ホテルのスウィートというのは、実に人を見下すのに丁度良い場所だ……と、そのように気づいたのはずいぶん後の話だ。なぜなら、正確には僕はホテルのスウィートルームなんぞに泊まったことはない。そんな高級ホテルの予約を取ったこともない。ところが、事実僕のいるのはホテルのスウィートルームなのであった。
豪華なシャンデリアなんかが、しかし厳かに、まるで自分は清楚極まりありませんわ……なんて言う金持ちの令嬢のようだ(僕の世界においてそんなわけがないというのは理解してもらえるだろう)。引かれた絨毯は実に手触りがよさそうで艶やかだ。照明は、中身は確認していないが、ランプ調だ。中世に出てきそうな、正確にはそういうのを演出したような部屋であった。実在しないものを披露しようとするマジシャンの部屋であり、空っぽのものに高い金をかけようとするブランド志向の資本主義の化身たる詐欺師の居る間だ。つまりは、なんだ。僕はこの部屋を結構気に入ったのである。落ち着いていてうすら寒く、嘘くさい高級さが実に好みであった。
しかし僕は部屋を出た。そういうことになっていたのである。別に出たかったわけではない。扉を開けた先は暗い、鉄色の、寒い部屋だった。エレベーターだ。すぐに嫌な気持ちになった。
このエレベーターに乗りたくはない。乗れば嫌なことが起きる。僕はすぐにそれを自覚した。スウィートルームなんてものが大したことがなく、それに泊まれる僕も同様に特筆すべきところなしと気づき始めたのはそのころだ。だってそうだろう。そんな不快キワマリナイエレベーターに乗らなければ、下の階には下りられない。
そう下りられないのだ。乗らなければいけないのだ。鉄の空間に入って、スイッチを押した。するとすぐに嫌なことが起こった。
強烈な浮遊感……僕は部屋の隅で怯えるように縮んでいた。そうする意味はなく、しかしそうすることしか耐えられない。階層を示すデジタル表示が、するするとその身を変えていく。強烈な落下、G……キモチワルイ、キモチワルイ……。どうしてこんなに、このエレベーターは急ぐのだろう。スウィートルームが五百階なんて場所にあるから急がなくてはいけないのだろうか。それにしたって、こんな嫌な乗り物にしなくったっていいだろうに……。
初めに5、0、0を刻んでいた表示は、ゆっくりと左側の表示が変わり、真ん中は川のせせらぎのように、右側は目も当てられない速度で変わっていくのだ。僕はエレベーターのワイヤーがちぎれやしないか、不安で不安で、もっとゆっくり行ってくれと思った。そしてこの地獄が早く終わってくれと思い願い、いっそもっと速くいってくれと思った。
ふと不快感がやんだ。デジタル表示は1、0、0、を刻んでいた。僕はしばらくぶりに嬉しくなって、しかしその向こう側に一瞬不安感を感じた。ともかく、まあ、降りる必要はあった。扉があいたのでいそいそと僕は降りた。降りる頃にはエレベーターは木製になっていて、ずいぶん縮んでいた。速すぎるのがいけないのだ。
向こう側は行ってみれば楽園だった。そこではざわざわとした人々がいたのだ。大勢の紳士たち、淑女たち。明るく、人の香りと気配のする場所だ。広いホールは二階分を使っているようで、細い階段がいくつも一階に伸びている。金色に輝くばかりで、人々は談笑しながらワインを傾けている。そして階段にまで、人はいるのである。
考えてみれば人がいる、というのは途轍もなく恵まれたことなのである。その中で孤独を感じるだとか、嫌な奴がいるだとか、些細なことなのだ。話し合える人がいる、一人ではないというのがこれほど喜ばしいことか……。陳腐な表現であるが、例えばゾンビ映画の世界だ。孤独、というものの真の恐ろしさを知るのはそんな場合だろう。僕はワインが実に飲みたくなった。そしてそばの恰幅の良い紳士と話がしてみたく、そしてその人生をほどき明かしてみたくなった。
話しかけるか否かのところだったが、一階部分の扉が開いたらしい。らしい、というのは、それらしい音だけが聞こえたということだ。或いは悲鳴の方が先だったかもしれない。ともかくは悲鳴、扉の音、だ。起こったのは。
キャアアアアアッ!!という文章を書いてみれば、どれほどその悲惨さが薄れ切っているかというものが分かる。こんなカタカナをいくつか組み合わせただけで、あの地獄を形容しようはない。人生の終わる儚さと悲しさ、純然たる恐怖を表すことなどできはしない。
はじめ僕はそれを知らなかった。何が起こっているのか知らなかった。当然だ。人の波で見えやしないのだから。しかし悲鳴は聞こえた。何か恐ろしい。あんなエレベーターなんぞよりも酷いものがある。そんな予感がした。すぐに起こった、分かった。
階段の下から鉄色の香りがする。強烈に香ってくる、血の香り。そこにいたのは巨大なものだった。さっきまで紳士淑女だったものが蹴散らされている。……死んだのだろうか? 知らない、シラナイ……シリヨウモナイ……。「巨大な顔面」が迫ってきていた。
というのも仕方がないのだ。巨大な顔面としか言い表せない。女であった、深い恐怖を感じた。それだけが刻まれている。逃げるさ、それは勿論。死にたくない生き物はみなそうする。
死に物狂いで紳士の背中を押し、悲鳴を上げて「走れない!!」と絶叫する女を蹴飛ばして階段に逃げ込んだ。(走れないなら死ぬしかない状況だというのに彼女たちは何で走らなかったのだろう?)
