なんの
殺気立つ者らを前にしてなお、覇気を失わぬのは流石に虎と呼ばれる傑人。だが追い詰められた末に見せられては、類稀なる覇気も単なる強がりに堕ちてしまう。
如何に尾張の虎といえども、自身を襲った者らと首謀者の正体を知れば、動揺と焦り、混乱を隠しきれてはおらず、一代で弾正忠家の基盤を築いた老雄も虚しい悲哀を醸していた。
しかし同情はない。嘲笑も、憐憫も。風雅な着物を纏う女人が、からからとせせら笑う様は滑稽ですらある。同調する将兵もまた同様に道化であった。
惨めですね、弾正忠様。貴方様は我が家の大志と我が夫にとって邪魔になった。退場なさい、もはやこの国は貴方様のものではございません。我が父、道三のものです。
貴様は……! 三郎、よもや貴様、蝮の毒にやられたか……!
聞こえぬ。聞く価値がない。
覇王と号するに不足のない圧倒的な威厳。美形揃いの織田家にあってなお、際立って見目麗しき信長の放つ冷酷な覇気は、明白に父を凌駕していた。
息を呑む信秀。夜中、闇夜に紛れて自身の屋敷を襲撃した下郎とは思えぬ。ましてや――蝮如きの毒にやられる不如意な木偶にも見えなかった。流石に傑物、尾張の虎。彼は真相を悟った。
「親父殿。我の望む覇道は、其の方の仕上げる地盤は邪魔じゃ。これより先は我、織田上総介信長が差配する。後事を我に任せ、隠居なさるといい」
……で、あるか。是非もない。「……
最後に聞こえた返事。自身の狙いを見抜いたらしい父に、信長はぴくりと反応し苦笑する。
小声で漏らした。
「往年のキレを取り戻すんが遅すぎじゃろ。今更じゃ……先に謝っとくぞ。すまん、親父殿」
「この儂を踏み台にしたんじゃ、高く飛ばねば承知せんぞ」
「はンっ……
短い恫喝に込められたものを、鼻で笑って受け流す信長に気負いなし。
からくりの姫を急かし、密かに招き入れた
美濃の兵、将。彼らは濃姫に従う美濃の者らだ。
濃姫は指示通り持ち込んでいた、刺した者を前後不覚にする毒を盛ったと父の道三に報告し、道三は信長を傀儡にできたと知って手勢を送り込んでいたのである。
もし道三が信長を直接目にしたなら、そんな毒を盛られる隙を晒す間抜けではないと悟り、この虚報に謀られることなどなかっただろう。だが今はまだ、道三と信長は直接の面識がない。これが計略の成否を逆転させた。道三はまだ把握していなかったのだ、からくりの濃姫が逆に傀儡にされているのを。
故に信長が指示し、濃姫が命じる手順はあるものの、美濃の将兵を信長が意のままに動かせる。尾張国内に限定した話ではあるが、これが効果的だった。
尾張国内の誰も、信長が突如として意のままに出来る戦力を手にするとは思いもしておらぬ。また信長は嫡子であり後継者に指名されている身、黙っていても手に入る家督を、軍事クーデターを起こしてまで奪取するとは想像不可。信秀の隠居と信長の家督継承は、国内の不穏分子にとって最悪の奇襲だった。
――史書に曰く。今川家の名宰相が率いる、今川松平連合軍に第二次小豆坂の戦いで大敗を喫し、苦境に立たされていた弾正忠家に変事が起こる。
信秀の嫡子、信長が美濃の将兵を手引し、信秀を襲って蟄居させ家督を奪い取ったのだ。
もとより後継者であった信長は、信秀が病に倒れたと主張。父に代わり当主として己が立てと命じられたと騙り自身の行いの正統性を喧伝。
しかし信長が美濃の将兵を用いたことが
そして稲生の戦いで、僅か11歳にて初陣を迎えた者がいた。
前田の家督を叔父に譲り姓を捨てた若武者。
後年、様々な創作物に於いて題材にされた『戦国無双』慶次郎利益である。
はためく赤い具足羽織。漆黒の甲冑で全身を鎧う、身の丈以上の大弓を携えた無貌の武者。両眼の覗き穴以外に露出部のない面当ては、双眸から青白いプラズマ光を放って異様な迫力を醸す。
急造された名塚砦の壁上に仁王立ちし、迫る謀反人共の軍勢を見下ろすは、今為朝とも称される慶次郎利益。信長の代理人として従える美濃の将兵が、利益の発する威風に気圧される中、ギリリと歴史に残る一矢を大弓に番えた。
「主命により我、主君の
