ᛒ≪ベルカナ≫
雨が降ってきたのだと、ロウェルは思った。冷たい小粒の水が、何度も顔に降りかかる。このまま寝ていたら、風邪をひきそうだな、と考え――風邪なんてひいたことあったっけ? と疑問が浮かんだ。
疑問が疑問を呼んだ。いつの間に寝てたんだ? と。原因に思い至り、ロウェルはハッとなって目覚めた。
そして、唖然となった。顔をくしゃっとさせて、ぽろぽろと涙を流すエリーゼが傍にいたからだ。ロウェルが目を覚ましたことで、涙はいっそう零れ出した。
「エリーゼ?」ロウェルが呆気にとられて呼んだ。
「……良かった」
嗚咽混じりに、エリーゼはそれだけをどうにか言葉にした。それ以降は、涙を抑えようと必死になった。
こんなエリーゼを、ロウェルは初めて見たような気がした。いや、ずいぶん昔に、見たような覚えもある。
「安心してください。命に別状はありませんから」
ミスルトウがエリーゼの肩を撫で、優しく告げた。ロウェルとエリーゼの両方にだろう。
たしかに、疲れてはいる。死にそうな感覚は微塵もなかった。そして左腕の感覚もまた、なかった。
ちら、と目を動かす。胴着の左腕から先はひらひら風に揺れていた。
「大丈夫だって。俺は生きてる」
ロウェルはエリーゼを安心させるように、笑った。強がってもいた。言葉の裏でアズランドとリザの犠牲をひしと感じてしまう。
「そうだ。アイツは――」
ロウェルは周囲を見渡した。沈みゆく太陽が、沈黙したザド・キルエ本体をわずかに煌めかせている。分離体も同様、倒れたままだ。
「こぞって、動かなくなってしばらくだ。もう、動かぬだろう」
レグナシオンがロウェルの背後からやって来た。
「おっさん!」歓喜の声をロウェルは発した。
「お前のおかげだ」
がしがしと、レグナシオンはロウェルの頭を撫でる――というよりは、かき回した。子供時代を思い出し、ロウェルはしゃいだ。
「さすがはおまえの弟子だな」
オネストが腕組みして、同意を示した。感心が顔に表れている。
薬を水と一緒に飲み込んだサロース
「さて、これからどうするかだが」
サロース
「ザド・キルエは――僕は……」
大きな声がした。機械的な――しかし、それに聞き覚えがある三人が顔をがばっと上げた。エリーゼとオネスト、そして、ミスルトウが。
ロウェルも釣られるようにそちらを見遣った。
活動を停止していたザド・キルエ本体の胸部の風穴から、うっすらだが、青い光が漏れている。
ロウェルは完全に
「今の声……もしかして、ケートネスなの?」
愕然となって、エリーゼは言った。
「エ、リーゼ。そこにいるのかい?」
ザド・キルエ本体の
「どうし、て。エリーゼ、キミはいつも――いつだって。いつだって。いつだって」
機械的要素が薄れて、ケートネスの地声に近くなるにつれ、胸部の穴から漏れる光が強まった。
「どうしてなんだ!」
切実な叫び声とともに、ザド・キルエ本体が鈍い音を立てて動いた。その右腕をロウェルたちに向けると、容赦なく発砲した。
同時に二つの声が響いた。目を疑う二つの光景を見た。
「跡形もなく消え去るがいいっ!
