「こりゃあマズいな!!」
禪院直毘人は、“魔虚羅”召喚が現実のものになったと見るとすぐさま立ち上がり臨戦態勢を整えた。
禪院夜伽は才能溢れる術師であったし、個人的に目をかけてもいた。
だが、五条悟というあらゆる意味で異次元の存在が彼女の心を狂わせてしまった。
禪院家当主として、彼女の乱心を止めることができなかったことは痛恨の思いだ。呪術界は若い人間に重いものを背負わせすぎるきらいがある。
まだ鼻垂れの小僧なぞ、アニメやゲームでもして友人と遊び、勉強で0点を取ったと自慢し合うのが仕事だというのに。
そういう世界を作った責は、我々のような大人が取る必要があるのだ。
「扇!!天皇陛下や来賓の皆様方を安全な場所までお連れしろ!甚壱の奴も呼び戻せ!」
「えっ? あ……」
「さっさとしろ!なんでてめぇはそう遅ぇんだ!!」
「は、はい」
直毘人はまず、後方に控えていた弟、禪院扇に避難誘導と援軍要請を担当させる。
弟は動きが鈍く、判断力に欠けるがマニュアル通りに動く分には一流だ。
「今行くぞ、クソガキ」
禪院直毘人の術式“投射呪法”。
1秒間を24フレームに分け、視覚と同期した画角内での“動き”をイメージし、それを後追いする。動きをイメージ出来さえすれば自動でその通りの動きが成立する。
この術式を駆使する禪院直毘人を人はこう呼ぶ。
“最速の術師”と。
「ふんっ!!」
一瞬にして魔虚羅との距離を0にした直毘人は、魔虚羅の首筋に飛び蹴りを入れた。
「! 禪院のジジイ!」
「ジジイじゃねぇ、お兄さんだクソガキィ!!」
魔虚羅を蹴り倒しながら、苛立ちと共に叫ぶ。
(まったく、五条家のクソガキなんぞ助ける羽目になるとはな)
だが、ここで
(……夜伽)
足元に倒れ、仮死状態となった夜伽に視線を落とす。
“調伏の儀”に巻き込まれたのは五条だろう。だが彼に全てを託してただ見ているだけという選択肢を選ぶほど、禪院直毘人は大人しい人間ではない。
同じ禪院の者が事態を収めたというのが、最も納得できる筋書きなのだ。
「さっさと離れろ! こいつはお前の“無下限”も突破するぞ!!」
「……チッ、わかったよ!」
五条悟が、後ろにいた緊張している様子の夏油傑と何もわかっていない加茂美水矢を連れてその場から大人しく撤収する。
ここで強情に残ると言わず、撤退を選べる状況判断能力。それを僅か5歳で体得している凄まじさ。
……成程、“最強”と呼ばれるわけだ。
「さて、お前の方はどうだ?」
直毘人は、膝をついて立ち上がる最強の式神に問うた。
「今のうちに逃げるなら、楽に逝かせてやってもいいぞ?」
……ギ、ギッ
ガコンッ
法陣の回転。
「そうか。愚かだな」
禪院直毘人は、それを挑戦の合図と受け取った。
◆
「ねぇ、あそこから逃げちゃってよかったの?」
前を走るサトル君の横に並んで私は質問する。
私たちは屋敷の廊下を走っていた。
「あぁ? チッ……お前は知らねぇだろうが、あれは“マコラ”っつってな。禪院家最強の式神だ。昔、俺と同じくらい強かった術師もやられてる……だから逃げるしかねぇんだよ」
「……君でも逃げるしかない相手がいるのか」
「そうだよ! ったく、こんなダセぇことわざわざ説明させんなよ」
サトル君は苛立たしげに髪を乱して走っていた。
「別に逃げるのはいいと思うわよ? だけど、もっと助けを呼んだ方がいいんじゃないかしら」
「……あのなぁ!!」
サトル君が立ち止まって、とても怒った顔で振り返る。
「お前に何がわかるんだよ!? 術式すらまともに使えないお前に!! いちいち口挟むんじゃねぇよ!!」
サトル君の青色の目に、私の麗しい顔が映る。
「でも、サトル君は一緒に戦いたかったんでしょう?」
「……な」
サトル君の目が、大きく見開かれた。
「なにを、根拠に……」
「そうじゃないかな、って思っただけなの」
彼の目が揺れて、私の顔を映している。
「……わかったようなこと言いやがって。じゃあ何か? 今すぐあの場所に戻って、俺に死ねってのか!?」
「ううん。そうじゃないけど……」
「じゃあ何が言いてぇんだよ!!」
鼻が触れそうな距離まで詰め寄ったサトル君。
とっても苦しそうだわ。
「あの人たち、多分ボディビルダーさんに勝てないんじゃないかしら」
「……」
そう言った瞬間、サトル君が絶句した。
……
…………。
「……ご、ぼっ」
あぁ、空が蒼い。
禪院直毘人は他人事のようにそう思った。
……血まみれとなって倒れた状態で。
「う、うぁ……うあぁぁぁぁ!!」
悲鳴が聞こえる。
我々術師たちの……長い年月が崩れ去る悲鳴が。
ガコンッ
禪院家、加茂家、かき集めていた在野の術師たち。
その全てに“適応”を済まし、悠々と立っている禪院家最強の“剣”。
「……ハハ、ここまでとはな……」
“魔虚羅”によって、周囲はすでにほぼ更地と化していた。
直毘人も最初は善戦した。“最速”たるその実力で魔虚羅を翻弄し、戦いを有利に進めた。
だが、一度“適応”されてからは全てが崩れた。
魔虚羅が直毘人に適応すべく選んだのは、直毘人以上の速度を得ることだった。
速度。単純だが絶対のそれで魔虚羅に上回られた直毘人は打つ手を無くした。そして、同じように直毘人より弱い者たちは悉く蹂躙された。
召喚することそのものが禁止されているために、記録などでは伝え聞いたことはあっても実際に
「……ガキどもは、もう逃げたか」
たかが子供数名を生かすのに……随分たくさんのものが犠牲になったが。
「悪くねぇ生涯だったな」
きっとそれだけの成果はあったのだと、目を閉じ……。
「……ジジイ!」
その一声に、一瞬頭が冷え。
「……何故戻って来たァ!! クソガキィ!!」
怒髪天に達した。
……。
一人舞い戻った五条悟の視界に飛び込んだのは、壊滅的に敗北した呪術師たちの姿。
五条悟がこの場を離脱してから戻るまでに経過した時間はせいぜい5分。
(それでこの有り様かよ!!)
