天文21年(西暦1552年)初夏。
後世の歴史学者は史料を片手にして言う。応仁の乱(西暦1467年)により勃発し、約百年も続いた戦国時代は、この一戦にて終盤に入ったのだ、と。
文豪もまた揶揄した。小さな島国で蠱毒の如く行われた殺戮の地獄は底に達し、遂に乱れた世を平坦に均す者が出現したのだ、と。蠱毒を生き抜いた悪鬼羅刹が本当の地獄に落ちる時が来た。
日本中世期最終盤の始まりは――日本史に名高き『桶狭間合戦』である。
仕掛けたのは今川義元。海道一の弓取り。駿河、遠江を領し、三河の半数を抑えた今川が激文を発して上洛を開始。道中にある尾張に侵攻をはじめ、織田家には大々的に降伏を勧告した。
受け手は織田信長。戦国の風雲児。義元は織田の家臣に所領安堵を約束していたが、降伏の条件として信長の切腹と首の持参があり、形ばかりの降伏勧告は宣戦布告に意味を変えた。
義元が動員した兵力は、二万五千。将帥は義元、指揮官として加わったのは井伊直盛の他、今川四天王の一人にして義元の信頼厚き勇将、岡部元信だ。陣容は豪勢であり、勢力が各地に散見された当時としては破格の大軍である。対して、信長が動員したのは今川上洛軍の半数一万二千であった。
尾張国の統治は固まりつつあるも、美濃国の支配は始まったばかりで将兵を無闇に動かせず、信長は万全の態勢で義元を迎撃する準備は能わなかった。ばかりか武田晴信が義元との盟に応え、武田二十四将の一人『真田幸隆』を三河経由で援軍として派遣している。これを撃退する為、家中随一の実力者である本多利益が西三河の安祥城の城主となっており、桶狭間合戦は織田信長の戦国大名としての力量が問われる一戦ともなった。
当時の信長の勝ち戦は、ほぼ全て本多利益(慶次郎利益)の武勲に支えられており、信長の実力を疑問視する声が多々あったのだ。尾張統一や美濃攻略は本多利益の武勇と知略なくして成り立つものではなく、故にこそ懐刀抜きで真価を見せねば、信長の武名は虚名だと謗られることになっていただろう。
現に義元からの降伏勧告で、織田家は微かに揺れている。信長が海道一の弓取りに勝てるとは到底信じられず、主君に切腹を強要して首を持参し所領安堵を望もうとする声もあったという。後にその者は切腹させられたが、それほどに家中でも主君の力を不安視する者がいたのだ。
義元もまた信長の実力を軽視していたという説がある。というのも、本来なら地理的に尾張から攻め込むのではなく、西三河の安祥城が第一目標にされていなければならない筈であり、安祥城を避けて行軍するのは不合理だからだ。故に義元は本多利益こそ織田の武の要であり、他は弱卒であると見做していたのだと主張している。武田に安祥城を攻撃するよう仕向け、利益の足止めをさせている内に信長を討つ作戦だったのだ、と。
利益の得体のしれない武勇伝を知れば、あながち的外れではないのかもしれない。迷信深い時代の風潮も手伝い、義元が利益を過剰に警戒していた可能性は捨てきれなかった。だがやはりそうした論説が真相だとしても、虚構であっても、義元が信長を正確に評価出来ていなかったのは事実だ。
信長は義元から宣戦布告を受けてすぐ、主立った重臣を集め軍議を開いた。
彼は予め対今川の戦を想定していたらしく、澱みなく迎撃に出る為の陣容を発表して家臣団に指示を出していた。これに文句を挟む者はおらず、的確な差配に感嘆する者が場を占めたという。
信長の威風堂々とした振る舞いは、武家の棟梁として不足のないもので、彼はうつけでも、本多利益に担がれただけの神輿でもないと示すに足るものだった。だがしかし、ここで――実は根回し済みの茶番とする説もあるが――柴田勝家が列を離れ、突如信長の面前で土下座すると大声で願い出たという。
「――殿! 此度の今川との戦、儂に先陣をお任せ下され!」
勝家は重臣として遇されていたものの、以前織田信勝に与し信長に歯向かった過去がある。信長は勝家を許し織田家に残していたが、一度歯向かったという事実は重い。故に信長はこれまで勝家を戦に出したことはなく、重臣の武士としての面目が立った試しはなかった。それが勝家への罰だったのだ。
故に信長は一度、勝家の願いを蹴った。
「寝言は寝て言え。今度は今川に与する心積か? 先陣に加わった其の方が返り忠を働けば、先陣は大崩れし勝てる戦も勝てんこうなろう。此度も其の方を出す気はない、大人しくしておれ」
