あなたとなら、きっと超えられる   作:渚 龍騎

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※出来得る限りの配慮はしていきますが、ゲームやアニメを見た程度なので、ウマ娘の細かい設定や競馬などはからっきしとなります。不備があってもそこら辺は気にしないって方は気軽に楽しんでいただければと思います。


1話 あなたの過去とわたしの現在(いま)

 

 

 

 

 澄み渡った普遍の蒼から、眩い陽射しが大地を照らす。カーテンの隙間から吹き抜けた陽射しと風が、小鳥の囀りと共に静謐を攫って行った。

 これといって目立った物が置かれていない質素なトレーナー室で、神妙な面持ちを持った者が二人。二人は向き合ったソファーに腰を下ろし、お互いにその表情を伺いながら、どちらかが口を開くのを待った。

 

「あ、あの……」

 

 一人が、沈黙を破った。

 揺れた髪はさらさらで、きめ細やかな金砂の隙間から処女雪のような白い肌が覗く。黄金の滲んだ宝石の如き瞳が、対面に座るトレーナーへと向けられた。

 その瞳に映る彼は両腕を組みながら、どこか暗澹とした雰囲気を纏って神妙な面持ちで彼女──ナリタトップロードを見つめた。

 

 

「と、トレーナーさん?」

 

 

 重苦しい空気に耐え切れず、ナリタトップロードは自分に何か非があったのではないかと記憶を巡らせる。だがこれといって思い浮かばず、ナリタトップロードは瞳を閉じて「うーん」と唸った。

 名前を呼んでも、トレーナーはなにも言わない。窓から吹き抜けた風が、ナリタトップロードとトレーナーの前髪を梳かす。目に掛かった前髪を抑えて、ナリタトップロードが息を吸った直後──トレーナーは口を開いた。

 

 

「トップロードさ」

「は、はい!」

 

 

 ようやく口を開いたトレーナーから発せられた名前に、ナリタトップロードは思わず驚きで身体を反射的にビクッと強張らせ、更には返事すら裏返っていた。

 珍しく怒っているような声色に、ナリタトップロードは固唾を飲んでトレーナーの言葉を待った。

 トレーナーは息を吸ってから、脇に置かれた紙袋の中に手を入れる。中を漁るように手を動かし、その度に紙袋から音が響いた。重苦しいほどの静寂には、その音すらも耳障りなほど大きく響いていた。

 そのままトレーナーは口を開く。

 

 

「トップロードは、今日なんの日か分かる?」

「きょ、今日ですか……?」

 

 

 思い返すが、なにも思い当たらない。なにか大事な日なのに忘れているのか、いくら思考を巡らせても記憶からそれを出すことはできなかった。

 肩を窄めて、ナリタトップロードは顔を伏せる。そして小さくなってから、声を震わせて「分かりません……」と謝罪を交えて答えた。

 瞬間、トレーナーの動きが止まった。

 

 

「まったく……」

 

 

 呆れを含んだ溜め息が、ナリタトップロードの心を僅かに締め付ける。徐々に首が落ちて行き、大事なことを忘れてしまった自分を罵りたくなっていた。

 トレーナーが紙袋から何かを取り出す。怒られることを覚悟して瞳を閉じた瞬間に、トレーナーは呟いた。

 

 

「俺はちゃんと覚えてたのになあ」

「…………え?」

 

 

 顔を上げた直後──パンッ、と空気が弾け飛んだ。

 突然のことで「きゃっ」というナリタトップロードの短い悲鳴が響き、反射的に身を縮める。だが、勢い良く飛び出た紙吹雪が視界の端からゆらりと舞い落ちていき、ナリタトップロードは呆気に取られて瞬きを数回繰り返した──「え?」という困惑を漏らして。

 

 思考が停止。重苦しかった雰囲気を紙吹雪が彩り、ナリタトップロードはキョトンと、目の前の状況を理解できずに口を開けて固まっていた。

 そんなナリタトップロードを他所に、トレーナーは満面の笑顔を浮かべて声を上げた。

 

 

 

「──誕生日、おめでとー!!」

 

 

 

 告げられた生誕への祝いに、ナリタトップロードはもう一度「へ……?」と声を漏らす。するとトレーナーは微笑みながら、キョトンとしたナリタトップロードの表情を真似して「へ、じゃないよ」と笑った。

 

 

「私の誕生日……」

「そ、今日はキミの誕生日だよ」

 

 

 改めて告げられて、ナリタトップロードはふとカレンダーに目を向けた。

 4月4日。邂逅と別離の季節。春風に乗った桜が、舞い踊るように世界を彩る。そんな季節でのお祝い事。トレーナーはずっとこの時を待っていた。

 事前にアドマイヤベガやライスシャワーなど、様々なウマ娘たちにナリタトップロードへの誕生日プレゼントがなにが良いのか聞いて周り、彼女が来たらまずトレーナー室へ赴くように告げていた。

 

 元より年頃の少女へのプレゼントなど考えたこともないトレーナーにとっては、試練の連続だったが、ナリタトップロードの笑顔を思い浮かべただけで楽しみになっていた。

 

 

「それで、みんなトレーナー室に行ってって……」

「そ、俺が一番に祝いたかったんだ」

 

 

 笑って、トレーナーは紙袋からマフラーを取り出し、ナリタトップロードに向けて差し出す。ナリタトップロードは未だ呆気に取られている様子でそれを受け取った。

 

 