戦慄と共に五条は呪力を漲らせた。
「何が“愚かだな”だ! 愚かなのはどっちだっつの!!」
「ぐっ……! クソッ、あれはお前の手に負えねぇぞ! さっさと逃げろってんだよ!!」
「そうしたら、ジイさん共は死ぬんだろうが……!」
「それでもお前が生きてりゃいいんだよ!!」
……魔虚羅が振り返り、五条悟を視界に収めた。
「いいわけねぇだろ」
……少しずつ近づいてくる巨躯に、今まで感じたことがない類いの緊張を五条悟は感じていた。
「爺さんの介護もできねぇで、何が“最強”だよ」
「……馬鹿が」
直毘人が力無く項垂れ、五条悟は無下限を展開した。
───!!
「……くっ」
魔虚羅の拳が無下限の壁に阻まれる。
だが、これも長くは続かないはずだ。この間に魔虚羅を撃破する方法を見つけられなければ───。
ガコンッ
───!!
「……あ」
無限の壁が、いとも容易く破られた。
「五条!!」
「い、“
瞬間的に詠唱した、強化した無下限の呪詞。
「“
(あ、ヤバい)
しかし全ては遅きに失した。
触れたものをみな切り裂く刃が、思考停止した五条悟の目前へと迫る。
(これ、死ぬ)
五条悟の脳内に湧き起こる、明確な死のイメージ。
絶対的強者として生まれた自分。そんな自分を軽々と凌駕する怪物との邂逅。
その事実から五条悟の胸中に湧き上がる、底無しの恐怖。
だがそれを自覚した時にはすでに、ボーダーラインの外側だった。
一瞬の時間が何十倍にも引き延ばされ、すでに戦意を喪失した心に押し寄せる、後悔と恐怖の波。
波は溢れ、五条悟の眼から漏れ出し──。
「“石鹸掃術”」
底冷えするような声と共に、流された。
「……え」
何が起きた。
魔虚羅が……。
吹き飛んでいる?
「みず、や……?」
「……」
振り向くと、そこに立っていたのは水色の髪の少女。能天気で、現実が見えておらず、考え無しの──。
違う。
加茂美水矢じゃ、ない?
彼女は誰だ。
「“石鹸掃術”」
美水矢は自身の周囲に、複数の水の玉を浮かばせていた。
たかが水。
だがその“水”に込められていた呪術的な意味を見抜いた五条は、信じられない思いでいた。
特級クラス。
否、それすら越える規格外の呪力量。
「……お前」
……加茂美水矢。女神アクアの精神性には、何ら変化はない。
彼女はどのような環境であれ自分勝手に振る舞い、周囲を振り回し、それを陰ながら支える信者たちに良しとされて存在している。
その女神の在り方を変えるのは人の身には不可能だ。
生家である加茂家での冷遇や、人から向けられる奇異の目はなんら問題ではない。それらは女神の心の機微に何の影響も齎せない些細なものだ。
だが、女神の記憶に鮮烈に残っているのは意思も力も弱く、それなのに変な所で妙に強くて、妙にかっこよくて、妙に頼りになる元引きこもりの勇者の姿。
彼と会えないまま、5年の月日が過ぎていた。
誰にもその心を打ち明けたことはなく、彼女自身も自覚していなかった。
……ただ、彼女は寂しかった。
寂しかったのだ。
故に汚れを知らない能天気な女神の心の底に、少しだけ溜まった小さな“泥”。
普段なら、あの騒がしい日々に吹き飛ばされてしまう汚れが吹き溜まって出来た心の闇。
それは水の女神アクアにあるまじき、冷徹さと神としての威光の発露。
魔の者にとっての絶対なる天敵。
「……女神?」
“水の女神”の神威の発現。
加茂美水矢の生得術式 “石鹸掃術”。
その効果。
あらゆる
この世に存在する全ての
「“穿潔”」
神の洗剤が最強の式神を撃ち抜いた。
【情報公開】
《加茂美水矢》
異世界の上位女神の転生体。
非常に協力な退魔の能力を有しており、彼女の攻撃行動は呪力を宿すあらゆる存在に対して例外なく致命的な弱点となる。
美水矢自身はこれらの能力に無自覚だが、美水矢の精神に“何らかの不調”が起きた際、防衛本能のように戦闘・殲滅に特化した人格が表出する。
一説では、それは異世界の女神ではなく“人間”加茂美水矢本人の人格なのではないかと考えられている。