煮え滾るようだった。
音を失った場に、己の心臓の音ばかりがバクバクと響いている。誰もが脳が痺れるようなスリルと興奮を求めていて、この場にはそれがあった。喉から引き出された声が、歓声であったのか罵声であったのか。周囲から響く絶叫に紛れて答えは判然としない。きっと自分以外の誰もが同じだった。
叫びすぎた喉に血が滲んで、味覚が塩味を訴える。あまりに非生産的な行為だ。彼女にとって、XXXは万の中の一でしかない。
手の届かない遥か遠くに、XX色の瞳がギラギラと光っていた。
「キミは直接話すと思ったより普通だな」
それが、初めての会話だった。
ローズタワー最上階の執務室。ルシアはガラス越しの陽光を背中に浴びながらローズの左後ろに立たされていた。促されて渋々した挨拶への返事に、笑顔よりも言葉よりも先に舌打ちが飛び出て行く。
「ルシアくん?」
「ああ、失礼。それで?チャンピオン就任おめでとうじゃなくて、さっさと凋落しろクソガキめって言えば良かった?」
「凋落ってなんだ?」
きょとん、と蜂蜜色の瞳が瞬く。昨日ルシアを打ち破りチャンピオンに就任したばかりの少年は、良くも悪くも純朴な田舎出身の少年だった。数年経てば分からないが、今は可愛らしい顔立ちだ。斜め前に座っていたローズが、「ふむ」と頭の中で算盤を弾いたのが分かった。
「絵面だけなら、キミと並べるとよく映えるんですけどね。出す場面は慎重に見極めないといけない。仲良しに見えるなんて以ての外、安売りも良くない。宿命の対決を演出するなら余計な情報が入らない媒体の方が良いね」
「いくつか見繕っておきます」
ローズとその秘書オリーヴの間で既に一つの仕事が決まった。
そのやり取りの意味すら分かっていないひとつ歳下の少年を、ルシアはローズのデスク越しに観察しながらグラグラと煮えたつ腹の中を適当に宥めすかしていた。
ダンデという少年は、田舎臭さでは覆い隠せないほどのスター性を持っていた。まさしく、チャンピオンになる為に生まれてきた男だ。ローズの熱の入れようがルシアの時とは段違いだし。
出来る限り長くこのチャンピオンを君臨させる為に、ローズは死力を尽くすだろう。強いガラルを内外にアピールするためにこれ以上の旗頭はないと、ルシアも直感していた。
「さてダンデくん。今日来てもらったのは、チャンピオンのおしごとについて説明する必要があるからなんだ」
「はい、分かってます」
「知っての通り、ここにいるルシアくんはダンデくんの一つ前のチャンピオンだ。当然、チャンピオンとしては先輩にあたる。まずは彼女にチャンピオン業務について教えてもらいながらやってみよう。難しいことは、最初のうちはルシアくんにやってもらっても構わないよ。というわけでルシアくん、よろしくね」
「は?いやだけど」
即座に却下したルシアに、睨みつけるような視線と驚いたような視線が突き刺さった。前者はオリーヴのもの。後者は、チャンピオンのもの。
ローズはにこやかな表情を崩さず、ジッとダンデのことを見つめていた。ルシアのこの反応を予測していたようにも見える。なのにダンデをルシアに任せようなんて、人が悪いにもほどがある。
ルシアは、ダンデのことが気に食わなかった。自分のことを負かした相手だというのもある。が、それ以上の要因があった。彼の性格や経歴なぞ一切知らないが、ひとつ確かなことは、この少年が敗北を知らないということ。
その一点だけで、ルシアが毛嫌いする理由に足る。
良いトレーナーの条件とは、勝利に貪欲であることだ。
ルシアはその例に漏れず、勝つことが好きだ。なんとしてでも、どんな手を使ってでも勝ちたくて、実際それで一時チャンピオンにまで上り詰めた。
ルシアは勝利が好きだ。勝った後に見る、敗者の痛惜が好きだ。
それが、この少年にはない。
誰もが少なからず切磋琢磨の途中で経験する敗北の悔しさを、知らない。この世で最もルシアの好みから外れた人間が、ダンデというチャンピオンだった。
