あなたとなら、きっと超えられる   作:渚 龍騎

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4話 泣いて泣き喚いて、慰められて

 

 

 

 ──夏、トレセン学園は合宿シーズンを迎えた。

 茹でるような暑さの中、世間はひと夏のアバンチュールを過ごす。多くの学生は想いを馳せて、この季節に組み込まれたイベントの全てを謳歌する。長い休みの間に、課せられた宿題を淡々とこなす者もいれば、恋心を奮わせる者もいる。はたまた中には、自堕落の限りを尽くして後悔する者もいた。

 

 だが、トレセン学園に所属するウマ娘たちは違う。夏は休養の季節ではなく、更なる高みを目指して己を鍛える季節なのである。しかし、楽しみを忘れているわけではない。初日は海を満喫し、潮の流れにその身を任せるのが、ナリタトップロードは遊びを捨ててトレーニングに励んだ。

 

 トレーナーは無理をしないことと、そして決まった時間にしっかり薬を飲むことを理由に医師の許可を得てこの合宿に参加。ナリタトップロードや、他の教員にも協力を得ることでなんとかこの場所に赴いていた。

 

 余命宣告をナリタトップロードに話してから数日。大分ショックだったのか、ナリタトップロードはどうもトレーニングに身が入っていないようだった。

 いつも明るく笑っていた彼女からは光が消えて、殆ど暗く、黒く、(くら)い表情になっている。それどころか、話し掛けても上の空で意識はいつもどこか遠くへと向けられていた。

 皐月賞でテイエムオペラオーに負け、更には全力を出し切っても尚、日本ダービーでアドマイヤベガに僅かの差で敗北。その傷がまだ癒えていない状態でのトレーナーの余命宣告。相次ぐ絶望の中で、合宿シーズンも後半に入ったが、未だナリタトップロードの自信と心は潮の波に攫われていた。

 

「これは重症だ……まあ、俺の責任でもあるけど」

 

 砂浜を駆けるナリタトップロードの走りを見て、トレーナーは頭を抱える。完全に力んだ走り──身体が硬くなっている所為でフォームも乱れている。合宿前半でなんとか直せると思っていたが、ここまで来ると直すのも難しい。

 やはり、余命のことを告げるタイミングを誤ったか。ナリタトップロードの性格を考えれば、彼女が気負うのも分かることだった。

 次第に遠退いて行くナリタトップロードの背中を見つめて、トレーナーは自分の愚かさに溜め息をついた。

 

「──ちょっといいかしら」

 

 そう言われて振り返ると、美しく整えられた茶色の髪が視界に映り込んだ。

 その瞳に宿る強い志。まさに一等星の如き淡い光を宿したような少女。深く澄んだその輝きに隠れた影をどこか漠然と感じながら、トレーナーは平然を見せて「やあ」と手を振った。

 

「君から声を掛けて来るなんて珍しいね、アドマイヤベガ。今日は雪でも降るのかな」

「バカにしているの?」

 

 睨むアドマイヤベガに「いやいや全然」と首を振ると、彼女は深く溜め息を付いて腰に手を当てる。見下ろしていたトレーナーから、遠くで駆けるナリタトップロードに視線を移して、アドマイヤベガは目を眇めた。だがトレーナーに「それで?」と呼ばれ、視線を戻した。

 

「話し掛けてきたってことは俺に用事があるんでしょ? その足のこと?」

 

 トレーナーはアドマイヤベガの右脚を指差す。その瞬間、アドマイヤベガは反射的に右脚を左脚に隠してトレーナーを見つめた。

 

「どうして?」

「他のトレーナーは気付いていないけど、俺は分かる。右脚で踏ん張る度、僅かに表情が歪んでる。それにフォームのブレも見えた。まあ、キミが必死に我慢してるから、その歪みも本当に極僅かしか見えないけど」

 

 そこまで推理を吐き、トレーナーは「どう? 当たってる?」と僅かに自慢げな表情を浮かべて見せた。するとアドマイヤベガは視線を逸らし、自分の右脚に向けて溜め息をついた。

 

「ええ、悔しいけど当たってるわ」

「医者には見せた?」

「見せたわ。けど、原因は分からないって」

「なるほどね。走るなって言っても、どうせキミはやめないでしょ?」

 

