「なあそこのウマ娘、歩き方が変だぞ。ちゃんと治療してるか」
俺が彼女にそう声をかけたのは半分はカッコつけ、半分は心配からだった。
普通なら気づかない歩調の乱れだが、転生をきっかけにかはわからないが相手の状態がわかるチートをもらった俺には異常があるのは一目瞭然だった。
ほんのわずかな乱れだ。今は軽微な違和感がある程度だろうが、このまま症状が悪化すれば屈腱炎など重篤な怪我につながりかねない。そんなウマ娘が目の前を通るのを見て見逃せるほど俺は面倒くさがりでも冷徹でもなかった。
声をかけたウマ娘が振り返る。鹿毛で赤い目をしたウマ娘はきょとんとした表情で俺を見る。いきなりこんなふうに声をかけられたら不審者極まりないのは否定できないし、唐突なことに反応がすぐできないのは当然だろう。
その振り返ったウマ娘の顔を見て、相手があのアグネスタキオンであることに初めて気づいた。
アグネスタキオン。学園内で有名な問題児である。授業ボイコットをはじめとした奇矯な言動や謎の飲み物、食べ物を用いた怪しい実験活動で悪名高い彼女だ。ただ、成績は良く走るのは速い。
正直奇行をするウマ娘など珍しくはないこの学園において特に問題視されるほど目立つことをしているか? という疑問はあるのだが、一時期ドーピングの疑惑が出たため悪目立ちしてしまったのだろう。彼女の健康診断および所持品は全部検査され、ドーピングの痕跡はないと判断された今でもそのレッテルが彼女に付きまとっているのだろう。
「急に何のことだい?」
「左脚、痛みまではまだなさそうだが少しだけ違和感あるだろ。屈腱炎になるのはまだ先だろうが、ちゃんとケアしないと大変なことになるぞ」
「……」
彼女がアグネスタキオンだと気づいたからと言って、別に厭う理由にもならない。
新人とはいえトレーナーになった以上、アドバイスできる範囲にいる学生にはアドバイスするのが責務だろう。
屈腱炎は筋肉に負荷がかかることで炎症を起こし、そんな筋肉の炎症を繰り返すことで発症する競争能力に致命的なダメージを与える怪我だ。特に脚が速いウマ娘に発症しがちである。アグネスタキオンが速いことは噂で聞いているし、実物を見ると全体的に線が細い。余程丹念にケアしないといつかは発症してしまうだろうし、現にその兆候が出ている。
違和感を指摘して黙り込む時点で、本人も自覚しているのではなかろうかと思う。
「ケアと簡単に言うがね、具体的にどうしろっていうんだ」
「筋の炎症予防ならおすすめはアイシングだな」
「アイシング? 冷やすだけかい?」
「ウマ娘の筋肉の炎症は体温のせいで起きているという説がある。ウマ娘の走る速度は人間の倍、エネルギーにして考えれば単純に4倍だし、実際はそれ以上のエネルギーが使われているといわれている。それだけのエネルギー量を使用して走れば発熱は相当だろう? ウマ娘の体がタンパク質でできているのは人間と同じだし、タンパク質が42度で変質を始めるのも同じだ。で、全力で走ると体温が42度を超えてしまうことも珍しくないというのがこの前論文に載っていた。走ってる途中で冷やすのは限度があるが、走った後ならいくらでも冷やせるからこまめにアイシングがいいんじゃないかな」
一気にまくし立ててしまってから冷静になる。頭がいいとはいえまだ中等部のウマ娘に話すような内容ではない専門的な話であったと反省する。だが、タキオンは俺の話を理解したらしく、考えるように黙り込む。
「……血行が悪くなりそうだけど」
「冷やした方が血管が拡張して血行がよくなる。血行が悪くなると体は冷えるが、逆は真ならず、冷えたから血行が悪くなるわけではない。もちろん凍傷になるぐらい冷やしすぎるとだめだけど」
「……なるほど」
不機嫌そうに耳を絞りながら、しかし俺の言うことに賛同を示すタキオン。このやり取りだけでも頭の良い子だな、という印象を覚える。同じトレーナーならまだしも、まだ中等部の学生に理解できるようにまるで話せていないが、理解をしているようだ。