「そう言わないでくれ。これはキミに対する信頼でもあるんだよ、ルシアくん。いまこの場において、チャンピオンというものをわたくしの次に理解しているのがキミだ。シュートシティ全域まで拡大しても、ガラル全土を見渡しても、結果は同じだろう。一年前のあの日、静まり返ったスタジアムで咄嗟に自分を悪役に仕立て上げ、見事一年間その役を全うした。そんなキミならば、わたくしと同じヴィジョンが見えていると信じている。チャンピオンダンデがどうあるべきか、答えられるだろう?」
ルシアはローズがここまで饒舌なところを初めて見た。
「お言葉ですが、ローズ委員長」
ローズも、ここまで礼儀正しいルシアをこの時初めて目の当たりにしたのだろう。
「わたしは今日限りでトレーナーを引退し、ガラルリーグへの所属も抜けます。あなたの描く宿命の対決なんかゴメンだ。チャンピオン業務の引き継ぎは先代……失礼、先々代へ負担をかける訳にはいかないので請け負いますが、それが終わればガラルリーグとは一切無関係になる」
悪を討った英雄。悪を討ち続ける英雄。なんともわかりやすいストーリーだ。
ガラルリーグを来年以降も盛り立てる為に、ローズはどんな手をも使うだろう。
「ルシアくん。確かにキミは一度敗北を経験しましたが、それでもこのガラルの最も優秀なトレーナーの一人だ。いつかもう一度チャンピオンに返り咲くこともあるかもしれない。何よりキミはまだ若い。判断は早まらない方が良いでしょう。これは大人としての忠告だ」
「いいえ。悪は一度討たれたら滅びるものだ」
「……頑なですね」
最後だけ、ローズはルシアのことを見た。決意が変わらないことを確認して、また算盤を弾く為にダンデに視線を戻す。
注目が戻った彼は、溢れそうなほど大きく瞳を見開きながらルシアのことを見つめていた。
「やめるの、バトル」
「ええ、そうね」
「やめたら何するの?」
「え、キミには関係ないと思うけど。そうだなぁ、ポケモンセンターのジョーイさんとか?育て屋なんかも面白そうだなって思ってるし、その辺じゃない?」
「じゃ、じゃあさ!」
ローズのデスクに手をついて身を乗り出した少年が、ルシアにその黄金の瞳を真っ直ぐに向けた。
「オレのポケモン見てくれる?オレ、チャンピオンの育てるポケモン好きなんだ。どうやって育ててるのか知りたい!」
「はあ〜?利敵行為なんかする訳ないんだけど」
「でもチャンピオン、もうバトルしないんだろ?」
「……いやあ、だとしてもちょっと。つーか、もうわたしチャンピオンじゃないんだけど。煽ってる?」
「あ、ごめん」
「く、くくく」
しょぼんとしたダンデとは対照に、ローズが肩を震わせたかと思えば大口を開けて笑い出した。ガラル紳士である彼のこんなところ、言うまでもなく初めて見た。ルシアの反対側にいるオリーヴもあんぐりと口を開けている。
「ふ、ふふ。失礼。良い提案だ、チャンピオン。ルシアくん、キミは自分のことをヒール役を演じているだけの真っ当な人間と思っているフシがありますが、そんなことはない。キミは充分イカれた人間だ。ポケモンバトルなしでは生きていけない類のね。人として持ち合わせるべき多くの要素をトレーナーとしての才能に吸い取られている。少なくともマクロコスモス社の採用試験には逆立ちしても通らないでしょう。ポケモンセンターなどの公的機関もダメでしょうね。というか一般企業は軒並みダメです」
「え、そこまでですか?」
「ええ、そこまでです」
言い切って、ローズは満足気に立ち上がった。それから腰をかがめ、ルシアと視線を合わせるようにしてから片手を差し出してくる。
「確かにいまダンデくんが言った通り、キミには育てる才能があるのでしょう。であればとんだ失礼をしたのはこちらの方だ。どうです?トレーナー、ルシア。このチャンピオンのたまご、育ててみる気はありませんか?」
*
「じゃあこれな、ルシア。来週あたりオノノクスと模擬戦してみよう。どれだけ育ったか見せてくれよ!」
ルシアの腕の中にまあるいたまごが一つ。ふんふん、とダンデのオノノクスが名残惜しそうに頭を擦りつけていた。
「は?」