 そうね──たった一言で返したアドマイヤベガの眼差しは、息を呑むほどに強い暗闇を灯していた。

 ウマ娘の命ともいえる脚の負傷。それが悪化し、走れなくなれば、ウマ娘としての生涯を終えることとなる。それを理解した上で走るのは、なにか命を賭してでもやらなければならないことがあるからだ。

 

「キミと俺は、どうも似ているね」

「…………急に何を言っているの?」

 

 訳が分からんと眉間にシワを寄せるアドマイヤベガ。トレーナーはそんな彼女の呆れた表情に笑いを溢す。確かに、突然そんな変なことを言われれば誰であっても困惑を見せるだろう。

 トレーナーは笑いを含みながら答えた。

 

「俺の場合は命を懸けてでも夢を叶えたい。キミの場合は己を賭してでも、なにか宿命を果たしたい。俺もキミも、向かう場所は同じだ」

 

 微笑みが向けられて、アドマイヤベガは僅かに後退る。なにかが恐ろしかった訳ではない。はたまた、その笑みからなにかを感じ取った訳でもなかった。

 ただただその笑顔が、分からなかった。

 余命宣告の話は聞いていた。自分の命がもう直ぐ終わるというのに、なぜそんな笑顔ができるのかまるで分からなかった。

 トレーナーは「例えば」と口に出してから、風に揺られてさざめく海を見つめた。

 

「──海と空みたいに」

「海と、空……」

 

 見つめた先で、天に遍く空色を反射させる蒼き輝きが、何処までも広く、遥か地平線の彼方──遠く繋がっている。紅みを帯び始めている天窮。灼熱に染まった太陽が、煌めく炎の中に沈んでいた。

 空も海も赤く染まる時間、トレーナーはその先を見つめたまま語った。

 

「海と空は、互いに向き合いながら決して交わることはない。だが、どっちも蒼い。空が紅に染まれば、海も紅く染まる。星を映す鏡にも成り得る」

 

 そこまで吐いて、トレーナーはなにかに気が付いたような表情を浮かべながらアドマイヤベガを見上げた。

 

「今めっちゃ名言みたいなこと言ったよね? メモしてくれない?」

 

 そんなことを問い掛けるトレーナーに対して、アドマイヤベガは呆れたような溜め息を大きく漏らす。そんな彼女を一瞥したトレーナーは「まあ、とにかく」と話を切り替えた。

 

「今のキミは、昔の俺によく似てる。誰にも頼らず、孤高を突き進もうとする。そういう道も良いけどさ、そんなの淋しいよ」

 

 だから、と言葉を繋いで、トレーナーはアドマイヤベガを見つめた。

 

「たまには誰かを頼ってみるのもいいよ。これは、俺からのアドバイス」

「別に。私は一人でいい」

 

 アドマイヤベガの答えに、トレーナーは微笑んで言った。

 

 

 

「──俺は好きにした、だから()()も好きにしろ」

 

 

 

 その言葉の意味を、アドマイヤベガは理解できなかった。一見は突き放すような言葉でありながら、その声色は優しさに満ちていた。それが拍車を掛けてアドマイヤベガを混乱させていた。

 

「どういうこと?」

「これも俺からのアドバイスさ。解釈はキミ次第だよ。俺は、俺の信じたあの娘を信じる」

「なおのこと意味が分からないわ」

 

 唇を噛み締めて、アドマイヤベガは微笑むトレーナーを睨むように見つめた。

 

「どうして、そこまで彼女のことを信じるの?」

 

 愚問だね、トレーナーは言い切った。

 車椅子のタイヤを力いっぱいに回して、アドマイヤベガの正面を向こうとするが、大量の砂に阻まれてタイヤが上手く回らない。トレーナーが「ちょっと待って」と腕に力を込めるが、そもそも砂浜を超える為の筋力が病気の所為で衰えている。

 苦労を見せるトレーナーに、アドマイヤベガは僅かに唇を噛み締めてからトレーナーの前に立った。

 

「これでいいかしら」

「ごめん、助かるよ」

 

 トレーナーは額に流れた汗を拭い、一息つくと目の前のアドマイヤベガを見上げる。真っ直ぐに、遮るものさえないその空気を貫いて、トレーナーの瞳はアドマイヤベガを捉えた。

