温かな木漏れ日が、大地に斑点模様を描き出す。小鳥の囀りと、風に吹かれた木々の揺らめきが、爽やかな彩りを奏でる。見下ろせば、点々とした光に目を奪われ、見上げると不規則に差し込む日差しに瞳を細めた。
見つめた先に障害物の影はない。降り頻る木々の影。石で整えられた並木道。その脇に延々と並んだ木々。葉で空を覆って、都会の喧騒を端の木々で遮る。木漏れ日が照らす大地を、二人は進んでいた。
「あっ、トレーナーさん! あそこに綺麗な色の鳥がいますよ!」
「えっ、どこどこ」
ナリタトップロードが指を差した先──トレーナーはその向こうを見上げて目を凝らすが、ナリタトップロードの指す鳥がどれを示しているのかまるで分からず首を傾げた。
頭上から伸ばされた腕。ナリタトップロードは僅かに背伸びをして、精一杯に腕を伸ばす。だがそれでもトレーナーが、その鳥を見つける事はできなかった。
「あ、飛んでっちゃいました」
「あー、分からんかったあ」
気になった鳥を見つけられず、僅かに肩を落としたトレーナーに向けて、ナリタトップロードは彼の前に立って膝を曲げる。視線の高さをトレーナーと合わせ、彼女は笑顔で「大丈夫です!」と笑顔で言った。
「きっとまた会えますよ!」
「そうだね。今度もまた教えてよ」
「はいっ!」
満面の笑顔で頷き、ナリタトップロードはトレーナーの背後に回って
ゆっくりと優しく押される車椅子。振り返れば、大切な娘が車椅子を押してくれている。前に一緒に並んで歩いていたのに、今はもう並んで歩くことはできない。それがどこか虚しく、悲しく感じたのは一体なぜなのか分からなかった。
「そういえば、トレーナーさんが私を
ふとナリタトップロードが語り、トレーナーはゆっくりと瞳を閉じて「そうだね」と返した。
トレセン学園に入学したナリタトップロードを、誰よりも早くスカウトしたのがトレーナーである。この先やっていけるか、漠然とした不安に付き纏われていたナリタトップロードは、ただただぼんやりとこの並木道を歩いていた。そこへ一人の男が呼んだ。
『──ちょっと君!!』
振り返ると、腕を大きく振りながら男が駆け寄って来た。彼はナリタトップロードの前まで駆け寄ると膝に手を置いて、肩で荒く呼吸をしながら顔を上げる。額から流れた汗が陽の光に煌めいて、顎に溜まる。だがその表情は疲労よりも、喜色が強く滲んでいた。
『わ、私ですか……?』
『そうっ! 君だよ君、ナリタトップロード!』
なぜ呼ばれたのかも分からない上に、名前も知らない他人に自分の名前を知られている──これ以上に男を怪しむ素材は必要なかった。目を眇め、目の前の男を訝しんでいると、彼は荒い呼吸のまま自身を指差した。
『俺だよ俺! 覚えてない?』
『え…………?』
新手のオレオレ詐欺か、はたまたナンパか。怪しい事この上ない。ナリタトップロードは眉にシワを寄せて一歩だけ男から距離を取った。
見覚えない男に詰め寄られれば、誰だって怪しむ。男はナリタトップロードが覚えていないことを理解すると、ガックリ肩を落として頭を抑えた。
『ホントに覚えてないの……?』
『す、すいません……』
もし本当にどこかで出会っているのなら、覚えていないことは失礼極まりない。完全に落ち込んでいる男に謝罪をして、ナリタトップロードは『私になにか用ですか……?』と恐る恐る問い掛ける。その瞬間、男は顔を上げてずいっとナリタトップロードに詰め寄った。
『──君をスカウトしに来たんだよ!』
『えっ、私を……? どうして……』
疑問は最もだった。
トレーナー学園入学初日。まだレースどころか数メートルすらも走っていない。なのにスカウトしに来たというのは、明らかにおかしな話だった。
ナリタトップロードは微かに唸り、申し訳なく感じながら頭を下げた。
