今日もまた、少女は蹴っ飛ばされた。乱暴に。容赦なく。
背中から叩きつけられた木製の壁の一部が、欠け落ちるほどの衝撃だった。
赤は綺麗、といつだって思う。朝焼けも夕焼けも、こんな
『こんなガキ残して、
男が口汚い言葉を吐いた。酒気を発散させながら。
少女にとって――
シルエットは舌打ちするや、少女に雑巾を叩きつけた。
『綺麗にしとけよ!』
少女は腹の内から込み上げてくるものを感じた。去りゆくシルエットを睨みつつ、それがなんであるのかは、まだわからないまま、命令通り床から血を拭き取った。
古井戸から水を汲み上げて、バケツに水を溜めた。血で赤くなった雑巾を洗う前に、もったいなさそうにつぶやいた。
『こんなに綺麗なのに……』
渋々、きちんと洗い流し、日の当たる場所に干すと、少女は気持ちを切り替える。軽快な足取りで、ワクワクしながら、そこに向かった。
今にも倒壊しそうなボロ小屋。そこが少女の遊び場だった。幸い、大人は寄り付かない。床を踏み抜きかねないからだろう。
小屋の二階は、たくさんの本が散乱している。両脇の空の本棚から、落ちたものなのは想像に容易い。
ここを最初に訪れた際、少女は退屈だった。本を物色しても、ろくに読めやしないからだ。状態からして、売っても金銭にはならないのは、なんとなくわかる。
見切りをつけて帰ろうとしたとき――一冊の本が少女の目に留まった。手に取り、ページを捲ってみると、ほかの本よりも書いてあることがてんで読めやしない。
にもかかわらず、少女には理解できた。不思議なことに。まるで本のほうから、語りかけてくるように感じられた。そこに書き綴られたもの――魔術の
少女はそれから、ずっとそこに通いつづけた。
来る日も来る日も。
だが、あるとき、シルエットでしかない男に阻まれた。心を踊らせていたというのに。我慢していればじきに終わる、と少女はされるがままでいた。抵抗すれば、長引くから、いつもそうしていた。
しかし、その日の暴力はいつもと違った。
容赦がないのはいつものことだが、違うのは男から感じるほかの要因だ。男の声は怒気に満ちている。
本能的に悟り、書物の一文と繋がった。
身体中が痛かった。痛いのは嫌だ。それでも、綺麗なものが見れることを期待して、いつも我慢してきた。
そう、いつもより、今日は綺麗な赤で……。
額から流れる血が、少女の片目と顎先を濡らした。
嗚呼、綺麗。唇に付着した血を舌で舐めとった。
『味は、あまり美味しくないんだ』
血にまみれて起き上がった少女に、男は尻ごみしたように一歩下がった。彼女は笑っていた。
『あんたにも、痛みを教えてあげる』
男が取り乱して踵を返したところに、魔術は組み立てられた。
ボッ、と男の身体が燃え上がった。言葉にならぬ喚き声を上げている。
それ以上に、少女は無邪気な笑い声を響かせていた。
深紅の炎に包まれて、のたうち回る影に、少女は魅入った。
『すごく、綺麗……』
恍惚とつぶやき、この光景を目に焼きつけた。
怒るのは楽しいことだと知った。痛みはこのためにあるのだと学んだ。
赤く。
紅く。
こんなにも素敵な色を、この目にするためには必要不可欠なことなのだと。
燃え果てた家の前に佇む少女の耳に、近隣住民のざわめきが聞こえた。次第に増大する声に少女は、一緒くたに紅くしてしまおうと思った。
そんな矢先、訪れたローブを纏った初老の男が、少女の前に現れた。感嘆と畏怖を綯い交ぜにして言った。
『申し子か』
「ジジイか」
フォティアは夢の残影に呼びかけた。目覚めていても、まだ
あんたはもう、斬り伏せたじゃんか。そのときのことを想起し、目を開いて薄ら笑った。
「意外と綺麗な
フォティアはベッドから起きた。全身を
今は
フォティアは斧槍を振るった。巧みに軽やかに、演武の最中につぶやく。
「もう、いない奴らのことなんてどうでもいい」
フォティアは唇を吊り上げた。演武の締めの一振りで、アズランドの幻影を薙ぎ払う。
きっとあんたも、綺麗な赤を見せてくれるよ。
昼下がりであるというのに、
プエッラ・ソーラは独り、瓦礫の山のてっぺんに腰掛け、両足をぶらぶら揺らしていた。幼い子供がよくするみたいに。
事実、彼女の容姿はまだ幼い。しかしだれも、実年齢を知らなかった。
