「おや、今日も来ないかと思ってたよ」
ヒナイチは夜も終わる頃に事務所にやってきた。
「仕事が忙しかったのかい? 今日のおやつはブラウニーだよ」
「いや、いらない」
ざわっ、と動揺が広がる。
室内には彼女の他にドラルクとジョンしか居なかったが、それでも部屋の空気がゆらぐには充分だった。
「……お腹すいてないのかな。クッキーもあるから、持っていくといいよ」
「ありがとう、気持ちだけもらっておく」
その言葉にドラルクは動きを止め、ジョンはオロオロし始める。
「大丈夫? 熱でもあるんじゃないか?」
ひやりとした手が額に当てられて、ヒナイチは慌てたように体を引いた。
「だ、大丈夫だ! おやつを断っただけだろう!」
「だから心配なんだ。君がクッキーを食べないなんて」
ジョンも匂いを嗅いで本人か確かめようとしている。
「そもそも、いつも馳走になっているのがおかしいんだ。私は公務員でお前は利害関係がある相手、ヘタすれば収賄と受け取られかねない」
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって…」
「ここに来ているのは上に報告しているんだろう」
「もちろんだ」
「おやつを食べているのだって知らないわけでもあるまい」
「ああ」
「それなら何の問題もないじゃないか」
「しかし……」
彼女の方は「問題だ」と考えているようだ。
「じゃあ、お茶ぐらいはどうだい。せっかく来てくれたんだし」
促されてヒナイチはやっとイスに座った。目の前に紅茶が置かれ、クッキーも添えられる。
「ちょっとしたお茶請けぐらいはいいんじゃないかな」
「……いや、結構だ」
決意は固い。
「そうか。じゃ、ジョン食べる?」
「ヌー!」
「あっ」
ジョンが口に入れるのを見てつい声が出てしまったが、ヒナイチは空咳をして身を正す。
「そういえばブラウニーもヒナイチ君が食べないなら余ってしまうなあ」
皿に盛られたソレを、見せつけるようにしてテーブルに置く。
「本当にいらないの?」
凝視していたヒナイチは、ハッとして顔を反らす。
「ジョン食べるかい?」
「ヌー!!」
目の前でそれはそれは美味しそうに食べているのを、ヒナイチはヨダレを垂らさんばかりに見つめていた。
ドラルクは困ったように笑うとキッチンへ向かう。物音にヒナイチが顔を上げると、やがて何かが焼ける音とともに甘い香りが広がる。
「ヌッヌヌーヌ!」
テーブルには丸い皿にふんわりと丸く収まった、茶色い幸せの形がある。バターを載せると見る間に溶け出す。
「ハチミツでよかったかな?」
黄金色の液体がとろり、と落ちて広がる。
ヒナイチはゴクリ、と唾を飲み込んだ。
「どうぞ」
ヒナイチは泣きそうな顔で目の前のホットケーキとドラルクを交互に見た。
「そうか、じゃあジョン、」
「ああっ」
反射的に声が出る。
ジョンの前に移動しかけた皿を、もう一度彼女の前に置いた。
「どうぞ」
ニッコリと笑って勧める。
甘い香りに包まれた焼きたてのホットケーキに勝てるものなどあるだろうか。ヒナイチはフォークを取って一口食べる。バターたっぷり、ハチミツたっぷりだ。
そうなると止まらない。一心不乱に口に入れる。美味しくて美味しくて、泣き出しそうだった。
***
「……ごちそうさま」
ヒナイチはバツが悪そうにフォークを置いた。
「お粗末様でした」
ニコニコと返事をするドラルクをそーっと見上げる。
「迷惑じゃないのか」
「どの辺が?」
「部外者が毎日のように来て」
「いまさら部外者なんて言うつもりかい?」
「馳走になるばかりで金も払わずに」
「ロナルド君の財布だし気にすることはない」
そこは気にしろ!とロナルドの声が飛んできそうだが、今は不在だ。
「ねえヒナイチ君、私が食べもしない食事を作り続けるのはどうしてだろうね」
「……吸血のためだと聞いたことがある」
人を招き入れるため、健康的な血を手に入れるため。吸血鬼対策課なら基本的な知識だ。
「だけど、君たちの血を吸ったことはない」
「作るのが好き、とか?」
「半分はそうかな。あと半分はジョンやヒナイチ君が……一応ロナルド君も入れとくか、美味しいと言ってくれるのは嬉しいものだよ。これは一方的な供与じゃない、作ったものをきちんと褒めてくれるなんて充分な報酬じゃないか。君たち吸対だってお金のために市民を守ってるわけじゃないだろう?」
こくん、とうなずく。
「君が嬉しそうに食べてくれるのに、迷惑だなんてカケラも思ったことはないよ」
「じやあ、食べていいんだろうか」
「誰も反対なんてしていないだろう」
「……そうだな。少し考えすぎたのかもしれない。なんだか急に怖くなったんだ」
「怖い?」
「これが問題になって来られなくなったら……」
「来られなくなったら?」
「おやつが食べられないじゃないか」
居間が妙な空気に包まれる。
「ヒナイチ君……それじゃ、どちらにしろ食べられないけど」
「あっそうか。……いや、おやつだけじゃなくて!」
「……うん、大丈夫だ。誰かに咎められたって私は平気だし、君が来たい時に来ればいい。おやつだって君のために用意しておくさ」
ぐうう~、と音が響く。ヒナイチは真っ赤になってお腹を押さえた。
「す、すまん、食べたばかりなのに。また食べてもいいと思ったら安心して……」
「じゃあ、お代わりはいかがかね?」
「ヌンヌ!」
「ジョンは今日食べすぎたからダメ。ご飯も減らさないと」
「ヌー!」
食べさせておいてひどい!とジョンは叫び、ふたりは声を上げて笑った。