「高崎様ですね、お待ちしておりました。ご案内いたします」
坂柳さんに誘われて訪れたのは、ケヤキモールの高級フランス料理店、店員さんの後をついて店内奥の個室に入室すると、先に到着していた坂柳さんがこちらに微笑みかけた。
「こんばんは高崎くん。急な呼び出しに応えていただいてありがとうございます」
「ううん、こっちこそお誘いありがとう。嬉しいよ.ただ……」
「ご心配なく。お誘いしたのはこちらですので、ここは私が持ちましょう」
「いやいやいや、流石にそんなことさせられないよ。節約生活もそこそこ上手くいってるから大丈夫」
高級レストランの雰囲気に気圧されているのを見抜かれ、坂柳さんに懐事情を心配されてしまった。今朝節約生活を始めたことを話したばかりなので、それを気遣ってくれたのもあるだろう。
しかし調味料や粉系等の初期費用を綾小路との折半で賄えたことから、節約生活は当初の想定よりも良いペースで進んでいる。初期支給額の半分である5万ポイントが最低目標ラインなので、見るからに高そうなこのレストランであっても、一度くらいの贅沢は問題ないだろう。
「このお店、オーナーがボードゲームマニアだそうで、受付でチェス盤が借りられるんです。夕食には少し早いですし、お付き合いいただけませんか?」
「へえ、いいね。腹ごなしにちょうどいいかもだし、ご指導いただこうかな」
「ありがとうございます。では、こちらを」
坂柳さんが端末を操作すると、俺の端末に坂柳さんからURLが記載されたメッセージが届いた。URLが示すリンクをタップすると、無数の棋譜とその解説が並べられたwebページに飛ばされた。
「タイトル戦などの良い棋譜をまとめて解説しているページがありましたので、高崎くんに見ていただこうかと。棋譜の見方は大丈夫ですか?」
「うん。入学式からちょこちょこチェスのこと調べたりしてたから」
坂柳さんに質問をしながらいくつかの棋譜を並べた後、実際に指導対局を打ってもらうことになった。
プロがどんな思考でその一局を打っていたかに思いを馳せるのも楽しかったけど、いざ自分で打ってみると、今まではいまいち分からなかったチェスという競技の奥深さが理解出来る。
初手の定石がどれだけ試合の運び方を握っているのか、今打つこの一手が数十手先の詰みに与える影響がどれだけ大きいものなのか。
棋譜を並べるだけでは理解できなかった一手一手が、俺の中で意味あるものに変わって融け落ちてゆく。
「これでチェックメイトです」
キングの退路を塞ぐ坂柳さんの一手で、指導対局は終わりを迎えた。
「たった一局でしたが、流石の吸収力ですね。既に高崎くんには、新米プロ程度であればかなりの勝率をあげられるほどの棋力がありますよ」
「坂柳さんの指導が上手いんだよ。なんというか、上から無理やり実力を吊り上げようって圧を感じた」
「高崎くんがついてきてくれて、とても嬉しかったです」
首を傾げてにこりと微笑みかける坂柳さん。きっと今までもこういう経験があったけど、誰も彼女の指導についていけなかったのだろう。
「では最後に一局、本気でやりましょうか」
「えっ」
チェス盤をフラットな状態に戻し終えた坂柳さんからの申し出に、思わずギョッとして口から声がこぼれ出た。
指導対局の中で感じた坂柳さんの棋力はすさまじかった。俺がボコボコに打ち負かされるのは火を見るよりも明らかだ。
「私の方はクイーンとルーク二枚を落として、先手は高崎くんにお譲りします。これなら互角の勝負になると思いませんか?」
「うーん……、まあそれなら」
俺が渋々承諾すると、坂柳さんは自身の黒駒の中からクイーンとルーク二枚を抜き取った。
チェスにおいて、クイーンとルークは特に盤面を左右することとなる価値の高い駒である。それらを落とすとなれば、俺にも十分勝機はある……だろう。
「では、この勝負に負けた方がここの食事代を持つということで。よろしくお願いします」
「ええっ!? 聞いてないよ!?」
「あら、そうでしたか?」
申し訳ありません、と言って挑発するように笑う坂柳さん。打ち筋からなんとなく滲み出ていたが、この人やっぱりドSだな?