 その向けられる瞳には、一切の淀みがない。驚くほどに強い眼差しを向けられて、アドマイヤベガは息を呑む。そしてトレーナーは息を吸い込むと、嘘偽りを捨ててそれを答えた。

 

 

「──トップロードは俺を信じてくれた。だから俺はトップロードを信じる。ただそれだけだよ」

 

 

 告げられた答えは、あまりにも恍惚としていた。

 一等星にも勝るその輝きに、アドマイヤベガは唇を噛み締める。やはり分からない。信じてくれた、そんな曖昧なことだけで命を懸けるのが分からない。

 命の灯火が消えるまであと僅か──それでもこの場にいること自体がおかしい。やはり分からなかった。

 

「そう……やっぱり、分からないわ」

「心の有り様だよ」

「…………は?」

 

 微笑むトレーナーに、数秒の間を空けてアドマイヤベガはもう一度「は?」と漏らす。突然そんな意味が分からないことを告げられて、アドマイヤベガも思考が追いつかなかった。

 

「それは、どういう意味?」

「心ってのは命の雄叫びだ。それが吼えている限り、どんな絶望でも前を向ける」

 

 トレーナーは真剣な眼差しでそう語る。そんな彼の姿に、アドマイヤベガは溜め息を漏らしてからトレーナーを睥睨するが、彼は微笑んだ。

 

「だから、菊の冠は俺とトップロードが頂く」

「…………そう。でもあなた、トップロードさんより酷いわ」

 

 そう言って、アドマイヤベガはその場を去っていく。砂を踏み締める音が徐々に遠退いて、その背中をぼんやりと見つめていた。彼女が背負う宿命がどんなものなのかは分からない。だがそれでも、遠くに見える背中はどこか悲しく見えた。そんな彼女の背中を見つめて、トレーナーは呟いた。

 

「どうゆうこと……?」

 

 その声は決して届かない。砂浜に打ち付けるさざなみに、呟きは掻き消されていき、トレーナーはアドマイヤベガの背中を見つめてから、遠く遍く海に視線を移した。

 

「結局、なんで声かけたんだろうな」

 

 遥か光の彼方。沈み行く真紅の太陽が、大海も大空も真っ赤に染め上げて、星が大地を照らし始めている。淡く見える輝きを見つめていると、荒い呼吸と共に砂浜を踏み締める音が背後から聞こえた。

 

「トレーナーさん」

「おかえり、トップロード」

 

 振り返ると、肩を大きく上下させて息をしながら、顎先に溜まった汗を拭うナリタトップロードの姿があった。かなり走り込んだ様子がそこからも見て分かる。トレーナーはバッグから水筒とタオルを取り出して、疲労を見せるナリタトップロードに渡した。

 

「お疲れさま」

「ありがとうございます」

 

 それらを受け取ったナリタトップロードはどこか遠く、既に小さくなっている背中に目を凝らした。

 

「いまここにアヤベさんいました?」

「うん、いたよ」

 

 そうですか、と呟いたナリタトップロードの声色は低い。目を伏せている様子からも、まだ日本ダービーでの傷が癒えていないのは明白だった。

 トレーナーはナリタトップロードを見上げてから、悩みに悩んで自身の後頭部の辺りをくしゃくしゃと乱雑に掻く。そしてアドマイヤベガの背中を見つめるナリタトップロードが聞いた。

 

「アヤベさんは、なにか言ってましたか?」

「次のレースも負けないってさ」

 

 嘘である。その嘘は悪意のあるものではなく、アドマイヤベガとナリタトップロードの二人を思って嘯いた。それを知らないナリタトップロードは、口の中で「次のレースでも……」と何度か呟いている。その瞳はどこか暗く、顔付きも強く、自信に溢れているとは言えない。皆の期待に全力で答えようとしていたかつてのナリタトップロードは、そこにはいなかった。

 

「────ッ」

 

 ふと視線を落とせば、ナリタトップロードが固く拳を握り締めていた。

 アドマイヤベガの背中を睨むように──否、それは敵対視する眼差しではなく、なにか後ろめたいことがあるような、後悔するかの如く弱々しい色を瞳に滲ませていた。

 視線を逸らし、僅かに顔を俯かせるナリタトップロード。そんな彼女を一瞥してから、トレーナーは星が覗き始めた空を見上げた。

 

「さ、今日はもう終わり。自主練も禁止。もししたら、どうなるか分かる?」

「えっ、ど、どうなるんですか……?」

 