ルシアはいま、バウタウンに来ている。前日リザードンと集合場所を念入りに確認し、世紀の方向音痴であるチャンピオンが無事シュートの自宅から寄り道せずリザードンだけに頼ってバウまで来てくれることを祈りつつ、今日のスケジュールを確認して、と朝から忙しくしていたら、集合時間の前にダンデがルシアの隣に降り立ったのだ。
「そんなに心配ならシュートから一緒に来れば良かったんじゃないか?」
「朝っぱらからキミの顔見たくないわよ」
「今も朝っぱらだけどな」
と思えば、いきなりたまごを押し付けてくる。シュートからここまで抱えてきたのだろう、たまごはほんのり温かかった。
「言ったろ、キバゴのたまごの貰い手を探してるって」
「断ったつもりなんだけど」
「そうだったか?でも、ドラゴンタイプをうまく育てられる知り合いが周囲にいなくてな」
「沢山いるでしょうが……キバナくんとか。そうじゃなくてもジムリーダーなら誰でも」
「じゃあ頼んだぜ!」
話を聞いていない。新調したサングラスをずり上げて、ルシアはまだ生まれる様子のないたまごを見下ろした。ずっしりとした重さがある。たまごからポケモンを孵した経験は何度もあるけれど、いつだってその責任の重さにクラクラする。ルシアの言動一つでどんな方向にでも成長する、無垢な命の灯火。注いだものを純粋に受け取って、余すことなく糧にするまっさらな命。
「ってちょっと、ダンデ!行き先そっちじゃない!」
「ばぎゃ」
「ああリザードン、お疲れ様。休んでていいわよ」
目を離した一瞬で迷子になりかけていたダンデを呼び戻し、ルシアはもう一度たまごを抱え直した。
今日の目的地は、バウタウンのレストランだ。チャンピオンとのコラボメニューの試食会に招かれている。待ち合わせをしたのが街の入り口だったので、しばらく歩く必要があった。
バウ自体が海辺に作られた港町で、海遊びや釣りを楽しむ観光客で賑わっている。少し歩けば海沿いの道に出るので、遠回りして散策するのもいいだろう。
同時に、バウジムのジムリーダー、ルリナがモデルを兼任していることもあり、バウはファッションの街でもあった。内陸側にはお洒落なショップが立ち並び、流行最先端のファッションに触れることができる。
隣を歩いているチャンピオンが割とキテレツなチャンピオンスタイルを案外着こなしているので、ルシアは近年ファッションって着る人次第なんだな、と思っているけれど。
「はあー、視線が鬱陶しい」
「ルシアが目立ってるからな」
「キミが目立ってんのよ、チャンピオン」
ファーのついた赤いマント、王冠のような模様の入った黒のキャップ、目が覚めるような紫の長髪。ユニフォームがチャンピオン仕様ということを差し引いても、オンリーワン過ぎて朝っぱらから大目立ちしている。通勤、通学途中の町民から開店準備をしている店員まで、口々に「チャンピオンだ!」「ダンデ、応援してるぞ!」と声をかけてくるのだ。隣で黒スーツにサイズの合わない黒サングラスのSPスタイルの不審者──失礼な。ルシアが陣取って押し留めるようなハンドサインをしているので群がってはこないが、時間の問題だろう。
「左手の路地の奥、男の子が一人隠れたわね。顔を覗かせた瞬間手を振ってあげて」
「路地?ああ、あそこか。ルシアはめざといよな」
恥ずかしがって隠れた少年に満面の笑みをプレゼントしたチャンピオンに、「キミが鈍感なの」と文句をつけておく。チャンピオンダンデのパブリックイメージを傷一つなく作り上げるのもルシアの仕事のうちだ。ルシア一人で歩いていたら周りの様子なんか一切気にしない。
「ねえ、チャンピオンの隣にいるのって……」
「ああ、あの髪色そうだよな」
「チッ」
盛大な舌打ちと共に聞こえた声の方を振り向く。気にしないと言ったけど、こっちの方面だったらルシアは地獄耳だ。人を指差すなと学ばなかったのだろうか。残念ながら今日限りでバウタウンも出禁になりそうだ。
「ふーちゃん、ボコボコにしてやるのよ!」
「ヒッ、やっぱりそうだ、簒奪者!まだ生きてたんだ!」
「生きとるわァ!」
勇んで飛び出してきた相棒が、威嚇するようにその体を膨張させていく。
「おい、あれやる気だ!
