さて。
有史上、人集まる所に国があり、国が隣り合えば諍いがある。
矛を手に取り打ち合う戦、卓を挟み口舌で競り合う戦、いずれであっても日が当たる所には影が生じるもので、影ある所でこそ陰惨な攻防が繰り広げられた。
スパイ。間諜。あるいは、草。日本に於いては主に草――忍びの者が暗きにて闘っていた。
さて。
本来ならば、影に棲む者は表に出てはならぬもの。名と姿が知れては暗き影にて闘うに不利となるのだから必然だ。しかし忍者とて人、人なら食わねば生きていけず、生きていく為に国へ名を売らねばならぬと矛盾を迫られる。苦渋の決断だろう、世に忍の存在が知れ渡るのをよしとしなければならないのは。
今に伝わる忍にて著名なのは甲賀と伊賀の忍、幕府の御庭番、毛利に仕えた座頭衆、北条に使われた風魔などだろう。中には鉄砲隊の傭兵集団、雑賀も忍者だという説もある。だが最も勇名を馳せてしまったのは、織田信長に仕えし忍軍、現代で世界中の人々がイメージする忍者そのものの黒母衣衆であろう。
黒母衣衆はもともと、信長の親衛隊に与えられた称号だったが、ある時に親衛隊の名を赤母衣衆で統一して、信長は黒母衣衆を表向きには廃している。しかし黒衣で身を固めた忍者が各国を走る様をわざと目撃させて、我こそは織田家に仕えし黒母衣衆の忍であると、わざわざ公言して回った者がいた。
如何なる思惑があってかと論じるのは、諸説あるからやめておくとして、黒母衣衆の名を触れて回りし者は下忍の猿飛佐助を自称し、家臣の一人が信長に黒母衣衆は忍として活動を続けているのかと問い掛けると、信長はこれを否定も肯定もせず、単に捨て置けば良いとだけ返したという。
さて。
黒母衣衆はあの本多利益が創設して、家臣の服部半蔵や加藤段蔵を上忍としているという論説がある。これはおおよそ事実であるとされていた。
というのも服部家や加藤家は突如として興った武家であるのに、目立った功績もないまま本多利益の重臣として常に本拠に在り、不満に思った者の諫言、讒言の類いを一蹴しているのだ。この時に本多利益は『両家には目に見えぬ働きをさせている』と黒母衣衆の存在を匂わせている。
そして本多利益は実際に、極めて優秀な忍を使い確度と鮮度が高い情報を取得しているとしか思えぬほど、合戦に於いても先手を取り続ける動きを見せているのだ。有力な例は、言わずと知れた武田と上杉――もとい、長尾の両家が手を結び、北条を征伐するべく速攻を仕掛けた時分だろう。本多利益はこの動きを事前に読んだか、あるいは識っていたとしか思えない早さで即応して、三河の天竜川と駿河の富士川へ出城を築き、それぞれに森可成や服部半蔵を配して武田、長尾の侵略へ備えてみせたのだった。
織田と本多が仮想敵国の勢力拡大に、防戦の構えを取るだけで先制攻撃を仕掛けなかった理由については史料が答えを示している。織田は上洛に向けて支度をして、京付近の勢力に手を回し、朝廷や幕府との遣り取りに忙殺されている最中で。本多は抑えた旧今川領の支配体制を取り込む最中だったからだ。急激な勢力膨張で足場を固めるのが先決となっていたから侵略戦争を仕掛ける余力はない、という旨の吏僚(役人)の書き置きが残されている。
さて。
二つの出城に兵と将を配して両家を牽制しながら、本多利益は緩やかに軍を編成していた。非常にゆるりと足軽と兵糧を揃えていき、半年の後に駿河から出陣したのだ。
北条は本拠を陥落させられて、武田・長尾連合軍に降伏。長尾は多額の報奨金と兵糧を手土産に貰い受け、領地は一寸も切り取らぬまま武田に譲った。そしてその足で転身し、こちらもまたゆるりと行軍して兵の慰労を途上の国で行いつつ、まるで示し合わせたように三河へ向かっていった。
この長尾景虎が進めた行軍には、なぜか武田晴信と、彼が厳選した精鋭が同行していたという。
連合軍の主力ばかりが集った軍には、長尾景虎の下に『鬼小島』こと小島弥太郎、上泉信綱、塚原卜伝がおり、武田晴信の下には四天王筆頭の山縣昌景、同じく四天王の内藤昌秀、更に四天王の馬場信春の他、嘗て三河で一敗地に塗れた真田幸隆の姿があった。武田は一千の兵を率いる小勢であり、長尾は三千の兵を率いていたことから、晴信は長尾が牙を剥けば敢え無く散る危険があると度々家臣達に諌められている。しかし晴信は『今回は信じてやる盟約だからな』と言って取り合わず、景虎を信用している様だった。
