崩壊:スターレイル二次   作:出力用

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ルアン・メェイと極寒の星にフィールドワークに行ってなにかする話。


薄氷を踏む、春

「──ねえ、これ苔?」

「すぐに答えを教えてしまっては、フィールドワークになりません」

 

 

 防寒着から顔だけ出したルアン・メェイがそう言い放ち、目を細めて私を見る。

 軽くため息をつこうとしたのに、肺に入ってくる空気が冷たすぎて思わず咳き込んでしまった。

 開拓の力や存護の炎があっても氷点下五十度を下回る気候だ、気を抜いていたらすぐに医療キットの世話になってしまうだろう。

 慌ててネックゲーターに手を当てて呼吸を整える。

 空気中の塵が少ないのか吐く息が白くならないから、油断していた。

 落ち着いたところで、分厚い氷の下から突き出た岩に貼りついているその謎の物体をスマホで撮影し、検索にかける。

 未知の物質ではなかったのか、すぐに検索結果に答えが出た。

 苔と思ったそれは地衣類という菌類の一種で、こういう過酷な環境下でよく見られるものらしかった。

 

 

「でも名前に『コケ』ってついてる……?」

 

 

 ルアン・メェイがサンプル採取の手を止めて、ほほえましいものでも見る目を向けてくる。

 

 

「見せかけの姿から名を得るのは、なにも生物学だけに留まりませんよ」

「それは、そうだけど……」

 

 

 勉強不足が露見して、恥ずかしいやら情けないやらで語尾が小さくなっていく。

 ルアン・メェイは優しくほほえみながらそっと視線を外し、またサンプルを採取し始めた。

 私が苔……ではなく地衣類をピンセットでちまちま摘まんでいるのとは違い、そちらはパイプ型のサンプラーを手動ドリルで氷の地面に深々と突き立てている。

 ──氷なのに層になってて、綺麗。

 そういえばルアン・メェイは氷属性だから、私よりは寒くないんだろうか。

 まず一つサンプラーを引き抜いた彼女が、満足げにそれを空に透かしていた。

 地層と同じで氷も上に行くほど新しいものになるから、前回のデータと照らし合わせて観察したいらしい。

 広大な宇宙では普遍的な現在が存在しないため、ここで言う『前回』というのは観測者であるルアン・メェイが過去と定義した時間による。

 相対性理論とかいういかにも難しそうなものを当てはめると、どうやらこの星は彼女が前回この場所を訪れたときから数百年経っているらしい。

 宇宙ステーションにいた頃、ロキとレスリーの話題で相対性理論の一片は垣間見ていたので、そこらへんに驚くことはなかった。

 氷の中からすべてのサンプラーを戻したルアン・メェイが、運搬用のスノーモービルにそれを積むのを横目に見る。

 マッピングされていた地点のサンプルはあらかた採取し終えたから、そろそろ戻るのかもしれない。

 いまだに地衣類と無言で対峙している私の傍に、ルアン・メェイがやってくる。

 

 

「答えは出ましたか?」

「検索すれば答えは出るよ」

「私はあなたの感想が知りたいのです」

 

 

 じっと見つめられて根負けし、結局私は「ヤリーロ-Ⅵの苔に似てる」と呟くしかなかった。

 

 

*****

 

 

 いつだったかルアン・メェイが言ったノーマンズランドは、その名の通りに無人の惑星だ。

 私は行ったことがないけど、この惑星も似たようなものなのかもしれない。

 まあ、仮にここがノーマンズランドでも今現在は二名ほど人類が存在しているから、正しくは『男性がいない大地(ノーマンズランド)』か。

 今私は、スノーモービルに揺られている。

 その構造上二人掛けはできないので、極地向けアウターを着込んでいるルアン・メェイの背中に抱きつく必要があった。

 ここへ来る前に講習があったから振り落とされることはなかったけど、こんなにも長く彼女を間近に感じるのは落ち着かない。

 

 

「──あなたが自分から手伝いを申し出てきたのは意外でした。どういった心境の変化によるものでしょうか?」

 

 

 ヘルタよりは空気が読めるのか、風に煽られているだけの静寂を切り裂くようにルアン・メェイがいきなり口を開いた。

 普段の声量だと風に掻き消されてしまうから、あまり聞いたことのない大きさではあったけど。

 スノーモービルの走行音より風の方が強いと感じたのは、単純にこの乗り物がモーターで動いているからだった。

 万が一壊れた際のために、修理方法も一応習った。

 そこまでしてなぜルアン・メェイについてきたのか。

 いつもの羅浮風の服装ではなくフィールドワーク用の装備をまとったルアン・メェイは、存在は同一でも研究者という立場をよく体現していた。

 今回、ルアン・メェイの地質調査に同行したのは、もちろん理由がある。

 近々ブローニャが累計何度目かの氷原調査を指示するらしく、調査隊にはリラを顧問としてもそれなりの知識が求められていた。

 リンクスがそれに随行するとかで、セーバルとジェパードがあれこれ世話を焼きたそうにしていたとペラから聞いて苦笑してしまった。

 私はその調査には同行しないけど、なにか力になれればということで、こうして似たような環境に身を置いていた。

 ……理由はその程度のものだ。

 ルアン・メェイにしてみれば無関係な事柄だし黙っているつもりだったのに、直接尋ねられてしまってははぐらかすのもなんだか難しい。

 