 トレーナーがじっくりとナリタトップロードを見上げ、不敵な笑みを向ける。その表情がどこか恐ろしく感じ、ナリタトップロードは固唾を飲んで次の言葉を待った。

 ゆらりと、波が打つ。煌めき、反射して、光が視界にちらちらと映り込む。そしてトレーナーはゆっくりと、ナリタトップロードの傷を抉るように言い放った。

 

 

 

「──この前、付き合っての意味を勘違いしたことをみんなに言いふらす」

 

 

 

 告げられた言葉を耳にして、ナリタトップロードは途端に身体の中から爆炎が湧き上がった。

 ウマ娘特有の耳がピンと上に張り、大きく見開かれた瞳はふるふると震えている。そして更にはナリタトップロードの顔が、一瞬にして真っ赤に染まり上がり、彼女は慌ててトレーナーに詰め寄った。

 

 

 

「──絶対にやめてください!!!」

 

 

 

 さざなみに打ち付けられて、ナリタトップロードの叫びが風と共に響く。顔を真っ赤にしてトレーナーの眼前まで詰め寄ったナリタトップロードを宥めながら、トレーナーは「分かった分かった」と苦笑した。

 

「じゃあバラさないから俺の頼みを一つ聞いて?」

「──はいっ! なんでも聞きます!」

 

 即答で答えたナリタトップロードに圧倒されながらも、トレーナーは言った。

 

「今日の夜、俺と一緒に星を見に行かない?」

 

 雑用でも頼まれるのかと予想していたが、全く違った頼みにナリタトップロードは一瞬困惑して「星、ですか?」と首を傾げる。混乱するナリタトップロードに「そ、星」と笑って返せば、彼女は瞳を僅かに大きく開き、笑顔で返答した。

 

「──はい! 行きます!」

 

 当然の答えだった。

 

「星がよく見える場所を知ってるんだ」

「とても楽しみです!」

 

 かなり機嫌が戻ったようで、ナリタトップロードの表情も幾分か明るく染まっていた。その表情が見れただけでもトレーナーは嬉しくなり、思わず微笑んでしまう。

 

「それじゃあまずは一回帰ろう。トップロードも着替えたいでしょ?」

「えっ……?」

 

 トレーナーにそう言われて、ナリタトップロードは砂埃で汚れたジャージを見下ろし、更には頬を伝った汗を拭ってからジャージの臭いに鼻を嗅がせる。そして彼女は僅かに頬を朱に滲ませて苦笑した。

 

「そ、そうですね」

「俺も座ってるだけなのに汗かいたし、一回着替えたいからさ」

 

 そう言って、トレーナーが車椅子のタイヤを回そうとすると、慌ててナリタトップロードが背後に回って車椅子を押し始めた。

 

「あ、あの、トレーナーさん」

「なに?」

「その、私って……」

 

 車椅子から振り返ってナリタトップロードを横目で見つめるが、彼女は「えっと、その……」と歯切れ悪くなにかを言葉にしようとしていた。

 表情や動きこそ見えなかったが、次に告げられた言葉で、トレーナーは全てを察した。

 

「いま(にお)いますか……?」

「あ、あー……」

 

 理解して、その場で僅かに鼻孔を募らせるが、潮の香りがするだけで他は分からない。ナリタトップロードの方へ顔を向けると、直ぐに叫び声が聞こえた。

 

「か、嗅がないでください!!」

「別に臭わないけど」

「そ、それとこれとは別です!」

 

 ナリタトップロードが必死に訴え、トレーナーは揶揄うように「えー?」とわざとらしく答える。そんな他愛もない会話に花を咲かせながら、お互いに宿泊場所へと踵を返した。

 軽くシャワーを浴びて汗を流し、私服に着替えたナリタトップロードはトレーナーに告げられた待ち合わせ場所へと赴く。そこには既にトレーナーが待っていて、彼は笑顔で軽く手を振った。

 

「星がよく見える場所って……」

「そ、ここだよ」

 

 山の中へと通ずる道。そこの奥を指差して、トレーナーは笑う。灯りの一つもなく、舗装もされていない、砂利や土が僅かに均されているだけの道。普通の人が歩く分には問題ないが、今のトレーナーは車椅子で歩くことすらも困難な状態だ。