「阻《はば》め、魔障壁《ヘルツ・エオルフ》」
神々しい槍が空の彼方から、流れ星さながらに飛来し――ザド・キルエ本体の風穴に突き刺さった。硝子の割れるような、ある種心許ない音色とともに、青き光は消失する。
もうひとつは、赤黒い魔力の壁がロウェルたちの眼前でせり上がり、飛んできた魔力の塊が衝突して爆ぜても、なにごともなく防ぎきったことだ。
「なんと堅牢な魔障壁……いったいだれが」
サロース塔長が、珍しく目を丸くしていた。
「私だ」
短く声。ロウェルとエリーゼが互いに顔を見合わせ、一緒に振り返り驚愕を露わした。
「おまえは……! えと、なんとか卿⁉」
「リーズィヒット・クノッヘン――どうして、あなたが……」
両手を突き出した格好のクノッヘンに、みなが目を見張っていた。
警戒の眼差しで、エリーゼが質問した。
「あなた本当に、不死なの……?」
「等しかったが、おまえたちが台無しにしてくれた」
両手を下ろし、クノッヘンはエリーゼたちを見回す。「揃い踏みだな」と皮肉気味につぶやき、空を仰いだ。高らかに告げる。
「
「戦乙女?」ロウェルの頭上に大きな疑問符が浮かんだ。
間もなくして、だれかが舞い降りてくるのがわかった。それも空高くから。着地の間際に翼を動かしふわり、と大地に立った。
端正な顔立ちをしている。長い金髪が映える美女だ。美麗な鎧を身に纏い、女騎士といった風情を漂わせている。ただ、その目つきは高飛車そのもので、
「聡明なる戦乙女エル・シグルーンよ。条件は満たしたはずだ。盟約を果たしてもらいたい」
クノッヘンが言い改めた。こちらはこちらで、取るに足らないものを見るような目をしているのは、相変わらずである。
戦乙女――エル・シグルーンはフン、と鼻を鳴らした。クノッヘンへと手をかざす。たちまち、小さな光が無数に生まれ――収束していった。人型に寄り集まり、そして人となった。
リザによく似た女の子の姿に驚き、思わずロウェルは口を開いた。
「リザ!? 生きてたのか?」
「いえ、よく似てるけれど……リザより少し幼いわ。ひょっとして、あの子がクノッヘンの? それになんだか、クノッヘンも前より……」
エリーゼが注意深く様子を窺う。たしかに、クノッヘンは血色が良く、以前と違い生気を感じられた。
「嗚呼……ライラ!」
「お兄様っ」
クノッヘンは感動に打ち震え、堪り兼ねた様子で女の子を抱擁した。くすぐったそうに、女の子――ライラも無邪気に笑う。
エル・シグルーンは、つまらなそうに視線を外し、今度は両手を広げて何事か囁いた。
するとパッ、と薄衣を着た男女どちらとも判然としない幼児たちが現れた。背には小さな翼を生やしていることから、彼らは天使なのだろうか。
「取りかかれ」
エル・シグルーンの言下、天使たちは散らばり、四体に分かれたザド・キルエたちのもとに向かい、両手から光を浴びせ始める。
それがなんの処置なのか、ロウェルは気がかりではあったが、
「ほかに
クノッヘンが抱き合ったまま、エル・シグルーンに進言した。
「わかっている。貴様に言われずとも、そのつもりでいた」
エル・シグルーンはクノッヘンを一瞥し、両手を広げた。先ほどと同様、小さな光が溢れ、人型になってゆく。やがて、それはアズランドとなった。
ロウェルとエリーゼは驚嘆に、微動だにできない。本当はあらん限りの声で叫びたかった。
アズランドは茫然と自身の身体を眺めていた。捧げ持つように両手を上げ、握ったり解いたりなどしている。苦々しい顔になった。
「命を弄ぶのが神の所業、か」
それから、隣に同じように蘇ったリザを見詰めて、彼女の頬に右手を伸ばした。苦笑してぼやく。
「でも、まあ……リザとまだ一緒でいられるのなら、そんなに悪い話じゃないか」
「アタシも。まだアズと一緒にいられて、とっても嬉しいっ」
アズランドの触れた手に赤らめた頬を寄せ、リザは微笑する。その右手から女の声がした。カトレアの声だ。
「ちょっと! 私のこと忘れていないかしら?」
「ああ、ごめん。カトレア。さっきはありがとう」
アズランドはふっと目を細めた。途端にリザはふくれっ面をみせる。
「私としても、嬉しいわ。あっ、でもグローブは外してくださる? でないと、声しか聞こえないんですもの」
「覗かれるのは趣味じゃないし、なるべく外さないでおこうかな」
リザの冷たい視線を受けながら、冗談交じりにアズランドは言った。
「酷いですわっ」
談笑するアズランドに、エル・シグルーンは念を押すように割って入った。
