ごくり、と固唾を呑んだ。
書状にて知らされた内容を疑ってはいない。
文に記された文字は己と寵臣で考案した、この世で自分達二人しか知らないもので、筆跡も記憶しているものと一致し、正真正銘、寵臣からの書状であるのは間違いない。仮に遣り取りの為に出した文を第三者に盗まれていたとしても、解読の為に要する時間は前提知識がなければ己ですら数年掛かるものだ。
解読の為に必要な前提知識は、己と寵臣で考案した日ノ本言葉ではない、完全な創作言語。文法から何まで日ノ本言葉とは異なる代物であり、自分達以外には落書きにしか見えまい。万が一解読できたとしても、抽象的な表現を選んでいる為、やはり自分達にしか意味は通じない二重構造の暗号文だった。
だから疑う余地は皆無のはず。彼奴が嘘を吐くのは有り得ない。此の世の誰よりも信じている。
――だがそれでも期待と興奮に混じる、一握りの不安に似た感情は拭い切れなかった。
何せ事が事だ。単純な戦術的勝利や政略、謀略とは比べ物にならず、政戦両略に革命を齎したとしか称せぬ己の語彙が、ひどくもどかしくなるほどのものなのである。
眼前に跪くのは、忍だ。黒い覆面で貌を隠し、黒衣で身を包んだ小柄な男。織田にも忍の者はいるが所詮は下賤の身分、重く用いられるほど有能な者はいない。しかしこの忍には何かがある。
否、
経緯は文で知らされていた。着目したのはカラクリ仕掛けの摩訶不思議。専門知識はちんぷんかんぷんだから想像するしかないが、げに驚嘆すべきはその機能。寵臣に曰く無線通信……遥か遠方から声を飛ばし、遠方の者に声を届かせる機構である。神仏の権能か妖魔の仕業とも思える奇跡だ。
忍が言う。通信を開始致す、と。胡乱に頷く己は、ふわふわした心地で浮足立ち、らしくもなく声を上擦らせて「うむ」と返すので精一杯だった。
『識別反応、石川五右衛門と一致。そこにおられるのは殿でよろしいか?』
「――――」
忍の差し出してきた箱型の端末から、傍から離さざるを得なかった寵臣の声がした。ぴくりと肩を跳ねさせてしまい、忍を見る。そして耳をそばだて、周囲の気配を探った。
人払いをしている為か、やはり気配はない。この箱から声がしている。震えそうになる声を意地で平坦に保ち、信長は確認のために応じることにした。
「うむ。クマ……か?」
『殿の声紋と一致。ご健勝であらせられますか、信長様』
「ああ、うん……クマの声に聞こえるが……まことにクマか? 本当は我の近くに潜んでおって、我をからかっておるんじゃなかろうな?」
『不毛な問いでござる。書状にてお報せした通り、我は駿河にて役目を果たしている次第。念には念を入れ駿河に居る我しか知らぬことをお話した方がよろしいか?』
「……いや、よい。クマが嘘を言う訳ないしな。にしてもクマ、これはまた凄まじい品じゃな? 我は清洲城におるんじゃが、そんな所からでも駿河におる其の方と言葉を交わせるとは……」
『五右衛門なるカラクリ忍は、主に通信基地としての役割を搭載した品でござる。五右衛門を側に置いていただけるなら、その通信機は日ノ本の津々浦々に至るまで役目を果たしましょうぞ』
驚嘆に値する言に、信長は五右衛門を一瞥する。通信基地……聞き慣れない名称に説明が足りぬのはいつもの事で、信長はすぐに意味する処を察した。
通信機なる箱が声を受け取るのがこの五右衛門であり、五右衛門を介して通信機が声を発する仕組みなのだろう。では五右衛門と同じ機能を持った通信基地なるものを領内に設置したら、本拠に居る信長から各地の家老などに命令を送ることができる。その情報伝達速度は織田家を瞬く間に覇者とするだろう。
