菊花賞────胡蝶の夢。
3000メートルの長丁場が舞台。クラシック三冠、最後に残された大一番。レースが始まる直前の地下バ道で、歓声と共に差し込む光を目の前に、ナリタトップロードは息を整えていた。
歓声に呼応して、自身の胸の鼓動も激しく熱狂を纏っていた。
「トレーナーさん、見ていて下さい」
決して届くことのない言葉を、大切な人に向けて告げる。届かなかった夢を手に取るため、叶えられなかった夢を叶えるため、二人で掲げていた夢を、必ずこの脚で叶えてみせる。ナリタトップロードの意志は、絶対的な覚悟と共に恍惚と輝いていた。
子供の頃、ふたりで夢を語り合った。
ウマ娘のように走りたかった、と彼は語った。
頂点への道を駆け抜けたい、と私は頷いた。
彼の健気さを知った。苦しみを知った。痛みを知った。そして、その想いを知った。
あなたを助けたい。あなたの人生を変えたい。あなたを抱き締めて、その背負う運命を、一緒に背負いたい。あなたが好きだから、あなたを愛しているから。
真っ赤に染まる病室で、私はキスをした。
彼には覚えのない、私だけが知っている味。
最初で最後の、一方的な想いの味わい。どうか、どうか私のことを突き放さないで欲しい。
私は、もう決して迷わない────。
そして、菊の大輪を咲かせるための激闘が始まった。
3000メートルの果てないその道のりは、長く、険しく、決して努力だけで乗り越えられるものではない。遥か遠く、手を伸ばしても届かない頂点への道。だからこそ、手が届くまで必死に駆け抜けた。
第四コーナーを回る。その瞬間、耳を聾するほどの歓声が辺りを焼き焦がす。熱狂は鳴りを潜めることなく燃え広がり、静謐を知らない。だがそれよりも、自身の胸の内から轟く鼓動がなによりもうるさい。
周りを共に駆けるウマ娘たちの息遣いを感じる。誰もが勝利に向かって突き進み、喉が焼けるほどの苦痛を吼え猛けて、席巻するその欲望を馳せながら駆け抜けている。一歩を踏み出す度に、大地に震動が巻き散って蹄跡が残った。
────勝ちたい。勝ちたい。
誰よりも、なによりも、その想いがこの芝を吹き抜ける。この場に集ったすべてのウマ娘たちの想いが、空気を痺れるほどに震わせ、絶対に勝つという軌跡に手を伸ばしていた。
────必ず、来る。
眼前のチャンスを伺って、ナリタトップロードは刹那の瞬間を見据えた。
必ず訪れる一瞬の道。刹那を切り裂く一閃。頂点へと通ずるたった一つの道が、必ず来ると、ナリタトップロードは信じて待ち続けた。
第四コーナーを回って直線へと向かうその一瞬。歓声がより強く、より激しさを増した。ずっと応援し続けてくれたみんなの想いが、嵐の如き旋風を巻き起こしていた。
────トレーナーさんとの夢を叶えるために。
その想いが、ナリタトップロードに紅蓮の焔を灯す。齎されたその瞬間を、ナリタトップロードは待ち望んでいた。眼前を睨んだその先──頂点へと至る道に、光が差し込んだ。
その一瞬を逃さない。全力を叩き込む。大地に震動が轟き、叩き付けた一歩が芝を抉り、眼前を見据えたナリタトップロードの瞳に燦然と輝く光が迸った。
転瞬────光が、疾走った。
逆境を走破し、旋風を通り抜け、熱狂を身に纏う。陽光を背に受けては、残された未来へと────今、駆け出す。神速の如き踏み込みで一気に飛び出し、ナリタトップロードはその空間を切り裂いた。
一気に先頭まで躍り出たが、油断はできない。未だ諦めを知らないものたちが、勝利を求めて苦渋を噛み締めた。勝利への渇望を唸らせ、獣の如き咆哮を上げて、穿つ眼差しがナリタトップロードの背中を捉えた。
瞬間、その獣たちを縫って一人が加速した。
『──外からテイエムオペラオーッ!!』
世紀末に齎す絶対なる覇王が、吼え猛けた。
その圧倒的な威圧感を背中で受けながら、ナリタトップロードはその脚に更なる想いを乗せる。最高のボルテージに達した鼓動が〝勝て〟と叫んだ。
負けられない、絶対に────ッ!!