 

「──知りたかったから。それじゃダメかな」

 

 

 結局口を突いて出たのは、ルアン・メェイが採取したサンプルのように、削りに削った言葉でしかなかった。

 しばらく、風の音しか聞こえてこなかった。

 しがみついているルアン・メェイの腹部が上下しているから、息を止めているわけではなさそうだ。

 

 

「好奇心は猫を殺すと言いますね」

 

 

 物騒なことを言われて体が硬直した。

 どこへも行けないスノーモービルの上で、だれにも会えない極寒の惑星で。

 ただルアン・メェイの言葉は不穏だったけど、声色はどうもそれとは真逆に聞こえた。

 要するに、嬉しそうだった。

 

 

「ありがとうございます、星。あなたが初歩的なミスを見せてくれたおかげで、新鮮な気持ちになれました」

「それはどうも……」

 

 

 例の地衣類のせいでコケにされているとしか思えず、そんな気の利かない返ししかできなかった。

 

 

*****

 

 

 観測基地(ベースキャンプ)は実用性を重視した結果なのか、現代的な造りをしていた。

 外観の雰囲気は宇宙ステーションに似ていて、中は列車のラウンジのようにあたたかみがある。

 研究に必要最低限の設備は揃っているらしく、ともすればゲーテレストランよりも快適だった。

 サンプルコアが溶けてしまわないように氷点下の研究室に手分けして持ち込み、適切な場所へセットしていく。

 私が採取した地衣類は既知のものなので、わざわざルアン・メェイが研究することはない。

 だからこれは自学用のサンプルだった。

 最初にそういう許可は得ていたから、隅にある急ごしらえの研究ブースにサンプルを置いて一息ついた。

 それから、設備に異常がないことを確認したルアン・メェイと共に居住エリアに向かう。

 通路は昔のSF映画なんかに出てきそうな除菌室になっていて、アウターやブーツはこの場で脱ぐことになっていた。

 作法に則り、外で身に着けていたものをすべて外して身軽になる。

 合成繊維のシャツとタイツだけになった私に対し、ルアン・メェイはフリース姿。

 当然ながら怪訝そうにされた。

 

 

「……先にシャワーにしますか?」

 

 

 脱ぎ散らかされた衣類を、スターピースカンパニーの小さなロボットが自動的に回収していく。

 雑菌なんかはこの部屋で落とされるから必要性はないけど、列車に戻ると決まって姫子たちからすぐシャワーを浴びろと言われるため、習慣でつい脱いでしまった。

 

 

「そうだね、ルアン・メェイが許してくれるなら」

「私は別に構いません。ふむ、あなたがシャワーを浴びている間に夕食の準備をしておきましょうか」

「手伝わなくていいの?」

「はい。基本的なことは、機械がやってくれますから」

 

 

 そういえば初めてルアン・メェイと会ったときに、薬物混入したケーキを食べさせられたことを思い出した。

 私が見ていないところで料理などさせない方がいいのかもしれない。

 そんなことを考えていたのがバレたのか、ルアン・メェイが珍しく苦笑を浮かべていた。

 

 

「今回は、精神に作用するようなものは持ってきていませんよ」

 

 

 安心させるためにそう言ったんだろうけど、一言余計だった。

 次回は持ってくる予定らしい。

 追及されたくなかったのか、ルアン・メェイは「お先にどうぞ」と言って開閉ハッチを指し示してきた。

 仕方ないので居住エリアに入って、キッチンの前で別れた。

 

 

*****

 

 

 ──不安しかない。

 頭から熱いシャワーを浴びながら、そう思っていた。

 水は循環式だから、このシャワーは明日は自分の飲み水になっているのかもしれないとか、当然ルアン・メェイのものも同様ということを悩むかと考えていたのに、実害がある方を無視はできそうにない。

 早くここから出て疑惑を晴らしたいのに、シャワーの熱が心地好いやら、そんな露骨に警戒したら傷つけるかもしれないとかいうよくわからない心理が働いていた。

 そしてこんな場面でタイミング悪くビデオ通話なんかがかかってくるわけで……。

 

 