 ナリタトップロードはトレーナーに心配げな眼差しを向けた。

 

「で、でもトレーナーさん……」

「ふっふっふ、これを見て」

 

 得意げに笑い、トレーナーは手元にあるスティックを傾ける。すると微かな駆動音と共に車椅子が自動で動き出し、ナリタトップロードは思わず「おお!」と声を上げた。

 

「階段だったら、トップロードに抱きかかえてもらうところだったよ」

「いつでも任せてください!」

 

 冗談のつもりだったが、なぜかやる気満々になっているナリタトップロード。彼女に苦笑しながら「じゃあ行こう」と言って、ジョイスティックを前へと傾け、車椅子が進みたい方向へと動き始めた。

 ゆっくりとだが着実に、ナリタトップロードが車椅子の障害になる大きな石などを退かし、歩を合わせてその隣を歩む。凸凹したその道を緩やかに進んでいき、真紅に染まっていた空も、見上げると今では黒く染められた鋼青が遍いていた。

 視界いっぱいに大きく広がる夜空に、一際目立った〝それ〟が目に映る。漆黒に広がる夜空を穿った淡い光。木々の狭間から照らす光が、二人の歩む道を緩やかに照らしていた。

 

「遅くてごめん。歩けたら良かったんだけど」

「いえ、こうしてゆっくり進むのも、トレーナーさんといれる時間が長くなるので私は好きです」

 

 謝罪を告げれば、ナリタトップロードは満面の笑顔で返す。その笑顔が眩しく感じながらも、どこかその表情の中、瞳の奥底に隠れた影をトレーナーは見逃さなかった。だが彼女から告げられた言葉に、嘘の色はまるで感じられなかった。

 

「それに──」

 

 そう言って、ナリタトップロードは車椅子の背後に回るとグリップを握った。

 

「やっぱりトレーナーさんの車椅子を押すのは、私でありたいんです!」

 

 ナリタトップロードはトレーナーに微笑み、

 

「この先に星が見える場所があるんですか?」

「そ、もうすぐだよ」

 

 そう答えて、トレーナーとナリタトップロードの二人の間に沈黙が流れる。気不味く感じる空気が夜風に吹かれて、木々のさざめきが二人を煽る。振り返れば、ぼんやりと輝く祭りの喧騒が遠くに見えていた。

 十分ほど歩き続けて、トレーナーが「ここだよ」と目的地に辿り着いたことを伝えた。

 

「ここは…………」

 

 視界に広がっていたのは、一部を切り取ったように拓けた空間。落下防止用の柵が奥に設置され、そしてその先を一望する為に置かれた一つのベンチ。静かに沈み行くその場所は、一目ではどこか寂しく感じる空間だったが、柵の奥に遍いていた景色は目を見張るものだった。

 柵に手を置いて、思わず身を乗り出してしまいそうな勢いで、ナリタトップロードは「わあ〜!!」と眼前に広がる光景に感激の声を上げていた。

 

「綺麗だね」

「──はいっ! すごく、すっごく綺麗です!!」

 

 僅かだが明るい表情が取り戻されて来ている。目の前の景色は、美しいという言葉以外は思い当たらない。拓けた空間から一望できたその景色は、人々の活動を指し示す光の集合体が街を照らし、その奥で風に揺られて煌めく大海が広がっている。遥か地平線の彼方で、地球を見下ろす美しい満月が昇っていた。

 ベンチの横に車椅子を止め、トレーナーは星々が覗く夜空を見上げながら口を開いた。

 

「今日は流れ星が見えるらしい」

 

 聞こえた言葉に、ナリタトップロードは「えっ!?」と声色を高くして驚愕の表情を見せる。その顔には喜色も強く滲んでいて、ナリタトップロードはトレーナーの横──ベンチに腰を下ろした。

 空を見上げて必死に流れ星を探すナリタトップロードの瞳。輝きに満ちたその眼差しを見つめて、トレーナーは「やっぱり」と思わず微笑んだ。

 

「君にはその瞳が──いや、その期待に満ちた顔が似合ってるよ」

「え……?」

 

 突然そう言われて、ナリタトップロードは困惑でトレーナーを見つめた。

 

「トップロードには、笑っていてほしい」

「私、笑ってましたよ?」

 

