今の人間が、審神者として就任した日とほぼ変わらぬ日に俺は“大倶利伽羅”として顕現した。この身が仕える主であるかれと同じく、ただの人の子であったはずの記憶があるままでの顕現であったから、万物に宿る意思そのものとも言える八百万の末端の己に対する違和感は甚だしく、けれども戦えと命じられるがままに剣を振えてしまう心身の変化には唖然とした。
できるのか。できてしまうのか。戦場に立つ気の高ぶりがおさまった頃、ぼんやりと見下ろした手のひらにべったりと染みつく、錆びた鉄の臭い。平和な世で生きる記憶にはないはずなのに、不思議と馴染みのあるそれは、いつしか己の日常の一つである。
そうして自分こそが、大倶利伽羅であると認められるようになってからは周りに目を向けられるようになった。「成長したね、からちゃん…!」と謎の感動をされるから、ほどほどに。
大倶利伽羅としての意識が稀有なもの。慣れた頃に気になりはじめ、かような現象は、
その頃の記憶があれば別ですけどねえ、と唸った管狐。だが、審神者からのちょっとした干渉があって生じた”亜種”とやらであろうとまともに取り合ってはもらえなかった。怪しく光る黒曜の深淵から逃れるように無を切り取ったかのような表情で見下ろせば、管狐は大倶利伽羅の昔馴染みが揚げたばかりの好物に飛び込んで行ったが。
人間だった頃の記憶はない―――そんな記憶はないが、本霊にあることを頼まれた記憶はある。だからこそ、己はかつて、ただの人の子であったのだろうと漠然とした気持ちで思う。
大倶利伽羅が己を見失ったと騒ぎになる前にひそりとした小さな噂話という種火を得て、煙るくすぶりは鎮火し、一つ季節が過ぎた
思うだけに留める。噂話が雨中の焚火のごとし消え方をしたのは、大俱利伽羅としての見知った顔の、あまりの
はてさて、己が本霊に頼まれたことと云えば。“本霊代理”として本丸の運営状況を伝達する役割を持ち、代理とやらには本霊に近しき精神が選抜されることである。
人間だった頃の俺と意識が同調したから分霊に切り分けて肉体を与えてみると、摩訶不思議な。予想以上にもとの人の子と大倶利伽羅の相性が良好で馴染みすぎてしまったがために解離させることも出来ず、せっかくだからと使命を与えて徳を稼ぎ、人に戻るか、大倶利伽羅として過ごすか、どちらかと選択肢をくれることとなったのだ。
ならば継続して繋ぎとしての役割を望まれ。大倶利伽羅として存在を確立した己は、本霊の頼み―――本霊代理の任を引き受け、普通の本丸に降り立った。呼び声に応ずる先は運任せ。けれど、所謂”あたり本丸”であったのだろうと。
ここも初めは、まだ真っ当な本丸として稼働していたと思う。
気弱で優しい男が闘志を滾らせる戦刀どもをゆるく穏やかに流れる平和な空気でまとめ上げ、現世に残してきた妻子のために不相応な戦場に身を置く状況を、早うに平穏な時へ帰してやらねばなと不憫に思った連中がこぞって刀を振り回す、物語に描くようなほのぼのとしたホワイト本丸。
ほかの刀剣男士と比べると序盤に来た俺は――――大倶利伽羅は、まごうことなく古株に当たるからこそ、少しずつ審神者が壊れてしまったことを知っている。
刀剣男士を傷つけ始めた彼は、何も持たぬ自分の手を見下ろして。まるで悪鬼羅刹でも見たかのように、悲鳴をあげて己の所業に恐れを為していた。それ以上、審神者が壊れないように。せめての“約束”を取り付けることしか出来なかったが、覚悟を叩き上げたことが功をなしたのだろう。
―――『
―――『
―――『
―――『その代わり、
俯き、絶望と悲観に泣きくじゃる男の頭を上から片手で押さえて。見られたくないだろうと一度も上げさせなかったはずの目は涙の泉に写り込んで、付喪神と人の子の間で契約は為された。
一振り目の大倶利伽羅は、あの審神者とそう約束した。
歴史修正主義者の手によって失われんとした妻子のために戦に身を投じ、愛する番を失い慟哭をあげる男の崩壊を、そこで阻止したのだ。
約束した内容は、審神者の為のものだった。初期刀ではなかった理由は、お互いにマイナスを呼び合う性質であったからだ。本来の大倶利伽羅も寡黙で群れから離れたがる性質はあるがゆえに、そのような経路と見られがちだが、三番目に
そんな
人々の間では、室町後期から戦国時代の頃合いに誕生したと言われているが、気づけば褐色の肌と金色の瞳をした青年のような意識が付随するようになった頃から正式な時期は不明。とは言え、名の由来は変わらず。刀身の指裏に彫られた倶利伽羅竜の彫り物から。政宗が常に軍陣に帯びていたといい、人間の基準は知らんが非常な業物である。と言いたい。
この「倶利伽羅竜」というのは、人々を災いや迷いから救ってくださる仏さま。不動明王の右手の倶利伽羅剣に巻きつき、剣先を飲み込むという図を示している。そのことから
斯様な
