私の相手は太っちょの男、確か牛正と呼ばれていた男だ。来生が石を握って黒になる。団体戦は黒白を交互に持つことになるらしく私は白、鳴良は黒となった。
牛正は星と小目、私は星と星に打つ。
相手の3手目、右の辺の斜め下に打った。ああ、なるほど。この定石久しぶりに見たな。
相手は『中国流』の布石を選択したね。
『中国流』は一時期日本でも流行した主流な布石のひとつだ。名前の通り発祥は中国で、昔の中国はしっかりしたプロ制度がなく日本に負けていた。そこで中国選手は事前にこの布石を集団で徹底的に研究し、全選手がこの布石を使い次々と日本棋士を破った。
三連星(石を3連続星に置く布石のこと)と似ているけど小目に置いた分、地に強い。中国流の最大の特徴は内側から攻めにくいということだ。3つの石で実にうまい具合に右辺を守っている。
この布石を選択したということは相手は相当中国流を研究している。序盤から油断ならない勝負が始まったね。
中から攻めれる形ではないので外から星にかかる。すると上から白石にツケられた。普通ならこのツケに対してはハネ出す一手が王道なのだが、中国流の時だけは打ってはいけない一手になる。
打つと右辺が黒地、上辺が白地となるのだがその時の右辺の黒地があまりにも大きすぎる。はっきりと黒有利になるのだ。
だからハネ出さない。下を這い隅の領土へ滑り込む。牛正の碁笥にかけていた手がピクリと動いた。
「ふうん、お前はこの布石を知っているのか」
「有名だからね」
「まだ幼い割には勉強熱心でないか。だが、俺は十の頃からこの布石を打ち続けている。お前とは重みが違うのだ」
黒も石を繋ぐ。這ってハネて、左隅に打ち込まれた。今のところ形勢は五分だがこの打ち込まれた黒は嫌な位置にある。うまく対処できなければ火傷を負わされそうだ。
「この盤面も研究済みだ。ここから俺が悪くなることは絶対にない。何を思って六財商の会に喧嘩を売ったのか知らないが、白神石は諦め白棋士はまた来年挑戦するんだな。次からは自分より強い相手に逆らうのはやめとけよ」
ご親切に牛正が忠告してくれる。確かに私は中国流の布石を牛正より詳しくはないだろう。小目と星に打たなければ作れない形だから自分で打つこともないし対局したことがあるのも10局そこそこだと思う。
だけどもそんなことは関係ない。布石というのはどの戦場で戦うかを選ぶだけのことだ。
どんな状況でも相手に殴り勝てばそれで良いだろう。
仕掛けてきた黒を捌いて左上に閉じ込める。上辺から中央の制空権は白にある。
中央を全て地にされたら良くないと思ったのか黒が打ち込んできた。踏み込んできた黒石の退路を断つ。戦闘が始まった。
布石の事前研究はできても起こりうるだろう攻め合いを予測して読み切っておくなんてことは不可能だ。それだけは実際の対局中に思考するしかない。
牛正は中国流に絶対の自信があるのだろう。だけども私も自分の読みの深さには命を賭けられる。
この先には牛正の読み筋が待ち受けているのかもしれない。だけど関係ない。その未来まで辿りつきはしない。
今、
攻め合いは右隅下にも及んだ。中央と右下隅の二点で石の攻防が行われている。
中央の黒は命からがら逃げ切って左辺に連絡した。しかし、右下の黒は命潰えた。中国流の一端を担う右下が死滅したのだ。おそらく今来た人が碁盤を覗き込んだら元々中国流の棋譜だったとはわからないだろう。それほどまでに右下は無惨だった。
「何が駄目だった。俺の何が、確かに俺は研究通りに打っていたはずなのに」
「石の攻防に関しては研究だけじゃダメだと思うよ」
戦い抜く為に必要なのは戦いに反応する為の瞬発力と深く入り込む為の思考力かな。時間測って詰碁たくさん解くといいと思うよ。
『負けました』と牛正が頭を下げたので終局の挨拶をして片付けをする。勝った。私は勝ったよ。来生と鳴良はどうかな?
