あなたとなら、きっと超えられる   作:渚 龍騎

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5話 前に進むチカラ

 

 

 

 

 夢を見ていた頃は、死への覚悟と生への執念を同時に宿していた。死んでもいい、だが夢は必ず叶える。その為にまだ死ぬことはできない。そんな意識を掲げていたはずの俺は、いまやどこにもいない。

 彼女の為に、ナリタトップロードの為に。そんな大言壮語ばかりで、彼女を理由に自分を偽っている。なぜなのか分からない。なぜ、なぜ、なぜ?

 

 

 

 京都新聞杯。それは日本ダービーと同じ最後を辿った。

 アドマイヤベガに敗北したナリタトップロードだったが、かつてのように落ち込む素振りは見せず、未来を見た。気持ちを切り替え、次の勝利へとその敗北を踏み台にして繋げた。

 そんな希望に満ちたナリタトップロードを見つめ、俺はふと水溜りに映り込んだ自身の表情に唇を噛み締めた──希望の宿っていない、嘘で描いた影に満ちた顔。

 

「クソ、こんな顔じゃダメだ……せっかくトップロードが自信を取り戻したのに、俺がこんなんじゃダメだ……」

 

 俺の所為で今を潰すのはダメだ──そう口の中で呟いて、トレーナーはジョイスティックを傾けて車椅子をくるりと方向転換させる。なぜそんな考えに飲まれてしまったのか分からない。生きることを求めていた自分も、死を否定し続けた自分も、全部全部どこかに行ってしまっていた。

 このままでは、今のナリタトップロードを壊してしまう。それが怖くて仕方がなかった。

 

 

 

 曰く余命宣告は短めに告げられる、という。

 トレーナーは残り三ヶ月だと告げられていたが、十月に入ってもまだ生にしがみついていた。

 しかし、日に日に力が弱まっているのを本人も自覚していた。まずパソコンを開けなくなった。キーボードのタイピングも、以前は得意だったが今ではひたすら困難だった。

 最近は車椅子のジョイスティックを押すだけでも疲労困憊になる。起きている時間も減った。

 徐々に、そして着実にこの心臓はトレーナーを蝕み、殺す機会を伺っていた。

 

「トレーナーさん」

「うん?」

 

 また真っ白でなにも描かれていない病室に入院することとなったトレーナーは、ベッドの横、窓側に座るナリタトップロードに呼ばれて反応を示す。彼女はパソコンの画面に映し出されたレース映像を見つめながら、菊花賞に向けて勝利の策を練っていた。

 

「やっぱり、何度見てもアヤベさんもオペラオーちゃんも強いですね……」

 

 そうだね、と返したトレーナーの声は小さかった。

 トレーナーが明らかに衰弱しているのはナリタトップロードも理解していることだった。目に見えて筋肉が衰えている。爛れるかの如く皮が伸び、薄っすらと骨も浮き出ていた。

 長い間、トレーナーを見てきたからこそ、ナリタトップロードにはその姿がとても痛々しいものだった。

 

『僕さ、ウマ娘みたいに走れたらなって、何度も思ったことがあるんだ』

 

 かつて、トレーナーは空を見上げてそう言った。

 まだ幼い頃。夢がまだ遥かに輝く星の如き遠さを誇っていた頃。まだトレーナーにすらなっていない彼は、まだ小さかった頃のウマ娘に語った。

 

『風を切って、夢に向かって突き進む感じって、どんなんだろうって。何度も夢見た。でも────』

 

 人間とほぼ同じ形を保ちながら、時速60kmの速度で駆け抜けるウマ娘。もしも同じように駆けられたら、どれほど気持ちが良いのだろうか。トレーナーはその風を感じて見たかったが、いくら努力を重ねてもその夢は絶対に叶わない。

 

『僕は男だし、ウマ娘じゃない。身体も弱いし、君たちみたいに気持ちよく風を感じることはできない』

 