主君から露骨に疑われた勝家は、平身低頭したまま脇差を鞘ごと抜き取り、両手で差し出しながら誓いを立てた。ここまでして退いては武士の面目は二度と回復しないと腹を据えて。
「我が郎党と儂の妻子を全員連れて参った。是を人質として差し出しまする。何卒、何卒儂に先陣をお預け下され。たとえ最後の一人になろうとも戦い、殿の御為に尽くすと誓いましょうぞ。戦で立てた武功に褒美は一切要りませぬ。嘗て殿に叛いた汚名、濯がぬままいては織田氏家老の名が泣きまする!」
勝家の恥も外聞も投げ捨てた物言いに、眉を顰める者もいた中だ。
信長は膝を叩いて立ち上がると、勝家から差し出された脇差を取り上げた。
「敵方に与せずとも、働きが足らぬなら自刃を命じるぞ。その覚悟はあるか」
「御意。犬馬の労も惜しまず、一所懸命に働き、名も家も捨てる覚悟で儂の忠を証明致す」
「よく言った。権六、其の方に先陣を任せる! 敵方の先陣は勇名を馳せし岡部元信が率いよう。これに一歩も引くでないぞ。与力にイヌ――前田又左衛門と明智十兵衛を付ける。又左衛門にこの刀を預けておくが……意味は解るな」
「はッ! 全て、総て心得ておりまする。柴田権六郎、この一戦にて鬼と成りましょうぞ!」
――大河ドラマ『麒麟がいく』にて演出された場面であるが、以上の一幕は虚構ではなく明確に史料に残っている。新たな忠義と不退転の覚悟を示した勝家を称賛する旨を、明智光秀が手記にして残している他、勝家自身も出陣前の鎧姿を絵にして残し、汚名返上を誓う武士の面構えだとしていた。
斯くして名にしおう桶狭間合戦が開幕する。
駿河より出陣し沓掛城に入った義元は、朝比奈泰朝を先行させ国境際の前線へ兵糧を届けさせた。信長はこの動きに対し木下藤吉郎に別働隊五百を預け、夜闇に紛れて出陣させた一方、家老衆が清州城へ籠城すべしと進言してきたのを退けた。この時、信長は何時になく饒舌に意図を説明したという。
「阿呆。義元がこの二年で張り巡らせた手管を知らんのか? 亀みたく城に閉じ籠っとったんじゃ、彼奴が調略の手を伸ばすのを妨げられんじゃろうが。尾張も一枚岩ではないと先日思い知ったばかりでもある、そこらの土豪はおろか国人衆もコロッと義元に靡く様が目に浮かぶわ。そうなったら今川軍は膨れ上がり、数の差が広まって、勝機を逸し亀になる他ない。そうなれば兵糧攻めにされて干上がるじゃろう。攻めの姿勢を見せぬまま閉じ籠るのと、一戦交えて籠るのじゃ足軽共の士気も違う。勝つにはまず攻める、策もなくハナから負け腰で戦をする奴は死ぬるのみよ」
強敵を前にしていながら信長は上機嫌で、国境での迎撃を選択する。らしくなく意図を分かりやすく伝えられたからか、家老衆も納得して信長の下知に服して迅速に行動した。
最初の主戦場となったのは、丸根砦と鷲津砦である。前者に今川の朝比奈泰朝が攻め掛かり、後者には蒲原氏徳が襲い掛かって、それぞれが織田方の佐久間盛重、織田秀敏が迎撃した。その報を受けた信長は、機が熟したと判断。お気に入りの幸若舞『敦盛』を舞うと、早朝に五千の兵を勝家に与え出陣させ、自身もまた三千の軍を率い清州城より出陣する。
信長は軍を整え鳴海城へ入ったが、義元の行動は更に早かった。敵が動くと読み切ったが如く、ただちに朝比奈と蒲原の両名へ総攻撃を命じ、丸根砦と鷲津砦を陥落させたのだ。
織田方の佐久間盛重と織田秀敏は戦死し、今川軍足軽の武勲に転生してしまう。義元は丸根砦に火を放って焼き払わせ、鷲津砦に先遣隊を集中させると一時待機を命じた。前哨戦を今川の勝利で飾り優勢に立つと、義元は沓掛城から出陣。自身が最も信を置く勇将、岡部元信に本軍の先陣を任せ大高城を目指し進軍を開始する。一方の信長もまた二つの砦が失陥すると予想しており、義元の本隊が大高城を狙うと読んで手前の中嶋砦まで進軍していた。
前哨戦に勝利したからと、義元は喜びもしなかった。寧ろ戦勝ムード漂う自軍に活を入れ、「北条の言葉に倣うのは癪だが、勝って兜の緒を締めよ」と戒め油断を取り払っている。