『ご、ごめんなさい。私、どうしてもトレーナーを頼みたい人がいるんです』
まだまだ小さく、未熟な頃に出会った人。輝きに満ちた瞳を向け、期待と羨望を纏った笑顔で『頂点への道を共に歩もう』と夢を掲げてくれた青年。二人で夢を語り、トレセン学園で会おうと結んだ約束。それを果たし、夢を叶える為にトレセン学園に入学した。
『トレセン学園にいるか、まだ分かりませんけど、どうしてもその人に頼みたいんです。だから、ごめんなさい。貴方の期待には答えられません』
もう一度、頭を下げてスカウトを断る。罪悪感に苛まれながら地面に視線を落としていると、目の前の男は『顔を上げて』と優しげな声色でそう言った。
ゆっくりと顔を上げる。男はきっとがっかりした表情をしていると、そんな風に思いながら彼の顔を見つめれば、想像とまったく違っていた。
満面の笑顔。男は得意げに『ふふん』と鼻を鳴らしてから、僅かに照れ臭いのか頬を掻く。そしてゆっくりとナリタトップロードに手を差し出した。
『約束、ちゃんと覚えててくれたんだね』
『…………え?』
困惑。腕を見つめてから、男の顔を見上げる。じっくりとその顔を見つめていると、過去に出会った青年の影が目の前の男と重なり合う。そこでようやく気が付いて、ナリタトップロードは『えっ!?』と驚愕で声を荒げた。
『う、うそ……』
『嘘じゃないよ──約束を、果たしに来た」
微笑んで、彼は後頭部の辺りに手を回した。
「まあ、
未だに状況を飲み込めていないナリタトップロードは、口元を手で抑えながら問い掛けた。
『で、でも、あの時は眼鏡を掛けてて……』
『コンタクトにしたんだよ』
『髪もぼさぼさで……』
『それはまあ、大人だし、身なりは整えないと』
『背も私と同じぐらいだったのに……』
『なんか急に伸びちゃった』
ナリタトップロードの疑問に淡々と答えて、男は微笑む。そこでようやく目の前の男が、あの時に出会い、夢を語り合った青年であると理解して、ナリタトップロードは思わず目を見開いてから驚愕が笑顔に塗り換わった。
『本当に、本当にあの時の……!?』
『そ、あの時の俺だよ。君をスカウトしようとして、君のお父さんに摘み出された俺』
語られたその過去を思い出して、ナリタトップロードは笑いを溢しながら手を叩いた。
『あー! 俺の娘に近寄るなって、お父さんに無理やり追い出されちゃったアレですね!』
『そうそう、懲りずに何度も行ったら椅子に縛り付けられちゃってさ』
『ふふふ、藻掻いたら倒れちゃって、他の娘たちにも笑われちゃいましたね』
『あれ本当に恥ずかしかったんだよ?』
二人で過去を思い出して、耽って、笑う。ずっと会いたかった人に出会えて、ナリタトップロードはいつの間にか警戒心を解いて語り合っていた。
本当に彼なのだと──高鳴る鼓動を抑えて、ナリタトップロードは思わず息を吐いた。
『これで俺だって、思い出してくれた?』
『はい。前と全然違ったので、別人だと思っちゃいました』
『ま、これで分かってくれたでしょ?』
はい、と頷いた。すると彼は『それじゃあ改めて』と、真っ直ぐにナリタトップロードを見つめる。そして覚悟を決めた様子でゆっくりと息を吸い込んでから、強い眼差しで告げた。
『──ナリタトップロード。君の果てない力に、僕のこの心と希望と、灼熱の夢を懸けよう」
決してお遊びではない。あの時に語っていた、遥か遠い夢の話ではない。ここから始まる頂点への道のり。ずっと二人で夢見ていたその輝きに、ようやく手が届く。漠然とだが、この人とならきっと超えられるのだと思った。
「──僕と共に、頂点を目指さないか?」
だからナリタトップロードは、強く、深く頷いて返事をした。
『──はいっ!!』