ところが、ところがである。急いで逃げたいというのに、階段がその身をのたうつのである。それに振り回されて幾つかの客が吹き飛ばされていった。ああ、なんでこの階段はこんなに自己中心的なのだろう。こんな時に踊りたくなるなんてまるっきりばかげている。それはそう、どうしても踊りたい時などあるだろう。しかし何も、こんな命のかかった場面でなくともいいはずだ。そんな風にへりにしがみつきながら考えていた。
一階に降りれたが、そこは死屍累々であった。そこはまあすぐに許容できた。問題はどこに逃げるかであった。あの巨大な顔面の──僕の言葉ではそれほどの恐怖を与えられないのが残念で仕方ない──恐るべき恐怖の象徴がすぐに迫ってきていた。
逃げ場は一つしかないというのは勿論理解してもらえるだろう。一階から逃げる場所はそこしかない。あの殺人エレベーターだ。巨大な顔面から追いかけられながら、遅れる足を必死に動かして木製の箱の中に逃げ込んだ。エレベーターだ。エレベーターの格子に阻まれたその顔がじっとこちらを見ていた……気がする。何せ表情が分からないのだから、どこ向いてるのだかもわからないのだ。
不快感。高速で落ちるその感覚……。キモチワルイ、キモチワルイ……。どうか読者諸君にもこの気持ち悪さを体感してほしいので、事細かに細分化して話そう。胃の内側がひっくり出されるような、頭頂部をぐーっと下に押し付けられるような気持ちの悪さ……恐怖とともに床に縮こまってその気味悪さに耐えていたのだ。想像してほしい。どうか。
まず不快な頭頂部の下がりだ。ぐーっと……。
飽きてきたのでもういいだろう。エレベーターはもう到着したのだから。外に出ると、そこは当然に非常階段だった。鉄色の、嫌な香りの階段だった。狭く、細い電灯が二個だ。実に暗い、暗い灯りが充満してるのだ。なぜ、このような建築家はこのような非常階段を作るのだろう。彼らはいい建築をするのが仕事であって、決してこんな薄気味悪い空間を創造する演出家ではないはずだ。
上に登らなければならないのは壁を見ればわかった。B5、地下五階。地上に行くには階段を上らなければならない。薄明るい階段を上ってみると今度は絶望した。四階の階段が、ボロボロなのだ。腐ったように汚れているのはいい。埃だって僕にとってはどうでもいい。問題は足の踏み場が、そんな潔癖症の人が言うような意味ではなく、足場がないのです。
ちょっとしたクレバスが大口を開けて、その中に薄気味悪いB5階を映している。恐ろしい、恐ろしい。だってそうでしょう。落ちれば痛いだけでは済まされない。五階に戻ってしまうのだ。そうするとまた四階に来なければならないってことで、無限にここで落ち続けるしかない。恐ろしい、オソロシイ……なんとヒドイ階段なのだろう。
ともかくはジャンプである。不安に駆られながらの跳躍であるが、どうにか僕は向こう側にしがみついていた。必死によじ登りながら僕は難所を何とか乗り切った。三階に進む、だが。
今度は泣きたくなった。足の踏み場がほとんどない階段だ。ちろりと出た鋼材を出したくらいで階段が右半分にチョットあるくらいで、あとは根元から何もない。上れない……上れない……。とてもではないが上れない……。しかし上らなければならない時というのはあるのだ。
ジャンプとともに伸ばした、どうにかしがみついた右手。だが握力には限りがある。僕の握力は最後に中学生のころだかに計測した26kgだ。リンゴをつぶすには70kg、僕の体重は50kg、コンクリートを握りつぶす心配はないが、体重は支えきれない。というかこうして耐えることになんの意味があるのだろう。ここから、挽回の方法などないというのに。ずるりと手が離れた。いやもっと爪が割れるようにパキャリと離れたのだろうか、多分そんな感じだ。
階段を踏み外して落ちていくのは、どこまでも、どこまでも。鉄色の底に僕はいた。そこは、鉄に囲まれた空間であった。白い柱だけが真ん中にあり、周囲には開くこともない危険色の扉がある。
上を見上げても、鉄の先からは暗闇だけだ。何も映らない。落ちてきた階段すら見えない。
しばらく僕はそこにいた。そこに居続けた。しばらくが過ぎた。しばらくが永遠になるかと見まごうほどの時も過ぎた。何もない、何も起こらない。
怪物が来ることもない。誰もいない。孤独な階段の底。鉄色の香りだけがそこには漂う。あの怪物さえ心のどこかで懇願し始めた。ああ、寂しいなあ……孤独だなァ……。と呟くことに意味はない。聞く者はいない。僕の意識すらどこかに飛んで行ってしまったら聞く者もいない。
アぁ、誰か僕を……救ってくれ。それがだめなら……。
殺してくれ。ころしてくれ。コロシテクレ。
……………。
* * * * * * *
びっしょりとした汗……というほどでもない。嫌な気分とともに目を覚ました。そこはフワフワとしたいつものベッドの上であるようであった。ごくりと唾を鳴らして、そこで勇気をもってあたりを見わました。そこはいくつかの読みかけの本が転がっている、平凡な日本家屋。そこがホテルのスウィートルームではなかったことに、僕は心の底から安堵した。
喉から染み込む、透き通るような水道水がいやに美味かった。夢オチ。だ。