 何言ってるんだ、と言わんばかりに軽く笑いを溢して、ナリタトップロードは遠くに広がる景色に視線を移す。だがやはり、その表情には光に隠れた影が映っていた。それを見逃さなかったトレーナーは「いや」と、ゆっくり瞳を閉じた。

 

「笑ってないよ。それに気付けないほど、俺はマヌケじゃない」

 

 だけど、とトレーナーは言葉を繋いだ。

 

「笑え、っていうのも無理があるのは分かってる」

「それは…………」

 

 皐月賞、日本ダービーでの敗北。皆の期待に答えられず、それだけでも背中に圧しかかる重圧は計り知れない。そこに加えて、トレーナーの余命宣告を告げられれば、余裕のなかった気持ちに更なる拍車をかけた。

 笑えと言う方が無理がある。それは重々承知の上。寧ろそんな状況でありながら、他人に気付かれないように自分を嘘で取り繕っている。悪い方向へ器用になってしまった。

 

「君は今、独りで戦ってる」

 

 頼りたくても、誰にも頼れない。皆の期待を裏切らない為に、弱い一面は決して見せられない。そしてトレーナーにも心配をかけないように、トレーナーに負担をかけない為に、迷惑はかけられない。だからこそ、孤独で戦わなければならない。

 ナリタトップロードは唇を噛み締めた。

 

「一人でなにもかも抱え込んで、一人で全てを背負い込んで、手に余る量の期待を胸に抑え込んでる」

 

 図星なのか、ナリタトップロードは顔を伏せた。

 そんなナリタトップロードを一瞥し、トレーナーは目を伏せてから謝罪した。

 

「ごめん、俺が不甲斐ない所為だ」

 

 トレーナーの卑下にナリタトップロードは「そんなことありません!!」と声を荒げて否定する。身体ごと顔をトレーナーに寄せ、その勢いに気圧されてトレーナーも思わず目を見開いた。

 嘘偽りのない強い眼差しを向けてから、ナリタトップロードは表情を曇らせてベンチに座り直す。そして訥々と心の内を語り始めた。

 

「全部、私が未熟だからです……いつまで経っても、みんなの期待に答えられなくて……」

 

 膝の上に置いた拳を強く握り締めて、ナリタトップロードは俯いた。

 

「だからって、いつまでも落ち込んでいられない。いつもと違う環境で気分も切り替えられましたし、私はもう大丈夫です」

 

 トレーナーに向けて微笑むが、その微笑みが嘘であるのは一瞬で理解できた。だからこそ、トレーナーは考えるよりも先に手が伸びた。

 ナリタトップロードの頬を強く摘む。柔らかな弾力が伸び、ナリタトップロードは突然の痛みに思わず「い、痛いです(いひゃいれふ)!」と苦痛に声を漏らす。トレーナーはナリタトップロードを睨むように見つめて言い放った。

 

 

 

「──苦痛に慣れるな!! 自分に嘘をつくな!」

 

 

 

 そう叫び、トレーナーはナリタトップロードの頬を離す。突然のことによる困惑と、唐突に襲った痛みにナリタトップロードは頬を擦った。無理やり微笑んでトレーナーを見つめて、

 

「ひどいですよー、トレーナーさん……」

 

 言って、徐々にナリタトップロードの微笑みは崩れていく。目尻に雫が溜まり、痛みの残る頬を擦りながら「うっ」と喉から声を漏らした。

 段々と崩壊していった微笑みは形を残さず、哀しみへと塗り換わっていく。そしてそれは感情の堤防を破壊し、一気に溢れ出した。

 

「ぅ〜〜っ!」

 

 滂沱と流し始めたナリタトップロードを直ぐに抱き寄せて、トレーナーは胸の内で泣く彼女の背中を擦った。

 

「ほらやっぱり。この際だから、全部吐き出して言葉にしてみな。大丈夫、俺しかいないから」

 

 トレーナーの優しさが、ナリタトップロードの押し留めていた激情を押し出す。次から次へと、止まることのない涙を流して、嗚咽混じりに彼女は吐き出した。

 

「ごめん、なさい……! 私、次は勝たなきゃって……っ、みんなの期待に、答えたくて……っ! なのに、なのにまた……! トレーナーさんとの夢を、またわたしは……!! ごめんなさい……っ!!」

 