切られる啖呵。勇ましい口上と共に射ち出されるは戦国乱世に多々刻まれる戦場伝説の一節。寄せる反乱軍の軍勢の頭上を奔る剛槍は、後に盟約を結んだ際に信長から家康に贈られる物。余りに
果たして美濃の将兵は畏怖と共に心服した。彼のもののふ、まさしく今為朝也、と。利益の射た大矢は一切の減速なしに敵本陣に突き刺さり、敵将の林美作守の五体を粉砕したのだ。三百人が乗れる軍船を一矢で轟沈させた源為朝の逸話になぞらえたかの如く、余りの威力に敵本陣ごと吹き飛んでしまう。
轟く轟音と奔る衝撃は戦場を震撼させ、敵のみならず味方までも恐慌した。先陣にて掛かれと猛るばかりであった、柴田権六郎勝家は背後を振り返り、総毛立って名塚砦を見遣る。
「あれが慶次郎、噂に聞く今為朝ッ! 名前負けせぬ化け物ではないか……! あんなモンを従えとる三郎様が、蝮如きの傀儡にされとるじゃと……!?」
出鱈目を抜かすな不心得者め。
後の織田家の宿将、勝家は利益の武に信長の器を見る。勝家ですら恐怖し、御せると思えぬ神武の一撃を見舞う武者を、多くの者が仕掛けた調略を一顧だにしないまでに忠義させているのだ。美濃の蝮と名高いとはいえ、道三の娘なんぞに骨抜きにされる懦弱な者ではありえまい。
勝家は第二射が後詰を粉砕するのを見た時、決断する。勝てるわけがない、なんの準備もせず策を用意せぬままあの鬼神を討てるとは思えなかった。
「退けェ! 退けェいッ!」
勝家の撤退命令に、兵達は我先にと逃げ出した。逃げるんだ、勝てるわけがない、と。
撤退していく軍を、神輿に担がれていた信勝は冷笑する。
(馬鹿だなぁ。勝家は今ので分かっただろうけど、僕の姉上が美濃の虫けら如きの傀儡になるわけないじゃないか。それに……どうやったかは知らないけど流石は姉上。僕が命懸けでやろうとしていた馬鹿共の炙り出しを、こうまで簡単に成し遂げるんだもの。あーあ、姉上の役に立てると思ったんだけどなぁ)
内心残念がりながら、信勝は勝家の指揮に服したまま末森城へ撤退した。
だが撤退する信勝軍に利益は容赦しなかった。僅か九名の馬廻衆――信長に貸し与えられていた赤母衣衆を従え、名塚砦より出陣し苛烈な追撃を仕掛けたのである。
「出撃する。『松風号』を牽け。殿の御下知に従い謀反人を駆逐し、不出来者を間引きせよ」
跨るは利益が調整した愛馬、漆黒の馬体と灰色の鬣を有する松風。
巨大な駿馬を駆り、無双の武者が城門を通った。
利益は謀反に加担した、信長が『こやつは斬れ』と命じていた者らを、可能な限り追い縋り下賜されていた朱槍にて次々と討ち取り、信勝軍が再起不能になるまで徹底的に打ち砕いたのだ。
寡兵での追撃は無謀であろう。しかし追撃せしは弓を執っては今為朝、槍を執っては今項羽と謳われることに成る猛者。挙げた首級は全て捨て置き、功無しと嘯きながら掃討する利益の働きは、弾正忠家に絶対的な心的外傷を負わせるに至り、利益と敵対する愚を心底から拒む恐怖を刻みつけた。
先頭を猛進する慶次郎利益が敵軍に接触するなり多数の兵共が空を舞う。血飛沫と共に人体や鎧兜の破片が辺りに散乱する。真紅の具足羽織を靡かせ、漆黒の甲冑を返り血で赤く染めた。
初陣で挙げた首級は零。敵将の誰一人として首も取らず、ただただ蹂躙した無慈悲の矛。然れども討ち取りし将兵は百、千と謳われる。慶次郎利益は他の赤母衣衆が追随できぬ速さで勇躍し、敗軍を末森城に追い立てた後は単騎で城門と対し仁王立った。それだけで信勝軍は萎縮して、頑として立てこもり身動きが取れなかったという。
――やめなさい三郎!
信勝の敗走を知った母、土田御前は。同じく娘であるはずの信長のことなど全く考えず、ただただ信勝の為だけに助命を嘆願した。しかし、信長は土田御前を無視し、訴えを黙殺。
代わりに応じたのは濃姫だった。
――おや、これは異なことを仰りますね、御母上様。勘十郎様は謀反人、これを許せば上総介様が侮られましょう。弾正忠家の今後を想えば、勘十郎様は討つ他にありますまい?
――貴様! 三郎、正気になりなさい! こんな小娘に良いようにされ、唯々諾々と操られるなんて無様極まりますよ! 貴方も武家の棟梁なら己が一族の大事さを知るべきでしょう!