 だから──そう言って言葉を繋げたトレーナーの表情は、今でも忘れられない。悲しみに溢れている、夢を夢で終わらせたものが見せる表情(カオ)だった。

 だが、その表情は直ぐに笑顔へと変わった。

 

『僕はトレーナーを目指す。その風を感じられなくても、誰よりも近くで君たちの夢が叶った瞬間を見たい。そうすれば、また新たな夢が全てを変えてくれると思ったからさ』

 

 燦然と蒼い空。それを見つめる彼の瞳は、息を呑むほどに強い炯眼をしていた。

 その瞳に憧れた。

 その顔に見惚れた。

 その声に奪われた。

 その手に盗まれた。

 ────身も心も。瞳に焼き付いた景色を胸に抱いて、ずっと彼の背中を追いかけて来た。

 目の前の壁が高く、険しいものだったとしても。彼はずっと側にいた。あの時、挫けそうになっても『諦めるな』と手を差し伸べてくれた。

 

 

 

『──君となら、きっと』

 

 

 

『──あなたとなら、きっと』

 

 

 

 ────どんな壁だって超えられる。

 『叶わない』なんて思ってた私が、いつの間にか『叶えたい』と願うようになっていた。そんな風に変えてくれたことを、ずっと、ずっと感謝している。

 夢を追いかけて、全てが変わる。まさにその通り、見る景色もなにもかもが全て変わった。

 全部全部、あなたに会えたからだ。

 

 

 

 なのに、今の彼はどうだろうか。

 お前には無理だと言われても、見返してやると踏ん張って。諦めろと言われても、イヤだと歯を食いしばっていたかつての彼は、そこにはいなかった。

 分かっていた。分かっている。今のトレーナーさんは、自分の命よりも私を勝たせることを優先している。生きることを諦めているようにも見えた。

 いまさら生きろとは、到底言えない。だから、ひとつだけ。

 

「トレーナーさん」

 

 優しく包み込むように、力なく萎れる手を握って、ナリタトップロードはトレーナーを真っ直ぐに見つめる。それに気が付いたトレーナーは、ぼんやりと光の灯らない瞳を向けた。

 

「まだ、終わっていないですよ。死を覚悟するのは構いません。だけど、生きることを諦めないでください」

 

 その言葉を受けて、トレーナーは僅かに目を見開く。震えて、されるがままに放り出された手が、微かに揺れてナリタトップロードの手を力なく握った。それでも、力強さを感じられた。

 

「大丈夫です。私はずっと、トレーナーさんの側にいますよ」

「…………諦めないで、か……」

 

 優しく語られた言葉に、トレーナーはふと笑う。口の中で「諦めるな、諦めるな……ね」と何度も呟いて、ようやく顔を上げる。その瞳は、僅かだが確かに光が宿っていた。

 弱々しく、吐息を漏らすだけの唇を必死に震わせて、トレーナーは声を吐いた。

 

「……生きたいと諦めなかったら、死ぬのが怖くなる。やっと、死ぬ覚悟ができたってのに、怖いんだ……」

 

 震える声で、トレーナーは表情を隠す。初めて〝怖い〟と、自分の口からそう言った。

 恐怖の所為か、大病が原因か、はたまた両方なのか。トレーナーの手は酷く震えている。それを支えるかのように、ナリタトップロードは両手で優しく包み込んだ。そうすると、震えていた彼の手は柔らかな感触と温かな感覚に包まれて震えが僅かに収まった。

 

「やっと、言葉にしてくれましたね」

 

 ナリタトップロードは微笑んだ。

 嘲る嘲笑ではなく、ようやくトレーナーの心を聞けた、という安堵と喜びの感情が大きい。柔らかく笑って、ナリタトップロードは自信の胸に手を当てた。

 

「トレーナーさんは、私を救ってくれました。だから今度は、私がトレーナーさんを救います」

 

 その言葉に、嘘も偽りも滲んでいない。正真正銘、心から語っている言葉だ。微塵も含まれない嘘にあるのは、単なる真実の色。純粋で、純白、なに色にも染まらない真っ白な慕情を敷衍(ふえん)していた。

