トレーナー君と出会ったからと言ってタキオンの生活は特に何も変わらなかった。
いや、変わらないはずであった。
契約をする約束をした後、トレーナー君から論文を受け取ったタキオンはそのまま読みふけった。
一通り読んでみたところトレーナーが話していたことについて直接記載があるものはなかったが、確かに複数の論文から説明ができそうであった。
じっくり読みこんでいるうちに夜も遅くなり、消灯時間が過ぎていることに気づいたタキオンはそのまま風呂も入らず適当にベッドに飛び込んだのだった。
そうして翌日、遅刻したりしながら昨日の論文を踏まえた実験をしようといつもの実験室に行くと、カフェ以外にも先客がいた。トレーナー君である。
そういえば契約の手続きもしないといけないな、と思い直したタキオンは二人に声をかけようとするが、二人はこちらに気づいた様子もなく談笑している。
それを見たとき、タキオンに焦りが生まれた。
トレーナーがいないのはカフェも一緒だ。雰囲気が陰気であまり目立たないタイプだから今までスカウトなども来ていないようだが、走りの才能はタキオンが認めるほどだし、性格も雰囲気に反して優しく頼りになる。
性格など少し話せばわかるだろうし、カフェの才能もトレーナー君なら見抜けるのではないか。そうしたら、タキオンがカフェに優れているところなどほとんどない。頭の回転の良さぐらいだが、トレーナーをするにはマイナスにしか働かないだろう。
カフェにトレーナー君を取られるかもしれない。せっかく一緒にやっていってもいいかもしれないと見つけたトレーナー君を。きっと彼以外にそんなことを思うことは無理だと思うのに。
「どうしてトレーナー君はカフェとお茶を飲んでいるんだい?」
そんな感情のせいで、こんな嫉妬丸出しの発言を思わずしてしまった。
言ってしまったと思ったが吐いた唾は呑み込めない。
「私が飲んでいるのはお茶ではなくコーヒーです」
「そういう意味じゃなくてだね!! トレーナー君は私の担当だろう!?」
カフェがこちらに振り向き、心底めんどくさそうな表情をして告げる。特に他意はなく、単純に心底めんどくさいのだろう。
トレーナー君はトレーナー君で特に感情を表さずに
「タキオンがどこにいるかわからなかったから。ここならそのうち来るだろうと思って」
等と宣った。
「私に会いたいなら連絡してくれればいいじゃないか!!」
「いや、タキオンの連絡先しらないし」
感情的に言ってしまったが、トレーナー君のツッコミで少し冷静になる。
そういえば昨日、連絡先の交換をした記憶がない。論文を受け取った後、そのまま熟読をし始めてしまい、トレーナー君と何か話をした記憶がなかった。もしかしたら生返事ぐらいはしたかもしれないが……
冷静になり少し気恥ずかしくなり始めたところに、しかしトレーナー君は燃料を投下した。
「あ、タキオンもコーヒー飲むか?」
「私は紅茶派なんだけどねえ!!」
コーヒーなんて苦いものを飲む気が知れないというのはタキオンの持論だ。
さらに言えばタキオンにとって、コーヒーというとカフェの象徴だった。やはりトレーナー君はカフェの方がいいのだろうか。そんな思いが復活するとまた声を荒げてしまう。
カフェの方を見ると、心底めんどくさい、といった表情のままだった。
「タキオンさん、うるさいです」
「カフェも私のトレーナーにちょっかいかけないでほしいんだがねぇ!!」
「はいはい、喧嘩しないの」
カフェの発言に感情を爆発させそうになりながら近づくタキオンに、トレーナー君が立ち上がって割り込む。
感情的に勢い余っていたタキオンはそのままトレーナー君の胸に飛び込んでしまい、腕は腰に回すことになってしまう。
がっしりした骨格。
硬い胸板。
野性味を感じる異性の匂い。
そういった異性的なものを全身で味わってしまったタキオンは混乱した。
親族以外の異性に接触したことなど、タキオンにとってはおそらく初めてであり、しかもこんな風に抱き着くなんて想像もしていなかった。
それにしてもトレーナー君の匂い、いい感じだな、そんなことを考えながら胸に顔をうずめていると……
「タキオン、情熱的すぎないか?」
「あ、ああああああ!!」
トレーナー君のツッコミで慌てて飛びのくタキオン。
初めての異性とはいえ、抱き着いて匂いを嗅ぐなどあまりにやったことがひどい。
トレーナー君にセクハラで訴えられるのではないかと恐怖を覚えたタキオンであったが、幸いトレーナー君は何も気にしていないようであった。
嫉妬やらそのあとのラッキースケベ的なイベントやらで頭がぐるぐるし始めたタキオンに、トレーナー君は特に気にする様子もなく提案をした。
「さて、タキオン。タキオンのための紅茶がないから、一緒に購買まで買いに行こう」