ここはなんとしても勝たなくてはならないと決意しながら、定石通りの一手目を繰り出す。
「やっぱり、本気の君は強いね坂柳さん。勝てるビジョンが湧かないや」
戦況がある程度進んだ時点で見えてきた圧倒的な実力差に、俺は肩をすくめて坂柳さんを見る。
先の指導対局では、俺を実力を吊り上げるために押しつぶされるような差し回しをしていた。
しかし本気の坂柳さんは、一手一手が鋭い刃物のように、俺の体を切りつけていく。恐らく実力的には、さっき見た棋譜のどのプロ棋士よりもずっと上だろう。
そんな俺の降参ともとれる言葉を受けて、坂柳さんが不機嫌そうに鋭い眼光で俺を射抜いた。
「……遺憾ですね。本気でやってはくれないのですか?」
「本気だよ。食らいつくので精いっぱいだ」
「いいえ、貴方はまだ本気を出していません」
俺の言葉をバッサリと切り捨てて、坂柳さんは続ける。
「先の対局で感じました。貴方は、今よりさらに上のステージを隠している。私はそれが見たいのです」
言葉に詰まる。確かに坂柳さんの言う通り、俺にはこの状況を打開して勝利に近付くための手段を隠し持っている。
ただ、それをすると昔のことを思い出して気分が悪くなるから、極力やりたくはないというのが本音だ。
そんな俺の渋りを感じ取って、坂柳さんは最後のカードを切った。
「……そういえばSシステムについて、実は私も色々と考察をしていました。そして、かなり確信を持っている説がひとつあります」
「! 本当に? それ教えてほし──」
「ただ、もしこれが当たっていた場合、私の損にも繋がります。簡単には教えられません」
再度言葉に詰まる。坂柳さんの言葉が示すのはつまり、「この対局に勝てばその情報を渡しても良い」ということ。
坂柳さんの思考力は、周りに比べてもずば抜けて高い。そんな人がかなりの確信を持ってはじき出した説の情報など欲しいに決まっている。
そして気になるのは、その説が当たっていれば坂柳さんの損にもつながるという発言。その損が何を意味するものであっても、同じ生徒である以上、まわりまわって俺の損にもつながる可能性は高い。
(……大丈夫、あれからもう三年以上経ってるんだ。恐れることはない)
心の中で決意を言葉にし、迷いを捨ててヘアバンドに手をかける。
「……二言はないね?」
「当然です」
坂柳さんの確認の言葉を聞いて、俺は手に持ったヘアバンドを勢いよく取り去った。
瞬間、ヘアバンドに留められていた長い前髪が視界を覆い、視界が闇で埋め尽くされる。
俺の思考は深い闇の中へ連れ去られ、周りに今まで蓄積してきた全ての記憶が浮かび上がってくる。
「うっ……。ぐっ」
地獄の思い出たちから極力目を背けながら、先ほど見た幾千もの棋譜を並べてここからの道筋を構築する。
ビショップの切込みからナイト……、ダメだな。
ここにポーンを置いてクイーンの風通しを良く……、潰されて終わり。
無数に繰り返されるシミュレーションで、これから打つべき手筋を限定していく。
坂柳さんが踏んできた場数、その中で積み上げてきた技術には絶対にかなわない。俺にできることは、一手の読み逃しもなく先の展開を予想し、その中から最善の道筋をなぞるだけだ。
(……読み切った!)
急いで両手で前髪をかき上げると、集中状態で無意識で息を止めていたことに気付き、心臓がうるさいくらいに速鳴りを繰り返していた。
「ぷはぁ! はぁ、はぁ、ふぅー……」
「だ、大丈夫ですか? とても顔色が……」
声に反応して顔を上げると、集中状態の様子がそれほど心配させるものだったのか、坂柳さんが少し困惑した表情をしてこちらを見ていた。
「うん、大丈夫だよ。待たせてごめんね。それより……」
手に持ったヘアバンドを頭に巻き直し、盤上のポーンを手に取って一つ足を進める。
「反撃開始だよ」
この対局で初めて自信を持った表情で一手を放った俺を見て、坂柳さんの顔に挑発的な笑みが戻る。
「嬉しいです。本気の貴方と戦うことが出来て」
俺の一手に、迷うことなく坂柳さんは返しの一手を打ち込んできた。
その後はお互いに一秒以上手が止まることはなく、十数手のやり取りが繰り返される。
そしてある俺の一手の後、この試合で初めて坂柳さんの手が止まった。
「……どうやらこれ以上勝負を続けても勝ち目はないようですね。降参です」
「いいの? まだ全然これからな盤面だと思うけど」
「いいえ、この一手で終局までの道筋は確定しました。平手ならばともかく、三枚落ちの状況で終局まで見えている貴方を崩すことは不可能でしょう」