「こんな街中で!?」
「前科があるんだよあいつには!」
「まだ街中ではやってねーよ!!ふーちゃんシャドーボール!」
わーきゃー言いながら逃げ惑う町民に向けてわざを指示して見せれば、さらに混乱が酷くなった。蜘蛛の子を散らすように集まっていた観衆が去っていく。
「フワライド、その辺にしてやってくれ。みんな済まない、もう大丈夫だ!ついカッとなっちまったみたいだが、ルシアにはオレからよく言い聞かせておくぜ!本当に撃つつもりはなかったんだ。怖がらせてごめんな!」
「ふーちゃんはやる時はやる子よ!」
「ルシア、キミのフワライドを貶してるわけじゃないんだ。ただ今は黙ってて欲しかったぜ!」
興奮冷めやらぬままぐるぐると喉を鳴らして、ルシアはたまごを抱えたままフワライドの体に抱きついた。ゴーストタイプのポケモンの例に漏れず、ひんやりしたからだが優しくルシアを包み込んでくれる。その間、ダンデは居合わせた一人一人に声をかけ、握手をし、願われればサインをし、怪我はないか、恐怖心が残っていないか、確認しながら励まして寄り添っていた。
ある意味これが、ローズの描いていた勧善懲悪の絵図でもある。強いだけに手に負えない悪党を、完全無欠な英雄が手綱を握って飼い慣らす。ルシアが暴れるほどに、ダンデの評価が上がっていく構図。
演技のためにこうしているのか、これが素なのか、ルシアだってたまに分からなくなる時がある。でも、この構図が正しいという感覚だけは確かだ。
「たまごを与えておけば大人しくしていると思ったんだが、キミの相棒も最近暴れ足りなかったらしい」
戻ってきたダンデが、ルシアが抱きついたままのフワライドをそっと撫でた。他の人間がルシアのポケモンに触れたら怒り狂う自信があるが、ダンデがルシア以上のトレーナーであることは身をもって知っている。はームカつく。
「キミが本気でないことは分かってるぜ。
「安売りしないタイプなの。……そもそも、バトルを辞めてからあの子とは殆ど話してないって知ってる癖に」
直接名前を出さずとも、どの子の話かは伝わった。チャンピオン時代、バトルには数回しか出したことがないのに、ルシアのエースポケモンとして認識されていた子がいる。ルシアと似たような性格の子だった。勝つのが大好きで、負けるなんて露ほども思ってなくて。認められなくて。
だから、ルシア以上にダンデのことを恨んでるし、何年経っても不貞腐れたまま殆どボールから出てこない。
「だとしても、キミを強く信頼して、キミの指示にしか従わないだろう?もしキミが本気なら街一つ火の海だ」
「キミのリザードンじゃあるまいし。あの子、ほのおタイプじゃないんだけど」
「言葉の綾だろ。さて、行こう、ルシア。この場はさっさと離れた方が身のためだぜ」
「分かってるって。たまご、冷えちゃった……。しゃーちゃん、出てきてくれる?」
フワライドとの間に挟んでいたせいで熱を吸い取られたたまごのためにシャンデラを呼び出しながら、ルシアは足早に目的地に向けて歩き出した。ほのおタイプを持つシャンデラがたまごに優しく寄り添うが、周囲の人間は暴君が新たなポケモンを出したことに警戒を強めていた。
「だいたい、わたしはもうポケモンバトルを引退したのよ。それってポケモンに対してわざは使わないってことなんだから、つまりヒトやモノに対して使ったって問題ないでしょ、未遂だし」
「問題大ありだぜ。キミは知らないかもだが、ガラルには法律ってものがあるんだ。あとキミはポケモンに対してもわざを使うから、なんの言い訳にもなってないぜ」
「正論説かないでくれる?」
溜息を吐いて、海から吹き付ける潮風を代わりに吸い込んだ。帰る前に釣竿を投げてみてもいいかもしれない。どうせまた暫くバウタウンには来ないのだ。
「なあ、ルシア」