 運命を糾弾することもせず、ただただトレーナーを救いたいと願う恍惚な想いだけを馳せて、悠然とその純真を告げる。それこそが、ナリタトップロードの本懐だった。

 

「だから、もっと言ってください。トレーナーさんの本心を──」

 

 優しく語り掛けられる言葉は、トレーナーの彷徨していた心に逼迫さを呼び起こした。

 喉が震える。呼び覚まされた感覚が、トレーナーを訴える。心の奥底に抑え込んでいたはずの感情が、その胡乱を明確にし、収斂していた心を発露し始めた。

 

「怖い、よ……死ぬのが、ずっと怖い……」

 

 語る、その本心を。ずっと胸に抱き、奥底に仕舞い込んでいた恐怖の感情を、吐露する。唇を噛み締め、力無い腕に全力で力を込めて、ナリタトップロードのその手を握り締めた。

 上げた顔には、感情が滲み出ていた。

 押し壊し、敷衍しようとする感情の波を抑え込み、必死に堪えているのが、表情から見て取れた。

 

「でも、全部吐いたら生きたくなっちゃうんだよ……もう、諦められなくなるんだよ……」

 

 感情から溢れる声が、必死に訴える。しかしナリタトップロードは慈しむように微笑んだ。

 

「──それでいいじゃないですか」

 

 微笑み、ナリタトップロードは全てを肯定した。

 それでいいんだと、トレーナーの言葉を根底から頷いた。否定することをまったくせず、彼女は笑った。

 

「私は、トレーナーさんに〝諦めるな〟と教わりました。なのにトレーナーさんは、諦めてしまうんですか?」

「それは…………でも、これ以上を望んだら、きっと君にも更に迷惑を掛ける……だから、俺が耐えて、君に迷惑を掛けないように──」

 

 そこまで吐いて、ナリタトップロードの手が言葉を遮る。トレーナーの口に手を当て、吐き出される裂帛のような感情を塞いだ。そのままナリタトップロードは「私は──」と切り出した。

 

「迷惑だなんて思っていません」

「そんなこと──」

「──いいえ。まったく思っていません」

 

 言葉を遮って、ナリタトップロードは言い切った。

 断言。そこに嘘はない。慰める為に漏れた言葉でもない。泰然とした態度で、トレーナーからのその悄然に首を振った。

 

「私は、トレーナーさんといられるならそれでいいんです。それ以上なにも望みません」

「でも──」

「たくさん迷惑かけてください。たくさん私を頼ってください」

 

 向けられる微笑みは、光に満ち溢れていた。

 トレーナーはその笑顔を真っ直ぐに見ることができず、顔を逸らした。なにも言えない。唇を噛み締めると、虚空の中に浮かび上がった想いが溶け始めた。

 

 無意味な人生に意味を齎そうと必死に足掻いた。その結果がこれだ。始めから、この人生に意味などなかった。語り掛けられる言葉は、もはや全て嘘と裏切りの色で染まり上がっているように聞こえてしまっていた。

 ナリタトップロードのことは信じている。だが、今まで投げつけられた言葉が、トレーナーの精神を切り刻んでいた。

 

「俺は、何度も嘘を味わった……君のことは信じてる……だけどもう、俺は誰にも裏切られたくないし、俺も裏切りたくない……」

 

 嘘は心を削り、裏切りは心を抉った。

 何度も、何度も、何度も、数え切れないほど何度もその告げられた嘘を味わった。

 だがナリタトップロードは、嘘偽りが微塵も含まれていない微笑みでトレーナーの手を取った。

 

「──トレーナーさん、私は嘘をつきません」

 

 光が、瞬いた。

 遥か、空の星が暗闇の中で酷く輝いているように見えた。純粋で、無垢で、天真爛漫に。ナリタトップロードは微笑んだ。

 