恍惚した表情で、坂柳さんは続ける。
「貴方がヘアバンドを外したあの長考以降、貴方の棋力は私に匹敵するレベルまで吊り上がりました。貴方の本当の実力が見れただけで私は満足なのです」
どうやら坂柳さんのお眼鏡にかなうことが出来たようで、ホッと胸をなでおろす。
坂柳さんは集中状態以降の実力を自分と比肩すると評価してくれたが、正確には違う。
集中状態で実力が吊り上がっていたのはその通りだが、それ以降は集中状態に思考した道筋をなぞっただけで元の俺のレベルのままだ。予想外の手を一つ打たれるだけでそれは破綻し、泥仕合に向かっていくこととなる。
普段は意識的に蓋をしている地獄の痛みを思い出す行為は、精神を容赦なくすり減らす。痛みの輪郭をはっきりと思い出した上でもう一度記憶を覗く精神的ダメージは想像を絶する痛みであるため、集中状態は一日一度しか使えないのだ。
坂柳さんの言う通り、これが平手打ちであったとしたら、坂柳さんは間違いなく逆転の一手を繰り出していただろう。
そうなれば俺の敗北は必至。まだまだ俺と坂柳さんの間には、簡単には埋められない差があるということだ。
ぐぅ~~~。
突如、俺の腹部から間の抜けた音が鳴り響き、俺と坂柳さんの間に笑いが起こった。
備え付けの時計を見て見れば、時刻は既に八時を回っていた。対局で頭も使ったわけだし、当然のお腹も空くというものだ。
「ディナーにしましょうか」
「うん。俺もうお腹ペコペコだよ」
手早くチェス盤を片付けて、俺たちはメニュー表から思い思いの料理を注文した。
先程までの張りつめた空気を溶かすように軽く談笑をしていると、そう時間は経たずに注文した料理が届けられた。
思ったより遅くまでチェスに没頭してしまったため簡単に済ませられるものにしようということで、お互いにコース料理ではなく
俺が注文したのは「仔牛すね肉のグリエ、みずみずしい巨峰を添えて」という肉料理。グリエがなんなのかはさっぱりわからないが、とにかくうまい。高級な味がする。
目の前では坂柳さんが同じく
これが男子同士であったなら「シェアし合おう」と言い出せるのだが、坂柳さんが相手である以上そんなことは言い出せない。
「一口差し上げましょうか?」
「!? いっ、いや。大丈夫。それより、さっき言ってたSシステムの話聞かせてくれない?」
グラタンを羨ましそうに見ていたのを見破られて激しく動揺し、本来の話題を切り出す。やっぱりこの人、何考えてても見透かされそうで怖いな。
「ふふ、わかりました。まずこの学校が私たちを異様なまでに監視しているのは、高崎くんもご存知ですよね?」
「うん。一部を除いて、ほぼ全ての場所に監視カメラがあるよね。教室なんかどこにいても死角ないくらい」
「自堕落な日々を過ごす学生に対して毎月10万もの施しをするのはこの学校の理念的に疑問が残る。だから支給額はなんらかの要素で減額するかもしれない。
ではなんらかの要素とはなにか? 最も分かりやすいのは成績や素行でしょう。そのため学校側は監視カメラで生徒の様子を逐一チェックし評価している……。
ここまでは、今朝の高崎くんの考察と一致しています」
ただ、と前置いて、坂柳さんは続けた。
「これは個々人ではなく、クラス単位での評価になると考えています」
「……それ、俺も考えたよ」
そう俺が賛同すると、坂柳さんはニヤリと笑って「根拠は?」と問いかけてきた。
「入学式の日、うちのクラスのやつが上級生のやつと揉めてたんだよね。それでその上級生が"お前どうせDクラスだろ? 可哀想な不良品に今日だけは譲ってやるよ。すぐ地獄を見るんだからよ! "って。
他にも薄らとだけど、Dクラスを卑下するような会話が聞こえてきたりしたんだ。だから素行の悪い生徒をDクラスに集めたりしてるんじゃないかな……って。
今日、坂柳さんに聞いてみたかったんだ。Aクラスの授業態度について」
俺は坂柳さんに、Dクラスの授業態度について話した。
この学校は、生徒が何をしようと決して注意することは無い、完全放任主義スタイルの授業を行っている。
何も言われないとなればつけ上がり出すのが高校生の性なのか、Dクラスの授業風景は最悪の一言だ。
スマホ弄りやお喋りは数知れず。特に酷いのは須藤で、寝坊による遅刻欠席、さらに居眠りの常習犯だ。中には堀北さんのように真面目に授業を受ける生徒もいるけれど、それも全体の2割に届くかどうか。
いかに何の注意も受けないと言えども、一クラスにあれだけ素行の悪い生徒が集中するとは思えない。