『──星、調査の方は順調……って、ごめんなさい、シャワー中だったのね』

「なんだ、姫子か。カフカかと思った」

 

 

 極寒冷地にも水中にも耐えられるスマホは、シャワーを浴びたくらいではびくともしない。

 姫子の姿が揺らいでいるのは、ディスプレイに当たる水滴のせいだろう。

 

 

『……あんた、シャワー中にカフカと通話する仲なの? だとしたらいろいろと、その……』

「誤解。ビデオ通話とかしたことないから」

 

 

 邪推されているのが嫌すぎたので即座に否定したけど、なぜか姫子はしばらく信じてくれなかった。

 水を吸って重くなった髪が煩わしくて後ろに全部流したら、姫子がよく見えるようになった。

 その装いは既に就寝時のものに変わっていて、普段のナイトドレスより露出が少ないのが意味不明だった。

 

 

「私が出ていってから何年経ったの?」

『安心して、当日よ』

 

 

 なんということだろう、相対性理論は行方不明らしい。

 宇宙ステーションにいるアスターとか、ヤリーロ-Ⅵのクラーラ相手に一切タイムラグが発生しないから薄々気づいていたけど。

 細かい原理は理解できないと確信したので、私は早々に考えることを放棄した。

 ディスプレイの向こうで、姫子がゆっくりと脚を組み直すのをじっと見つめる。

 普段あれだけ空気に晒されている素足は見えず、相変わらず寝るときは暖かくしているんだなと妙に感心してしまった。

 ビデオ通話なんだから凝視するのは当たり前のことなのに、なぜか姫子は気恥ずかしそうに顔を背けている。

 

 

『目のやり場に、困るわね』

「そうかな。姫子の体って均等取れてるから、どこ見ても綺麗だと思う」

『…………もう。星、あんたのことよ』

 

 

 呆れ半分な感じで姫子がびしっと指差してくる。

 そういえばシャワー中だから、全裸だった。

 律儀に明後日の方向を向いたまま、姫子が口を開く。

 

 

『とにかく、くれぐれも変なことはしないように』

「具体的に」

『落ちているものを拾って食べない、飲まない、それから万一ゴミ箱を見つけても中身を漁らない、中に入ろうとしたりしない、あと──』

 

 

 口を酸っぱくする姫子が果てしなく面倒だったので、私は通信障害を装ってスマホを床に投げ捨てた。

 

 

「……」

 

 

 スマホを濡らしながら、排水口に流れていく湯水をぼんやりと眺める。

 明日飲む水はケミカルな味がしそうだ。

 

 

*****

 

 

 シャワーの後、ルアン・メェイと似たような服装に着替えてからキッチンの方へ戻ると、既にカウンターの上には料理が丁寧に並べられていた。

 見た感じはただのトマトのリゾットとか鶏肉のサラダだけど……美味しそうなのが逆に不安を誘った。

 私が来たことに気づいたルアン・メェイが片づけの手を止めてこちらを振り向く。

 

 

「ちょうど出来上がったところです。他になにもなければ食事にしましょうか」

「うん、ありがとう」

 

 

 席に着いてスプーンを手にし、先にルアン・メェイが食べ始めたのを確認してから私もリゾットに口をつけた。

 

 

「……、普通に美味しい」

 

 

 トマトの酸味が活きたリゾットはブイヨンで煮込んであるのか、あっさりとした見た目からは想像もつかないほど奥深い味がする。

 プチプチとした歯応えがあるのは米だろうか、こちらはバターの風味と米本来の甘さが残っていてほっとする食感だった。

 

 

「お菓子作りが趣味って言ってたけど、料理もできたんだね」

 

 

 合成ではここまで複雑な料理を作る必要はないから、正直驚いていた。

 ルアン・メェイが咀嚼を終えてからこちらをじっと見つめてくる。

 

 

「料理は研究と似ています。適切な手順とタイミングさえ理解していれば、特別な才能などなくてもこの程度のものは完成するでしょう」

 

 

 ……謙遜とかそういうわけではなく、ただ事実を伝えているだけのようだ。

 この辺りの齟齬はヘルタより厄介だと思った。

 ──存在としてはカフカに似てるけど、本人も言ってたみたいにヘルタに近いところもあるのかも。

 ルアン・メェイは、創造物を宇宙ステーションに置き去りにしたり私を翻弄する点はカフカに似ていて、その属性とか天才的で理解不能な思考はヘルタによく似ている。

 だから彼女のことをあまり知らなくても知ったような気になっているのか。

 …………。

 妙な気分だ。

 シャワーしか浴びていないのに、なんだか体が熱くなってきた。

 ルアン・メェイに対する戸惑いが怒りに変わったのかと怪訝に思うより先に、鼓動が跳ねたのを感じて反射的に立ち上がってしまった。

 

 