過去に思い耽って、ナリタトップロードは思わず笑いを漏らした。その表情はトレーナーから見ることはできない。だがその顔が喜色に包まれているのは、見なくても理解できた。
「私、トレーナーさんに会えなかったらここまで来ることができませんでした」
「それは、俺もだよ」
振り返って、僅かに見上げながら微笑むと、ナリタトップロードも「えへへ」と笑いを溢した。
ようやく前の笑顔が戻って来たと思いながら、それでも彼女の心は未だ責任という重圧に苛まれているのだろう。夏合宿のシーズンがもうすぐ始まる。今日のデートは、それに向けた慰労が目的だ。だがナリタトップロードは自分のことよりもトレーナーを心配していた。
さっきの鳥も、なんとか場を盛り上げようとした結果である。病気に対する気を紛らわせようとして、ナリタトップロードは並木道に咲いた花を指差した。
「あっ、トレーナーさんこれ見てください!」
そう言って車椅子を止めると、ナリタトップロードは駆け足で前を横切る。その瞬間、ふと背後を一瞥するとスマホを見ながら運転している一台の自転車が突っ込んで来ていた。
トレーナーは慌てて「トップロード!」とその名前を呼びながら手を伸ばす。困惑を見せるナリタトップロードがそれを理解するよりも先に、トレーナーに手を引かれて抱き止められた──直後、ナリタトップロードが飛び出そうとした先を自転車が勢い良く駆け抜けた。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
トレーナーの荒い息遣いを、耳元で感じる。激しく脈打つ鼓動を眼前で聞こえた。肩を大きく上下させているトレーナーに対して、ナリタトップロードの鼓動はトレーナーの比ではない程により激しく、早鐘を打っていた。
遠くの喧騒も、吹き抜ける風音も、全てを掻き消して自分の鼓動が鳴り響いていた。
いくら思考を巡らせても、脳は既に考えることを放棄している。今起こっている現実に意識が呑まれ、思考はまったく機能していない。ゆっくりと離れれば、息が掛かるほど近くにトレーナーの顔があった。
真っ直ぐに向けられた瞳は、間の抜けた表情をした自分を映していて、ナリタトップロードの鼓動は更に点火してより一層激しさを増した。
「トップロード」
「は、はぃっ……」
名前を呼ばれて、ナリタトップロードは思わず裏返った声で応答する。息が掛かるほどに近い距離。胸から心臓が飛び出してしまいそうで、このまま心臓が破裂するのではないかと錯覚した。
顔に熱が灯っているのを感じる。文字通り火が出てしまいそうな程に、熱くて、熱くて、そのまま蒸発して消えてしまいそうだった──いや、いっそのことこのまま消えてしまいたい。それでも、ずっとこのまま彼の瞳を見ていたいとも思ってしまった。
「大丈夫?」
「はぃ……」
目を逸らせない。
真っ黒に染まった瞳から、下に向いて行き、仄かな赤みを纏った唇から、ナリタトップロードのその瞳は釘付けになっていて離せなかった。
次第に呼吸も荒くなる。生暖かな吐息が互いの息に触れて霧散する。有り得ない程の緊張感が席巻する中で、ナリタトップロードの身体は震え始めていた。
自分の中で燃え盛るこの感情は、ずっと胸の内に押し留めていたもので、それを理解するのは簡単だった。
喉の奥から出したこともないような声が漏れ、なにもかもを掻き消した静寂に二人の吐息が響き──、
「トップロード? 本当に大丈夫?」
「──あっ!」
ようやく虚構から現実に戻って来た意識が、現状を理解。飛ぶようにして慌てて背後に後退ると、ナリタトップロードは顔を抑えて「ご、ごめんなさいっ!」と勢いに乗せた謝罪を告げた。
何度も、何度も頭を下げては上げてを繰り返す。それはもう、頭が取れてしまうのではないかと思うほどの勢いで、ただひたすらに謝罪を繰り返していた。