「アズランド・アイディール。おまえがその娘のぶんまで貢献するのであれば、共にいることをこの私が認めよう。そうでなければ、わかっているな?」
「わかっているさ。十分過ぎるほどに。あなたの譲歩――気遣いのぶんまで、頑張るさ」
エル・シグルーンと視線を交え、アズランドは力強く言ってのけた。
「ア、アタシも戦うからっ。もう、あの力は使えないけど……」
リザがアズランドに訴えかける。彼女の胸にはもう、
「あの、取り込み中のところ悪いんだけど」
「説明してもらえないかしら?」
置いてけぼりを食っていたロウェルとエリーゼが、ようやく口を挟めた。レグナシオンや他の面々は、黙って耳を傾けることにしたようだ。
「ああ、ごめん。といって、俺より適任者がいるか」
アズランドは応じてから、クノッヘンとエル・シグルーンへ視線を往復させる。
じゃあ、さっそくという具合にロウェルは訊いた。
「えと、アズさんたちもそうだけど。まず、アンタだ。なんで生きてんの? やっぱ不死ってやつなのか? なんだっけ、えと、なんとか術」
「死霊術」ボソッとアズランドがフォローする。
「私の不死性は死霊術によるものなどではない」
突っぱねるようにクノッヘンは述べた。一緒にするな、という遺憾を表しつづける。
「研究に専念する長き時を得るため――そして、妖精がどういった存在なのか真に知るための実験だった」
「いったい、なにをしたんだ?」
「容易いことだ。本来、妖精となりこの世界に再現したときには、神々の手により自我は眠り記憶だけを持つ。ならば、私の手でそれを行えばいい」
「事もなげに言うもんだ」
アズランドが苦い笑みを浮かべる。その度胸を褒めつつ、呆れてもいるようだ。
「確証はなかった。だが、確信はあった。命に意思は紐づいている、と。結果として、実験は成功した。私は自身の魂を――自我と記憶を有したまま妖精化し、再びもとの肉体に宿った」
「そんな芸当、アンタ以外やろうとしないし、できやしないだろうな」
アズランドが今度は肩をすくめた。ロウェルとしては、理解しようと必死でいる。なんとか置いていかれないように努める。
「肉体としては生きているとは言い難く、魔力によって動かしていたがな。しかし、魔力を供給する手段など、いくらでもあった」
「それがいったいどうして、あのとき――あんな化け物じみた姿になったんだよ?」
ロウェルがここぞとばかりに訊いた。それがいちばん、印象に残り、気になっていた。なんど杭打ち機を打ち込んでも、もとに戻るさまが。
「人の身にこだわる必要がないだろう。あれも実験の結果だが、存外悪くない力だ」
「怖いものなしだな。失敗を恐れず、実行に移せるなんて」
アズランドの口ぶりは、もはや正気を疑うようなものになっている。
「失敗したのなら、べつの手を考えればいいだけのことだ。だから私は、妖精のまま神樹の入口をくぐり抜け、取引に向かったわけだ。その過程で、多少の
「取引ですって?」エリーゼが首を傾げた。
「戦乙女は常に戦力を欲している。本来、我々は、妖精として多大な魔力を吸い上げられるだけの存在だが――戦乙女のお眼鏡にかなえば、永遠の戦士として迎え入れられる」
そこまで言うと、クノッヘンはエル・シグルーンを見た。
「ここから先は、本人に語っていただこう」
エル・シグルーンは、作業にあたる天使たちをたしかめた。まあ、いいだろうというふうに、口を開く。
「十に及ぶ
「柱神?」
ロウェルとエリーゼが疑問の声を合わせた。
「おまえたちにわかりやすく言い表すなら、柱神とは天と地を創造することになった神々――その亡骸のことだ」
「亡骸、か。この世界の神話にも
アズランドが思案顔になる。そして、不明な点に言及した。
「そもそも、魔とはなんなんだ?」
「貴様らがこれから戦いつづける相手だ」
エル・シグルーンが不遜な笑みで言って返す。
「世界を穿つ空間――
「生きた人間がやがて妖精と化し、あなたたちに魔力を供給する――そういう仕組みなのは、おおよそ見当がつく」
「そうだ。各世界の神々が、おまえたちに魔術として力を貸すのも、深淵を通り抜けた脆弱な魔――おまえたちが魔物と呼称するものどもを、感情や意思を育てながら駆逐するには、ちょうどよかったからだ」
「感情や意思を育てながら?」
アズランドが聞き捨てならないものを耳にした、というふうに眉を寄せる。ロウェルもエリーゼも、不穏な気配に穏やかな顔ではなかった。
「あの
クノッヘンは笑った。つまらない手品の種明かしでもするような顔で。