互いに存在を認めず、自己さえ無に浸す。絶対的な孤独者であるほどに、神から力が
しかし、プエッラは知っていた。
その定められた教義が、半分は嘘で、半分は本当であることを。
「ねぇ、そうでしょう?」
不意に透き通るような声で空を仰いだ。変わらず、両目を布で隠している。けれども、プエッラには見えていた。
光のない場所で、膝を抱えている少女の姿が。
「貴女は大樹に宿る神のなかでただ一人、隔離されてきたもの」
悲しそうに囁くと、唇に微笑を浮かべて言った。
「あなたは優しい。ほかの神様よりも。私はそう思っているってこと――それだけは覚えていて。もうあまり、時間は……」
親しげに語りかけるプエッラが、ふっと口を閉ざした。
「だれと話しているのだ?」
声を耳にして、レグナシオンだとわかった。プエッラはありのままを述べた。
「友達とです」
「友、か」
レグナシオンは目を細めた。プエッラの真意を疑うのではなく、その言葉そのものに思うところがあったというふうに。
瓦礫の上から、プエッラはひょいと飛び降りた。相手の顔を見上げて言った。
「終焉を選ぶ権利は、だれしも持っているものなのです」
「我らの行動がそれだと?」
レグナシオンは今度こそ意味がわかりかねた様子で問う。
「あなたが心に思い描く人たちの」プエッラは頭を振り告げた。
「今さら踏みとどまれぬよ」
レグナシオンはきっぱりと言ってのけた。どこか諦念が滲んだ表情で。
「あなたにも福音があればよいですね」
「福音じゃと? ……おまえには、なにか聞こえておるのか?」
プエッラは淀みなく答えた。
「私には聞こえません。見えるだけです」
「なにが見えていると?」
プエッラは首を動かした。偶然そこに大樹があったという感じに。
「……果てに見えるのは、目覚めです」
「いったい――」
プエッラの口元が困惑を示した。うまく説明できるとも思えなかった。わかってもらえるとも。自身の影に
「我らは満たされないことに、満たされるだけ――」
影に沈み、消えていった。
「まったく、魔導士という
レグナシオンは呆れ顔で肩をすくめた。苦笑して、憎々しげにつぶやいた。
「見透かしてくれおる」
「フォティアとプエッラの次は、僕ですか?」
イクトスは背後から歩み寄るレグナシオンを振り返り、おどけた面持ちで迎えた。
「見ておったのか」
「まるで枕元に現れる
「似たようなものだな」
レグナシオンは苦笑してつづけた。
「十年も前に王都から消えた幽霊が、こうして
イクトスは糸のように細めた目を、猫目に戻して伝えた。
「特にはなにも。お互い、明日の夜明けまでは平穏でしょう」
さらに、人差し指を立てると、思い出したように付け加える。
「
別段、レグナシオンは顔色を変えることはなく、頷いただけだった。
「奴は本気だったからな」
イクトスはそれを皮肉と受け取ろうとしたが、彼はそういう性格でない――少なくともそう認識している。べつの意を感じたが、それについては触れないことにした。
と、不意に頬に冷たい感触が生じた。イクトスは空を見上げて、どんよりと暗い雨雲がいつの間にか広がっている。案の定、猛烈な勢いで雨が降り注ぎはじめる。
「これは本降りですね。ご老体には優しくないでしょう」
皮肉めいた口ぶりで、イクトスは愛嬌たっぷりの猫目でレグナシオンに視線を送った。
「雨に打たれる趣味はないな」
不敵に笑い返し、レグナシオンは背を向けた。歩き出しながら、こう言った。
「おまえも、ほどほどにしておくのだな」
「わかっていますよ」
言うなり、イクトスはスッと真顔になった。その目が、雨水の流れゆく傾斜を注視する。
雨に打たれずぶ濡れになりながら、しばし物思いに耽るような顔でいた。やがて、ボソッと言った。
「“水は低きに流れ、人は
声色には憂いが帯びていた。
「それが
イクトスの口をついて出た。濁流を眺めつづける表情はしたり顔でいて、悲観的でもある。
不意にゾワッと肩が震えた。出し抜けに耳元に息を吹きかけられたように。
「わかっていますよ。あなたたちの存続に関わるということは重々承知のうえです」
ますます、なんともいえない複雑な面持ちで、イクトスはなにものかに応じた。
「だから僕は、どちらをも――」
遥か先の虹の大樹を見遣った。