「え、あ、ああ、わかったよ」
条件反射的に応じてしまったタキオンは、そのままトレーナー君についていくしかできなかった。
購買で売っている紅茶は大したものはなかった。種類は多いが学生向けだからこそあまり高いものはない。
根がお嬢様でブランド物の紅茶しか飲んだ経験がないタキオンにはいまいちどれがいいかわからなかった。
「さて、タキオンはどんな紅茶が好き?」
「サバラガムワかキームンかな」
「ミルクティーが好み?」
とっさに普段飲んでいる産地を上げるタキオンに、トレーナー君は反応する。
普段はストレートティーに大量に砂糖を入れるスタイルだが、ミルクティーも嫌いではない。単に牛乳を用意するのが面倒なだけである。
サバラガムワはセイロンの低地地方、キームンは中国の紅茶であり、どちらもミルクティーに向いているといわれる種類だ。
パッとそれがわかるあたり、トレーナー君は紅茶にも詳しいらしい。
「ふむ、トレーナー君も紅茶は詳しいのかな?」
「紅茶派だからね。珈琲も飲めるけど」
それを聞いてタキオンは少し安心をした。カフェは紅茶が嫌いだ。タキオンがカフェに勝っているところが一つ増えた。
おいてある紅茶を見ると、キームンの紅茶を発見することはできた。だが安物っぽい感じもする。ここで紅茶を買うつもりはタキオンにはあまり起きなかった。
「じゃあトレーナー君はどんなのが好きなんだい?」
「ウバのミルクティーかスパイス淹れてチャイにするかかな」
「じゃあそれにしよう」
どうせならトレーナー君にいつも通り入れてもらおう。
チャイ自体は知っているが、スパイスを入れる紅茶はあまり経験がない。
150gで300円しかしないリプトンの安い紅茶とどっこいどっこいなウバ茶の葉っぱを手に取る。
「いいのか?」
「トレーナー君の好みのを淹れてくれよ。あ、砂糖は多めでお願いするよ」
「まあ構わないが…… スパイスは大丈夫?」
「辛くなければ大丈夫だよ」
甘くて辛い紅茶、というのがそもそもイメージできないし、タキオンはあまり辛いのが好きではない。なので辛い紅茶だけは勘弁してほしいと答える。
「スパイスも必要だし、トレーナー室でいいかな」
「そうだねぇ。よく考えたらトレーナー君の部屋に入ったことないからちょうどいいかもしれないねぇ」
「ついでに契約書にサインもしてほしいし」
そんなやり取りをして、タキオンはトレーナー室へと足を運ぶことになるのだった。
トレーナー室にあったソファに座り、置いてあったぬいぐるみを何となく抱きしめる。細長いクジラのぬいぐるみで、抱き枕にちょうど良さそうな大きさと形である。
抱きしめるとさっきトレーナー君の胸で嗅いだものと同じようなにおいがする。トレーナー君はこれを抱きしめたりするのだろうか。男らしい外見なのにこういう可愛い系のものが好きなのはちょっと意外であった。
何となくぬいぐるみの匂いを嗅ぎながらトレーナー君が立つキッチンの方へと移動する。
「ずいぶん乱暴な淹れ方だね」
片手鍋に水と紅茶を入れて火にかける。ポットを使わない、ゴールデンルールに正面から喧嘩を売るようなかなり乱暴な淹れ方だ。
だが、トレーナー君は動じた様子はない。
「煮出す方法だからね。香りが飛んじゃうという人もいるけどチャイ自体、安い茶葉を使う方法だし、スパイスで香りが加わるからあまり問題ないんだよ」
「ふーん。で、そっちのが使うスパイスかい?」
コンロの横にはカラフルな瓶が置いておある。スパイスなのだろうが、名前から内容を理解することはタキオンには難しかった。
「こっちがカルダモンでこっちがクローブ。後はナツメグとクミンとコリアンダー、あとはショウガだね」
名前を言われてもピンとこないモノも多い。漢方薬として見ればもう少しタキオンにも理解できたのかもしれないが、食材として見るとタキオンにはさっぱりだった。
というか、スパイスを入れていると思われる棚には、倍以上の瓶が置いてある。
これらのスパイスが選ばれた理由について、タキオンは少し気になった。
「使っていないスパイスもあるみたいだけど、スパイスの選択は何か意味があるのかい?」
「スパイスは漢方薬でもあるから、胃腸に良いのを今回は選んでみたんだ」
「胃腸? トレーナー君は胃腸が弱いのかい?」
「いや、全然」
スパイスと漢方薬は基本的には一緒だ。だからスパイスにも効能があるのはタキオンも知っているが、胃腸に良いものを選んだ理由がタキオンには気になった。
「じゃあなんで胃腸に良いスパイスを?」
「タキオンが胃腸があまり強くないかなと思って」
「ふぅん、つまり私用のブレンドということかな?」
「そういうことだね。味はまあ…… 飲んでみて気に入らなかったら改良するから教えてね」