両方ともまだ対局中のようだ。取り敢えず来生の方を覗き込む。えっと、来生が黒か。盤面はえっと、あれ。
来生が負けてるね。
「お、そっちは終わったのか。どうだった?」
「柑斗さん、すいません。負けました」
「うっそだろお前。こんなガキで女に負けたのか」
「柑斗だってこの間女に負けたじゃないですか」
「いやまあそうだが、ああマジか。こんなあっさり牛正を倒すってことはマジ強いんだな星天。来生倒したとか半信半疑だったが、本当だったのかよ。とんでもねえガキだぜ」
パチッと柑斗が次の手を打つ。軽口を叩きながら打っているが鋭く切れ味のある一手だ。来生が歯を食いしばるのがわかる。
「だがこれは団体戦だ。俺と庄作が勝てばそれでいいんだ。そして俺は勝つぜ?」
ニヤリと柑斗が口角を上げる。確かにこれは本当に柑斗が勝つかもしれない。
盤上では来生の三十石にも及ぶ大石が攻められていた。しかも結構やばい。応手を間違えればこの大石は本当に死んでしまうだろう。そうなっては来生の負けが確定する。
来生がパチと次の手を打つ。耐える一手だ。今盤上に来生がこの劣勢を逆転できる手はない。耐えて機会を待つしかないのだ。
だがさらに柑斗の追撃が来る。眼形の急所に置かれた。これは苦しいな。今のところ黒の大石に
「何故俺がこんな白神石12個も賭けた無茶な戦いを受けたかわかるか?」
「なんで?」
「来生に勝つ自信があったからさ」
受ける来生。攻める柑斗。来生は本当に苦しい。水面に顔つけて息苦しいのにさらに上から頭押さえつけられているような碁だ。よく我慢できるね来生。私ならキレて殴りかかってそう。
「来生がこれまで打った碁は研究し尽くした。白棋士になってからの物は勿論、手にいれられる範囲でそれ以前の物もかなりの数集めた。お前の打ち筋、癖、弱点、そういったものは全てわかってる。盛家で受けた棋礼戦だってこっちは来生がくる想定で動いているのだから当然対策はしてくるさ。まあ、盤面全部薙ぎ払ってくる怪力女が出てきて想定外に負けちまったけどよう」
ちょっと遣る瀬無い感じで息を吐きながら話す柑斗になるほどと頷く。元々来生への対策は万全だったのか。来生だって強いはずなのにこんな一方的な防戦になるなんて変だなと思ったら柑斗は来生の棋譜の研究をしてきてたらしい。それは来生もやりにくいだろう。
盤面は複雑だ。来生はよく耐えているけどはっきりと柑斗の白がいい。このままだと黒の大石が死んで柑斗が勝つなと思ったところで白が黒の
あれ?その十石って大石のほんの一部だけだよ?しっぽしか取れてないけど、え、なんで緩めたの?
「これで、俺の勝ちだな」
「柑斗、何故中央の大石を攻めるのを止めたんだ。このままいけばおそらく僕の石は死んだぞ」
「そこまで無理しなくとも俺の方が形勢がいいからな。この黒の十石には23目の価値がある。終盤に差し掛かるっていうのに20目以上差があるなら逆転はさせないさ」
自信満々に柑斗がそう言う。柑斗は冷静な対応をしたのだ。
石攻めにはリスクを伴うこともある。相手の石を取るためには常に目一杯な手を打たなければならないし、それによって無理手を打ってしまったり自分の石に隙が生じることもある。
相手を殴ってばかりだとこちらも殴り返されるのだ。だけれども守りに入れば相手から殴られにくい。自分が勝っているから柑斗は守りに入ったということだ。
囲碁の勝敗は石を殺したかどうかではなく、陣地の広さで決まる。柑斗の判断はおかしいものではなくむしろ良い判断だと言えるだろう。私は相手の石を殺し切る方が好きだけど。
来生が拳を握り締めてふるふると震える。盤面負けてて悔しさに堪えているのかなと思っているとバッ来生が顔を上げた。なんか目が血走っている。悔しい人の顔ではないね。理由はわかんないけど来生は怒っているみたいだ。
「ふざけるな!殺せるなら殺せッ!中途半端に手を緩めるなッ!やる気あるのか柑斗!」
「はぁ?なんで怒っているんだ?」
怒気を纒う来生に柑斗は疑問符で返す。私も首を傾げる。来生は何に怒っているんだろう。
「ふざけんな!もっと殴れるだろ!殴ってこいよ!全力で僕を殴れ!来柯なら息の根が止まるまで殴ってくるぞ!」
「怖ええよ」
柑斗は引いている。私も驚いている。殴られ足りないから殴れってすごいこと言っているな。取り敢えず来生は柑斗が途中で手を引いたことに怒っているようだ。
怒りながらも来生がパチリと打つ。これで黒の大石は柑斗に切り取られた分を除いて完全に生きた。
だけれども形勢は柑斗の白がいい。盤面も終盤に入るし逆転するのは難しそうなんだけど、
でもなんか来生勝ちそう。瞳孔開いてるし柑斗は腰が引けているし流れは来生にある。あ、黒が白石攻め始めた。うわー。
来生と柑斗の戦いは決着つきそう。鳴良の方はどうかなーと思って覗きにいく。
盤面はもう終局してた。
ハイパーシスコンドM来生。
次は鳴良視点。