雨が降り始めたことで、アズランドはより急ぎ足で〈
サロース
アレはたしかに強烈だった……。
妙な声のようなものを聞いた気がするが、それについて助言は得られなかった。
目覚めてみれば、サロース塔長は昏睡状態。塔内は騒然となっていた。事情を話せば、余計な混乱を招く予感がして、アズランドは半ば強引にはぐらかして塔を出た。
そして、急にリザのことが気になって仕方なかった。サロース塔長との決闘の際にも、強く誓った――リザを脅かす者を野放しになどできない。
その人物の詳細が記された書類を今、アズランドは眺めていた。〈
「アリアン・フランベージュ。年齢は二十七。十年に及び、リーズィヒット・クノッヘンに錬金術を師事する。奴が失踪後、宮廷魔導士の座に収まる、か」
アズランドは奥歯を噛みしめると、資料を睨んだ。そこにはアリアンの写真が貼りつけられている。
「師弟ともども、ろくでもないな……!」
吐き捨てたところで、〈蝕天秤〉の入り口が目前にあった。
ロビーを横切る際、立ち話をするロウェルとエリーゼが視界に入り、ちらと目を動かす。二人とも顔色は良さそうだった。アズランドはホッとした。だが、なにより、今はリザの顔を見たかった。
リザの部屋に行くため、階段を上りかけたところへ、
「リザなら部屋にいないわよ?」
意図を察したエリーゼが声をかけた。瞬間、アズランドはなぜか肝が冷える想いがした。振り返り、率直に訊いた。
「リザは今どこに? 一目見て、安心したいんだ」
エリーゼにしては、口ごもった様子で目を逸らした。再び目を合わせたときには、迷いを跳ね除けたようで、きっぱり告げた。
「心配しないで。信頼できる人に匿ってもらったわ」
「なんだって! そんな勝手に……!」
アズランドは我を忘れて、エリーゼに詰め寄る。
「あなたがいないあいだのことだけど。あの子、一人でどこかに行こうとしていたのよ。おぼつかない足取りで、“行かなきゃ”って何度も繰り返して――まるでなにかに呼ばれているみたいに」
「ア、アズさん」ロウェルが横合いから呼んだ。
アズランドは肩を怒らせるのを止めて、頭を振った。ばつがわるそうに、謝罪する。
「……すまない。冷静に考えれば、お姫様の処置が正しいのはわかるんだが」
「いいのよ。あなたのいないときに、ごめんなさいね」
アズランドは苦笑して、彼女のことを
善悪の天秤に揺られてなお、よく気丈でいられるものだと思う。
アズランドはロウェルに視線を移した。自分もまた、彼の夢の片棒を担ぐ者なのだろう。たしかかつて、理想と称したはずだ。それは決して叶わないものとも。
可能な限り、そうであろうとすることはできるとも。
ロウェルのその理想の夢に名をつけるなら、
「ロウェル。キミが師匠を止めれば、この馬鹿げたいざこざも終わるんじゃないかい?」
「どうやってかはわかんないッスけど、おっさんと話してみようと思ってたところッス」
頭をガシガシ掻きながらロウェル。アズランドは喉の奥で笑った。実にロウェルらしい返答だったからだ。
「会えば話せるさ。そんなに難しいことじゃない」
「どうしてよ?」エリーゼが小首を傾げた。
「王様は王宮に引きこもって対話に応じないだろう? なら、俺たちにもチャンスはある」
「でも、俺たちだけで、おっさんのとこまで辿り着けるか怪しくないッスか?」
考え込むロウェルに、アズランドは笑みを消して真剣な面構えになる。噛んで含めるようでありながら、決意を帯びた語調になった。
「開戦に乗じてなら、目立つことはないよ。あとは、双方の被害が酷くなる前に、決着をつけるだけだ」
雨も止んだ十五時を過ぎた頃。
一瞬即発の状態。この数日のあいだ、だれも迂闊に近寄ろうとはしなかった。
しかし今、この均衡を乱す者がいた。
「私たちに敵意はありません! まずは私の話を聞いてくださいっ!」
両陣営が配置した鉄のゴーレムの中間ほどまで進み出て、訴えかける。女性の声だ。
リーベ・ルチェ・エイルの
「南側のみなさんのなかにも、治療が必要な方がいらっしゃるはずです。どうか、私たちに癒させてくださいませんか?」
背後に控える修道服姿の男女が、固唾を呑んだ。彼女に付き従う信徒たちだ。
軽薄な笑い声が、南側のほうから湧いた。
「そうやって
「放っておいたくせに、今さらなんだよ!」