真価を理解し、量産を視野に入れて即座に試算した信長だったが、この通信機の存在を独占することは能うかをまずは勘案した。そして、能う、と信長は考えた。問題は家中の誰ぞに件の物を託せるか、託したとして他家へ情報を漏洩しないか、託した者が謀反を企てた際に謀反人同士が結託するのに利用されないか――だ。通信を傍受できるかどうか、傍受という概念を知らぬままにそこまでを考えて、信長は熟考の末に結論を出した。
「クマ、この通信とやらを横から盗み聞けるか?」
考えていたことを口に出さず、結論のみで会話するのが天才である信長の欠点だ。しかしその結論から逆算して過程を悟り、すぐさま応じられるのが信長の寵臣に必須となる技能であった。
この技能の習得者は慶次郎の他に現状だと藤吉郎、半兵衛のみ。慶次郎は一言の単音で即答した。
『是』
「うむ。であれば我の領する各国に一つずつ、通信基地なるものを建てよ」
『承った。しかし……偽装を施した基地の建設は能いまするが、一つ懸念がござる』
「なんじゃ?」
懸念とはなんぞや。首を傾げる信長は特に思い当たることがなく怪訝に思うが、慶次郎の指摘に失念していたことを知る。ああ、確かに……と。しかし、無駄な悩みだとも思った。
『此の世に永久不滅の物質はございませぬ。建てた基地は定期的にメンテナンス――点検修理を施さねば故障する事になりましょう。これに対し織田の兵、カラクリ忍をメンテナンスに当てるのも手ではありまするが、いずれ人目につき調べられてしまうのは自明。それを阻止するのは困難だと愚考致す』
「……なるほどのう。言われてみれば其の通りか。まさかクマやサル、キツネに定期的に点検させて回るわけにはいかんし、よそ者や不心得者の目に触れるのは避けようがない。いずれ仕組みは解き明かされる、か……じゃがな、クマよ」
信長は苦笑した。慶次郎の懸念が、余りに長期的過ぎたからだ。
「仮にそうなったとして、其の方以外の者が再現しようとした場合、どれだけの歳月が掛かる? 一年二年じゃ到底足りぬわ、十年でもまだ足りん、むしろたったそれだけしか時を掛けぬ傑物がおれば我が直接召し抱えてやるわ」
『む……』
「クマの心配することが現実になるのは、早くて百年は先のことになろう。百年もしたら我は普通に死んでおるし……不都合がありそうなら天下布武を成した後に壊して回ればよかろう」
通信機や通信基地などの存在は、基本的に隠蔽して独占的に使う。以前慶次郎が手掛けた、便宜上の問題で狙撃銃と名付けた超射程超高精度の火縄ではない銃も、密かに使うつもりである。
破壊する意味はない。歴史の闇に葬る意味もない。単に誰にも知られていない方が高い効果を発揮するだろうから隠すだけで、信長としては大量生産して大規模に用いたいところだった。
正直、慶次郎がなぜこんな不毛な心配をしたのかが不思議なほどである。天下統一後、泰平の世で一挙に広めて日ノ本を超大国に成長させた方が色々と捗るであろうに。信長はそのように合理的に考えたのだが、慶次郎の懸念はそこにはなかった。ゆえに覇王の寵臣は難しそうな声で告げる。
『信長様の代の心配は、実のところ余りしておりませぬ。我が懸念しておるのは、天下静謐が成りし後の事でありますゆえ』
「後の事じゃと?」
『は。我が
「――ああ、ああ、分かった分かった! よその妖術師に見られたくないのが一つ、そもそも我みたく魔力とやらを覚醒させている者ぐらいしか通信機を使えんのが一つってわけじゃな!?」
『左様でござる』
「量産しても使えんかったら意味ないわ! もっと早く言えい! 我に時間を浪費させるな!」
無駄な会話だった。確かに先走りすぎた信長にも非はあるが、もっと早くに言ってくれたら無駄な時間を使うことはなかったというのに。無駄を嫌う合理主義な信長は苛立ったが――
『申し訳ない。信長様のお喜びになっている声を聞いていると、どうにも口を挟み難く……』
「――ぉ、おう……そういうことなら、まあ……是非もなしか」