「ちょっとちょっとどうしたの?」
困惑するトレーナーが車椅子のタイヤを僅かに回し、ナリタトップロードの前まで寄ると、彼女の肩に触れて静止した。
心配の眼差しを向け、顔を覗き込むとナリタトップロードは直ぐに車椅子の後ろへ周り、両手で顔を覆ってトレーナーから遮っていた。
「す、すいません……」
「いいんだよ、大丈夫?」
「は、はい……」
──恥ずかしさ、以外はと答えたいのを堪えた。
トレーナーの優しげな声色に、ナリタトップロードはさっきまでの状況を忘れようとするが、脳裏に焼き付いていて微塵も忘れられなかった。
光の灯った漆黒の瞳。風に梳けた暗闇の髪に、端正な顔立ち。それらは記憶に叩きつけられ、微かに香る吐息も鼻孔に残っている。穴があったら入りたいとはまさにこのこと。尋常じゃなく恥ずかしい。
トレーナーは守ってくれただけで、
「…………ぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁ」
恥ずかしさのあまりに叫びたい。このまま叫んで消えたい。だがしかし全力で抑え込む。その代わりに漏れたのが、喉の奥から滲み出るような呻きだった。
良かった。貴方が前だけを向いていて。
良かった。吹く風が冷たい外気で。
良かった。貴方がどこまでも優しくて。
いつだって、私の為に尽くしてくれて。
いつだって、心を見透かされているようで。だからこんなにも、貴方にずっと惹かれてしまう。
トレーナーに背を向け、深呼吸を繰り返す。そしてようやく鼓動が落ち着きを取り戻し、身体の中で燃え盛っていた炎も鳴りを潜め始めていた。
「本当に大丈夫?」
「はい! もう大丈夫です!」
「なら、いいけど……」
トレーナーの心配に元気良く返して、ナリタトップロードは車椅子を押し始める。タイヤがコンクリートを踏み込む振動が、ゆらゆらと流れては、その度にトレーナーの身体が僅かに揺れていた。
気不味い雰囲気をなんとか打開しようと、ナリタトップロードは「そ、そういえば」と話題を切り替えた。
「どうして急にここに来ようと思ったんですか?」
「うーん、そうだなあ……」
顎に手を置いて、トレーナーはふと空を見上げた。
「一番の理由は、君とここに来たかったから」
「えっ……?」
告げられた一つ目の理由。それを聞いたナリタトップロードは、思わずその脚を止めた。
「君と再会したこの場所を、もう一度だけ君と歩みたかったんだ」
もちろん、ナリタトップロードの気を紛らわせるのも理由の一つである。だがそれよりも、トレーナーにはその理由が最も大きいものだった。
できることなら、ここでナリタトップロードを支えられれば良かったのだが、どうしても伝えなければならないことが一つある。ここで伝えられなければ、もうきっと言えない。その機会が失われてしまう。だからここで────、
「それともう一つ、君に言わないといけないことがあるんだ」
突然、トレーナーの声色が真剣な色に染まる。それを感じたナリタトップロードは息を呑んでトレーナーの言葉を待つ。吹き抜ける風が木々を揺らし、木漏れ日がさんざめいて小鳥が一気に飛び立った。
ゆっくりと音が流れ、ナリタトップロードは梳かされた髪を抑える。そしてトレーナーは息を吸い込んで、覚悟をその瞳に灯した。
「──俺の命は、あと三ヶ月ほどしか残っていないらしい」
その突然告げられた宣告を受けて、ナリタトップロードは目眩を覚え、胃が捻れるような痛みを感じた。
木霊する言葉に、困惑と驚愕が津波となって同時に訪れ、ナリタトップロードの感情を一気に流し込む。見開かれたその宝石の如き瞳には、空を見上げるトレーナーの背中が映っていた。