アグネスタキオンは考える。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。
とはいえ人の世を作ったものは三女神でもなければ鬼でもない。
向う三軒両隣に住むのもただの人である。
ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、引っ越す場所はあるまい。
あればそれは人でなしの国だ。
人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
で、流されてたどり着いた場所がトレセン学園である。
日本のウマ娘レースの最高学府といわれるここなら、多少は住みやすいかと思ったが全くそんなことはなかった。
いや、住みにくいことはどうでもいいのだ。それはどうしようもないと諦めている。学校というものが組織である以上、組織なりの型があり、それからはみ出るものにやさしくないのは当然だ。それがおかしいという方が傲慢だろう。
だが、アグネスタキオンには許せないものがいくつかあった。
一つはトレーナーのレベルの低さだった。
医者、弁護士に並ぶ日本の最難関資格に挙げられる中央のトレーナー免許を持つ彼らはさぞ優秀なのだろうと勝手に思っていたが、中等部の学生でしかないアグネスタキオンごときに言い負かされるトレーナーばかりだったのだ。
特に体質に不安があるアグネスタキオンは体調管理がうまいトレーナーを希望していたのだが、だれもかれも最新論文どころか一昔前の論文すら読んでおらず、前時代的な手法を推すトレーナーばかりだったのが失望が深かった。
彼らは今までどうしようもなかったウマ娘に後悔はないのだろうか。
彼らはこれから来るウマ娘の将来を一人でもよくしようと思わないのだろうか。
そんな苛立ちも含めて論破を続けていたら、いつの間にかスカウトも来なくなっていた。
あとはレッテル張りがひどいというのも腹が立つ。
アグネスタキオンは一度ドーピング疑惑を受けたことがある。それ自体はアグネスタキオンとしても異論があるわけではない。一時の能力増加を引き換えにすべてを捨てるドーピングなど、アグネスタキオンの美学に反するが、自分がトレセン学園という場所の型に嵌っていないことや、体質改善に様々なことをしていることを見れば疑問に思うものが出るのは否定できない。
だからおとなしく検査を受けたし、定期的な抜き打ち検査も拒否をしていない。学園側が勝手に調べて、その検査結果を共有してくれるのだからありがたいとすら思っている。
だが、一度たりとも疑わしい結果が出ていないにもかかわらず、学園中の生徒、そして教官やトレーナーたちもドーピングを疑っているのだ。
根拠なきひどいレッテル張りにアグネスタキオンの失望は深まった。
最後に放任主義が過ぎることだ。
学園の空き教室を使える学則に気づいたアグネスタキオンは、早速使用許可の申請をした。寮の部屋で実験をするとルームメイトに迷惑になる可能性もあるし、部屋があれば便利だろうと思ったのだ。とはいえ通らない可能性や、監視される可能性も考えていたのだが…… 利用の条件がクラスメイトのマンハッタンカフェと共同で利用する、というものだった。
クラスメイトの中ではまだ仲が良い方だとは言え、なぜ彼女が自分の監視役になるのか、まるで意味が解らなかった。
「私も喫茶スペースが欲しかったので……」
と彼女は言うが、彼女が積極的に監視役を引き受けたわけでもないだろう。陰気な外見と異なり優しく気がいい彼女ではあるが、基本的にアクティブではないし、自分のことを苦手に思っているだろう彼女がそういうことをするとはとても思えなかった。
おそらく教官やトレーナーが手を回して彼女を説得したのだろう。
管理が不安ならば度々確認しに来るのでもいいだろうに、その手間を惜しんで彼女に押し付けたのだ。放任主義というと良さそうに聞こえるが、単なる責任転嫁だった。
失望したアグネスタキオンは学園を辞めることも考えていた。
とはいえ、学園を辞めたからといってなにがあるのか。住みにくいからと言って人の世を捨てても行く場所は人でなしの国である。
そこが今より住みよいとも思えない。
そんな風にアグネスタキオンが悩んでいた時に彼に出会ったのは、柄にもないとは思うが、きっと運命であったとアグネスタキオンは思った。
「なあそこのウマ娘、歩き方が変だぞ。ちゃんと治療してるか」
ある日廊下を歩いていると唐突に声をかけられた。
振り向くとそこには男性トレーナーがいた。トレーナーバッヂがピカピカなのを見ると新人トレーナーらしい。多分出会ったのは初めてだ。そんな彼がなぜ自分の異常がわかるのか。
もしかしたら新手のナンパかスカウトかもしれない。そんな風に最初は思った。
「急に何のことだい?」
「左脚、痛みまではまだなさそうだが少しだけ違和感あるだろ。屈腱炎になるのはまだ先だろうが、ちゃんとケアしないと大変なことになるぞ」
「……」
ズバリ言われてアグネスタキオンは沈黙するしかできなかった。
昨日実験を兼ねた自主練で少し無理をし過ぎたせいか、朝、左脚にちょっとした違和感があったのは否定しない。だが、本当にわずかなものであり、今の今までアグネスタキオン自身も忘れていたものだ。
どうしてそれが、一目見ただけで彼にわかったのだろう。当てずっぽうだろうか。
アグネスタキオンは興味を抱いた。
ひとまずケアというが、具体的にどうするべきか、彼の意見を聞いてみようと思った。ケアするべき、というのは簡単だが、具体的にどうするか、というのは案外難しいものだ。
「ケアと簡単に言うがね、具体的にどうしろっていうんだ」