こうして、本多利益率いる三千の兵と、武田と長尾の混成軍は、長篠の地で対峙する事になる。
後の世に名高い
† † † † † † † †
煙管の頭でコリコリとこめかみを掻いて、小さな長方形の箱のボタンを押し耳に添えた。
たったのワンコールで通話状態になったことに、信長の精神状態を察して苦笑いを浮かべる。
精神力も並外れている信長であるが、彼女は最初に円滑な意思疎通を行えた存在だということで、慶次を殊更に特別視している節がある。また積み上げた実績と実力も加味し、最も信頼を置いてくれていた。その上、自惚れでなければ女として惚れていたというのなら、意中の相手から一方的に通信を切られ何日も放置されると平気でいられないのだろう。
これは小言の嵐かな、と思いきや。通話状態になったというのに、通信機越しに感じ取れるのは嫌に浅い呼吸音のみだった。
『………』
慎重にこちらの出方を伺う様子に、慶次は煙管を脇に置く。こういう時、なんと言えば良いのか悩ましくなるんだなと、なんとも言えない心地を覚える。
切り出す台詞を脳内で繕い、紡ぎ終えてから重々しく口を開いた。
「信長様、先日お話の途上にて中座した無礼、お詫び致す」
『……うむ。……それで?』
長い沈黙を挟んで相槌を打った信長の表情が、ありありと目に浮かんだ。通信機で話すことに不慣れで調子が狂うのだろう、先日の件も合わさり勢い任せに話すこともできずにいる。
能面のような無表情の中で、弱気な目をしているのだろう。侘びを入れて、前置きして、本題を匂わせ、段階を踏んで……等と色々考えていたが、こうしてみると無駄に冗長な気がしてきた。
細かく練っていた文言を棄却する。上っ面を取り繕った言葉が嫌に軽い気がして、口にするのが憚られてしまったのだ。端的に、飾らずに、直截に言葉をぶつけた方が良い。いつも通りに。
「我が手の者の報せにより、長尾と武田による領土侵犯へ対処せねばならなくなり申した。ゆえに遺憾ながら信長様の許へ馳せ参じる事は能いませぬ」
『…………是非もなし、じゃな』
「しかし」
沈んだ声。
仕事を理由に逃げを打たれた気分になったらしい主の心境を、あえて斟酌せずに告げた。
「こんなものは我にとって前哨戦に過ぎず。信長様の覇道を妨げる者らを蹴散らした暁には、速やかに帰参し信長様と一戦交える覚悟にて」
『…………ん? 我と一戦交える、じゃと………?』
「婉曲な物言いにて御免。
『生駒吉乃? そんな女、我は知――』
返事を待たずに通信を切る。再び働いた無礼だったが、今度は正気のままなのに少しも気後れすることはなかった。漆黒の具足を纏い、真紅の外套を羽織る。顔面全体を覆う面当てを具えた兜を被り表に出ると、屋敷の出口に立て掛けていた長大な皆朱槍を執り、大弓を背中に負って漆黒の巨馬に跨った。
出陣の支度は整っている。城の本丸から出ると、選りすぐりの足軽達が待っていた。中には普通の馬に乗馬している小姓――勝蔵と鍋之助もいる。この実戦を見せてやる心積で参陣させていた。
織田家の本拠にて一人でいた信長は、唐突に出された知らぬ名に混乱していた。生駒吉乃とは誰のことだ? と。らしくなく察しが悪く、悶々と悩んで、やっと悟ると――ボッ! と顔から火を吹きそうなほど真っ赤になった。そういうことなのか、なんて。乙女のように腰砕けになってしまったのだ。
主が今、どんな気持ちなのか考慮の外である。慶次の貌は腹を据えた男のものへと変貌を遂げようとしていた。細々と悩む女々しさなど持ち合わせぬ、生来の豪傑肌が露出していて……男が見れば漢として惚れ、女が見れば女として惚れ抜いてしまいそうな、『花』のある色気が漏出しはじめていた。
「出陣!」
口上無く号令し、兵農分離して戦働きに注力できる精鋭を率いた無双の武者が駿河より発つ。
戦が始まる。
破天荒な傾奇者の気質が発芽した武者は、此度の戦で漸く邂逅するのだ。
神仏の化身の成り損ないと。
魔に堕ちて、鬼と成りつつある二匹の剣狂いと。
双つと無き武の証明が、此度の戦にて果たされるのだ。
武田晴信
今回は観戦だけの心積。敗北した真田幸隆と、あの戦狂いの言ってることが本当か見定めるのが目的。連れて来た主力連中は護衛兼戦力分析の補助員。
長尾景虎
遊びに来ました!
織田信長
いそいそ、そわそわ。
本多慶次
生まれて初めて魔を見る事に。