「あ、ありがとう、ございます……」

「あれ、嬉しくなかった……?」

 

 

 思っていた反応と違い、トレーナーは悲しげな表情を滲ませながら首を傾げる。だがナリタトップロードは直ぐに首を振って否定。手に取ったマフラーで表情を包み込んで隠しながら、篭った声で答えた。

 

 

「そ、その、突然のことだったので……」

「あー、そういうこと」

 

 

 顔を隠すナリタトップロードを見つめて、トレーナーは苦笑しながら「どうして顔を隠してるの?」と疑問を向ける。彼女はマフラーに顔を埋めたまま笑いを溢した──その声色は、微かに震えていた。

 

 

「えへへ、すごく、嬉しくて……思わず……」

「えー? 泣いてるの?」

 

 

 揶揄い混じりの笑いに、ナリタトップロードは「だってぇ……」と子供のような言い訳を呟く。喜色のあまりに溢れた涙が、徐々にマフラーへ染み込んで行き、溶けたその雫の跡がとても温かかった。

 

 

「大袈裟過ぎだよ」

「うぅ……本当に、嬉しくて……」

「ほら、ちょっと貸して?」

 

 

 トレーナーが手を差し出して、マフラーを渡すように促すが、ナリタトップロードはふるふると首を振って「イヤです……」と拒否。溜め息を溢したトレーナーは苦笑を浮かべながら腰に手を当てた。

 

 

「どうして?」

「だ、だって、泣いてる所、見られたくないので……」

 

 

 今更なにを言っているのか──そんなことを思ったトレーナーだったが、敢えて口には出さなかった。

 トレーナーはゆっくりと立ち上がると、ナリタトップロードに向けてもう一度「はい、貸して」と一言。だがナリタトップロードは首を振った。

 埒が明かないことを察したトレーナーが、問答無用でナリタトップロードの手からマフラーを取り上げる。顔を遮るものが失われ、彼女は思わず「あっ」と手を伸ばすがそれは虚しく空を切り、マフラーは既にトレーナーの手に渡ってしまった。

 ナリタトップロードの顔が露わになって、トレーナーは彼女の顔を見るや否や吹き出した。

 

 

「そんなに泣いてたの!?」

 

 

 ナリタトップロードの顔は涙で濡れていて、鼻は赤く、目尻にはまだ大粒の雫が溜まっていた。

 

 

「うぅ、酷いですトレーナーさん!」

「ごめんごめん。ほら、じっとしてて」

 

 

 頬を膨らませて僅かに憤慨するナリタトップロードを宥め、トレーナーはマフラーを手に持って彼女の首に巻き始める。ゆっくりと、丁寧に巻いていき、ナリタトップロードはトレーナーに言われた通り、怒りながらも大人しくじっと待っていた。

 

 

「よし、できた。少し季節外れかもだけど」

 

 

 巻き終わって、トレーナーはナリタトップロードから一歩下がると「うん、いいね!」と何度も頷いた。

 絶賛を受けて、ナリタトップロードは首に巻かれたマフラーに触れる。柔らかな感触と温かな感覚が同時に首へ蝟集していて、その温かさがマフラーのものなのか、それとも直前までトレーナーが持っていた故の感覚なのか、どちらかは分からないが、この季節には些か温か過ぎる気がした。

 

 

「いやあ、色んな娘に聞いたけど、やっぱり自分が決めた物を渡したくてさ、結構不安だったんだ」

「そうなんですか?」

 

 

 うん、と頷いて、トレーナーは笑う。窓の近くまで歩み寄り、窓の縁の辺りに腰を置いた。

 

 

「女の子にプレゼントなんて渡したことなかったからさ。喜んでくれるかなのかなって。キミなら何でも喜んでくれそうだったけど、それでも頭の片隅に不安が残っちゃってたんだ」

 

 

 自分の弱さを空笑いで誤魔化しながら、照れ臭そうに頬を掻く。そんなもの杞憂でしかないのに、どうしても不安を抱いてしまう──そんなトレーナーを愛おしく思いながら、ナリタトップロードは微笑みをマフラーで隠した。

 

 首に巻かれたマフラーへ視線を落とし、トレーナーにも聞こえない声で「えへへ……」と喜色を漏らす。窓の外をぼんやりと眺めるトレーナーを一瞥して、余ったマフラーの部分を見つめた。

 

 

「これで、ダービーも、菊花賞も頑張れます」

「そっか、それなら良かった」

 

 

 皐月賞での敗北を乗り越えて、目指すは日本ダービーと菊花賞。結果を残せなかった自分を、こんなにも大切にしてくれる人がいる──それを実感して、ナリタトップロードはより一層気合が入った。

 息を吐いて、トレーナーを見上げる。そして日頃の事とプレゼントに対して感謝を告げようと口を開いた。

 

 

 

「ありがとうございます、トレーナーさ──」

 

 

 

 ────ん。

 最後の一文字を繋ぎ、顔を上げた瞬間──窓から風が吹き抜け、トレーナーの身体が()()()と揺れてバランスを失う。時を攫った春疾風がナリタトップロードの金砂のような髪を梳かし、宝石のような瞳が驚愕で大きく見開かれた。

 

 直後──どさり、と土嚢を叩き付けたような聞き慣れない鈍い音が、狭い一室に戦慄いた。

 その音の正体を理解するのは簡単だった。

 受け身も取れず、無造作に倒れてしまったトレーナーの青白い表情。そのあまりにも信じ難い現実を理解できず、ナリタトップロードは数秒の後に声を荒げた。

 