「筋の炎症予防ならおすすめはアイシングだな」
「アイシング? 冷やすだけかい?」
アイシング自体は古典的な手段だ。とはいえ通常怪我をしたときに、炎症と痛みの軽減を目的に行われるもので、予防で使うのはあまり聞かない。何を言っているんだ、という目で彼を見ると、彼は語り始めた。
「ウマ娘の筋肉の炎症は体温のせいで起きているという説がある。ウマ娘の走る速度は人間の倍、エネルギーにして考えれば単純に4倍だし、実際はそれ以上のエネルギーが使われているといわれている。それだけのエネルギー量を使用して走れば発熱は相当だろう? ウマ娘の体がタンパク質でできているのは人間と同じだし、タンパク質が42度で変質を始めるのも同じだ。で、全力で走ると体温が42度を超えてしまうことも珍しくないというのがこの前論文に載っていた。走ってる途中で冷やすのは限度があるが、走った後ならいくらでも冷やせるからこまめにアイシングがいいんじゃないかな」
体温と筋肉の炎症の関係というのはアグネスタキオンにとっても初めての知識だった。彼が話したことは学生のウマ娘、特に中等部の子には高度過ぎると思ったが、アグネスタキオンには理解できるレベルの話だった。
興味深い、とアグネスタキオンは思う一方、知らないことを知っている目の前のトレーナーに嫉妬心も沸いてくる。どうしても何かを言い返したくてしょうがない。負けず嫌いが頭をもたげていた。
「……血行が悪くなりそうだけど」
「冷やした方が血管が拡張して血行がよくなる。血行が悪くなると体は冷えるが、逆は真ならず、冷えたから血行が悪くなるわけではない。もちろん凍傷になるぐらい冷やしすぎるとだめだけど」
「……なるほど」
そして雑な指摘をしたらあっさり論破された。
雑な主張をして論破されると余計悔しい。誰だトレーナーなんてみんな前時代的な知識しかないといった奴は。私か。アグネスタキオンは落ち込んだ。
とはいえプライドで有用な知識を使わないのも問題だろう。アイシングを試してみることにしよう。
「じゃあ売店でコールドスプレーでも買ってくるかな」
「コールドスプレーはやめておけ。あれ冷たくなりすぎて凍傷になることあるし、表面しか冷えないからおすすめしない」
「……」
そうしたらまた目の前のトレーナーに言い負けた。いや、単なるアドバイスだろうが、すでにアグネスタキオンのプライドはボロボロだった。思わずにらみつけるが、トレーナーは飄々としている。歯牙にもかけられていないのがわかり、余計にプライドが傷ついた。
とはいえ、どうせだから方法論も確認してみようとアグネスタキオンは気を取り直す。
「じゃあどうすればいいんだい?」
「基本的には氷嚢だね」
「……めんどくさい……」
めんどくさい方法が提示された。氷嚢専用の容器に水と氷を入れる必要がある。水はまだしも氷を手に入れられる場所は限られているから手に入れるのが手間だし、あまり外に放置するとぬるくなってしまうから作るタイミングも重要だ。
トレーニング直後に冷やした方がいいことを考えると準備が非常に大変だった。
めんどくさい、でもやってみたい。そんな気持ちを察してかトレーナーが案を出す。
「担当トレーナーに頼めばそれくらい用意してくれるんじゃないか?」
「……トレーナーと契約? そんな面倒なことしたくないねぇ」
アグネスタキオンに担当トレーナーはいない。スカウトは片っ端から断ったし、彼女のお眼鏡にかなうトレーナーが今までいなかったからだ。
しかし、トレーナーがいればそういう準備もしてくれるのか。それはなかなか魅力的かもしれない。だが、バカに指導されるのは勘弁願いたい。何も干渉してこないのがベストだが、そうでなくても最低限自分が認められる知識を持ったトレーナーでないと我慢はできないだろう。
そう考えてふと目の前のトレーナーを見返す。
知り合ったばかりだが、現状彼なら認められなくもない。そう考えたアグネスタキオンの行動は早かった。
「そうだ、いいことを考えた」
「いいこと?」
「キミ、トレーナーだろう? 私と契約して世話を焼いてくれよ」
「トレーナーは小間使いじゃないんだぞ。あと契約が面倒というのはどうしたんだ」
「まあ、キミならいいかなって」
本音を言えば彼しかいないように思う。恐らく自分が認められるトレーナーというのはほとんどいないし。ただ、それを認めるのが恥ずかしく感じたアグネスタキオンはいいかなって、と軽く気持ちを伝えた。
これでも中等部の乙女なのである。
そんなアグネスタキオンの一瞬の葛藤など何も気にしないようで、トレーナーは手を差し伸べながら自己紹介をする。
「はぁ、まあいいだろう。そういえば自己紹介はまだだったな。小川哲。今年からトレーナーになったばかりの新人だ」
「アグネスタキオンだ。よろしく」
手を握り返すと案外大きな手で驚く。
なんにしろ正式な契約はまだだが、実質的に契約はできたと考えていいだろう。
ということで早速おねだりをすることにする。
「ひとまず、キミが読んだというその論文、かしてくれよ」
「英語だが大丈夫か?」
「問題ないねぇ」
英文ぐらいはタキオンにも読める。ドイツ語になるとちょっとまだ自信はないが…… まあ興味があるドイツ語の論文があれば目の前のトレーナーに頼めばいいだろう。そんなことを考えていると妙に気分が楽しくなってきた。
「私は旧理科準備室にいるから、持ってきてくれたまえ」
「偉そうだな」
彼がため息をつくのが妙におかしくて、タキオンは思わず笑ってしまった。
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