ミスルトウは一度、目を伏せた。けれども、毅然と声を張り上げる。
「遅くなってしまったのは、申し訳ありません。ですが、私たちも手一杯だったのです。それはわかってくださいっ!」
若者が悪態とともに、手のひらで弄んでいた小石をミスルトウに向かって放った。小石はミスルトウの耳のあたりにぶつかり、彼女の口から短く悲鳴のようなものがこぼれた。
ギリギリ認識の範囲外だったのか、鉄のゴーレムは動かなかった。動いたのは、彼女の背後で肩をすくませていた信徒たちで、「ミスルトウ様⁉」大慌てで彼女の傍に集った。
信徒たちは怒気を目に込め、ケラケラ笑う南側の若者たちを睨んだ。幾人かが、たまらず前に出ようとしたが、
「およしなさい。今はまだ、これ以上は前に出てはなりません」
ミスルトウが厳しく制止した。そのあとで、微笑で一同を見回す。
「いいのです。私は平気ですから。……ありがとう」
南側の若者たちはまだ、挑発的行動をつづける様子だった。南側から、初老の老人――レグナシオンがミスルトウに歩み寄るのを目の当たりにするまでは。
「この場でよければ、申し出を受け入れよう。時間は日暮れまで。そのあいだは、兵もゴーレムも後退させる」
レグナシオンがミスルトウと対面して言った。ミスルトウは微笑を崩さず、頭を下げる。
「感謝いたします」
「……負傷兵の扱いは?」
「構いません。等しく癒します」
レグナシオンは仏頂面になった。
「王の許可は得ておるのか?」
「前王様の時代から、我々には
朗々とミスルトウが答えると、レグナシオンは彼女の右耳の血に目を留め、渋い顔で肩をすくめた。
「まったく、魔導士はよくわからぬよ。明日にはまた、口火が切られるというのに」
踵を返しながら、言い添える。
「だが、礼を言うのはこちらのほうだ。すまぬ」
ミスルトウはその背を見送った。例え戦火がまだつづくとしても、今できる最善を尽くすことが使命と信ずることはできる。教えに従い、彼女は動いた。
夕暮れ時の王都はいつもと変わらないように、フォティアには感じられた。退屈だった。それも、再びこの太陽が昇るまでの辛抱――また大暴れできるのなら、我慢できる。
本番は明日。もっと面白くなるに決まっている――一戦交えたアズランドを思い出し、フォティアの胸は高鳴って仕方なかった。
不意に、瓦礫のうえで佇むプエッラを視界の端に見つけた。フォティアはほとんど一足飛びで瓦礫の近くまで跳んだ。次いで、瓦礫を崩さないように注意して、てっぺんのプエッラの隣に移動した。
「よっ。あんた本当にいつも独りでいるよね」
気さくな挨拶に、プエッラはこくりと頷いて、チョコレートを齧るだけだった。出会って以降、相変わらず無愛想な印象は拭えない。しかし、不思議と不快にならない魅力がこの少女にはあった。
「それ、一口だけ分けてくんない?」
フォティアがプエッラの手にあるチョコレートを指差すと、パキッと鳴った。一欠けらぶんを
「あんがと」
フォティアはさっそく、口に入れた。途端に、フォティアは
「うわっ。にっが~! よく、こんなのいつも食べていられるね」
「そう? 美味しいけど」
プエッラはか細い声で、疑問を唱える。フォティアはクスッとした。可笑しくて笑ったが、苦みが強くて苦笑じみたものになった。
「変わってるね、本当」
そんな二人のやり取りを、イクトスは遠目に見物していた。こちらは呆れ顔で笑っていた。笑わずにはいられないというふうに。
「そもそもボクたちが相互理解できるはずもなし、か」
やれやれと肩をすくめる仕草を大袈裟にしてみせる。
「……そのように、なっているんでしょう? カ・ミ・サ・マ」
個性的な猫目を見開き、天を仰いだ。
「明日、僕は真にこの国の王になるんだ」
玉座に背中を預けながら、ケートネスは息巻いた。日も暮れて、華々しい装飾が施されたシャンデリアの明かりのもとで。
反乱分子どもを根こそぎ叩き潰せば、だれも僕に意を唱えるものはない。威厳も誇りもなかった父とは違う。これは僕の手腕によるものだ。
「そうすれば、エリーゼだって――」
僕に従うようになるだろう、と胸中で確信を込めて言い添える。
「人形たちは?」
「万事万端、抜かりはございません」
傍に控えるだれによりも頼りになる臣下、アリアンは即答してくれた。
そうだ。僕は万全――万全たる王なんだ……!