皐月賞。そこでひとつの夢が潰えた。
日本ダービー。そこで僅かに手が届かなかった。
何度も負けた。何度もあの敗北を味わった。向けられる眼差しが痛くて、胃が捻れるような苦痛も抱えた。背負った期待の重圧が重く圧し掛かって、逃げ出したいと何度も思った。
あの蝟集した篠突く苦しみに耐えて、耐えて、耐えて、耐え切れなくなって、転んで、泣いて────差し伸べられた手を取ってまた立ち上がり、ふたりで笑った。
幾度となく味わった挫折を乗り越え、幾度となく流した落涙を拭い去り、夢を叶えようとふたりで決意した。
今度こそ、このレースこそは絶対に勝つ──!!
絶対に負けるわけにはいかない。ようやく見つけた大切なものを、彼と一緒に掲げた最後の夢を叶えるために。この脚は決して止めない。
彼方に輝く星の如き夢──頂点へと至る道が、どれだけの隘路だろうと、今のナリタトップロードは止まらない。だがそれは、周りのウマ娘たちも同じことだった。
『──間に合うかテイエムオペラオーッ!! ラピッドビルダーも上がって来たッ!!』
最後まで諦めぬ者たちが、ナリタトップロードの道を阻む。一気に突き出たテイエムオペラオーとラピッドビルダーが、己の渇望と夢のためにナリタトップロードの意志を喰らった。
向かう志は、誰もが同じ。一瞬の油断すらも許されない中で、逡巡を押し切り、苦慮すらも捨て去って、そのチカラに最後の焔を宿す。だがしかし、幾ら駆けてもその距離は離せない。ましてや徐々に追いつかれ、距離を縮められていた。
「──くっ!!」
あの半バ身、あと半バ身、その半バ身が遠くて。
厭な予感が、背筋をなぞった。
想いが蝟集するこの戦場で、敗北と諦めの文字が脳裏を過ぎった。諦めろ、と心が囁く。もう終わりだ、と世界が嘲笑う。駆ける想いを引き摺り込もうと、運命がナリタトップロードの脚を掴んだ。
神が、睥睨した。
肺が、苦しい。だが破けたって構わない。
喉が、
脚が、重い。だけどまだ疾走れる。
絶望するなら、負けてからしろ!! まだ、まだ終わっていない!! 嫌だ。此処で夢を終わらせてたまるか、叫べ、叫べ、叫べ──叫ぶんだ!!!
覚悟が叫ぶその瞬間────、
────諦めるなッ!
