松風号を駆り、馳せること数刻。堺にて指定された武具を買い求めた慶次郎は、安祥城に急行し布で包んだ筒状の武具を抱えたまま、城の鍛治工房を借用し籠もった。
オーダー通りに武具を改造せねばならないが、その前に構造と機能を漏れなく仔細に把握せねばならない。武具を解体しパーツの配置と数を記録し、果たさねばならない任務の為、仕様に合わせ精度と射程を高める改造案を練る。そうして改造案を幾つか立て、一つに絞った後に新たな部品や弾丸を規定。完成させる為に工具や設備から新調する必要性を認めるが、慶次郎の膂力でなら人力で行えるものは後回しにし、作らねばならぬものを先行して作製する。
工期を試算。
事は急を要する上に極秘だ。工房の外で小汚い格好に扮して待っていた藤吉郎に、必要な物資と完成までに要する月日、完成後の性能を予測した旨を記した文を渡し半兵衛の許へ向かわせる。この文に目を通した後、半兵衛は火で燃やし記録を隠滅。「希望していたもの以上です」と軍師は驚嘆していた。
慶次郎が手掛けたのは、織田家の秘中の秘となる秘密兵器。慶次郎の肉体に宿った桓武式大忍のメイン機能は、超抜的な演算力から来る状況対応力にあって、肉体の自己改造が本懐である。こうした武具の作製技能は副産物に過ぎないものの、生身の馬を用いた松風号の独自作製からも解る通り、本来の仕様の一つではあった。初期化していても基本機能は喪失していない、ゆえにこそこうした武具の改造や作製は得意中の得意なのだ。
慶次郎が手掛ける武装は明らかにオーパーツである。しかも今回は慶次郎にしか扱えぬ代物という訳ではない。やり過ぎなまでに突き詰められた性能の兵器が、他国の手に渡れば途方もない脅威となるだろう。織田家だけで専有し独占する為には製造数を絞り、信長の代で破壊し証拠隠滅せねばなるまい。
(――妖術か)
作業を行いながら想うのは、半兵衛の登用に伴い発覚した異能の力。
人ならぬモノを討つことを想定していながら、人ならぬモノの振るう異能は頭になかった。
(鬼に逢うては鬼を斬り、仏に逢うては仏を斬る。その為に武を磨いてきたはいいが、鬼や神仏の用いる異能を失念していたとは不覚。我が武は十全に任を果たせる域にあると断定していたが、
桓武式大忍の影響で、人ならざるモノが人を害した際にこれを討つのを使命としていたが、本人の生来具わる気質のせいだろう――慶次郎は見たこともない人外に対する意識が低かった。
猛省せねばなるまい。肉体の成長に合わせ性能を拡張していく方針に変更はないが、さらなる性能向上を策定し直そう。松風号という
そのように企図しながらも作業は進む。やがて慶次郎は織田家秘中の兵装を完成させた。
――天文十八年(西暦1550年)、慶次郎利益、勇躍の年。
史書に記されし其の年は、歴史的な記録を幾つも残した。
慶次郎利益の萱津合戦に於ける活躍に始まり、美濃で謀反を起こした斎藤道三の嫡男、斎藤義龍を討つための援軍として推参した武勲が特に著名だろう。
美濃の蝮こと斎藤道三が自らの嫡子に謀反を起こされた要因は複数あって、斎藤義龍の掲げた大義名分は客観的に見ても非の打ち所がなかった。義龍は斯くの如くに父を糾弾したのだ。
「美濃の役人達や将兵を尾張に差し向けて、織田の御家乗っ取りを企てたのはいい! 戦国乱世の倣いである、弱きは淘汰されて当然だ。だが企てを潰されたからとて、派遣した者達を織田家に引き抜かれたのを良しとした弱腰は到底看過できぬ! これでは人身売買そのものであり、織田家に人身御供を捧げたに等しい所業で盟を保っては、我らは尾張の風下に立つと宣言したも同然! 儂は斯様に堕落し織田の下僕に成り下がった者が大名を騙るのをよしとせぬ。道三討つべし! 美濃の民を尾張から奪還すべし!」
義龍がブチ上げた演説は、美濃の有力な国人衆や家臣団に支持され、反対に道三の求心力は地に落ちることとなる。こうして決起した義龍だが、謀反を起こした動機は他にあった。