「どれだけ努力しても、運命には逆らえない……最後まで一緒にいてくれた人も、いなくなった……結局は、いつも独りで……」

 

 たった一人、側に寄り添ってくれた人も最後には消えた。突き付けられた現実も、背負わされた運命も、なにもかも非情である。もう少しで手が届く夢も、目前にして塵と化す。ずっと独りで、孤独にこの運命を背負い続けなければならない。だが、ナリタトップロードはそれを否定した。

 

「私はずっと、トレーナーさんの側にいます」

 

 ナリタトップロードは、微笑んだ。

 

「一緒に、夢を叶えましょう。選んだこの道のりは、決して間違いなんかじゃありません」

 

 だから、と言葉を繋いでナリタトップロードはトレーナーに手を差し伸べた。

 

「みっともなく足掻きましょう。足掻いて、足掻いて、誰よりもしぶとく足掻き続けましょう。運命なんて、()()()()()()ですよ!」

 

 ナリタトップロードの言葉に、トレーナーは目を見開く。強く、強く、そして優しい瞳。地平の果てまで巡るその黄金に滲んだ紫の輝きは、真っ直ぐにトレーナーを射抜いていた。

 諦めかけていた夢。その手から溢れるほどの希望は、指の隙間から零れ落ちて、掲げなければ良かったと後悔した。だが、その落ちたはずの希望を掬い上げて、ナリタトップロードは溢れる夢を一緒に支え持った。

 

「ああ、もう……クソ……せっかく夢も希望も諦められると思ったのに……君の所為でまだ生きたいって思っちゃったじゃん……」

 

 皮肉になっていたトレーナーから、笑みが吹き溢れる。潤んだ瞳を擦って、目尻に溜まった涙を拭い、優しく微笑むナリタトップロードを見つめ返した。

 

「俺、まだまだたくさん迷惑をかけちゃうよ?」

「それは私もです。お互いに、一緒に迷惑かけちゃいましょう」

 

 ナリタトップロードはそう言い切った。

 トレーナーとしての人生も終わった自分に、なぜそこまで尽してくれるのか。トレーナーは泣き出しそうになる感情を抑えながら、首を傾げた。

 

「どうして、そこまでしてくれるの?」

 

 純粋な疑問だった。

 分からない。分からない。なぜそこまでナリタトップロードが尽くしてくれるのか分からない。トレーナーだから、担当バだから、そんな理由では片付けられない。ずっと隣で、ずっと支えてくれるのも分からない。ナリタトップロードが誰にでも優しいのは理解しているが、それでも説明がつかなかった。

 明らかに釣り合っていない。トレーナーから与えられるものはなにもない。恩返しなど期待の欠片もできない。だがそれでもトレーナーを支えようとする理由が分からない。

 

「トップロード?」

 

 問い掛ければ、ナリタトップロードの頬が微かに朱に染まる。目線がトレーナーから逸らされて、どこか遠くに向けられる。だがその意識はトレーナーへと向けられているのが理解できた。

 ナリタトップロードは紅く滲んだその瞳を閉じ、胸に手を当てるとゆっくり息を吐いた。漏れる吐息が、ようやく決意した覚悟をナリタトップロードの心に灯した。そして開いた瞳には、仄かな色とは別に粛々とした蠱惑の眼差しが煌めいていた。

 

 どこにでもある。誰もが見たことのある。その人口に膾炙(かいしゃ)す感情は、慕情なんかでは表せない。最も淡く、強く、そして盲目な、幾星霜も語り継げられ繋ぎ止められて来たその想い。

 ナリタトップロードはゆっくりと息を吸ってから、優しい声音で「私は──」と口を開いた。

 

 流れゆく時の中、窓の隙間から差し込んだ風がカーテンを、ナリタトップロードの髪を揺らす。梳ける金砂の如き微細な毛が、トレーナーの瞳に大きく瞬いた。

 遅れて、声は響く────。

 

 

 

「──私は、トレーナーさんに恋をしています」

 

 

 