「Aクラスではそのようなことはありませんね。至って真面目に授業を受けています。十分クラス単位での差別化が行われていることへの裏付けになり得る情報ですね」
「ありがとう。坂柳さんの根拠も知りたいな」
「私の方は今日のお昼にクラスの方に協力していただいて、食堂に来ていた上級生の方々に聞き込みを行いました。あくまで私が聞いた範囲にすぎませんが、山菜定食を食べている生徒には、CやDクラスの方が多かったですね」
山菜定食とは、無料で食べることの出来る食堂メニューの一種だ。俺的には十分美味しいと感じたのだが、綾小路曰く「安いだけで美味しくない」だそうだ。贅沢なやつめ。
ちなみにその後、雑に「高崎の飯がいちばん美味いから安心しろ」というフォローを入れてきたのだが、フォローするポイントが若干ズレているのはなんなんだろうか。
「なるほど。クラス間で生徒の質に差をつけて、クラスそのものに配布するポイントを差別化する。だからDクラスは不良品と言われるし、ポイント支給額も少ないから無料商品に頼るしかない。確かに起こっている事の理由付けにはなるけど……」
「はい。なぜそうしたか、その動機が不透明なんです」
支給額の増減によって素行の改善を図るのは理にかなっているように思える。
しかし、そのために素行の悪い生徒を一箇所に集める理由が思い浮かばないし、結局上の学年であってもDクラスへの支給額が少ないのであれば、それは素行の矯正が完了していないことを意味するため、政策として失敗していることになる。
「まあでも、素行不良に気を付ける理由にはなるかな。そもそも出来て当然のことだしね」
「ですね。取り越し苦労ならそれで構わないのですから」
ひとまず
料理を食べ終えた俺たちは店を出て、寮への帰路に着く。
「ごめんね、本当にご馳走になっちゃって」
「いえ。貴方が得たのは勝利に対する正当な対価です。敗者への気遣いは侮辱にすら値しますからね」
本当のところ、女性に食事をご馳走になるというのは男としていかがなものかと最後まで抵抗があったのだが、そう言われるとこちらとしては身を引くしかない。
今日一日を通して分かったこと。坂柳有栖という人間は、どこまでも勝負に誠実で、勝利に貪欲なのだ。
「いつか高崎くんとは、本当の勝負がしたいです。その勝敗がお互いの命運を左右するような、そんな勝負が」
「……うん。それまでに俺もめいっぱい成長しておくよ。今度は平手でも勝ってみせるよ」
「それは楽しみです」
そんな会話を最後に、俺たちは寮の自室へと帰着した。
「さて、早めに手を打っとくか」
端末のチャットアプリを起動して、Dクラスのクラスメイトである平田にチャットを送る。
内容は先の素行不良改善策について。皆からしたら突拍子がなさ過ぎて急に言われても信じられないだろうが、クラス内で最も他からの信用を集める平田からの助言であれば、ある程度脳死で信じてくれる層もいるだろう。そうでなくともポイントが減らされる可能性に気付けば、多少の態度改善には繋がるはず。
「あとは何故が分かればスッキリするけどな……」
先程の議論の中の一番の疑問点。「なぜどの学年でもDクラスの支給額が低いのか」。この疑問を解決する説が、俺の中に一つだけあった。
Dクラスの支給額が低いのではなく、
ポイント支給額によってクラス自体が変わる可能性。恐らく坂柳さんも気付いていたのだろう。お互いに明言しなかったのは、今後クラス単位での蹴落とし合いが発生すると見込んでのこと。自分たちが不利になるような情報をわざわざ相手に渡す必要はない。
「いや、坂柳さんは俺が気付いてることに気付いてたんだろうな」
だから帰り際、「お互いの命運を左右するような」なんて、普通に過ごしていたら訪れないようなシチュエーションに言及した。
「まあ、全部机上の空論か。これで結局10万ポイントくれればそれに越したことはないだけどな~」
坂柳さんとの対局でもう脳みそがクタクタだ。これ以上考えるのはやめて、風呂に入ってさっさと寝よう。
頭の中でグダグダ考えても、結局は次のポイント支給日が全てなのだ。
その日は風呂に入った後何をする気力も起きず、ただただ泥のように眠った。
──そして、運命の五月一日がやってきた。
思考力(知力)の序列は、
想(集中状態)≧綾小路>(≧?)坂柳>想
ってイメージで書いてます。綾小路と想(集中状態)との差はほぼなくて、完全記憶で溜め込んだ知識の分だけ想が一歩上回るかどうかって感じです。