 

 

「──トレーナーさんっ!?」

 

 

 

 ナリタトップロードの叫びが、空を彩る桜に混じって消えて行く。それは倒れ伏せた彼に届くことはなく、ただただナリタトップロードの慟哭だけが虚しく響いていた。

 

 

 

 ◆◆◆◆

 

 

 

 ふらり、ゆらり、朦朧とする意識が波に揺られて浮き沈みを繰り返す。常闇に飲まれたその意識は、もはや形を保っておらず、ただ潮騒に流されて深海に沈み込んでいった。

 此処に来て最初に視るのは、過去に置いてきた景色の数々。真っ白なベッドから、冷気に晒されて枯れてしまった木々を窓の外から眺める。首を巡らせれば、顔を覆った母の姿と取り繕った笑みを浮かべる医者と看護師の三人がいた。

 

 思い出したくないその過去の情景に、嫌気が差す。同時に『嗚呼、なるほどな』と自分が此処にいる理由を察して、舌打ちを漏らし、更には溜め息を溢した。

 

 虚空に漂う意識。暗澹とした世界で、視界を巡らせてもあるのはただの暗黒。あの頃に慣れたはずでも、やはりこの闇は何歳になっても怖い。光を呑み込む無限の闇。其処には一筋の光すらも存在せず、奇跡だとか、希望すらも存在しない。ただ暗黒の闇に身を任せて流されるしかない。だけど、今日はなにか違った。

 

 全てを飲み込む闇の中で、一筋の光が瞬いた。

 誰の介入も許さない闇に輝く、遥か空の星。それはあまりにも酷く純粋に輝いていて、思わず手で視界を遮る。その瞬間に、声が聞こえた。

 

 

 

『──トレーナーさんっ!!』

 

 

 

 聞き慣れた声。ずっと、誰かの声を待っていた。

 あの時、誰も助けてくれなかった。

 誰でも良かったから、この闇から連れ出して欲しかった。だけど、誰もが見捨てた。それでも、誰かが手を差し伸べてくれると信じて、その手を伸ばし続けた。闇を切り裂く誰かの光を求めて────。

 

 

 

 目が覚めると、丁度カーテンの隙間から吹き抜けた風が光を運ぶ。そのあまりの眩しさに意識が眩み、視界が明滅。未だぼんやりとする意識で何度か瞬きを繰り返しながら、安寧の光に思考を慣れさせた。

 鮮明になる意識と共に、視界がハッキリと映るようになって、トレーナーはまず窓の外に目を向けた。

 

 あの時と違って、桜は枯れていない。寧ろ満面に咲き誇り、恍惚としている桜が外の喧騒と共に流れる。溜め息を漏らすと、微かに肺を刺激されて痛みが走った。

 

 

「ああ、ちくしょう……」

 

 

 痛みよりも先に恨み言が漏れた。

 ゆっくりと瞳を閉じ、肺が痛むのを感じながら深呼吸を繰り返す。そうすれば静謐な空間の中に、胸の内で僅かに灯る心臓の鼓動が喧しいほどに響いていた。

 腕にチカラを込めると、痺れるような痛みが筋肉に伝わり、それでも止めることなく額に手を当てた。腕から全身に駆け巡る痛みを噛み締めて、トレーナーは思わず笑う。虚しく、悲しいほどに響いた。

 知っている天井──いや、似たような天井を見たことがあるだけで、この天井は知らない。だがそれでも、その真っ白な天井とベッドを見下ろしながら、全身に巡る痛みの正体を理解して溜め息を漏らした。

 

 

「クソ、これからなのに邪魔すんなよ……」

 

 

 ポツリと吐き捨てると、背後から震えた声色で、

 

 

「…………トレーナー、さん……?」

 

 

 その声に反応して、痛みに耐えながら振り返ると、そこにはナリタトップロードが座っていた。

 残っている記憶を巡らせれば、朝の彼女は綺麗なほどに髪が整っていたはず。だが今の彼女の髪は乱れていて、その表情もどこか悲哀の色が強く滲んでいる。その理由は考えずとも直ぐに察して分かった。

 

 溜め息を漏らす度に、肺や喉が焼けるように熱い。見つめた先のナリタトップロードの耳は萎れるように倒れていて、鼻も赤く、目尻から頬に掛けて雫が描いたような軌跡が残っている。その彼女の姿を理解して、思わず自分に呆れてしまった。

 

「おはよう」

「おはよう、ございます……」

 

 訥々とした声が返ってくる。心配げな表情で、視線も落ちていて、朗らかに落ち込んでいる様子が伺える。そんな彼女を横目に一瞥して、トレーナーは天井を仰ぎ見た。

 何度も見た知っている天井──否、酷く似た天井を知っているだけだが、この真っ白な天井はどこも同じ。塗り潰される前のキャンパスのような白いシーツ。自身が寝ていることでシワになった掛け布団を見つめて「また病院か……」なんて呟いた。

 

「俺、どのくらい寝てた?」

「…………一日ぐらいです」

 

 告げられ、トレーナーは「そっか」と一言だけ返す。ナリタトップロードなら、起きたと同時に飛び込んで来そうなものだが、今の彼女の様子だと、どうやらある程度の話は聞いてしまったのかもしれない。