 スローモーションで映じた視界が、風と共に時の流れが戻る。見開かれた瞳は痙攣し、大きく空いた口は塞がらず、そして驚愕はトレーナーの身体を金縛りのように硬直させた。

 ようやく確かめられた本心。それをようやく告げられたナリタトップロードは、少し恥ずかしげに微笑んだ。

 

 

「こ、い……?」

 

 

 ナリタトップロードからの言葉を反芻させていると、水滴が滴るかのように唇から声が漏れた。それを聞いたナリタトップロードは微笑んで「はいっ」と、少女らしい仕草で首を傾けた。

 

「あはは……これは恥ずかしいですね……だけど、後悔はありません」

 

 恥ずかしげに頬を掻いたナリタトップロードだったが、直ぐに後悔を切り捨てた。

 困惑。混乱。トレーナーの脳は驚愕で混沌に陥っていた。理解できない現実に、トレーナーは思わず頭を抑える。だがナリタトップロードは覚悟に染まった瞳を宿したままトレーナーを見つめた。

 

「どうして──っていうのは、それが理由です。それほどまでに、トレーナーさんのことが〝好き〟になってしまったんです」

 

 ナリタトップロードは「それじゃ、ダメですか?」と首を傾げる。トレーナーの問い掛けに、それ以上の理由はないと、それがこの釣り合っていないことへの理由だと、ナリタトップロードは断言した。

 

「そう、だったんだね……そっか……」

 

 簡単な答えだった。

 考えてみれば、そうだった。

 トレーナーは思わず、笑いを溢した。

 困惑しながらも、感情が喜色に染まるのを感じた。だがそれでも、心の底から喜ぶことはできなかった。

 なぜなら────、

 

「でも、俺はもう永くないよ……?」

「関係ありません」

「だって、もうどこにも行けないし、なにも君に返せないんだよ……?」

「構いません」

 

 ナリタトップロードはトレーナーの言葉に首を振る。その慈しむ眼差しが痛い。心の深窓から込み上げる感情が、吐露して、ナリタトップロードへ婉曲に現実を告げても、彼女は首を振った。

 

「昔みたいに、当たり前に一緒にもいられない……なにもできない……俺は、終わるんだよ……それでも……」

「良いんです、それでも」

 

 即答だった。

 ナリタトップロードの心に迷いはなかった。

 その意志の強さに、その健気な思いに、トレーナーは思わず顔を覆ってベッドのシーツに雫を溢す。徐々に染みが広がっていくのを見下ろすこともできず、トレーナーは歪んだ視界でナリタトップロードを見つめ返した。

 

「当たり前の日々でなくても、私はトレーナーさんとの日々が大好きなんです。永遠なんていりません。この一秒が、この一瞬がなによりも愛おしいんです」

 

 かつて、彼女の思い出を聞いた。

 俺は知っている。愛情は、決して永遠ではない。かつて母も『ずっと一緒にいる。どこにもあなたを置いていかない』と言った。だが運命は、それを圧し潰して、母は俺を置いて消えてしまった。

 

 

 だから、お願いだトップロード。そんな曖昧で盲目な感情に流されないで。俺を、愛さないでくれ。俺も君を愛さない。そうすれば、そうすれば────。

 

 

 

「……俺も君も、悲しまない…………のに……」

 

 

 

「なら、どうして泣いているんですか?」

 

 

 

 ハッと顔を上げた。

 心は、正直だった。自分でも止めることのできない感情の渦。ナリタトップロードの瞳に映る自分の顔は、ぐちゃぐちゃに汚れていた。

 滂沱と溢れる涙が、次から次へと頬に軌跡を描いて真っ白なシーツを染めていく。

 

 

 〝愛している〟──この言葉はいつだって曖昧で、不完全だ。想いが届かずとも、すっと通じ合っている。だから、曖昧で不完全な言葉をお互いに補完する。決して完璧ではない。故に、なによりも美しい。

 

 