呑気なチャンピオンの声を無視して、ルシアは見えてきた目的地に顔を上げた。海沿い、オーシャンビューのレストランだ。確かシーフードを基調としたメニューを提供していたはずで、評判も悪くない。赤い屋根は可愛らしいし、テラスには白いパラソルが並んでいて、天気が良ければ外で食事も出来るらしい。女性が好みそうな店構えだった。
女性客にリーチするなら、ダンデにスーツでも着せた方が良かったか。幸いバウタウンなら良さげな服を見繕うこともできるだろう。迷子を見越して早めに集合したから時間も余裕がある。白いスーツにワインレッドのシャツ、ちょっとキザなくらいでちょうどいい。ネクタイはどうしようか。
「ねえダンデ」
引き返そう、と振り返ったルシアは、思ったより近くでこちらを覗き込んでいたダンデにちょっと足を引いた。
「なに?」
そういえば何か話しかけられていたっけ。
「いや、シャンデラを育ててみるのもいいかもと思ってな。キミのシャンデラ、いい相手はいないのか?」
「しゃーちゃんのたまご狙ってる!?ぜーったいあげないけど。ほら、しゃーちゃんも威嚇してる」
たまごから離れてダンデの周りを回ってるシャンデラが、ぴこぴこと青い炎の強弱を操作した。いやこれじゃれついてるだけか。チャンピオン時代からのルシアの手持ちたちも、ダンデとは十年近くの付き合いになるわけで。
「しゃーちゃんの浮気もの!だいたいほのおタイプならキミにはリザードンがいるでしょうが」
「別に同じタイプを育てちゃいけないってわけじゃないだろ。現にキミも同じゴーストタイプのフワライドとシャンデラを育ててる」
「だって可愛いんだもの」
「ああ、可愛いよな、シャンデラ」
この可愛さはダンデも理解できるらしい。青と紫の間にいるような不思議な色のポケモンが、甘えるようにルシアに頬擦りをした。ルシアと同じ色だ。ルシアの髪色も、青と紫の中間のような色をしている。ガラルでは目立つ色だけど、染めたり隠したりするつもりはない。ルシアは自分のカラーを誇りに思ってるし、可愛いと思ってる。
「たまごはあげないけど、ヒトモシから育てるつもりがあるならアドバイスくらいはしてあげるわ。今度ね。今はキミのスーツを見繕わないと」
「スーツ?」
「そ。オリーヴからちゃんと引き継ぎしてないから準備を手抜かったわ」
今日のルシアは予定が被って同席できなかったオリーヴの代打だ。シュートならともかく他の街にルシアが出没すると面倒なことになるので、基本同行はしていない。リーグ側の人員がどうしても足りない時にだけ顔を出すことにしていた。前チャンピオンルシアは表舞台から姿を消したことになっているし。
「もしかしてオレが詳細を転送し忘れたか?こういう時不便だな」
「いいのいいの、まだ間に合うから」
こういう連携ミスもたまにあることだ。何故ならオリーヴもローズも、ルシアに直接指示を寄越せないから。ルシアはチャンピオン引退から一年で宣言通りリーグを退会し、ローズとは無関係になった。その上で、個人的にダンデに雇われている。リーグからの仕事は一度ダンデに振ってきて、それをルシアに渡しているという流れ。ガラルリーグから見ればルシアは何の立場も有しておらず、ダンデの一声がなければ部外者なのだ。
そのくらいがちょうどいい。あのスポットライトの下に戻るつもりのないルシアとしては、リーグからは距離を置いておきたい気持ちがある。
「じゃあ、オレのシャンデラが育ったらキミのシャンデラと模擬戦してくれよ」
「バトルはしないの」
「バトルじゃないぜ、模擬戦だ」
「そっかあ」
よし、ネクタイはなしにしよう。ちょっと首元に隙があるくらいがお茶目かもしれない。
*
ルシアの一日に決まったルーチンというものは存在しない。朝に仕事の予定がなければゆったりと、あれば慌ただしく目覚めて先に朝食を済ませることもあれば食べない日もあり、育てているポケモンたちが好き勝手にえさを食べているのを横目にランニングに出たり出なかったり。