 ゆっくりと上半身にチカラを込めて行くと、筋肉が痙攣を起こし、全身を刃物で刺されるような激痛が走る。トレーナーが起き上がろうとする様子を見たナリタトップロードは、直ぐに慌てた様子でトレーナーの身体を軽く支えるように手を貸した。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「あはは、大丈夫大丈夫。このぐらいなら慣れてるからさ」

 

 ────否、嘘である。

 ナリタトップロードの心配に対して、笑顔を取り繕いながら返す。痛みとは、なにをしても慣れることはない。それを理解しているからこそ、ナリタトップロードも眉を寄せて、心配げな色を強く滲ませていた。

 

「ごめん、心配かけたね」

 

 身体を起こして、トレーナーはナリタトップロードとの視線の高さを合わせると謝罪を述べる。だがそこに、いつもの元気で天真爛漫な彼女はいない。ただただ心配な感情を募らせて、視線を落としていた。

 

「…………」

 

 顔を伏せるナリタトップロードの手元に、ふと視線を移す。膝の上で握り締められた拳が、ふるふると震えている。更にはその拳に大粒の雫が落ちては、スカートに染みを広げていた。

 トレーナーは激痛で震える手を伸ばし、痛みに耐えながらナリタトップロードの頬に手を添える。それに気が付いたナリタトップロードは、トレーナーの手に震えながらもソッと触れた。

 

「また、泣かせちゃった?」

 

 頬から顎に伝うナリタトップロードの涙を指で拭いながら、トレーナーは淡く微笑んだ。

 涙で顔を汚して、悲しみを席巻させるナリタトップロードに向け、ゆっくりと両腕を広げた。

 

「よし、ドーンと来い」

「…………え?」

 

 突然の行動に、ナリタトップロードは思わずそんな声を漏らす。涙を拭うことすら忘れて、間の抜けた表情を浮かべながら、瞬きを繰り返した。

 未だにドーンと来ないナリタトップロードに、トレーナーは首を傾げた。

 

「あれ、トップロードなら俺が起きた瞬間に飛び込んで来そうだったからさ」

「で、でも、今トレーナーさんは……」

「やっぱり聞いたの?」

 

 問い掛けると、ナリタトップロードは「詳しくは……」と首を振った。

 

「昔の病気がまた再発したとしか……」

「ああ、そこは病院が気を使ってくれたのか」

 

 恐らくは本人が伝える方が面倒にならない。そんなところだろうか。ともかく、トレーナーは説明を一旦他所に置いて、もう一度ナリタトップロードに向けて両腕を広げた。

 

「取り敢えず、ほら、おいで」

「…………う、う……」

 

 説明は後にするからと、そんな考えを行動で表す。まずはナリタトップロードの想いを叶える。表情や、動きを見ていればよく分かった。

 これでもトレーナーなのだ。ナリタトップロードの考えは分かる。今の彼女は、俺が生きていることへの安堵を吐き出したくて仕方がない。泣き出したい気持ちを抑え、本能では理解しながらも理性で保ちつつ顔を伏せていた。

 

「遠慮はいらない。我慢なんてしなくていいよ」

 

 そう告げると、ナリタトップロードの感情が渦を巻き、留めていた防波堤が粉々に粉砕。箍が外れたように一気に溢れ出る。ポロポロと溢れるように流れ始めた涙が、頬に残った軌跡を伝って顎に溜まり、重さに耐え切れず落下。スカートに染みを広げて行った。

 そこでようやくナリタトップロードは我慢ができなくなり、両腕を広げるトレーナーの胸に飛び込んだ。

 

「トレーナーさん……っ!」

 

 トレーナーの腰の辺りに腕を回し、腹部に顔を埋めてナリタトップロードは泣き叫ぶ。衝撃が走り、抱き締められたことによる激痛が全身に駆け巡った。

 トレーナーはナリタトップロードの背中と後頭部の辺りに腕を回して、宥めるように優しく撫でていた。

 

「ごめんね」

「私っ……! どうしたら、いいかっ、分からなくて……! 病気のことを聞いたら、もうトレーナーさんと会えなくなっちゃうんじゃないかって……!」

 

 やはり我慢をしていたようで次から次へと感情が吐き出される。ナリタトップロードは泣き叫び、嗚咽を漏らしながらその感情を大きく露わにしていた。

 抱き締める腕に力が込められる度に、身体を切り裂かれるような激痛が奔る。それでも声すら唇を噛み締めて押し殺し、彼女を強く抱き締めた。

 

「もう……! 怖くて……!」

 

 力を込める腕が、破裂するように痛い。

 抱き締められ、身体が切り裂かれているようで。

 噛み締めた唇が切れ、痺れるような痛みが広がる。それでも、そんな跋扈する痛みよりも遥かに──ナリタトップロードから流れる涙を見る度、胸の内が弾けてしまいそうなほどに、痛かった。

 静寂で、彩りのない真っ白な部屋(キャンパス)を、ナリタトップロードの悲しみがぶちまけられて、盛大に蚕食している。そんな彼女の悲しみを真正面から受け止めて、トレーナーは覚悟を飲み込んでから息を吸った。

 

「あのね。トップロードに、話さないといけないことがあるんだ」

 

 改めて告げられたその言葉に、ナリタトップロードはトレーナーを抱き着きながら顔を上げる。その表情は涙で酷く汚れていて、額を擦り続けた所為で髪も更に乱れていた。

 盛大に感情をぶちまけていたナリタトップロードの頭を優しく撫でながら、トレーナーは「大事な話があるんだ」と、その声色に優しさとは別の色を滲ませてそう告げた。

 