義元に油断は無く、周囲の護りを固めて敵方の奇襲を警戒していた。兵力に差がある戦では、数で劣る側は奇策に頼るか城に籠もる他にない。攻城戦の支度は十分に整えている以上、義元が奇策による起死回生を警戒するのは必然であっただろう。義元の目的は父代わりの太原雪斎の仇を取ることだったとされているが、大義名分としては上洛を目指している。朝廷にも渡りをつけ、形骸化した室町幕府を倒し、新たな幕府を開く心積だったという。故に義元には圧倒的勝利が求められていた。
義元の弱点に実力のある将の不足が挙げられるが、戦の大義名分もまた積極的な攻勢を強いられる弱点になっていたのだ。隙があったとすれば、その二点だったのかもしれない。
大高城に達する前に、中嶋砦に入った信長の軍と衝突すると読んだ義元は、実際に交戦する前に行軍で疲れた将兵を休ませる為、桶狭間という山に布陣しようとしていた。しかし義元はここで度肝を抜かれる。なんと、昨夜までは何もなかったはずの桶狭間山に、忽然と城塞が出現していたのだ。
「――面妖な。信長は妖術でも使ったか!」
驚愕して叫んだ義元へ、一夜城にて十分に休んでいた藤吉郎率いる別働隊五百が牙を剥いた。ここで中嶋砦からも信長が出陣し、桶狭間山の付近にある大脇村近くに布陣していた勝家も連携して強襲を仕掛ける。義元は咄嗟に、敵の主力と思しき勝家を岡部元信に応戦させ、木下隊には後詰をあて対処させた。
流石に海道一の弓取りである。動揺は瞬きの間に鎮まり、冷静に対応したら押し返せると確信して指揮を執った。義元は不測の事態に備えて鷲津砦に兵を集めていたことを思い出し、救援を命じる伝令を走らせていたのだ。信長はここに全力を投じてくる、これを撃退したなら勝利は目前だと悟っていた。
信長もまたここを逃せば勝機を逸すると理解している。
彼はなんと本陣を空け、勝家が敵本軍の先陣を抑え切るか、撃破すると信じたかの如く本隊を率いて疾駆した。信長本人が太刀を抜き先頭を馳せたのだ。
果たして柴田勝家は鬼神の如き働きを熟し、『鬼柴田』の異名と、常に陣頭に立って掛かれと叫び続け味方を鼓舞したことに由来する『掛かれ柴田』の武名を獲得する。刀傷を至るところに負いながらも岡部元信の所に辿り着き、壮絶な一騎打ちの末に討ち取る活躍をしたのだ。
勝家の働きは桶狭間合戦の趨勢を大きく傾け、不利な戦況を互角にまで押し返した。勝家が敵将を討ち取ったという鬨の声を聞いた信長は、でかしたと喝采を上げたとも、何も言わず馬を走らせたともいう――どちらであるにせよ、百騎の兵を率いた信長は押し寄せる柴田隊の圧力に怯み、後方から牽制してくる木下隊に統制を欠かされた今川軍の側面を突いた。
「義元、覚悟せい。我自らの手で討ってやろう」
信長率いる騎馬隊の疾走は後世の創作か、信長の武名を高める為の織田側による情報工作だという説がある。しかし他に有力な史料はない為、ここでは正史として扱う。
信長による強襲は義元の本陣まで届き、義元は自ら太刀を抜いて応戦した。退こうとしても退けぬ戦局であったからだ。信長を返り討ちにすれば、この混戦を制して一気に織田は瓦解する。強硬に反撃した義元と信長による、乱世でも数少ない戦国大名同士の対決が繰り広げられた。
しかし個人の武力で義元は信長に及ばなかった。後に明らかになったが、信長は家中に於いて勝家や利家を凌ぐ武芸の達人であり、敵わなかったのは本多利益のみだったのだ。数合斬り結んだだけで義元の体勢を崩し、組み付いて首を斬った信長は笑って宣ったという。百回やっても百回我が勝つわ、と。
義元が戦死すると、今川軍は総崩れになった。織田軍は散々に追撃し、今川軍の主立った将は殆どが召し取られるか討ち取られてしまう。
歴史的な合戦となった、桶狭間合戦はそうして終結した。
今川氏は、義元を失うと脆かった。これより今川氏は急速に凋落し滅亡することになる。
織田が勝利したとの報を受けるや否や、武田軍の真田幸隆を撃破していた本多利益が動いた。三河の地を完全に併呑すると、養父の本多忠高に三河支配を任せ、利益は電光石火で駿河の地に逆侵攻を仕掛けたのだ。これに対しまともに抵抗も出来ぬまま、今川義元の嫡男、氏真は捕縛されてしまう。
今川にはまだ有力な将は残っていたが、盟約破りで有名な武田(後門の狼)と、迫りくる本多慶次郎利益(前門の虎)に挟まれ混乱し、効果的な対応を決められぬまま右往左往してしまった。
戦勝の宴を開いていた信長は、利益の抜け目ない働きに爆笑したと伝わる。