 だが、それは決してトレーナーが抱いてはならないもの。心の隅に追いやって、脳裏では欠片も思わないようにして、ずっと、ずっと、気が付かないフリをし続けた感情のひとつ。杞憂であると知りながら、そうではないと否定し続けて来た。

 

 

 不思議だ。本当に、不思議だ。

 彼女の言葉には、嘘というものが微塵も感じられない。知性あるもの、人も、ウマ娘も、言葉の裏には必ず嘘が霞む。だがナリタトップロードの言葉は、不思議と信じられる。彼女になら、全てを捧げても良いと、この心は叫んでいた。

 

 

「嗚呼、やっぱり君には……敵わないなぁ……」

 

 

 全部を見透かされて、全部を理解されて、トレーナーは涙を拭わず顔を抑えた。

 いつだってそうだった。

 君は真面目で、優しくて、誰よりも諦めが悪くて。愚直ながらに真っ直ぐに道を切り開く。その意志は、王道を突き進む。君は太陽のように明るくて、花のように可憐で、そして闇をも切り裂く光のような強さを持っている。だから、君に惹かれていた。

 

 

 でも、現実は非常で、この恋は決して叶わない。成熟することなど絶対に有り得ない。だがそれでも良い。最後に伝えなければならない。この命が消える前に、言葉にして、彼女にこの想いを告げる。

 

 

 

「トップロード、俺も────っ!」

 

 

 

 想いを吐き出そうとして、その言葉はナリタトップロードの人差し指によって遮られる。唇に当てられた人差し指がゆっくりと離れていき、彼女はそれを自身の唇に当てて「しーっ」と笑った。

 

「それは、菊花賞で勝ったら聞きます」

 

 微笑んで、ナリタトップロードは言い切った。

 それは勝利の宣言。絶対に勝つという意志の表れでもある。そんな絶対的な自信を目の前にして、トレーナーも思わず笑う。なるほどね、と呟いてから再度ナリタトップロードに問い掛けた。

 

「ということは──」

「──はいっ! 菊花賞は必ず勝ちます。勝って、トレーナーさんと結婚します!」

 

 ナリタトップロードは決意と共に冗談を施す。その頬は恥ずかしさで微かに朱を滲ませ、口角と共に緩んでいた。

 

「それは流石に気が早すぎない?」

「えへへっ」

 

 都会に溶けゆく灼熱の太陽を背に、ナリタトップロードは笑う。そしてトレーナーは良かったと安堵の息を漏らす。紅に染まる景観のお陰で、自分の顔色がナリタトップロードにバレずに済んだ。

 きっと今、自分の顔は真っ赤に染まっているだろう。今が夕暮れの灼熱に燃える時間で良かった。

 燃えるように熱い身体は、きっと病気の所為なんかではない。心臓の鼓動が、これほどまでに喜びで満ちているのは、いったいいつぶりだろうか。早鐘を打ち、激しく脈打つこの心臓をずっと呪っていた。だが初めて、この鼓動を嬉しく感じていた。

 

 

 

 ────嗚呼、俺はまだ、生きている。

 

 

 

 そう実感できた。この鼓動は、決して殺すために脈打っているのではない。運命が身体を蝕むためでもなく、心臓が一秒毎に鼓動を繰り返し、その度に感情に憎しみが募ることもなかった。

 喜色だ。嬉しい。ただそれだけだった。

 身体で喜びを表そうにも、既に全身を蝕む血液の所為で腕を動かすのも精一杯。言葉にしようとも、それは菊花賞までお預けだ。いまこの喜びを表すのは、微笑むことしかできなかった。

 

「はは……」

 

 ナリタトップロードの冗談に苦笑しながら、トレーナーは力なくベッドに倒れ込む。天井を仰ぎ見て、疲労と共に吐息を外へ吐き出した。口から笑いも同時に溢れ、そのままゆっくりと瞳を閉じた。

 長時間の会話に、トレーナーの身体は疲労が溜まっている様子が見て取れた。だが彼は、眠りに付く態勢で「それなら……」と笑い混じりに切り出した。

 

