熱い。
熱い。
濁流のように流れる汗が、滴るそばから蒸発していく。
熱狂する観客の悲鳴も、絶叫する解説席のアナウンスも、XXXの耳には届かない。
聞こえるのは己の心臓の音と、喘ぐような荒い息と、精神が繋がったパートナーの咆哮だけ。
見えるのは、荒れたコートと向かい合う二体のポケモン、引き千切れたダイマックスバンド、それから。
美しい、XXの瞳が真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「かっっっっっ……」
絶句。それから頬の紅潮。続く言葉を無理矢理押し込めるように口を塞いだ両手が、勢い余りすぎてばひゅーんと己のからだを後方に吹き飛ばした。
いやそうはならんやろ、というスマホロトムの冷たい視線を浴びながら、ポスンとソファーに身を投げ出す。金がかかったふかふかのソファーはこのためにあったのだ。
「この部屋の備品だけどな」
「かわいい〜〜〜!!」
何か野暮なツッコミが聞こえた気がするが、無視して飲み込んだ言葉を放出した。にばっと微笑んだ表情。信頼しきった顔を見せるパートナー。後ろに映り込んだナックラーがこてんと転んでいる。かわいい、かわいい、かわいい。かわいいって人が死ねる。死んだかも。死んだ途端に可愛さという名のでんきショックが走って蘇生してる。
「うふうふうふふふ」
「人に見せられない顔をしているぞ、ルシア」
まあいつものことだが。
なんて、さっきから届く白けた視線に、悶えていた女──ルシアは気にした風もなくスマホロトムに「拡大して!ロトムも大っきくなって!壁一面のプロジェクターに投影して!」と無茶振りしていた。
*
カレーと紅茶を愛す紳士の国、ガラル。ただし観光客がカレーと紅茶を同時に注文すると「分かってねえなあ!?余所モンがよ!」とバチギレられる危険性を孕む、理不尽の国。
その国にあって好奇心からティーパックとカレールウを同じスープボウルに投入したことがあるタイプの女であるルシアは、虚脱感に見舞われて殺風景な部屋でボンヤリと天井を見上げていた。
場所は変わらず、ふかふかソファーの上。いつもの仕事部屋の中。そして、ガラル地方の中心、シュートシティに聳え立つマクロコスモス社の権威の象徴、ローズタワーの最上階──を見上げることの出来る、全然違う建物の中。
そこが、ルシアの仕事場だった。
仕事中にスマホを見て絶叫した挙句に五周くらい回って放心している最中のルシアの耳が、ペラリと書類をめくる音を拾う。この部屋にいるもう一人の発した音だ。
「今日はなんだ。フワンテ同士が絡まってるところか、もしくは大量発生のニュースか、或いはフワライドがだいばくはつしている動画か、それとも……ああいい、もう分かった」
だいぶ限定的な選択肢を提示した男が、最後に呆れたように首を振る。その傍に、自分のスマホロトムを浮かばせていた。
検索をするまでもなく一発で原因は知れる。何故って男がポケッターでフォローしている数人のうちの一人が、数分前に投稿をしたばかりだったからだ。TLの一番上にその投稿が表示されている。
「キバナのいつもの自撮りじゃないか」
「キバナのいつもの自撮りじゃないか!?」
そっくりそのまま復唱して、目を怒らせたルシアは飛び起きた。因みにこの女が、数少ないフォロー先のうちの一人である。あとはジムリーダーの何人かと幼馴染くらいのものだ。
「あのねえ、今日のキバナくんはいつもより肌ツヤがちょっぴり良いんです!きっとヌメルゴンとたっぷり触れ合った後なんだわ!それをいつもと同じって、これだから素人は困るのよ!」
「そうか?一緒に映ってるのフライゴンだけどな」
「かーっ、キバナくんの日課も把握してないのね。彼はいつもこの時間にランニングから帰ってきて手持ちみんなのケアを終えてから自撮りをアップするの……って、なんでそこにいるの、ダンデ」
きょとん、と口元から上だけを見れば美少女と見紛うベビーフェイスが不思議そうに瞬いた。
紫色の豊かな長髪に、同色の烟るような睫毛に彩られた瞳は黄金。意思の強さを感じさせるそれは、時に威圧を、時に興奮を、そして常に陶酔しそうな自信を与えてくる。
ガラル最強の男。数多のトレーナーたちの頂点。無敵のチャンピオン、ダンデ。
その座に就いてから蓄えた顎髭と立派な胸板、ムキムキの両腕、ぶっとい太もも、とテンションの下がるパーツを指折り数えてルシアはダンデが口を開くのを静かに待った。この男が何かを発言しようとする時、周囲は自然と彼に注目するようになっている。生まれ持ったカリスマがそうさせるのだ。今さっき完全にスルーしたことを棚に上げて、ルシアは己の長い髪をひと束持ち上げた。まずい、枝毛がある。