 溢れる激情すべてを受け止め、トレーナーはナリタトップロードを強く抱き締めた。

 溢れ出る感情を抑制できず、一度爆発した荒波は箍を切って溢れ出し、ナリタトップロードの嘘をなにもかも蒼色に塗り潰していった。

 

「私は……っ、わたしは……っ!!」

「うん。いいよ、言って」

 

 囁かれるように、優しい声色で彼は言った。

 その瞬間からナリタトップロードは、トレーナーの胸の中で泣きじゃくった。彼の服を強く握り締めて、嗚咽を上げながら心を叫んだ。

 

「勝ちたかった……っ!! 負けたくなくて、あと少しだったのに……!」

「そうだね、本当に惜しかった」

 

 皐月賞で、掲げていた夢が潰えた。

 日本ダービーで、僅かに手が届かなかった。

 繋ぎ、託した想いに答えることができなかった。

 忘れてはならない。ナリタトップロードはまだ学生の女の子。いくら嘘を取り繕って大人であろうとしても、その精神はまだ幼い。塗り固めた嘘はいずれ崩れ去り、取り返しのつかない崩壊を招く。それを防ぐのが、大人の役目だ。

 

「ずっと、辛くて……! みんなに見放されちゃうんじゃないかって、ずっと、こわくて……っ!!」

「大丈夫。みんないる。俺もいる。どこにも行ったりなんてしないよ」

 

 言って────、

 

「アヤベさんも、オペラオーちゃんも、速くて、私なんかじゃ全然ダメで……っ!!」

「そんなことない。君は頑張ってる。それを俺が一番よく知ってる」

 

 言って────、

 

「トレーナーさんっ……! 死んじゃ、やです……! ずっと、側にいてください……っ!!」

「────」

 

 全部を、ぶちまけた。

 なにもかもを曝け出す。心の奥底に留めていたあらゆる感情。抑え込んでいたすべてを吐き出す。ずっと隠していた自分を、大切な人に曝け出して、ナリタトップロードはその悲痛を叫んだ。

 

「わたしっ、まだトレーナーさんといたいです……! ずっと、ずっと……どうして、トレーナーさんが……っ! 嫌だ、イヤだ、いやだ……!」

 

 トレーナーの胸に顔を埋め、擦り付けるように額を押し当てる。〝どうして〟と天に仰ぎ、〝嫌だ〟と現実を否定する。叶わないと知りながら、叶って欲しいと願望を囁いた。

 トレーナーは、それを全て受け止めた。

 逸らさず、聞き逃さず、しっかりと真っ直ぐに。耳を傾けて、ナリタトップロードを抱き締める。彼女の背中に回した腕に力を込めて、決して離さないかの如く抱き締めた。

 

「うん。俺は、最後までずっと──トップロードの側にいる。たとえこの命が果てようと、この心はずっと君と共にある」

「トレーナー、さん……っ」

 

 肩を掴む彼女の手が、力を込める。それを感じながら、激痛の迸る身体にムチを打った。

 押し付けられるトップロードの額が熱い。目尻に大粒の雫を灯した眼差しが熱い。その叫びすらも熱を宿して、鼓膜に焼き付く。なにより、彼女から流れる涙が、なによりも熱かった。

 

「ぐすっ……ずっと一緒に、いてください……」

 

 トレーナーはナリタトップロードの言葉に頷くことができなかった。

 残された僅かな命。抗うことをやめたトレーナーは、その運命を受け入れようとしていた。

 命が徐々に削られていくのを、その身で感じているからこそ、もう既に生き延びようとする意思を失っている。もうすぐこの命の灯火は、吹き抜ける風に揺られて消え去る。だからトレーナーは、なにも言えなかった。

 

「────」

 

 薬の効果が消えている訳ではない──抱き締める腕に力を込めれば、痛みが疾走った。

 額を擦り付けられる度に、鼓動が激しさを増して激痛を呼ぶ。だがそれよりも、胸の奥底にあるこの心が締め付けられるように苦しかった。

 日を重ねる毎に、この心臓は自らを蝕んでいく。徐々に増していく痛みは、もはや薬の効力を上回りつつある。それを理解しているからこそ、トレーナーは〝生〟を諦め、ナリタトップロードの〝未来〟の為に、この身を犠牲にする覚悟だった。

 

 

 

 その瞳には、生への諦念と未来への渇望が同時に宿っていた。

 

