131スペアイの日 用のSS
「いい匂いだね」
ダークアイが作業をしているとスペードがキッチンにひょいっと顔を出す。
甘い香りが廊下まで漂っていた。
「いまパイを焼いているところです」
「ティータイムが楽しみだね」
そう言ってキッチンカウンターに座った。
頬杖をついてダークアイがボウルや調理用具を洗っているのを楽しそうに見ている。
「あの……焼き上がったらお持ちしますので」
「ジャマだったかな」
「いえ、退屈じゃないかと思いまして」
「全然そんなことはないよ」
楽しそうに言われるとそれ以上は言えなくなる。
洗い物を終え、布巾で拭き、棚に収める。そのひとつひとつを見つめられて必要以上に緊張した。
せめて場を持たせようと紅茶を淹れる。
「ありがとう」
「………………」
することがなくなってしまった。
片付けも終わったし、夕食の仕込みをするには早すぎる。
幸い、パイが焼けるまであと少しだったが、タイマーの減り具合がやけに遅く感じられる。
いつもなら二人きりでも何ともなかった。あくまで助手であり、ダークアイは存在を消してそばに控えていればいい。しかし今は自分の持ち場でにいて、注目されているのは彼女自身である。
背中にスペードの視線を感じながら、オーブンの数字が減っていくのをただただ見つめる。
あと5分。
あと3分。
1分。
…………………………………………………
焼き上がりの音を救いの神のようにして扉を開けると、パンプキンパイがこんがりと焼き上がっていた。天板ごとキッチン台に上げるとスペードの顔が輝く。
「美味しそうだね」
「お茶の時間には少し早いですが、召し上がりますか?」
クリームを泡立てなければ、今の間にやっておくべきだった、そうだ紅茶のおかわりを、その前に切らないと、
「熱っ」
「ダークアイ!!」
焦りすぎて素手で金型に触れてしまった。
スペードが飛んできて、腕をつかみ蛇口を全開にする。
「大丈夫ですスペードさま」
「ダメだ」
スペードは手袋のままダークアイの手をつかんで水をかけ続ける。勢いよく流れる水が跳ねて自分が濡れるのも構わない。
「あの……もう大丈夫です」
やっとその手を放してくれた。
「すいません、スペードさままで濡れてしまって」
「なあに、すぐ乾くさ」
濡れた手袋をシンクのフチにかけ、渡されたタオルで服のしぶきを拭く。
「薬はどこだい?」
「このくらい、何とも……」
「ダメだよ」
ピシャリと言われる。
今のスペードは有無を言わさない勢いだった。
「ここに薬箱が……」
棚に手を伸ばそうとするより早く、スペードが薬箱を取り出す。キッチンカウンターに戻ると軟膏を出した。
「おいで」
手招きされて固まる。
「おいで、ダークアイ」
もう一度言われておそるおそる隣りに座った。
「あの……薬なら自分で塗りますから」
スペードは手を出して無言で待つ。拒否権はないらしい。
おずおずと左手を差し出す。掌には赤くうっすらとヤケドがついていた。スペードは軟膏を指に取ると、その手にそっと自分の手を添えた。
心臓が跳ねる。
ただ薬を塗られるだけなのだと必死で平静を装う。
「………っ……」
指が触れると小さな声が漏れる。顔を歪めたダークアイにスペードの顔も曇った。
「ゴメン、ボクが居たせいで」
「とんでもないです! わたしが勝手に焦っただけです」
「あとが残ってしまったらどんなに謝っても足りないよ」
「軽いヤケドくらい、よくある事なので気にしないでください」
「よくある事なのかい」
「ええ」
言ってから、しまった、と思う。スペードが悲しそうな顔をしていた。
「ボクのせいでダークアイにヤケドを負わせていたなんて」
「そんな! スペードさまだけでなく自分の食事も作ってるんですから。それにスペードさまの方がよっぽど危険で大変なお仕事をされているのに」
「比べるモノではないよ」
その手に右手も添えられる。
「!?」
左手はスペードの体温に包まれる。
普段はふたりとも手袋をしているため、肌が触れ合うことはほとんどない。
左手は熱を持ち鼓動はドクドクと早鐘を打つ。
「ボクがどんなにこの手に助けられているか」
「も、もったいないお言葉です」
顔が熱い。うつむくと握られている手が見えてギュッと目をつぶった。
スペードは苦笑しながらその手を解放して立ち上がる。
「紅茶を淹れようか」
「わたしがやります!」
あわてて立ち上がる助手を制する。
「ヤケドしてるんだしボクがやるよ」
「左手ですし、これくらい……」
「たまにはボクの淹れた紅茶もいいだろう」
いたずらっぽくウインクされると、自分の仕事をしなくては、という頑なな気持ちも薄れた。
「では、よろしくお願いします」
座り直してカウンターのむこうを見る。
スペードはお湯を沸かしティーポットと茶葉を用意する。やがてシュンシュンと湯が湧いてくるとポットを温め、茶葉を入れ、お湯を注ぐ。
その流れるような所作に見惚れる。
先程は緊張しきりだった同じ場所、同じ二人きりなのに、今は温かな空気が流れていた。
「どうぞ」
ダークアイの前に紅茶とパンプキンパイが用意された。
二人分カウンターに並べられ、スペードが座るのを待って手を合わせる。
「いただきます」
見守られながら紅茶に口を付けた。
「どうかな」
「とても美味しいです」
スペードは自分でも飲んでみる。
「最近は自分で淹れてなかったから不安だったけど、こんなものかな。でもやっぱりダークアイの紅茶には敵わないね」
「そんなことないです。自分で淹れたより美味しく感じるのはスペードさまが淹れてくれたおかげでしょうか」
「じゃあいつもはダークアイが淹れてくれるから特別に美味しいのかな」
いつも嬉しくなる以上に照れてしまうような言葉をくれる。
「あ、あの、冷めてしまうので、どうぞ」
話を反らしたつもりだったがスペードはひと口食べると、
「うん、焼き立てもひと味違った感じだね。紅茶だけじゃなく、ダークアイが作った料理はいつも美味しくて幸せな気持ちになるよ」
再びベタ褒めが続き、恐縮しきりになる。
「あまり褒めないでください」
「事実を言ってるだけさ。よくある料理もダークアイにかかるとびっくりするほど美味しくなるんだ。奇跡の手だね」
「大げさですよ」
「大げさなんかじゃないさ」
「っ!?」
ひざに置かれた右手にそっとスペードの左手が重ねられる。
「この手が喜びや幸せをくれるんだ。ボクが穏やかな気持ちでいられるのもキミのおかげだよ」
顔が熱くなる。
褒められて、手を握られて、優しい目で見つめられて、どうしていいか分からない。
「あ、あの、お皿を洗わないと」
「後でもいいだろう。食洗機もあるし」
「ええと、夕食の支度をしないと」
「ヤケドしてるし今日は外食にしようか。たまには休んでもらわないとね」
「その、掃除を」
「さっきもしてただろう。どこもピカピカじゃないか」
「あの、あの、」
もう理由が出てこない。
困り果てて横を見ると、ニコニコと楽しそうにこっちを見ている。
「……もしかして、からかってますか」
「残念、バレたか」
いたずらっぽく笑って手を放す。
「もう」
手を胸に当て、ゆっくりと呼吸を整える。顔が熱い。
(……ただの戯れ、ですよね)
「……残念」
スペードは小さくつぶやいて自分の手を見る。
つい無防備な素肌に手を伸ばしてしまった。これ以上はいけない、と思いつつその手を離せなかった。
ギュッと握りしめて気持ちをしまい込む。
左手はまだ熱を持っていた。