「一つ。妖精化した際の魔力が増大することだ」
人差し指を立てる。ロウェルを一瞥した。
「二つ。神が力を貸し、魔術が発動するつど、神樹が吸い上げる妖精たちから、該当する記憶を燃焼させるに一役買っていることだ」
中指を立てる。エリーゼへちらと目を動かす。
「都合よくできてやがんな」
ロウェルが正直な憤りの感想を述べた。エリーゼも似たようなことを言う。
「人々をなんだと思っているの」
エル・シグルーンは二人に、侮蔑的な視線を向け、
「“その者の人生に於いて絶対的な感情が強い魔力となる”のだ。妖精たちの色に差異があるのもそのためだ。同じ歓喜であろうと憤怒であろうと、その度合いは違ってくるがな。それらが問題ない状態まで薄まった頃合いで、我々は魔力源として回収している」
さらに言葉を継ぎ足そうとしたところを、クノッヘンが偶然か牽制した。
「処理が難解ゆえ、神樹に宿ることが許されなかった神もいたな。ニヒト・ヌル・ヘルは、各地でそれを抱え込む役割を背負わされた。それゆえに、他の神の魔術よりも抜きんでていたが」
涼しげなクノッヘンの目と、憎たらしげなエル・シグルーンの目が合う。
舌戦が展開されるかに思えたところだった。
天使たちが事に当たっていた処置が完了したらしい。四体のザド・キルエが、全身から光を放ち消えていった。本体を貫いていた神槍が重々しく落下して、地面に突き刺さる。
「あれが動き出した諸悪の根源は、貴様が妖精を乱獲し、浪費したことにある。盟約を交わした際、貴様は私に謝罪したこと、そして――重大な失態を帳消しにするだけの働きをすると誓った。それを肝に銘じておけ」
エル・シグルーンは、時が来たと判断して、これだけは忘れるな、と言う感じに喋った。クノッヘンはそれに
「時間だ。行くぞ」
ひとりでに手の内にもどってきた神槍をエル・シグルーンは手に取り、一振りした。
キラリと光が生じ、日も落ちた夜空をゆっくりと昇ってゆく。まるで光の柱だ。
クノッヘンとライラは手を繋ぐと、光のなかに足を踏み入れる。緩やかに身体が浮き上がり、上昇し始めた。キャッキャッとはしゃぐライラの声を、ロウェルは聞いた。
「さて、どうやら、そろそろお別れしなくちゃいけないらしい」
アズランドがばつが悪そうにロウェルとエリーゼに向き直る。リザがしょんぼり顔でエリーゼのもとへ駆け寄り、抱き着いた。
「今までありがとう、エリーゼ。アタシ、絶対に忘れないよ」
「ええ、私もよ。どんな世界なのかまるでわからないけど、あっちでも、アズランドと仲良くするのよ」
エリーゼは抱き返しながら、リザの背中をトントンと軽く叩いた。
「ロウェルのことも!」ロウェルへとリザは視線を変えた。
「おう、俺も忘れないって!」
元気いっぱいにロウェルは笑ってみせた。そして、歩み寄るアズランドに対しても。
「こんなかたちで、なんて思ってもいなかったし、まだ実感も薄いんだが……」
爽やかな笑みに困惑を混ぜてアズランド。迷いを払拭するように、頭を振ると、左手を差し出してきた。
「キミたちの夢の行方を見届けられないのは残念でならない。今回の一件、被害も甚大のはずだ。けど、キミたちなら、できるはずだ。平和な世づくりを」
「可能な限り、ッスね? わかってますよ。やってみせますとも」
握手を交わしながら、ロウェルは宣言するみたいに言った。
「エリーゼも、ご達者で。これから本当に大変だとは思う。……だからこそ、キミの気持ちに正直になってもいいんじゃないかな? はからずも、事実上の婚約者は消えたんだから」
エリーゼを横目にして、アズランドは隙を突くように言った。
「……言われなくたって、そうするわよ」
わざとらしく、エリーゼが敵対的な笑みをつくった。――そうするって、それってつまり? ドキッとなるロウェルだが、二人に口を挟めないでいた。
「あなたこそ、リザを不幸にさせたら、承知しないから」
「あり得ないな、それは」
アズランドは真面目くさって即答した。
「おい、貴様ら! なにをまだ呑気に話しているっ。早くしろ」
と、エル・シグルーンの
「それじゃあ、名残り惜しいけれど」
「また、いつか会えるといいね」
アズランドとリザは踵を返して、光の柱に並んで入って行った。
静かに天に昇る二人。
ロウェルは彼らを見上げ、声を必死に放ちつづけた。自分でもなにを言っているのか、わからなくなるほど脈絡のないことを。
感謝や不満だったこと、実は言えないでいた秘密やらを。
二人の姿が遠ざかり、完全に見えなくなるまで――