「あっ、すいません……!」

 

 その様子を察したナリタトップロードは、慌てた様子でトレーナーから離れて椅子に座り直す。そして乱れた髪や、頬に描かれた軌跡を拭って、最後に鼻を啜った──いや、それから少し恥ずかしげな(あか)を頬に滲ませながら、髪の毛先を指に巻き付けた。

 盛大に感情をぶちまけて、些か恥ずかしげに微笑むナリタトップロードへ、心苦しい気持ちを抱きながら、トレーナーは口を重々しく開いた。

 

「まずは、俺の病気について説明しようか」

 

 微笑みながら語られるその台詞に、ナリタトップロードは僅かに目を見開いて覚悟を決める。固唾を呑んで、トレーナーからの言葉を待つ。彼は深々とベッドに体重を預け、何色にも描かれていない真っ白な天井を見つめたまま口を開いた。

 

「俺の病は、ある一種の心臓病だって()()()()()()

「考えられてる……?」

 

 あまりにも曖昧な言葉だった。

 考えられている──それはまだ、しっかりとその病気が判明していないということとも取れる物言いで、ナリタトップロードは首を傾げた。

 心臓病、ただそれだけでも重大な病気である。全ての生命が生きる為に必要不可欠の存在。心臓が無くして生命は生きられない。それだけ身体の重要な役割を担っている心臓に、トレーナーが患っている()()()がある。

 

「線維筋痛症っていう全身に激痛が走る病気があるんだけど、俺のはちょっとそれに似てるんだよね」

「えっ、それじゃあ今も……?」

 

 驚きを見せるナリタトップロードに、トレーナーは「まあね」と空笑いを漏らして微笑んだ。

 

「ご、ごめんなさい……! わ、わたし、そんなことも知らないで……!」

「いやいやいや謝らないで。俺から言い出したことなんだから、気にしなくていいんだよ」

「で、でも、トレーナーさんは、今も辛くて……」

 

 今にも泣きだしてしまいそうなナリタトップロードの頭に手を置き、優しく撫でながらトレーナーは笑う。そこには苦痛に歪む負の色なんて存在していなくて──必死に取り繕った笑顔のはずなのに、普通に笑っているように見えた。それでもナリタトップロードの頭を撫でる手は、痙攣して震えていて、それが胸をより一層に締め付けた。

 

「取り敢えず、話を聞いて」

「…………はい」

 

 苦痛にも負けず、精一杯に語ろうとするトレーナーの言葉に頷くと、彼はその手を止めてまた語り出した。

 

「線維筋痛症っていうのは、光や風を感じるだけでも痛みが走る。歩くだけでも、ずっと剣の山の上にいるように感じるんだ。原因も不明でさ、信じられない病気だよね」

 

 線維筋痛症の痛みは人それぞれである。その症状の重さも人によって変わる。酷い場合は、風を受けるだけで身体が切り裂かれるような激痛に苦しみ、光を浴びれば身体を焼き尽くされるような痛みも伴う。但し、癌と違って死ぬことはない。だがそれでも、その耐え難い激痛が何度も繰り返される故、死よりも苦しく恐ろしいといえる。

 

「トレーナーさん病気も、それに似てるって……」

 

 告げられたことを呟けば、トレーナーは「似てるっていうか……」と唸りながら少し濁す。天井を見上げて、口の中で「そうだなあ」と呟いてから答えた。

 

「俺はその激痛の原因が心臓にあるんだ」

「心臓……」

 

 繰り返した言葉を呟けば、トレーナーは微笑みながらゆっくりと頷く。そして自身の胸に手を置いて、病院着の上から心臓を掴み取るように強く握り締めていた。

 

「心臓って本来は綺麗な血液を体内に送るんだけど、俺の場合は逆なんだよね」

 

 言葉の意味を理解できずに、ナリタトップロードは眉間にシワを寄せながら首を傾げる。そんな彼女を見て、トレーナーは僅かに笑いを溢した。

 

「端的にいうと、俺の心臓は悪い血液を体内に送るんだよ。その血液が俺の身体に痛みを齎すんだ」

「えっ、それじゃあ……」

 

 ナリタトップロードはその意味を察して目を見開く。彼女の考えに頷いて、トレーナーは病院着を引き千切らんとばかりに力強く握り締める。そして次は自身の胸──心臓の辺りに向かって拳を振り下ろした。

 気が付いた瞬間、ナリタトップロードが驚愕で声を荒げて手を伸ばす。だがしかし、その手は間に合わず、振り下ろされた拳は胸を打ち、鈍い音が病室に響いて、トレーナーは全身に迸った激痛で顔を歪めた。

 胸を抑え、声を噛み締めながら苦痛で呻く。

 

「トレーナーさん! だ、大丈夫ですか!?」

 

 心配げな眼差しを向けるナリタトップロードの瞳に、トレーナーが苦痛の中でふと笑みを浮かべるのが映り込んで、伸ばした手を思わず引っ込めてしまう。なにせトレーナーは「()ったいなあ……」と呟きながら笑っていた。そしてゆっくりと、天井を見上げる。

 

「ああっ、チクショウ……この心臓が血液を送る度、俺の身体は蝕まれて、魂そのものを削られる……何度も、叩き壊してやろうと思ったことか……」

 

 そう呟いてからぶら下げられた輸血の袋を掴み、トレーナーは睨むようにそれを見据えてから笑った。

 

