての攻撃を受け止め、何事も無かったかのように振る舞ってきた二階堂が、初めて自主的に攻撃を避けた。先の一撃は、十分な有効打であると見えた。

 

「何だ……お前……その、力!?」

「俺もよくわかんねぇ……お前の神様に訊いといてくれねぇか?」

 

 井出は額から流れる血を指先で拭い、そのまま乱れた髪を掻き上げる。

 己が血で象るのは強き男の象徴(アイコン)。自分を自分たらしめる代名詞。

 僅かな赤に彩られたポンパドゥールが、井出の前髪を飾る。

 

「決着つけようぜ……二階堂ォ!」

「ブッ殺す!」

 

 二階堂が地を踏み鳴らし、凄まじい膂力で飛びかかる。

 跳躍と上半身の筋力全てを使って放つ、規格外の威力の右ストレート。

 澄み渡った井出の眼には、全てがスローモーションに映った。避けることもできただろう。

 だが、井出も自然と右ストレートの構えを取っていた。

 二階堂の拳と井出の拳が正面から激突し、廃神社の境内を翠の輝きが照らす。

 

「嘘……だろ……!」

 砂煙が晴れ、二階堂の姿が顕になる。

 闘技場の中心に立つ井出から七(メートル)。攻撃で弾き出された二階堂が片膝をついている。

 その右腕は赤黒く変色し、前腕部からは折れた骨が突き出していた。

「闘技場の外に出たら負け……って話だったな」

 冷静に言い放つ井出に対し、二階堂は憤怒の形相を浮かべながら立ち上がり――普段の表情に移った。

「そうだな。俺の負けだ。この右腕は儀式を遂行できなかった、神罰だ」

「井出くんの底力に負けたんじゃないの?」

「同じことだ。だが井出に敬意を払って、その表現に訂正しておく」

 

 初夏の真夜中に、生ぬるい風が吹く。

 加賀はカラビナを拾い直し、二階堂に向けて警戒しながら増援を試みる。

 同時に、限界を迎えた井出が注連鋼縄の中心で膝をついた。

 ――片手の使えない相手なら、制圧できなくもないか。早く増援来ないかな。

 まだ、緊張感が解けない。

 

「待たせたな。千白」

 加賀の後方から、聞き慣れた声がした。

「境界対策課 第六班、現着だ!」

「黒ちゃん!」

 暖かい陽気のような加護を纏う、褐色肌の女傑。

 大型祭具を装備し、白熊の縁起を装甲代わりに纏った少女。

 水色の髪をボブカットに揃えた新人祓魔師。

 不機嫌そうな表情で煙草を咥えている男と、それに従う後輩の男。

 加賀の同僚たる第六班の祓魔師達が、駆けつけて来ていた。

 

「二階堂 壊鍍だな。儀式技術の不正使用及び、暴行殺人の容疑で貴様を逮捕する」

 第六班長が大太刀型黒不浄の柄に手をかけ、二階堂へと接近しようとする。

 加賀の緊張感は、まだ解けない。

 

 ちりり。ちりりり。

 鈴の音が鳴る。周囲の空気が冷え込み、初夏の空気が幽世のものに塗り替わる。

 寂れた神社の至る所から穢れが吹き出し、鬱黒揚羽や黒百足といった界異の姿を象り始める。

 

真逆(まさか)――このタイミング(・・・・・・・)で!?」

 

 神社入口に向かって駆け出した二階堂の姿を認めながら、加賀は武者型界異の攻撃を回避した。

 まだ御神体の封印措置は終了していない。界異が出現する可能性は最初からゼロではなかったが、如何せん間が悪すぎる。

「止むを得んな。総員、周囲の界異を祓滅しながら本殿に移動!」

 第六班長が即座に号令を出し、班員達が陣形を整える。

「最優先事項は封印措置を行う結界管理課職員の護衛。急げ!」

「了解。……仕方ないね」

 加賀は緊張感を解きながら、同僚たちと共にいつも通りの戦いを始めた。

 

#8. 御代川 詩帆は奇蹟と偶然を選択的に区別する

 

 廃神社の封印業務の波乱から一夜明け、祓魔師達は神祇部のオフィスに帰投していた。

 集中治療室に運ばれた清洲橋は医霊班からの治療を受け、命に別状は無いとのことだった。

 時刻は午後二時。

 井出 鉄之心は中央神祇室で、事件についての報告を行っていた。

 

「……という訳で、二階堂の奴は取り逃がしましたッ」

 井出は端的に報告を済ませ、直角に頭を下げる。

 正面に座る神祇官の御代川は、眼鏡の下で少しだけ困った表情を浮かべた。

「まぁ、呪詛犯罪者の捕縛は任務要件にありませんでしたし。井出さんに大きな怪我がなくて良かったと思いますよ」

「俺がもっと強ければ……界異が出てくる前にケリを付けられたと思っちまって」

「そう思うならもっと鍛錬を積んで、これからも頼れる井出さんで居てくださいね」

 御代川は紙コップに入った珈琲を勧める。事務的な態度ではあるが、井出には御代川が微かに微笑んだように見えた。

 

「二階堂 壊鍍は、今後しばらくは大人しくしていると思いますよ」

「そうっすか?」

「少なくとも、彼の儀式は失敗し、神罰を受けた。彼はそう認識しています。井出さんは、彼の前に現れた……初めての"拒絶"なんですよ」

「拒絶……」

「彼の信仰が揺らぐことは早々無いでしょうが、考え直す切っ掛けくらいにはなるでしょう。その間に、井出さんはもっと強くなれるはずです。霊体だから……ハートを鍛えるんです」

 御代川は少しだけ、口角を上げた。

 

 井出が神祇室を出ると、廊下で加賀が待ち受けていた。

 御神体の封印が終わるまで班員達の指揮を担当した加賀は、その後神祇部に帰投すると同時に清洲橋の治療に同行。今に至るまで休むことなく働き続けていた。

 その顔に疲労の色は伺えない。

「凹んでる?」

「まぁ、ちょっとは」

 第八班の事務所に向かう井出の後ろから、加賀が付いてくる。

「加賀先輩こそ、大丈夫なんですか? 昨晩から働きっぱなしっでしょ」

「この艷やかな美貌をご覧よ。全然平気」

 加賀が前方に回り込み、舌先を出す。

「なら、良いんすけど」

 

「ねぇ井出くん、缶コーヒー奢ったげよっか」

「何すか、急に」

「いやね、千白お姉さんなりの誠意だよ」

 自動販売機の前で二人は足を止め、加賀が懐から財布を取り出す。

 ――誠意。この人が俺に。

 

「加賀先輩、あの時何かやりましたね?」

「ふふふ、何のことかなぁ~? はいどうぞ」

 井出の頬に、冷たい缶コーヒーが押し付けられる。思わず怯んだ隙に、彼女は廊下を歩き去っていった。

「相変わらず、よくわかんねぇ人だな……」

 

 第八班の事務所に戻る前に、屋上で缶コーヒーを飲むことにした。

 遠くに見える入道雲が、夏の訪れを実感させる。湿度もそれなりに高く、缶の表面が結露で濡れていた。

 ――先輩からの差し入れで気合入れたら、まずは基礎鍛錬だな。

 プルタブを捻り、キレのある苦みで喉を潤す。

 不意に吹いてきた風が、纏わりつく熱気を吹き飛ばす。

「ハートを鍛える夏、か……良いじゃねぇか」

 ダストボックスに缶を投げ入れ、井出は戦友達の待つ事務所へと舞い戻るのであった。

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