誰よりも先に、それを叫んだ者がいた。
たったひとつのその声は、辺りに席巻するどの歓声よりも強く響き、それらを掻き消して轟いた。
聞き慣れたあの声。聞こえるはずのないこの声。誰よりも聞きたかったその声が、ナリタトップロードの耳に届いた。
声の主を理解して、瞬きをした直後──
眼前に広がっていた青空は漆黒に染まり、駆け抜けていたはずの芝生には僅かに水が張っていて、歩を進める度ぴちゃりと波紋を広げる。その景色に困惑しながらも駆け抜けていると、突然その脚を掴まれた。
刹那で理解できた。脚を掴むその真っ黒な手は、運命だ。運命がナリタトップロードが駆け抜ける道の邪魔をしていた。幾ら振り払おうとしても、引き抜こうとしても、その手は決して脚を離さない。
「──くっ、離して! 私は、まだ──ッ!!」
水面から伸びる漆黒の手を睨んだ瞬間────、
『──そうだよ、まだ終わってない』
声と共にナリタトップロードの手が引かれ、するりと暗黒の手が脚から離れた。態勢を崩して転びかけるその身が受け止められ、ナリタトップロードは直ぐに顔を上げて驚愕した。
「トレーナーさん……どうして、ここに……」
見慣れた端正な顔立ち。漆黒の髪に真っ直ぐな瞳。見間違えるはずがない。彼は、
困惑が思考を纏う。だがそれを振り払うようにして、感覚が真っ先に拭った。困惑よりも歓喜。ナリタトップロードは溢れそうになる涙を押し留め、トレーナーの胸に顔を埋めた。
「いいえ、理由はなんでもいいです。トレーナーさんと、ここで会えたことが奇跡なんですね」
トレーナーはナリタトップロードの肩を持ち、ゆっくりと離す。彼女を優しげな眼差しで見下ろしながら、柔らかく微笑んだ。
病に蝕まれていないかつての姿で、トレーナーはナリタトップロードの足下から伸びる漆黒の手を睨んでから、背後にある道の先を見つめた。
「俺が君の背中を押す。だからトップロード、君は振り返っちゃダメだ。前だけを見据えて、突き進むんだ」
トレーナーは真っ直ぐな眼差しで強く言い切った。
別れの時が、早くも来た。
溢れ出る感情を堪え、顔を上げたナリタトップロードは直ぐに「はい……」と頷く。だが心の奥底、微かに芽生えてしまった恐怖がナリタトップロードの行方を低迷させる。勝つ、と吼えていても膨大な恐怖が心を蝕んでいた。
僅かに曇った瞳からすべてを察したトレーナーは、期待を宿した瞳でナリタトップロードを見つめてから、強く、そして優しく抱き締めた。胸の中に抱き留められて、ナリタトップロードは込み上げる感情を必死に抑える。病に侵されていたはずのトレーナーからは考えられないほどに、抱き締める腕の力は強かった。
「一瞬の躊躇いが、永遠の距離になる」
トレーナーの声が、耳元で聞こえる。優しく、もう聞くことはできないと思っていた声だ。
ナリタトップロードの矮躯は、トレーナーの胸にすっぽりと埋まって、憐憫なこの想いは越えることのできない高い壁の前に竦んでいた。
行く手を阻む壁を見上げることしかできない。だがしかし、頂上から差し込む光が、その想いに手を差し伸べて引き上げた。
「トップロード」
柔らかな声音が、ナリタトップロードを呼んだ。
離れて、それでも息が掛かるほど近い距離で──トレーナーは優しく微笑む。お互いから漏れる吐息が霧散し、互いに互いの体温を確かめ合うようにその手の指を絡めた。
「忘れないで──俺も、君も、もう独りじゃない」
かつて孤独に戦い、誰も信じられないと叫んだ少年は、恍惚な光を見た。夢を語り、星を見上げ、この娘となら叶えられると──その痩躯な手を取り合った。
かつてその身に余る程の責任を独りで背負った少女は、遥かの星を見た。夢を聞き、希望を掲げて、この人となら叶えられると──その憐憫な愛を囁き祈った。
「──共に行こう。二人で、頂点を駆け抜けよう」
独りで戦い、ひとりで背負い、二人で手を取り、ふたりで笑った。
あれは悔悟だったと嘆いても、互いに前を向いた。芽生えた郷愁に華を咲かせて、二人でその燦然と輝く矜持を持ち、滔々と溢れる夢を語り続けた。
──かつては独りでも、今はふたりで。
差し伸べられた手を取って、ナリタトップロードは目尻に溜まった涙を勢い良く拭う。貼り付けた微笑をも呑み込んで、この暗闇をも焼き尽くすほどの輝きに溢れた笑顔で顔を上げた。
そして、返す言葉はただ一つ────、
「──はいっ!!」
重なり合った想いは、眼差しの先へ。
手を引くトレーナーに置いて行かれないように。あの時、あの頃に彼の背中を追いかけて随行していたナリタトップロードは、トレーナーの隣を駆ける。お互いに顔を見合わせ、微笑み、頷いて、眼前の夢へと視線を合わせた。
──トレーナーさん、感じますか?