「なんでいるのって、ここがオレの仕事部屋だからだぜ!」
純然たる事実だった。
己のデスクで珍しく書類を捌いていたダンデこそがこの部屋の主であり、ルシアの仕事相手だ。書類を触っているのは珍しいにしても、居て当たり前の存在である。
「あと、キバナのランニングの時間はオレも把握してるぜ!なんなら先週一緒に走ってそのままワイルドエリアでキャンプしたからな!」
「くっ、キミは今全キバナファンを敵に回した……!」
「ははっ。さてそろそろ仕事してもらうぞ、ルシア。明日もそのキバナとバトルする予定なんだ。最高のコンディションで臨まないといけないからな」
最後の言葉と共に、ルシアとダンデの視線は同じ方向を向いた。白一色の壁に最低限のものしかない殺風景な部屋の、更に仕切りで区切られた空間へ。
ここはローズタワーにほど近いダンデのための
そんなもの、バトルに決まってる。正確には、バトルに勝つ事。
勝って勝って勝ち続けて、ガラルをいつまでも覚めない熱狂の渦で包み込む事。
「準備は終わってるわよ。いつでも始められる」
「そうこなくちゃな。じゃあ任せるぜ、ルシア」
「はいはい」
白いパネルが壁を覆うだけのそこに踏み込んで、ルシアはいくつかのスイッチを操作した。
その間にダンデが腰元のモンスターボールを纏めて空中に放る。出現したチャンピオンのポケモンたちは、皆利口そうに指示を待っていた。
「それじゃ、標高千メートルと同じくらいまで酸素濃度を下げていくね。緊迫したバトルの一瞬でも普段通り動けるように、細かい数値を取りながら調整していきましょう」
一瞬一瞬が命取り。擦り傷の有無が勝敗を分ける。そんなステージで戦う彼らのために、この部屋はある。
ここはダンデ専用のトレーニングルームで、彼の特訓のサポートをするのがルシアの仕事だった。
*
「えーこれ全部決裁して良いのかな?ローズかオリーヴ、何か言ってた?」
「ルシアに渡せばいいって言ってたぜ!」
「うそ。あの人たち死ぬほど忙しいのかしら」
「いまCMの出演依頼に対してオレの隣に並べるポケモンをこっそりフワライドに書き換えようとしているキミの姿を見ると、二人が死ぬほど忙しいってのには同意するな。ってことで、キミの手綱は引かせてもらうぜ。オレの隣はリザードンだ」
フワ、まで書き終えたところで書類が取り上げられた。
いまはトレーニングの休憩時間である。ということは、トレーニング以外の仕事をする時間だ。
普段空っぽなダンデのデスクには少々書類が積み上がっており、その消化もルシアのタスクだった。先程何枚かダンデが捌いていたが、本来デスクワークなどダンデに回されることはない。出来ないわけじゃないのはきちんと処理された形跡のある数件からも伺えるが、なるべくチャンピオンにバトル以外の負担をかけるな、というのがリーグ委員長であるローズの意向だった。
なのにダンデが書類を押し付けられて仕事部屋まで律儀に持ち帰ったということは、上は相当パンクしているということ。あとはルシア頼みとも言える。チョロネコの手でも借りたいのだろう。例えルシアが自分の趣味趣向を仕事に持ち込むタイプの女だったとしても。
「まあいまはジムチャレンジ開始直前だものね」
「明日はエキシビションだからな」
「やだ、いまから興奮してきた。それってキバナくんが出るやつよね」
「オレも出るぜ!」
「ああそう」
適当な相槌を打ちながら、ダンデのデスクを勝手に使って書類を捌いていく。過密スケジュールの合間を縫うように新たな仕事を差し込んだり、各所に調整の連絡をしたり、チャンピオンダンデのイメージに沿わない仕事を潰したり、インタビューの草案を確認したり。
単なるトレーニングスタッフとするには業務が多岐に渡る。だが秘書とするには限定的だ。マネージャー、とするのが一番近いだろう。やっているのは『ガラルのリーグチャンピオン』が行うべき業務遂行の補佐や一部の代行。彼をどう売り出すかはリーグ委員会が考えるべきであり、本番どう戦うか、どうポケモンを育成するかはチャンピオン自身が考えるべきであり、その両者から溢れたものがルシアの仕事。
そもそも、チャンピオンダンデの元に舞い込んでくる仕事というのは実に多岐に渡る。ガラルリーグを代表する存在として、そしてガラル中のポケモントレーナーの憧れとして、あらゆる利害関係が複雑に絡み合っているというのは彼の背中に揺れる真っ赤なマントに縫い付けられた無数のスポンサーのワッペンで察するところだ。