 

「まだ、死ねないな……」

 

 

 そう言い残し、トレーナーは力尽きてそのまま眠りに付く。再び静寂が灯った病室は、紅蓮に燃えていた。夕暮れに満ちる世界から差し込んだ灼熱の夕陽が、真っ白な病室を真紅に染め上げていたのだ。

 真紅だけが茫洋とする静寂に、トレーナーの寝息だけが粛々と響く。瞳の閉じた彼の姿を緩やかに見つめながら、ナリタトップロードはゆっくりと腕を伸ばした。

 

 

「トレーナーさん」

 

 

 名前を呼んでも、彼はもはや反応を示さない。意識を手放し、それだけ疲労が溜まっていた故、トレーナーは熟睡しているのだ。いつも大人びて見える顔が、今では無防備を晒して愛らしい子供のようにも見えた。

 ナリタトップロードはその手をトレーナーの眼前にまで伸ばすが、触れる直前で指を止める。僅かに引っ込めてから、固唾を飲んでもう一度その手を伸ばした。頬に添えて、優しく親しみながら指で柔らかく撫でた。

 

 

「任せてください。私、絶対に勝ってみせます。だから、見ていてください──トレーナーさん」

 

 

 彼は、まだ生きている──いつ死んでしまうかも分からない。だがそれでも、ナリタトップロードは決して届かないその覚悟を語った。立ち上がり、自身の胸に手を当ててその覚悟を確かなものと感じながら、ナリタトップロードは熱の籠った吐息を漏らして、ベッドに手を置いた。腰を僅かに曲げ、身体を前のめりにさせてトレーナーの方へと顔を寄せた。

 

 胸が苦しい。彼の最後が近付いているのを理解しているからこそ、容赦なく、冷酷にナイフを刺されたかの如く、その胸が痛かった。問答無用で突き刺さる、形容のし難い心の激痛。呼吸をする度に、肺が締め付けられるように痛い。

 胸が張り裂けそうになる万感の想いを抱えて、ナリタトップロードは揺れて邪魔になる前髪を抑えた。

 

 流れて、揺れて、静謐の中に注ぎ込む風が、二人の影を照らす。その純粋に潤んだ瞳で、眼前の愛しい彼を見つめて、ゆっくりと顔を寄せた。距離を縮め、茹でった頭が灼熱に溶けてしまいそうになりながらも、万感の想いを行動で表していた。

 

 訥々と、愛していると囁いたのは、その場を切り抜けるための嘘ではない。本当に、心の底から愛しているからこその行動である。彼は決して起きない。この想いも決して叶わない。

 太鼓を叩くような音にも似た音が、鼓動の度に響いているのを感じる。呼吸が荒くなるのも分かる。真紅に染まった病室で、朱色に照らされた二つの影がゆっくりと重なり合う。

 

 

「ん」

 

 

 遅い、遅い、遅い、ゆらりと流れる時の中。喉から漏れた声が、静寂の中で妖艶に響いた。

 唇に残った暖かく柔らかな感触の余韻を指で触れながら、ナリタトップロードは顔を伏せる。そしてなにかを語る訳でもなく、踵を返して病室を後にした。

 ゆっくりと、音が出ないほどの遅さで扉を閉めれば、思わず息が漏れてしまった。

 

「ふぅ……」

「やあ、トップロードさん」

 

 聞き覚えのある声に、ナリタトップロードが振り返ると、そこには夕陽に似た髪色に、派手な耳飾りを付けたウマ娘がいた。淡麗な顔立ちに透き通るような紫紺の瞳でナリタトップロードを見つめて「やあ」と手を振った。

 

「オペラオーちゃん、どうして……?」

 

 テイエムオペラオー。彼女が病室横の壁に凭れ掛かるようにして立っていた。

 

「ボクも、彼には少しお世話になったからね。御見舞いに来たのさ」

「トレーナーさんに?」

 