──ああ、感じるよ。この風も、この景色も。君が見て感じるものすべて。
トレーナーは笑う。笑って、感嘆の声を漏らした。
──心地の良い風だ。ここでまた夢が叶った。
走る。奔る。疾走る。駈けて、駆けて、翔ける。孕んだ緊張感すらも突き抜けて、ナリタトップロードの脚は加速する。徐々に、そして爆発的に、焔の如く発火して、不可能を切り裂き、風をも蹴った。
叩き付けた大地から水面が弾け、波紋は昇って飛沫が舞う。やがて飛沫は熱狂へと変化。光へと辿り着いた直後にその暗黒は灼けた。
世界中の心拍が
いつの間にか、トレーナーの姿は無かった。
だが、すぐ側に感じる温もりは確かなものだった。まるで、本当に一緒に駆け抜けているようで。
ナリタトップロードは今、未来へと駆け出す。ここからだと唸った心を風に乗せ、諦めてたまるかと二人の命が雄叫びを上げる。それでも覇王は、執念で喰らいついた。
「──やぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
吼えた──すべてを賭して。
一歩を大地に叩き付ける度、激震が起こる。二人の想いが重なり合う。より高く、より強く、叫んだ。
『──間に合うか、ナリタトップロード!!』
誰もが、息を呑んだ。
誰もが、目を見張った。
背を脅かす強大な影。それを振り払い、彼女は諦めずに自分の信じた道を突き抜ける。
────この
頂点まで続くその道を。愛しの彼が導いてくれたこの道を。ただひたすらに、そしてひたむきに。愚直ながらに真っ直ぐ、ただただ突き進んだ。
額を伝う汗は渇きを知らず、彼女の視界を遮ろうと躍起になった。しかし瞳は、眼前だけを見据える。脈打つ心臓は悲鳴に変わり、荒々しい吐息が喉を焦がす。だがそれでも、叫び続けた。
誰もが息をすることすら忘れて、その刹那に心を奪われた。たった一瞬、しかし
『──長いクラシックロードの果てに辿り着くのは、いったい誰だ!!!』
ナリタトップロード、テイエムオペラオー、ラピッドビルダー。勝利に想いを焦がす三人のウマ娘が横一閃。かつて届かなかったその背中は、遥か遠くに感じていた。だが今なら、全てを超えられる。叩き付ける一歩で景色を置き去りに。
見上げた天窮から遍く、燦然と蒼い光の下──ナリタトップロードは、ふと背中を誰かに押された。
────行け。
と、ただその一秒にも満たない言葉と共に。
思考は機械の如く、咆哮は獣の如く。最後まで諦めなかったその黄金の意志が、運命の歯車を廻し始めた。
あらゆる辛苦を塗り潰して、ナリタトップロードはその一瞬に更なる全力を────、
今この身が果てようと、トレーナーさんと一緒に掲げた夢を、今此処で叶える──ッ!!
勇猛な双眸が見つめる先──誰もが声を呑んだ世界で、誰もがその瞬間を目撃した。
希望を諦めないその意志が、頂点へと至る栄光を刻み込む。全ての夢想に居並ぶ至高の夢。照らし尽くされた煌めきの中で、三人のウマ娘が駆け抜けた。
世界が時を忘れた。
歓声が音を忘れた。
ゆっくりと流れ行く風の中で、目の前で叩き付けられた栄光を遅れて理解する。それと同時に、栄光を称える歓声が爆発するかの如く吹き荒れた。
────その日、奇跡が起きた。
────その時、軌跡を描いた。
────その瞬間、頂点へ至った。
最も諦めなかったウマ娘が、その瞬間に最も強いウマ娘へと至り、激闘の末に栄光を掴み取った。
────今此処に、菊の大輪が絢爛した。
誇り高き道を駆け抜け、頂点を掴んだウマ娘の名は────、
『──ナリタトップロード、ゴールインッ!!!』
────この日、ふたりで掲げていた夢を叶えた。