その多忙極めるチャンピオンのマネージャー。ないし、雑用係。
それなりに、忙しい。
「はあ〜さっき投稿された自撮りも最高。このゆるっとしたヌメラスマイルでご飯十杯行けちゃう。でもわたしヌメラよりキバゴ派だからキバゴスマイルって呼んじゃうけど。ほら、名前も似てるし」
「キミって結構我が強いよな」
このように仕事中に趣味に走れるアットホームな職場とするべきか、定期的に推しを摂取しないとやってられない職場とするべきか。
どっちも事実ではあった。ルシアはこのチャンプに度々「キミはこの仕事を辞めたら再就職は難しいと思うぜ」と指摘されている。負けじと「キミもポケモンバトル以外出来ないんだから、負けたら終わりよ終わり」と返しているけれど。そのやり取りを偶々聞いていたリーグスタッフが「ウワッ」という表情でルシアを見るところまでワンセット。
『雇われのくせによくチャンピオンにそんなこと言えますね』か。
もしくは、『自分のことを棚に上げてよく言えますね』か。
バトル以外が出来なくて、負けて終わったのはルシアの方だ。
それでも当時弱冠十歳のバトルジャンキーニューチャンプよりは出来ることがあったので、こうして補佐をしていた。雇い主に対して態度が雑なのは一応理由があるけれど、もうこういう性格なので諦められている。
あれからもうすぐ十年。キラキラ美少女フェイスはそのままにガッチリした肉体へと成長したチャンピオンは、その間公式戦無敗記録を更新し続けている。今の子供はダンデがチャンピオンでない時代を知らないのだ。
「あ、ナックルバトルカフェの一日店長の依頼がきてるわ。わたしスイーツ食べたいから、バッティングしてるシュート新聞のインタビューは断っておくわね。『代わりにキバナ選手の独占インタビューを載せてください』っと」
「ローズさんに同情するぜ。ルシア、一応念押ししておくが、キミはナックルシティ出禁がまだ解かれていない。オレが出向いたとしてキミがスイーツにありつけるとは限らないからな」
「仕事なのに?」
「キミに仕事とプライベートって区分があったのか?」
ルシアが途中まで書き込んだ『フワ』の文字をなんとか消して『リザ』にしようとしているダンデは、デスクを追いやられてふかふかソファーとローテーブルに四苦八苦していた。他に机がないのでさもありなん。
この部屋、トレーニングルームであると同時に執務室であり、応接室でもあるのだ。仕切りの奥のトレーニングルームが一番広く、執務室要素はデスク一つ、応接室要素はふかふかソファーとローテーブル一つしかないけど。
さっき言った通りダンデが書類仕事をすることなどほぼなく、またダンデが来客を迎えることもほぼないのだからこれでいいのだ。ソファーなど、ほぼルシアしか使っていない。
「そうだキバゴと言えば、ちょうどキバゴのたまごの貰い手を探してたんだ。好きなら育ててみるか?」
修正が終わったのか、ふと顔を上げたダンデがチラリとトレーニングルームの方に視線を向けた。彼の手持ちはそこで思い思いに休憩している筈だが、たまごとな。
「キバゴの?どこかで見つけたの?」
「いや、オレのオノノクスのたまごだぜ」
「あらエリートじゃない。わたしキバゴよりフワンテ派だから、フワンテのたまごなら考えるわ」
「オレの記憶が正しければ、キミは既に手持ち六匹を埋められるくらいのフワンテを育てていたはずだぜ」
「どの子もちょっとずつ違いがあるのよ?」
「そりゃ、トレーナーとして同じポケモンは二匹といないってのは同意するけどな」
だからこそキミが育てたキバゴがどうなるか、ちょっと興味あるぜ!なんて言いながら、ダンデは席を立った。休憩は終わりらしい。
「明日キミはスタジアムまで観戦に来るつもりか?」
「そのつもりだけど?わたしシュートスタジアムも出禁だっけ?」
「いや、一般席が禁止なだけだ。ちゃんと関係者用入口から入ってくれよ!」
ルシアの方がひとつ歳上なのに、ダンデは度々ルシアを嗜めるような言動をする。世間一般のイメージからすればチャンピオンダンデは純粋無垢でちょっと天然で、バトル以外は抜けたところもある好青年だ。
けれども実際、それだけが彼の本質でないことはごく一部の人間しか知らない。
そのうちの一人になどなる気は無かったのにな、と溜息を吐きながらルシアは「分かってるってば」と首を振った。