すぐ苛立ちは晴れる。ここに半兵衛がいたなら、微笑ましいものを見た顔になっていただろう。
面くらって、勢いを失くした信長は照れている己を自覚し、別ベクトルの苛立ちを覚える。なんで傍におらんのじゃ、クマ! などと理不尽なことを内心で叫んだ。
『万人に扱える代物としてダウングレードした物も造れなくはないものの、やはり工具と部品を造る為の設備をどこぞに建設する必要があり、今の世で実現するのは現実的ではございませぬな。古代、史上初めて中華を統一した秦の始皇帝の如く絶対的な強権を振るうのが、我の識と能を十全に発揮する為の前提条件となりましょう。室町幕府や朝廷があり、これらを打倒し信長様が日ノ本唯一の絶対者になられるお心積なら――』
「やめい。我はそんな面倒な事をする心積はない。もういいから量産云々のことは忘れよ。なんで死ぬまで働き続けねばならんような馬鹿な真似をせねばならん。我は御免じゃぞ。我はな、さくっと乱世を鎮めて武家棟梁の役目を果たし、織田の家督を嫡子にでも継がせて隠居する。そんで南蛮にでも旅立って、クマと二人で好き勝手するんが夢なんじゃ」
『――斯様な存念がござったか。であれば信長様、早々に嫡子をお作りになってくだされ』
信長はさらりと自身の夢、将来の展望を語った。
普段なら言わないだろう。最後の最後で明かし、驚かせてやろうと思っていたから。しかし通信機という代物で驚かされて、目の前に慶次郎がいないからついつい口を滑らせてしまった。
別に意地でも言うまいと決めていた訳ではない。故に多少早く伝えてしまってもいいだろうと軽率に判断し、自身がどのように慶次郎を見ているか暗に――というかほぼ率直に――告げた。
すると、どうだ。慶次郎は特に驚くでもなく言ったではないか。早く御子を作れよ、と。
「は?」
低い声が出た。慶次郎はそこらへんの機微に鈍くはない。だが純粋に、誰かをそういう目で見たことがなく、嫉妬したことも独占欲を持ったこともないから言えた。言えてしまった。
『信長様の御年は適齢期。今の内に御子を設けた方が、信長様の為になりましょう。若く体力のある内に産まねば、母体に多大な負荷が掛かりまするゆえ。ところで誰の胤で宿されるので?』
「………………誰がいいと思う? 言ってみてええぞ、クマ」
人生最大の忍耐を発揮した信長の眉間には、凄まじい青筋が浮かんでいた。
カラクリ忍の石川五右衛門が、そんなものを感じる機能はないはずなのに、恐怖して失禁してしまいそうなほどの静かな怒気である。
が、よせばいいのに慶次郎は馬鹿正直に答えた。
『我の関知するべき問題ではござらぬ。信長様の見繕った者でよろしいかと』
ブチッ。
何かがキレる音。だが、信長は並の人間ではない。ここで逆上し、激昂したままヤケになる安さはその魂魄のどこにもなく、却って胸の裡を明かす度胸があった。
為に、信長は思い切り怒鳴りつけたのである。
「
果たして、貌を真っ赤にして怒号を発した信長の声は完全に女のもので。はあ、はあ、と乱れた呼吸を整えて我に返った信長は、自身が衝動的に発した台詞を思い出し固まった。
沈黙が流れる。
ややあって、この間の不自然さに気づいた信長は、通信機越しにおずおずと声を掛ける。
「……クマ? ……おーい、クマぁー?」
答えはない。
応答できないほどの衝撃を受けた坊やが、完全にフリーズしてしまっていたからだ。
思春期未満の童貞坊やは意識に空白の楔を打ち込まれ、ただただ呆然と立ち竦み。そして、無礼にも無断で通信を切ってしまう。
とことこと歩き、どっかと布団の上に座り込んで、慶次郎は虚空を見上げて呟いた。
「……ああ、通信機の故障か。全く、とんだバグであるな」
現実逃避気味に呟いた慶次郎の頭を、近くに控えて見ていた市が思いっ切り拳骨で殴りつけた。
「ばかー! 行け! 行けーっ! さっさと姉上を抱きにいけーっ! わらわも同行する!」