道三は往年の判断力を喪失しており、義龍の弟達を偏愛して嫡子である義龍の廃嫡を考え始めていたのが露見したのだ。このままでは自身は放逐され、挙げ句の果てに堕落した道三は美濃を織田に捧げてしまいかねない。そう危惧したから義龍は謀反を決意したという説が有力だ。
義龍は道三が溺愛していた自身の弟達を殺害した上で挙兵した。後々に後継者争いの火種になるのが明白だからだが――この行いが美濃斎藤氏の命脈を断つことになってしまう。
道三は嫡子の謀反で窮地に立たされた。彼はその国盗りの経緯もあって味方する者が殆どおらず、義龍軍一万七千に対し二千五百の寡兵で対抗することになった。信長はこの報せを受けるや、濃姫返還に伴い対等な形での盟友となった道三へ援軍の派兵を決断する。
援軍の大将は慶次郎利益――与力として付けられた者はおらず、代わりに別働隊として池田恒興があてられていた。恒興は信長の乳兄弟であり、信長が吉法師だった時分から仕え、散々に悪さをしては共に平手のジイサンに叱られて育った身である。謂わば『織田信長』にとって最も信頼できる腹心の一人であり、此度の派兵では慶次郎の補佐を任されていたという。
しかし慶次郎は別働隊の恒興に使者を送り、このままでは間に合わぬゆえ単騎で先行すると伝え、兵達の指揮権も譲渡し独断専行した。恒興はこの報せを受け再三制止し、時には抜け駆けだと咎める形で蛮行を諌める文を送ったが、遂に慶次郎が戦場に到着するまで使者が追いつくことはなく、彼だけは道三軍と義龍軍の激突する戦場に間に合った。
両軍は長良川河畔にて激突し(長良川合戦)、慶次郎が推参した頃には道三軍は潰走していた。大軍を擁する義龍軍の苛烈な追撃に晒され、道三はあわや首を取られる寸前だったのだ。だが慶次郎は高所より戦況を見るなり、なんとか追いついてきた使者を一瞥すると言ったという。
「見よ。謀反人斎藤義龍めの軍は、勝ち戦に浮かれ道三殿の追撃に全霊を投じておる。義龍めはここで厄介な蝮を逃し、我が殿に保護され後の禍根となるのを防ぎたいのであろう。ゆえに義龍の軍は隊列が間延びし、本陣の周りは空白が目立つ――まさに好機なり! 貴殿は池田殿にお伝えせよ。我、これより敵本陣に討ち入り謀反人の首級を頂戴致すとな」
この勇姿は一文を以て残される。
『慶次郎は敵陣へ単騎突撃し、斎藤義龍を討ち取った』と。名にしおう皆朱槍を扱いて勇躍した慶次郎の単騎駆けを、奇襲同然に受けてしまった義龍に成す術はなかったのだ。
道三は自らの嫡男を無能と評し、されどこの戦で子の才が己を超えていることを悟って大いに後悔したという――もし義龍がここで生き残れば、信長の覇道を妨げる宿敵になったかもしれない。だがその未来は永遠に閉ざされた。最期の瞬間、咄嗟に刀を抜いて応戦し慶次郎の槍を一度は防いだものの、衝撃で腕が圧し折れた義龍は素っ首を刎ね飛ばされたのだ。
史に記される文にすれば容易かったように見えるだろう。しかし慶次郎の所業は、手薄だったとはいえ敵本陣に一人で挑み、あまつさえ敵大将を取り巻きごと討ち取る破格のものである。慶次郎の鬼神も避くる武勇を目にした敵兵は恐れをなし、大将の首を取り戻そうと奮起するもののふ魂を発揮しなかった。
しかし総崩れとなった義龍軍本陣だが、追撃に逸り先駆けていた先陣は本隊の混乱に気づかず、功を求めて逃げる道三軍の背を斬り続けていた。果たして道三は敵兵の手に掛かり戦死――斯くして美濃斎藤氏は、まだ元服もしていない義龍の息子しか残らなかった。
これぞ天佑。
慶次郎は池田恒興率いる別働隊――自身の兵も加わり膨れ上がっていた部隊に合流するや恒興に申し伝えたという。速やかに軍を進め、義龍の子を確保すべし。さすれば織田の美濃支配に王手を掛けることが能うと。それを聞いた恒興は奮起して、美濃各地に斎藤義龍が戦死した旨を喧伝。道三も戦死したが、彼が美濃を信長に譲ると一筆認めていたと虚報を触れ回った。