ブラシを持って座っていればケアして欲しい気分の子たちが駆け寄ってくるのでその世話をして、朝日に向かって深呼吸をしたりしなかったりして朝のシュートシティの空気を楽しむのだ。ルシアのポケモンたちはみな気紛れで、こちらが何をしていても大して気に留めない。ベランダへ続くガラス戸を開けてやれば、そういう気分の子が足元をすり抜けていき、ポケモン用サンドバックに得意わざを放ったりしている。
「りとちゃん、今日おさんぽ行こうか。ちょっとキレが悪いかもね」
トリトドンの頭を撫でて、さては昨日隠れておやつを食べたな、と頬を擽る。他に調子が悪い子は居なそうなので、久しぶりにワイルドエリアに行くのもいいかもしれない。トレーナー時代は入り浸ってたけど、もしかして五年ぶりくらいになるだろうか。きっかけはダンデがキバゴのたまごを寄越したから。野生経験がない子なら、一度ちゃんとワイルドエリアを見ておいた方がいい。
ベランダの柵に近寄って、眼下に見えるシュートスタジアムを見下ろした。
ルシアが住んでいるのはシュートシティの高層マンションだ。育てているポケモンの多いルシアは郊外の大きな一軒家か、ここのようにポケモンたちが思い思いにわざを使うことを許可されている一部の高級マンションに住まざるを得ない。今の仕事を辞めたら家賃やポケモンたちの食費を賄えなくなってルシアは破産だ。そう考えると、チャンピオン時代は感覚が麻痺するくらい稼いでいたな。
「そういえば今日はジムチャレンジの開会式だったかしら?」
「そうだぜ!」
「げ」
聞き慣れた羽ばたきと共に隣の部屋からオレンジのポケモンが飛び出した。ここはポケモントレーナー、それも多数のポケモンを育てているような上位トレーナー向けの物件で、つまりシュートシティの有望トレーナーの大半がここに住んでいる。ということはもちろん、ガラルチャンピオンもお隣さんなわけだ。
「遅刻じゃない!ダンデ!」
「まだ大丈夫だ。でも急がないとな!」
「ちょっと待って、寝癖がはねてる!」
慌てて寝癖直しを取りに部屋に戻って、ベランダに降りさせたダンデの癖毛をなんとか見れるように整える。チャレンジャーたちがこれから目指そうという当のチャンピオンがだらしない姿なんて、笑い話だ。
「そうだルシア、この間のキバゴはどうなった?そろそろバトル出来るだろ?」
「あの子ならまだ寝てるけど」
「開会式終わったらいつもの部屋で待ってるぜ。じゃあ行ってくる!」
「わ、キバナくんがおはようしてる!」
「じゃあな!」
ロトムが教えてくれた通知に食いついていれば、ダンデはあっという間に空の向こうに消えていった。
「ロトム〜〜このキバナくん壁一面に映して!シャワー浴びた後だよね、髪がちょっと濡れてて色気のあるキバナくんも素敵〜!」
「この家にそんなおっきいモニターはないロト……」
「シュートスタジアムのモニターでもいいよ」
「ルシアは一回ちゃんと捕まった方がいいと思うロト」
これがナックルシティだったらジムのモニターをキバナくんでジャックしたくらい、何の問題にもならないのに。
「まあいいや。ふーちゃん、ワイルドエリアに行こう。お昼はカレーにしようか」
具材は現地調達でなんとかなるから、鍋とテントとおもちゃと、最低限の食材があればいい。ガラル民はキャンプでカレーを作るのが大好きなので、キャンプセットは何処でも手に入る。行き掛けにサッと買っていけばいいだろう。
「キミはどうする?」
最後に、ルシアの部屋の奥に鎮座しているボールの中に問いかける。ピクリと反応したので絶対聞こえてはいるのだろうに、たっぷり寝たはずのその子はいつも通り不貞寝を決め込んでいた。
書き終わってる作品なので、準備が出来次第続きを上げていきます。