信長は内心嗤う。
濃姫を介し、美濃から領国支配の為の人手――将兵、役人を引っ張って。その行いの危うさを利用して不穏分子を炙り出し。同時に前田利家をはじめとする自身の手勢を動かして、美濃の将兵を分断して配し尾張の兵共と同化させ、妨げとなる要素を丁寧に潰していった。仕上げは利益の暴威、あの武を知れば取り込んだ美濃の者らを真の手駒に転身させるのは容易だ。
後は、邪魔な濃姫を排除すれば良い。信長は冷淡に笑い、濃姫の頬を強く平手打ちした。
「……母上の叱咤、胸に響いた。お濃、其の方は国に帰れ。義父殿との盟は生きておるが、我に貴様のような毒婦は要らぬ。身内を殺める気にはなれん」
美濃の将兵と役人だけを残し、盟約はそのままにすると嘯きながら道三に娘を送り返す。
暴挙である。道三の面子を潰す愚挙だ。だが道三は信長のこの行いを追認した。濃姫が持参して持ち帰った文に目を通した道三は腹を抱えて笑い、信長の器を認め対等な同盟だと宣ったのだ。貸し与えた者達は全て与えると約束し、以後は一切の手出しをしなかったのだ。
両者の遣り取りの真相を知るのは両者のみ。
(慶次、上手くやれよ……)
信長は微塵も心配せず、信頼する家臣の働きを座して待った。
果たして。
信長からの停戦命令が届く前に、利益は夜分の闇に乗じて末森城に侵入。なんと利益は鍵縄を用いて忍の如く城壁を登り、単身で敵城に攻め入ると信勝を捕縛してのけた。
彼と
「謀反人、織田勘十郎召捕ったり! 末森城に在りし将兵これに刮目せよ!」
遠巻きに見守る者達を前に、利益は戦装束の信勝を跪かせ、切腹させると介錯の刃で首を刎ねた。
動揺し、落涙する信勝派の軍は心折れ、利益に降伏を申し出る。
信勝の最期を聞いた信長は己の不明を恥じ、母の土田御前は泣き崩れた。
――時は天文十九年。織田弾正忠家、激動の年。
一時は美濃斎藤氏の傀儡となるも、母の叱咤で再起した信長が織田家を率いることになった節。
父は正式に隠居し、信勝は自刃。母は狂って死んだ。
織田信長の覇道は、波乱の幕開けと相成ったのである。
「いやぁ……君、本当に化け物だね。僕、驚いちゃったよ」
所はどことも知れぬ河原。頭を丸めた僧が、錫杖を手に苦笑いを浮かべる。
鎧兜を纏わぬ丸腰の偉丈夫は着流し姿であり、不遜にも文句を吐いた。
「御坊。貴殿の言わんとすること、我には頓と理解できぬ。知らぬ顔と巡り合うは世の常なれど、無為に時を過ごし見送るは、後も多忙である我には有り得てはならぬ不忠。早々に旅立たれよ」
なんでもいいから早く行け。そう急かす若者に、少し歳上なだけの若者は苦笑する。
彼は宥めるように武者に言った。
「そんなこと言わないで、少しぐらい愚痴を聞いてよ。なんたって僕が命懸けでやろうとしていたことが事前に潰され、もっと効率的にされたんだ。姉上の神算鬼謀には感服してたけど、こうまで役に立てないまま追い出されたんじゃ未練も残るってもんだろ? ねえ、慶次郎」
「
「……姉上の?」
「左様。『お主は我の覇道の行く末を、安穏として伝え聞け。我に代わり老いて死ぬるまで孝行し、ボケて死ね』と申されていた。そして我から助言するならば、今後で殿の御為に役立ちたいなら僧として世を渡り、働きを密かに熟す他にない。壮健であれ、御坊。貴殿の余生穏やかなるを殿はお望みだ」
そっか……と呟いて、嬉しそうに微笑んだ僧は、年嵩がいっていながら未だ美しい一人の女に連れ沿われ旅に出た。女は、信長の母に似ていたという。
僧は母が老いて死ぬまで甲斐甲斐しく世話をして。母は、死の間際に子に侘びた。僧の姉を愛してやらなかったことを悔やみ、最愛の我が子に謝った。
僧は母の侘びを受け止め、供養すると京に出て活動を始める。乱世の将としては無能だったが、京の貴族や幕臣と茶会で知己を結び、政治的な繋がりを構築する手腕は頼りになったという。
そして幕府と朝廷側の織田家に対するパイプとなり、後に一度だけ信長と相対する機会を得た。立場は朝廷側であり、互いに面識がない素振りを通したが――信長は常にないほど穏やかだった。
穀蔵院飄戸斎。
人を食った名の僧。千利休と並ぶ茶の名人でもあったという。
万人が恐れた慶次郎利益と誼を通じ、彼を茶室に招いて風雅を教え、利益に花を添えた。
枯れない花。造花。利益に贈った一つの造花は、紫苑。花言葉は『遠方に在る人を想う』『思い出』『きみを忘れない』『追憶』だった。
紫苑の造花を右胸に飾った、後の利益が『花の武者』の異名を得る切っ掛けである。
第三次成長期はFateお馴染みの現象。
エミヤと言峰が有名。