「これだって、どうせ心臓が延々と血液を送って塗り替えるんだから意味がない」

 

 次から次へと吐き出される悔恨に、トレーナーは頭を抑える。訥々と告げられるその言葉の数々を、ナリタトップロードは黙って聞くしかなかった。

 トレーナーの漏らす呻きは、やがて向ける場所のない憎悪と変わり、悲しみと共に滲み出ていく。向き合うべき現実は、直ぐ其処にあった。

 

 

 

「俺の命と同じ……無意味だ……」

 

 

 

 胸を抑えて、天井を仰ぎ見るトレーナー。遮られた天井を見上げる瞳は、朗らかに光の灯っていない慟哭だけで、ナリタトップロードは顔を伏せた。

 なんと声をかけるべきか分からない──だからこそ、ナリタトップロードは両腕を伸ばして、トレーナーを優しく抱き締めることしかできなかった。

 

「トップロード……?」

 

 抱き締められて、身体が痺れる。麻痺した感覚の中で痛みに震えていたが、そんなことよりも──包み込むようなその温もりが、痛みを緩和してくれているような気がした。

 漠然とした感覚ではある。だがしかし、ナリタトップロードが齎す柔らかな温もりに、トレーナーは思わず瞳を閉じる。抱き締められ、彼女の胸に顔を埋めて、柔らかな感触と温もりに包み込まれていた。

 

「そんなこと、言わないで下さい」

 

 訥々と、悲哀が込められた声で吐き出される。トレーナーを抱き締めているナリタトップロードの腕が微かに震えている。背中に回されたその腕に触れて、トレーナーは小さく「ごめん……」と呟いた。

 頭上から、ナリタトップロードが鼻を啜る音が聞こえる。鼻息が微かに荒い。彼女の背中に腕を回して、トレーナーはようやく気が付いた。

 ナリタトップロードはトレーナーを抱き締めたまま嗚咽混じりに言った。

 

「私には分かりません……トレーナーさんの苦しみも、痛みも、過去になにがあったのかも……」

 

 ナリタトップロードが、ゆっくりと離れる。柔らかな温もりが離れていき、トレーナーの視界に彼女の顔が映った。涙で顔を汚しながらも、優しく微笑んだ彼女の表情が。

 

 

「でも、だからって、諦めていい理由にはなりません」

 

 

 ナリタトップロードは布団の上に投げ出されたトレーナーの手を取り、包み込むようにその手を重ねた。

 

 

「同じものを分かることができなくても、分かち合えなくても、手を差し伸べることはできます」

 

 

 微笑んで、ナリタトップロードは告げた。

 

 

「命に意味がないなんて、そんなこと言わないで。私は、トレーナーさんに会えて本当に良かったと思っていますから──」

 

 

 なので、と言葉を繋ぎ、その瞳をゆっくりと閉じてから頷く。胸に手を置いて、瞳を開いた。

 

 

 

「聞かせてください、トレーナーさんのことを。これからのことは、一緒に考えていきましょう」

 

 

 

 ナリタトップロードから告げられたことその言葉を胸に受けて、トレーナーは思わず笑った。

 首を傾げるナリタトップロードを見つめ、さっき気付いたことを改めて思い返す。あの頃とは違う。今の自分には、心から大切にしてくれる誰かがいるのだと、改めてそう心に刻んだ。

 

 

「ごめん、久しぶりのことだったから気が滅入ってたみたい」

 

 

 トレーナーは微笑んで謝罪を述べると、ゆっくりと頷いた。

 

 

「うん、分かった。じゃあ、まずは子供の時のことからかな」

 

 

 ナリタトップロードの言葉を胸に抱いて、トレーナーはゆっくりと語り出す。それをナリタトップロードは純粋で真っ直ぐな瞳を向けながら、優しい微笑みで頷く。そして語った、過去に捨てたはずの思い出したくない現実を。

 

「子供の頃、突然この病気が発病した。母親は俺を助けようと色んな病院を回ったけど、なにせ例がないからどこの病院に聞いても分からなかった」

 

 泣き叫びたくなるほどの苦痛。込み上げて来た吐き気に、吐血すらもした。蚕食する絶望の中で、母親だけがずっと側にいて支えてくれていた。

 

「検査で心臓に異変があることが分かって、そこからはトントン拍子でことが進んでいったけど、治療方法も分からないし、心臓がなぜ突然そんな血液を送るようになったのかも分からないから、直ぐにその流れは止まったんだ」

 

 子供にとって、その激痛は心の奥底にまで響く。我慢をまだしっかり理解していない本能が、ただ救いを求めて叫び続ける。助けてほしい、と誰かから差し伸べられるその手を探して、朧げな意識の中で必死に訴えた。

 

「ずっと病院で過ごしてて、助けてくれるのは母さんだけだったんだ」

 

 父親は頼れない。捨てられた二人に、父親などという存在はいない。トレーナーは「だけど──」と言葉を繋いだが、その声色は朗らかに落ちている。ナリタトップロードは僅かに目を見開き、言葉を待った。

 そしてトレーナーから、衝撃の事実が語られる。

 

 

 

「──母さんは事故で死んじゃったんだ」

 

 

 

 突如として告げられた言葉に、ナリタトップロードは瞳を見開く。彼女の驚愕を他所に置いて、トレーナーは窓の外を眺めながら淡々と口に出した。

 

「そんな……」

「親父は俺達を捨てたし、周りの人は誰も助けてくれなくてさ」

 