自分専用という言葉を聞いて、タキオンの調子は上がった。
トレーナー君が、自分のために考えたブレンドである。そう聞いただけでうれしくなってしまい尻尾がぶんぶん振られる。トレーナー君に気づかれなかったのが幸いである。
そんなスパイスを結構ドバドバとトレーナー君は鍋に入れていく。
大量のスパイスを煮込むものだから、匂いが部屋に充満する。
「なんというか、カレーの匂いだね」
「ここから紅茶抜いて唐辛子入れればカレーだよ」
「トレーナー君は料理もするのかい?」
「食べるのは体調管理の基本だからね。ある程度はできるよ」
「ふぅん」
トレーナー君のカレーか。ちょっと食べてみたい気がしてきた。
別にトレセン学園の食事に文句はないが、食堂は騒がしいし、使える時間も決まっているので、タキオンはあまり利用せずミキサーで作った特別栄養食を食べることも少なくない。
それも別段まずくはないのだが、時には人間的な食べ物を食べたくなった。
トレーナー君から渡されたチャイを片手にソファに戻る。一口飲むと、スパイスの複雑な香りとミルクのまろやかさ、それに負けないウバ茶の苦み、そしてはちみつの甘さが口の中で踊る。複雑な味わいで、タキオンは一気に気に入ってしまった。
まったりとした時間が流れる。
こんなおいしいものを作れるトレーナー君のカレーはさぞおいしいのだろう。
そう思うとタキオンは我慢できなくなってきた。
「そうだトレーナー君。夕飯はカレーがいいな」
「なんで夕飯の話に急になったんだよ」
「トレーナー君が作ってくれよ」
タキオンも無茶ぶりだとはわかっている。トレーナーが食事の献立を決めるというのはよく聞くが、料理してくれるなんて言うのは聞いたことがない。というかウマ娘の食事量から考えて、料理まで担当していたらトレーナー君の仕事をする時間が足りなくなってしまう。だからこそトレセン学園には料理の専門スタッフがいるのだ。
だから断られることを前提とした戯言だったのだが。
「ええ…… タキオンどれくらい食べるんだ?」
どうやら作ってくれるつもりになったらしい。ずいぶんお人好しである。
「普通のウマ娘よりは食べない方だよ」
「はぁ、まあ仕方ない。門限までには帰れよ」
そんなやりとりのあと、トレーナー君の言うとおりに書類を作っていたら夕方になってしまった。
カレー作りに関してはさすがにトレーナー室ではできないということでトレーナー君の寮の部屋に移動することになる。
それを聞いてタキオンは緊張した。
トレーナー君は危機意識がなさすぎではないか。ウマ娘という異性と二人きりである。しかも相手は出会って二日の、しかもあまり評判のよくないアグネスタキオンである。貞操の危機とかは感じないのだろうか。それとも自分が考えすぎなのだろうか。
タキオンが悶々と悩む中、トレーナー君の部屋に通されるタキオン。広さは学生寮とそう変わらず、キッチンなどがついているのを考えるとそう広くはない。
椅子も何もないため、タキオンはトレーナー君のベッドに座った。
なんだか疲れた気がして、ベッドにうつぶせに倒れこむとトレーナー君の匂いがした。
タキオンは考える。
これはやっぱり誘われているのだろうか。
それともトレーナー君は特に何も考えていないだけだろうか。
それにしても無防備過ぎないだろうか。人間はウマ娘に勝てないというのに。
実態はトレーナー君が何も考えていないだけであり、タキオンが思春期特有の妄想をこじらせているだけでしかない。
トレーナー君は転生者で前世男性が強かった世界の常識を引きずっているため、ウマ娘という強い生き物と二人きりになるということに対しての危機感がまるで不足していた。もともとウマ娘と交流するような生活をしておらず、また、ウマ娘が見た目だけならか弱い女性に見えるからというのもあるだろう。
そしてタキオンの方も何もできるわけがない。薄っぺらい少女漫画の知識ぐらいしかないうえにコミュ力が死んでいるタキオンでは、口説く話術も無理やり何かする度胸もない。
タキオンがベッドで悶々としている間にカレーは完成した。
ウマ娘の規定量より多く作られたカレーだが、欲望のはけ口としてタキオンがむさぼった結果、ほぼすべてがタキオンの腹の中に納まり、トレーナー君はひもじい思いをすることになり、そしてその後タキオンはあっけなく追い出されたので一人とぼとぼと寮へと戻ることになるのであった。
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そこそこ前から動いているディスコード鯖です。
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次に何を書くかとか悩んでいるのでディスコ鯖でアドバイスください。