 トレーナーの病室を一瞥してから、テイエムオペラオーへ視線を向ければ、彼女は「そうさ」と手に持ったフルーツバスケットを見せる。その中にはバナナやリンゴなどの果物が詰められていて、テイエムオペラオーは光に満ちた笑顔を見せた。

 

「怪我をした時、いち早く手当てをしてくれたのが彼なんだよ。あれが無かったら、ボクの復帰はもっと遅かったかもしれない。感謝をしているんだ」

 

 それはナリタトップロードも知らない事実だった。

 知らなかったことへの驚愕と共に、トレーナーの優しさが理解できた嬉しさでナリタトップロードは思わず微笑んでいた。そんな彼女を見て、テイエムオペラオーは腰に手を当てた。

 

「でも、トップロードさんたち二人の間に割って入るのは、少々気が引けてね。流石のボクも二人の輝きには弾かれてしまったよ」

 

 ハハハ、と芝居掛かった調子で笑ったテイエムオペラオー。ナリタトップロードはもしやと顔を真っ赤に染めると、直ぐに歩み寄って彼女の耳元で囁いた。

 

「そ、それじゃあ、もしかして私の──」

 

 告白────そこまで吐こうとして言葉を呑む。頬を朱色に染めるナリタトップロードの様子を伺い、テイエムオペラオーは思わず微笑んでから答えた。

 

「さあ、ボクはなにも聞いていないよ」

「ほ、本当ですか……?」

「ああ、ボクはウソなんてつかないさ。トップロードさんが、彼にどんな想いを抱いていようとね」

 

 聞いていないのか、聞いていたのか、まるで分からない発言に、ナリタトップロードは「うぅ……」と唸る。だがそこで、テイエムオペラオーがいつもより真剣な声色で語り始めた。

 

「彼は、トップロードさんに夢を託した。それを叶えられるのは、トップロードさんだけだからね」

 

 嗚呼、とテイエムオペラオーは感嘆の声を漏らす。その瞳には、どこか羨ましさを含んでいるようにも見え、ナリタトップロードは微かに目を見開いた。

 鷹揚と手を大きく広げたテイエムオペラオーは、輝きに満ち溢れた笑顔で言葉を繋いだ。

 

「──背負わされた運命すらも覆す、君たちの凱歌にはその力がある!!」

 

 だが、と言葉を続け、テイエムオペラオーは自信に満ち溢れた表情でナリタトップロードに断言。熱弁を続けた。

 

「菊の大輪を戴くのは、このボクさ。二人の凱歌すらもかき消さんとするこのボクの輝きで、観客を魅了して見せよう」

 

 絶対的な自信。笑うテイエムオペラオーを目の前にして、ナリタトップロードの覚悟はさらに強固なものとなる。拳を強く、固く握り締めて、ナリタトップロードは大きく息を吸った。

 そして微笑むと同時に「いいえ」と首を振った。

 

「──勝つのは私たちです。勝って、トレーナーさんとの夢を叶えてみせます」

 

 その意志は、灼熱に沈む夕陽よりも恍惚に輝き、ダイヤモンドよりも硬いものへと至っていた。

 ナリタトップロードのその言葉を聞き、テイエムオペラオーは笑う。それは嘲笑ではない。絶対的なライバルとの戦いに闘志を燃やし、舞台で共に駆けることを楽しむ者の笑みだった。

 

「短い間でそれほどまでに強くなったようだね、トップロードさん」

「え……?」

「眼を見れば分かるさ。トップロードさんから、その言葉を聞けて良かった」

 

 テイエムオペラオーは、手に持っていたフルーツバスケットをナリタトップロードに渡すと、そのまま軽く手を振って去っていく。その背中を見届けながら、受け取ったフルーツバスケットを一瞥してナリタトップロードは笑った。そして息を大きく吸い込んでから、ゆっくりと吐き出した。

 

 

 

「よしっ」

 

 

 

 その覚悟を胸に、ナリタトップロードは歩みだした。

 

 

 

 

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