ストレスが溜まるからつらく当たってしまうのだと、優しくされるから甘えて手が出てしまうのだと。それを良しとせず、自分を責めて壊れるくらいならばそうなってしまう前に大倶利伽羅へと話すことを約束させた。万が一にも誤って迷ってしまったら不浄を断ち切ると約束して。
幸か不幸か。顕現以前から必要以上の慣れ合いをしない部類に属する
主にはそれが心地良いと感じてもらえたようで、現状の報告のようなものから始まった。スタートは良かったほうだと思う。
やれ演練に出たらレアがいないだの、やれ一回の厭味がネチネチ長いだの、担当の役人が厭味ったらしいから、だんだんと通話をするのだと頭が認識すると体調を崩しがちになるだの。
初期刀がすぐさま審神者の異変に気づき、優しく労わってくれることにちゃんと前線に立って指揮しているわけではないから罪悪を感じてしまうだの。主に相応しくなれないだのと。流れる言葉の絶えないこと。
挙げたらキリがないほどの愚痴をぼろぼろ零すようになり、それでも耐えられたのだと以前の審神者の状況を思い出していたことを悟られでもしたのか。思い切ってみることにしたのか。
審神者が壊れた決定打はと言えば、彼が守ると誓った妻子に深くかかわることであり、審神者を必要とされる世界の問題でもあったとかなり遅れて知らされたこと事実にある。「どうしてもっと早くに教えてくれなかったんだ」 誰もが審神者に伝えたかった言葉は、他でもない審神者こそが時の政府に問いたかった言葉であったのだ。
「妻は、……
「彼女たちが泣き叫びながら俺の名を呼んでるビデオが送られてきて―――ッ!!!」
「家に電話しようにもこっちの情報漏洩で彼女たちに危険があったらいけないと今まで我慢してきたんだ! その為に連絡を取らなかった!
「彼女も娘も理解してたさ、俺にはもったいないくらいに出来た人たちでね。ずいぶん寂しい思いをさせて心苦しかった。だけど、俺の便りがないことは『ずっと戦場で頑張ってる証拠だ』って、ビデオにあった!―――なのにッ」
「存在しないことこそが正義だなんて言うつもりはない。でも彼女たちは善良な人なんだ! 俺という
審神者の妻が、歴史改変が行われた時代に生じた特異点であったこと。
どうせ消えてしまうならばよい思いをしたい。極悪非道な悪漢が妻の手に迫るのを、ただ画面越しにしか見ることのできなかった審神者の激情は幾許か。引き裂かれるブラウスの隙間から覗く雪のような柔肌に伸びる手に罵声を浴びせながら、審神者は阻止せんと立ち上がろうとして。時の政府へ通ずる
どろりと白濁とした不浄が、愛しい人を地獄の底へと突き落とす。喉から血が滲むほどに愛する女の名を叫び、母を助けんとした娘の清廉なる乙女を嬲り殺す獣たちに呪詛を唱え。最後の最期に息も絶え絶えながら、夫への愛を口ずさんで消えた彼女の―――。
地獄の末に、守ると誓った彼女らが消える瞬間までを録画したビデオを。あくまでも報告にと、ニタつく担当者から審神者のもとまで送られてきたのが、おかしくなった日と一致した。
本丸が時空から隔離された空間ゆえか、修正される前の記憶が審神者にはあった。
最後に記憶があるのは、三つになるばかりの愛娘の満面の笑み。「おとうさんのにがおえ!」と無邪気な声で、「無理しないでね」と心配りを瞳に宿す、愛する妻の顔。
想像を絶する怒号は、悲鳴として本丸に駆け回った。わざわざ大広間に腰を据えて叫ばせる内容ではなかったが、刀剣男士とて限界でもあったから。強硬手段をとった日の詫びをしたとは言え、受けたばかりの傷を広げるような行為であったことは刀剣としての反省点である。
大俱利伽羅を起点とし、光忠や国永に流れ。そこからまた別の刀剣男士へと伝達し、あっという間もなく審神者の守備を固められるようになった。
そもそも……本丸の状況確認及び審神者部門三百番担当者―――そうか、審神者の間では通称の方か。”窓口担当者”の本来的な役目とまったく逆のことをしている
本当に、そもそもの前提からの話である。人事担当だとか、カウンセラーだとか、審神者業務相談窓口担当(略して、窓口担当者と呼ばれることの方が多い)だとか、そのような呼称であるはずの担当者に、あらゆる意味で問題があるのだ。
奴に問題があるなら、変えてしまう他あるまい。そして変える為には、起訴するか、自主的に。なまじ権力があると言うのなら、そのさらに上の
斯くして、伊達組と称される三振りの刀たちは新選組の刀たちのように夜な夜な額を突き合わせ―――るような真似をせず、つまみを片手に獲物を狩り尽くす画策を定めた。
なお、このつまみは食べられるものではなく、窓口を担当する政府の人間を定める基準というものを、本丸やら何やらに問題が生じ、時の政府に籍を寄せることとなった刀剣男士たちから聞き込み調査した末の集計結果である。
それがどういうことかって? つまり、相手が政府だろうがなんだろうが、有り難く拝まれ神の性質を高められた付喪神による情報すなわち、