上辺に打ち込みをする。左から詰められ黒を強化される。黒の開きに反発する。無視されて下辺を打たれる。左辺の黒にかかる。開かれて黒の地を強化される。
何をやってもかわされる。財全は徹底的に私との戦闘を避けた。この一局は何がなんでも石の攻防を行うつもりはないらしい。
戦いがないと言うならば地を稼がなければならない。下辺にすべりを打つ。これで左辺と中央は黒模様、右辺と下辺の一部は白模様となり形勢はほぼ互角となる。今打ったすべりは間違いなく盤面で一番大きな手だ。
だけどふわふわする。まるで地に足がついていないみたいで全てが朧に感じる。盤上がやけに遠い。
いつもは碁盤に石を打つ時、石が脈動するような感覚がある。私の打つ手には意思があって、命がある。自分の全てを注ぎ込んで全身全霊で勝負に臨んでいる。生きているって感じがする。
だけど今は視界に靄がかかっていてぼんやりとする。間違った手は打っていないと思うけど最善手だと言い切れない。自分の打った手に自信がない。勝つ為の最大限の行動を私は出来ていない気がする。
戦いのない戦場の歩き方を私は知らない。だから何処に行くべきかわからないのだ。
じわりじわりと差が開いていく。何か手を打たなければならないのに打つべき手が分からない。私には勝ちへの道筋を見通せない。
どこへ打てばいいんだ。わからない。自分の碁が打てない。つらい。苦しい。
私は心臓の病だった。いつも胸が痛くて息苦しくて、息を吸うたびに張り巡らされた血管一本一本が脈打つのを感じるような辛さだった。でもあの時よりも今の方がずっと苦しい。一生懸命生きられないのは耐え難い苦痛だ。
サラサラと砂時計の砂が流れ落ちる。待ち時間も少なくなってきた。取り敢えず隅を地にしようか。この手が悪手になることはないだろう。
碁笥に手を入れジャラリと石をひとつ掴む。そして盤上に打とうとした瞬間、全身にビシャンと雷でも落ちたかという衝撃が突き抜けた。
頭のてっぺんから指先まで痺れている。取り敢えず?私は今、妥協で石を打とうとしたのか?意思も意図もなくただ惰性で打とうとしていたのか?
自分の弱気すぎる思考に唖然とする。
ダメだ、ダメだ。何をしているんだ。そんな碁を打つ為にここにいるんじゃないだろ。
私の碁は明日がないかもしれないこの僅かな命を、次に繋ぐ為にあるんじゃないか。こんな緩い訳のわからない一手を打ってたまるか!
足掻け。繋げ。生きろ。さもなくば死ぬ。私はこの盤上に命を賭けているのだ。軽い気持ちで打つ一手などあってはならない。
考えろ。思考を切らすな。生きることを諦めるな。この戦場では私の戦い方は通じないのだ。だから他の方法を考えなければならない。
私は戦うことが好きだ。だけど戦うだけが碁ではない。今までの対戦相手だって戦闘を軸とする者ばかりではなかった。戦う以外の勝ち方を見つけなければ私は敗北する。
砂がさらさらと落ちる。今までこの世界で過ごしてきた時間が頭の中を駆け巡る。そして、思う。
たぶん、きっと、ここにいるのが鳴良だったらこの盤面をあっさりひっくり返してしまうのだろう。
鳴良はヨセが得意だ。それは盤上の価値を数値化するのことができるからだ。私にはわからないそれを鳴良はいつも丁寧に教えてくれた。
『えっと、このハネツギは単純に計算すると8目の手なんだけど、次に挟みつける狙いがあって、それも打てると差し引き7目増えるから実質15目の価値があるんだ』
三人で検討をする時、鳴良はいつもわかりやすく解説してくれる。この手に何目の価値があって、どうしてそういう計算になっているのかを説明してくれる。
新羅も『確かに数値に表されるとわかりやすいが、一手打つごとにその手の価値は変動するだろ?とんでもなく膨大な量の計算が必要になるがどうしているのだ?』『え、計算し直してるけど』『全部か?』『うん』『お前天才だな!!??』と吃驚していた。
あいにくと私の頭にはスーパーコンピュータを搭載してないので鳴良みたいに正確な計算はできないけれど、それでも鳴良の碁はずっと見てきた。鳴良の考え方や計算を教えてもらってきた。
それは間違いなく私の血肉となっている。
盤上を見る。盤上で大きいと思える場所は三つ。左辺に打ち込む、下辺の隅を取りに行く、上辺の白から一間に飛ぶ。どれも同じくらい良い手に思える。
いつもなら左辺にノータイムで打ち込んでいた。相手の地を減らして黒と白の攻め合いが始まる理想的な一手目、だけれども財全相手だと逃げられて不発に終わるだろう。そうすればまた私はどこに打てば良いのかわからなくなる。
思考を変えよう。もういつもの打ち方では勝てないのだ。財全は研究し尽くしていて私に私の碁を打たせてくれない。このまま打ち続けたって絶対に状況は好転しない。
今、私に求められていることは攻めて盤上を複雑化して相手の息の根を止めることではない。正解を打つことだ。
この試合はまだ中盤だけどすでに打つべき答えがある。そして答えがある盤面に強いのは鳴良の碁だ。
深く深く盤上に入り込む。いつもは身体中が燃え盛るように熱くて、全ての力を振り絞るように打っていた。
だけど今は、身体の奥底から冷えていくのを感じる。深く鋭く身体が碁盤に溶け込んでいくような感覚に陥る。時計係も怕蓮も財全すらも朧になって盤面だけが世界になっていく。
そして、音が消える。
パチリと気付けば次の手を打っていた。中央に打たなかった。隅にも手を入れなかった。打ったのは自分の地を守る一手、だけどもこれでいい。これがきっと正解だろう。
パズルのピースがカチリとハマった。
手を開いてそして握りしめる。指先に力が灯る感覚がある。うん、大丈夫。さっきまではふわふわとした感覚だったけど今は地に足がついている。私は戦える。力一杯最大限すべてを出し切れる。
ふと顔を上げると財全の眉間の皺が深くなっていた。気付いたのかな、私の打ち方が変わったことに。
この戦い方は財全の研究にはないだろうから困惑してるのかもしれない。私だって初めて戦うのだからわからなくて手探り状態だ。
それでも不安を感じないのは鳴良がいるように感じるからだ。
隣にはいない。でも確かにいるんだ。
鳴良と過ごした時間は
次回鳴良視点