 

 

 ゆっくりと流れゆく時の中で、さざめく潮騒と麗らかに舞い上がる旋風のみが時間の異常を攫う。見下ろす月夜の影はぬらりと光を呑み込み、暗闇に染まる世界を照らしていた月光は、分厚い雲で覆い隠された。

 数秒、数分、いったいどれだけの時が流れたのか、トレーナーの胸の中に顔を埋めていたナリタトップロードから号泣が聞こえなくなり、鼻をすする音だけが木々のさざめきに漏れた。

 

「大丈夫?」

 

 少し離れて、ナリタトップロードを見下ろす。俯いている所為で表情こそ伺えないが、彼女はこくりと僅かに頷き、服の袖で涙を拭う。時間を掛けて、ゆっくりと整える。その有り様を静かに、そして優しく見つめながら、トレーナーは待った。

 やがて、ナリタトップロードは鼻をすすってからトレーナーとの距離を離して顔を上げた。

 

「えへへ、もう大丈夫です」

 

 笑ったナリタトップロードの鼻は赤く、目尻も朱が滲んでいる。頬に刻まれた涙の跡が、ナリタトップロードの感情をすべて吐き出したことを表していた。

 

「すいません、トレーナーさん」

「謝罪じゃない、そこは感謝だ」

 

 謝罪を告げたナリタトップロードに、トレーナーは笑顔で返す。するとナリタトップロードも微笑んで答えた。

 

「ありがとうございます、トレーナーさん!」

 

 ようやく本当の笑顔を取り戻したナリタトップロードのそれは、満天に輝く星々よりも明るく、この惑星を照らす月光よりも柔らかな優しい表情だった。

 トレーナーも思わず微笑んで、ふと天を仰ぎ見て「うわ」と声を上げた。

 月と星々を隠す天蓋。光の一切を遮断して、大地には安寧の暗闇が沈んでいた。

 

「曇って来ちゃったね」

「今日はもう、流れ星は見えなさそう……」

「あーあ、心ガッカリだ」

 

 最後に託した奇跡は、もうこの目で見ることはできない。ポツリと呟いた言葉も、冷たい夜風によって瞬く間に消えていき、最後の願いすらも分厚い暗雲に覆い尽くされた。

 やはりこの世界に、神など存在していない──そう実感して、トレーナーは背負わされた運命を呪った。

 悔しさで拳を握り締めようとすれば、横に座り直したナリタトップロードがその手に指を絡め、トレーナーに向けて優しく微笑んだ。

 

「大丈夫です。そんな、気休めな言葉しか言えませんけど、いつかまた一緒に見に行きましょう」

 

 その笑顔が、本当に眩しくて────。

 宿痾を背負わされ、改めてナリタトップロードの薫陶(くんとう)を受けた。炯眼(けいがん)でありながら、向けられるその瞳は優しくも月夜の朧げな光と同じ輝きを宿していた。

 まともに真っ直ぐ見つめられない。それでも、真っ直ぐ見つめなければならない。それが未来を生き、夢を諦めずに突き進むものへの礼儀だと信じていたからだ。

 

「そう、だね……」

 

 だがしかし、虚実しか返せなかった。

 ナリタトップロードの言葉に嘘はなかった。信じて止まない純朴の声色だった。過去に告げられた言葉でもない。感情の込められていない気休めの言葉なんかではない。

 未来を諦めていない。絶対に治る、そう信じている者の瞳だ。そこに映る者の表情は、呆れるほどに愚かで哀れなものだった。掲げていたはずの矜持は闇に飲まれ、夢を語ったその言葉は、いつの間にか嘘で塗れていた。

 

 

 

 曰く、若い者は虚勢を張る。

 見栄か、はたまた偽りか。いずれにせよ、取り繕った強さとは自分の首を絞めつけ、己を殺す。まさにその通りだった。

 

 

 

 ナリタトップロードは全てを取り戻した。

 だが、トレーナーはどうだ?

 未来が見えず、過去に生きようと生存を諦めた者。ナリタトップロードを信じていても、自分のことは信じられない。彼女に囁いた言葉はなんだったのか。

 

 

 

 今日の月は、暗雲に隠れて呆れるほどに無様な輝きだった。夢に憧れていた俺はどこに行った?

 その鼓動は、着実に命を削っていた。

 

 

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