そうして美濃が混乱している隙に、慶次郎は義龍の子である龍興がいた城を襲撃し、見事に彼を捕縛して鮮やかに撤収していった。斯くして織田による美濃攻略の足掛かりが出来上がり、後は仕上げをするだけといった段階まで一挙に推し進められたのである。
一方で、慶次郎が手元を離れた時期に信長の下へ報せが来ていた。
西三河を支配する織田家の牙城、安祥城へ今川軍二万が侵攻してきたというのだ。
この報せを受けた信長は、佐久間信盛を大将にした軍を派遣する。
信盛は幼少から信長につけられた重臣であり、先の家督相続に纏わる政情や戦を通しても一貫して信長に与し、斯様な経緯もあってか織田家筆頭家老として家中を纏める立場にあった。
佐久間半羽介信盛を大将に起用し、今川軍二万を率いる太原雪斎に対するものとしたことで、信長が如何に本気で対抗しようとしていたかが解るだろう。
現に信長は以下のように激励し、鬼気迫る面貌で吼えたと現在にも伝わる。
「織田が安祥城を失陥したなら今川の勢いはいや増し、駿河、三河、遠江を領し天下に号令することの能う力を手にするであろう。差し迫る脅威は津波のそれに膨張し、今川の門前へ馬を繋ぐことに相成るやもしれぬ。半羽介、織田の興亡はこの一戦に掛かっておると心得よ。励め」
信長の号令の下、織田軍は出せるだけの力を絞り尽くした態勢で今川の侵略に対抗した。
しかし今川軍大将、太原雪斎の前に織田軍は各所で善戦するも殆どの合戦で敗戦を繰り返し、一度は信盛も決戦を挑んだが散々に打ち破られてしまう。
だが連戦し連勝する太原雪斎の快進撃は、信盛の挑んだ決戦に勝利した時を境にぴたりと止まる。安祥城まで後一歩という段階まで迫った雪斎が、陣立て中に突如として絶命したのだ。
当時、武田や北条にも重く見られ、最も優れた軍師として語られていた太原雪斎の死には多くの謎が付き纏う。雪斎の死によって戦況を盛り返し、今川軍を撃退した織田側での史書に雪斎を討ち果たした功を語る記録はなく、今川側の史料にもただ一文が記されているだけであった。
「我が師の無念、濯がずにおれぬ。おのれ信長、必ず貴様の首を師の墓前に献じてくれよう」
雪斎の死を知った今川義元が激怒し、信長に復讐を誓ったというのだ。
稀代の名軍師の死に纏わる謎は深いが、織田軍による暗殺であるというのが定説である。でなければ義元が怒り狂い、信長に復讐せんとするのに筋が通らない。
ではどうやって暗殺したのか。真偽は定かでないものの、一つ面白い論説が存在する。
当時の堺に織田家の者が来訪して、一丁の火縄銃を買い求めた記録が、堺の側に見つかったのをこじつけて、雪斎は火縄銃による狙撃で死亡したというのだ。それが真相なら面白いが、火縄銃の射撃精度と射程距離を考慮に入れると不可能だと断じられる。何せ雪斎が死した地は安祥城目前の平野――暗殺の下手人が身を隠せる物はなく、火縄銃による暗殺とは考えられないだろう。
真相は闇の中だ。
しかし結果として雪斎を失ったことで、西三河を脅かしていた今川は勢いを失くし、度重なる敗戦の鬱憤を晴らそうと反撃に出た織田軍を前に、今川軍は撤退を余儀なくされた。
今川は太原雪斎の死による混乱を鎮めようと奔走し、雪斎が水面下で推し進めていた『甲相駿三国同盟』の構想が立ち消えにならぬよう、今川義元が師に代わって働きかけるのに手間を掛けられている内に、織田は西三河への影響力を堅持したまま美濃攻略に取り掛かった。
義元が態勢を立て直すまでの猶予で、どれだけ信長が力をつけるか。両家による決戦、桶狭間合戦の勝敗はそこに左右されたと言っても過言ではない。
織田信長の名が天下に轟く合戦は、安祥城を巡る一連の戦いから二年もの時を跨いで勃発する。
火縄銃→高性能スコープ付狙撃銃(安祥城)