 はは、と喜色のない悲哀が滲む笑いを溢して、トレーナーはベッドに深く倒れる。笑いこそ見せているが、その笑みから漏れる汗は朗らかに苦痛を我慢している証拠そのものだった。

 

「薬で痛みを和らげることはできたけど、根本的な解決にはならなかったし、効き目が強いから副作用も酷かった」

 

 大人であればまだしも、子供の身体にそれはあまりにも耐え切れるものではなかった。

 まともに生活を送れず、ずっと病室でたった独り。慰めの言葉など気休めにもならない。頑張ろう、負けないで、どんな言葉も目障りでしかなかった。だからずっと、耳を塞ぎ続けた。

 幼き頃に抱いた苦しみは、幾年の時が過ぎても癒えるものではない。幾ばくも、虚しく響き続ける。

 

「不治の病だって言われて、俺には死を待つしかなかったんだ」

 

 そこまで語ると、トレーナーは一度だけ大きく息を吐く。トレーナーの額に滲み出た汗に気が付いて、ナリタトップロードは慌ててポケットからハンカチを取り出し、その汗を軽く拭った。

 

「ごめんね」

「いえ……」

 

 トレーナーの謝罪にナリタトップロードは首を振る。トレーナーは微笑んでいるが、その下にある苦痛を取り繕った笑顔を被っているだけだ。それはナリタトップロードにも理解できた。

 

「トレーナーさん、今日はもう……」

 

 鳴り止むことのない激痛に耐えながらも語り続けるトレーナー。体力の消耗が激しい中で、ナリタトップロードは休憩を促すが、トレーナーは「大丈夫」と一言で首を振って返した。

 

「トップロードには、ちゃんと話ておきたいから」

 

 そう告げて、トレーナーはナリタトップロードに微笑みを見せると首を巡らせ、窓の外を見つめた。

 病院の外で風に舞う桜がゆらりと揺れて、吹き抜けた春疾風が真っ白なカーテンに彩りを見せる。乱れる髪を抑え、ナリタトップロードはトレーナーの手に視線を落とした。小刻みに痙攣する指を見つめていると、彼は懐かしむように語り出した。

 

「母さんがずっと言ってた──『諦めるな』って」

 

 純白のシーツの上で、トレーナーはゆっくりと拳を握り締める。そこでナリタトップロードはトレーナーがまた自分を痛めつけるのではないかと構えたが、その拳は先程よりも柔らかく握られていて、叩き付ける為ではなかった。

 思い出すかのようで。掴み取ったなにかをしっかりと握り締めるように、トレーナーはその言葉を掴んだ。

 

「夢を追いかければ、全てが変わる──母さんはそう信じて、ずっと俺に〝夢〟を持てと言ってくれた」

 

 そこで出会ったんだ──と、トレーナーは懐かしむように語りを続け、その視線をナリタトップロードに向ける。なぜ見つめられているのか分からなかった彼女が首を傾げ、トレーナーは微笑んでから出会ったものの正体を告げた。

 

 

 

「────君たち、ウマ娘に」

 

 

 

 困惑に次ぐ困惑で、ナリタトップロードは思わず「え?」と声を漏らす。そんな彼女を面白く感じて、トレーナーが声を出して軽く笑った。

 

「なにもかも失った俺の命に、最後の炎を灯してくれたんだよ」

 

 先の見えない暗闇。孤独に残されて、どれだけ手を伸ばしても光なんてどこにも見当たらない。ずっと独りで蹲っていた、そんな暗黒で見つけた幾つもの眩い輝き。それが、ウマ娘だった。

 

「最後の最後までそれぞれの矜持を掲げて、諦めず夢に向かって駆け抜ける──そんな姿に心打たれてさ」

 

 テレビの向こう側から聞こえてくる大歓声。耳を聾するほどの熱狂を身に纏い、風すらも蹴って愚直ながらに真っ直ぐ突き進むその姿に、まだ幼かった一人の男は魅了された。

 

「そこから〝希望〟が見えた気がした。俺もあんな風に走りたいって〝夢〟を描いて──」

 

 でも、と言葉がまだ続くことを理解して、ナリタトップロードは口を噤んで耳を澄ませた。

 

「俺は男だし、ウマ娘じゃないから君たちみたいに風を感じることはできない。だから、トレーナーになった。トレーナーになれば、同じ夢を誰よりも近くで見て感じられる」

 

 同じ夢を描いて。

 夢に向かって共に駆け抜けて。

 勝利に喜んで。敗北を噛み締めて。

 ただひたすらに、ただひたむきに。

 目を灼き、脳すら焦がすその光を誰よりも近くで見ていたい。あの頃、瞳に焼き付いた景色を抱いて、また〝生きたい〟と強く願った。

 

 

 

 憧れが生きる道標に──そして、俺が生きた証になると信じて。

 

 

 

 あの時に諦めた希望を。

 あの日に諦めた未来(ゆめ)を。

 

 

 

 ────より高く。

 

 

 

 ────より強く、願った。

 

 

 

「まだ諦めたくない。()()()()()()。まだ生きていたいって、ずっと、ずっと、ずっと願ってた」

 

 

 

 拳を開き、そして閉じたりを繰り返してから、最後に両拳をグッと握り締める。あの日に抱いた確かな感覚を手放さない為、トレーナーは拳を見下ろしながらゆっくりと頷いた。

 