そして結構負けず嫌いなんだな、ということもだ。言い負かしたいわけではないが、実際言い負かしたみたいになってしまったせいかタキオンは明らかに不機嫌になった。
ここで拗ねてどこか行ってしまわないだけ、彼女は良識的だと思うが、素直とは間違っても言えないのは確かだ。まあトレセン学園のウマ娘はプライドが高い子が多いから、これくらい珍しいほどでもない。
少し考えたタキオンは口を開いた。
「じゃあ売店でコールドスプレーでも買ってくるかな」
「コールドスプレーはやめておけ。あれ冷たくなりすぎて凍傷になることあるし、表面しか冷えないからおすすめしない」
「……」
また耳を絞って明らかに不機嫌ですと言うアピールをしてくるタキオン。
とはいえウマ娘が間違った対応をするならば止めるのがトレーナーだ。あれはタオルに吹きかけて使うことで熱中症に対応するためのもので体を冷やすためのものではない。直接かけると凍傷になるという事故も珍しくなかった。とはいえタオルに使えば手軽に冷えタオルが作れるので、便利なのは確かだが。
「じゃあどうすればいいんだい?」
「基本的には氷嚢だね」
「……めんどくさい……」
面倒なのは確かだ。氷と水で氷嚢を作るのは多少手間がかかる。コールドスプレーなら売店で買って来ればいいだけだから手間がかからない。ただ、タキオンが普通と違うのはめんどくさいが、やってみようとしていることだろうか。普通の子なら面倒くさいで終わりである。このあたり、彼女は学究の徒なのだろう。
「担当トレーナーに頼めばそれくらい用意してくれるんじゃないか?」
アグネスという家柄と彼女の能力を考えれば当然担当トレーナーはすでにいるだろうと思ってそういったが、彼女は肩をすくめて首を横に振る。担当トレーナーがずぼらな奴なのかと思ったが……
「トレーナーと契約? そんな面倒なことしたくないねぇ」
彼女はそう言い切った。何のためにトレセン学園に来たんだろうと疑問に思う発言である一方、彼女なりのこだわりがあるのだろう。噂に聞くレベルでも優秀な彼女なら多少気性難でもスカウトがひっきりなしに来ていると思ったのだが…… 断っているのか、それともドーピング疑惑で遠巻きにされているのか。どちらかは新人で情報が少ない俺にはわからなかった。
「そうだ、いいことを考えた」
「いいこと?」
「キミ、トレーナーだろう? 私と契約して世話を焼いてくれよ」
「トレーナーは小間使いじゃないんだぞ。あと契約が面倒というのはどうしたんだ」
「まあ、キミならいいかなって」
何がいいのかまるで分らないし、手のひら返しが早すぎる。トレーナーと契約するのが面倒だというのはどこに行ったのか。
そもそも腕のいいトレーナーなんていくらでもいるだろうに。とはいえ、新人トレーナーに彼女ほど才能があるウマ娘と契約する機会が巡ってくるのはまずない。キャリアを考えても彼女の手を取った方がいいだろう。
「はぁ、まあいいだろう。そういえば自己紹介はまだだったな。小川哲。今年からトレーナーになったばかりの新人だ」
「アグネスタキオンだ。よろしく」
手を差し出すとタキオンは俺の手を握った。正式な手続きはまだあるが結構あっけなく決まるものである。
「ひとまず、キミが読んだというその論文、かしてくれよ」
「英語だが大丈夫か?」
「問題ないねぇ」
まだ中等部の彼女が英語の論文を読めるのか、少し疑問だったが問題ないようだ。まあ、こういった生理学的な研究をするなら英語とドイツ語ぐらいはできないと最新の論文を読むことも難しいし、勉強したのだろう。
「私は旧理科準備室にいるから、持ってきてくれたまえ」
「偉そうだな」
俺がため息をつくと、タキオンは何が楽しいのかわからないが愉快そうに笑った。
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