「一度で良い。一度だけで良いからチャンスが欲しかった──ようやくそれが巡って来たんだ。苦痛に耐えて、現実を噛み締めながら、目の前で見えた光をこの手にする為に、ただひたすら手を伸ばし続けた」

 

 天窮に浮かぶ灼熱の夢──掲げたその輝きを手に取る為、身体を蝕む激痛に耐えて、耐えて、耐え続けた。

 死ぬ未来しか見えなかった暗闇。死ぬ為に生きることしかできず、全てに諦めていたその時の中で、ようやく芽生えた希望を掴み取ろうと手を伸ばし続けた。

 

「最後まで諦めなかった。絶対に生きてやろうと決意したらさ」

 

 微笑んで、トレーナーはナリタトップロードに視線を向けた。

 

 

 

「──治ったんだよ、病気(これ)

 

 

 

 心臓に手を当て告げられた言葉に、ナリタトップロードの瞳が見開かれる。トレーナーは激痛が巡る身体を起こして、ナリタトップロードに「それ、取ってもらっていい?」と水の入ったペットボトルを指差した。

 鳴り止むことのない苦痛が、身体中から水分を奪い続ける。ナリタトップロードは直ぐにペットボトルをトレーナーに渡すが、彼は苦笑を浮かべた。

 

「ほんとごめん、これ開けてもらえるかな? 上手く力が入れられないんだ」

「あっ、はい!」

 

 慌ててペットボトルの蓋を開けてトレーナーに差し出すと、彼は「ありがとう」と感謝を告げてから口を付ける。奥の景色を映す透明な液体が容器から抜け、景色がより鮮明になっていく。その量がある程度まで減ると、トレーナーはナリタトップロードにペットボトルを渡した。

 

「ごめんね、蓋お願い」

「任せてください!」

 

 大袈裟に返事をしてペットボトルの蓋を閉めるナリタトップロード。その太陽のように明るい姿を見つめて、トレーナーは苦痛の中で思わず微笑んだ。

 ペットボトルを置くナリタトップロードの姿を一瞥して、トレーナーは語りを再開した。

 

「治った理由は分からない。突然、急にだったよ。朝起きたらあったはずの痛みがまるで無かった」

 

 胸を抑えて、トレーナーは語る。原因不明、不治の病。それがある日、突然として治った──否、治ったというよりも心臓が元の機能を取り戻した、というべきか。発病、そして治った理由も分からない。

 なにもかもが不明の中で、一つだけ確かなことがある。それは、ウマ娘が齎した希望があったからこそ、独りの少年は最後まで諦めずにその〝生〟を掴み取った。

 

「あーあ、せっかく最高の相棒に出会えて、これからだっていうのに──また心臓(コイツ)は俺の邪魔をするんだよ、チクショウ」

「トレーナーさん……」

 

 トレーナーは自棄糞になってベッドの上に身を投げ出す。そんな彼の恨み言を聞いて、ナリタトップロードは白いシーツの上に放り投げられた彼の手を取ってゆっくりと瞳を閉じた。

 

「トップロード?」

 

 握り締めた手に神経を研ぎ澄ます。滑らかな手触り、温かな感触、手のひらから感じる静かな脈動に、確かな事実を抱いた──彼は、生きている。

 当然の事実を確かに感じながら、ナリタトップロードは顔を上げて微笑んだ。

 

「まだ終わっていません。諦めないで一緒に頑張りましょう、トレーナーさん。頼りないかもしれませんが、私がずっと隣にいます」

 

 握り締められたその手を、驚きによって見開かれた目で見下ろしてから顔を上げる。そこに映ってしまった景色は、思わず言葉を呑んでしまうほどのものだった。

 慰め。それを囁いたナリタトップロードが、真っ直ぐにトレーナーの瞳を見つめていた。

 

 感情のない、他人事のような、ただ()()()()()()()の、かつて言われ続けた、気休めの言葉ではない。虚を語る誰かの声でもなく、ナリタトップロードが囁いた声色には、嘘など微塵も含まれておらず、決して希望を捨てていない優しくも強い感情を乗せた言葉だった。

 

 

 

「まったく……やっぱり君に会えて良かった」

 

 

 

 頭を抑えて、ポツリとナリタトップロードにも聞こえないほど小さな声で呟く。歪んだ感情、絶望に満ちた心に差し込む一筋の光は、ここから見るにはあまりにも眩しかった。

 痛みのことを考えて添えるように握られた手を握り返せば、ナリタトップロードは一瞬の驚きの後に微笑む。それに向けてトレーナーも微笑みで返した。

 

 

 

『──がんばって』

 

 

『──負けないで』

 

 

『──諦めちゃダメだよ』

 

 

『──絶対に治るから』

 

 

 

 どれも思っていない嘘の言葉。言わされてるだけの音。気休めにもならない他人事。掛けられる全てが嘘に塗れた虚実。信じていたはずのあの人たちも、みんな信じられない。

 

 

 

『もう大変なのよ、あの子のお世話。両親もいないし、こっちが疲れるわ』

 

 

『なんで私達が世話をしなきゃいけないのよ』

 

 

『さっさといなくなってくれないかしらね』

 

 

 

 それを聞いてから、誰も信じられなかった。

 支えてくれた母はもういない。父は俺たちを捨てて消えた。生まれた意味がわからない。なにを目指して生きて行けばいいのか、生きている理由もわからない。全部、全部、わからなかった。

 

 

 

 

 

 命の灯火が消えるまで、残りは少ない。

 

 

 

 

 




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