「おや……あなたは、そういう反応をするんですね」

 

 

 向かい側のルアン・メェイがスプーンを傾け、器の中身を掬い取っていた。

 暖かな色合いの照明の影響以上に、その肌が赤く染まっているのを視認した。

 

 

「またなにか盛ったの?」

 

 

 だとしたら何度目だろうか。

 ルアン・メェイは少し考える素振りを見せてから、緩やかに頭を振った。

 

 

「雑炊に使用した香辛料で、体が暖められているだけですよ。現に私も体温が上昇していますから」

 

 

 確かに、発汗こそ見られないけどルアン・メェイの顔も首も赤みを帯びて見える。

 種明かしをされたからもう一度座ってリゾットを味わうも、今度こそ汗が滲んできて上着を一枚脱ぐはめになった。

 食事中にそんなことをする私を咎めるでもなく、ルアン・メェイはやはりじっと見つめてくる。

 

 

「敏感……なんですね。観察のし甲斐があります」

「……今回はフィールドワークがメインって言ってなかった?」

 

 

 なにか起こされては嫌なので最初にいろいろと確認事項を読んだけど、私になにかするとは一言も書いていなかった。

 しかしルアン・メェイはうっすら笑みを浮かべて、出来立てのジャムがかかったスコーンを齧っていた。

 

 

「メインではないのが、あなたの観察や他のことになります」

「他のこと?」

「はい、他のこと……」

 

 

 ルアン・メェイは唇の端に付着したジャムをわざわざ指の腹で拭い、その後にナプキンを使って手を拭いた。

 それから、生姜の匂いがする紅茶を飲んで喉を潤していた。

 

 

「こういったことが控えているのでシャワーは後から……と考えていたのですが、あなたは先に浴びるのが好きなのですね。覚えておくことにしましょう」

 

 

 涼しい顔をしてなにを言ってくれているのか。

 これ以上なにかされるのは堪らず、かといって急いで食べてもろくなことにならない。

 赤ん坊のごとく無遠慮に見つめてくるルアン・メェイから逃れようと試みるも、彼女は私のそんな反応さえ楽しんでいる様子だった。

 

 

「人間観察が好きならヘルタとかにすればいいのに」

「ヘルタ、ですか。あなたからはよくその名前が出てきますね。あちらも似たようなものですが……」

 

 

 ──私が知らないところでヘルタが私の話をしてる?

 なんていうことだろう、あのツンデレめ。

 昨日の今日なのに声が聴きたくなってきた。

 とにかく、他人の口からそういう事実を知らされて、私は内心舞い上がっていた。

 それが表情に出ていたのか、ルアン・メェイが一つ咳払いをする。

 

 

「ヘルタはほとんどオフラインなので、面白みに欠けます。それに彼女を観察したところで、私の研究にはたいした効果を与えないでしょう。……星核の器、なんて魅力的な存在なのでしょうか」

 

 

 その恍惚とした表情は危うさを感じさせた。

 そういえばルアン・メェイはマッドな方の科学者だったことをいまさら思い出す。

 私は貞操ではなく尊厳の心配をした方がいいのかもしれない。

 身構える私を余所に、ルアン・メェイは無表情に戻り、半分に切ったスコーンに数種類のジャムを載せて、こちらの口元へ差し出してきた。

 

 

「本日のご褒美ですよ。あなたの口に合えばいいのですが」

「……」

 

 

 先に中和剤でも打たれていたら毒見の意味もない。

 考えても無駄だと悟り、私はそれを口に入れた。

 

 

「……美味しい」

 

 

 その答えを聞いて、ルアン・メェイは満足げに目を細めていた。

 

 

*****

 

 

 ルアン・メェイがシャワーを浴びている間、今度は私が後片づけを引き受けていた。

 先に彼女が言った通りにほとんどはロボットがやってくれたから、自分でしたことというと食器の類いを棚へ戻す行為だけだった。

 観測基地はオーダーメイドではないため、壁に備えつけられた就寝スペースは基本の四人分あったけど、一つを除いてそのすべてはベッドとしてもソファーとしても使用できない状態にあった。

 最初に入ってきたとき、ルアン・メェイはサンプルをまとめたものとか本が置かれていた一つを片づけて、私も休めるようにしてくれた。

 私も今はそこに腰かけて、スマホゲームのデイリーを消化している。

 それもすぐに終わったので、今回のフィールドワークで得られた事柄をまとめていく。

 実際にこれがブローニャたちにどのような成果をもたらすのかわからない。

 あるいは、いつか彼女たちがあの星を出たときの役に立つ可能性もある。

 なにがどこで有益になるかは、だれにも予想できない。

 

 

「──さあ、楽しい会話の時間ですよ」

 

 

 そんな、ロボットより下手な言葉選びをしたルアン・メェイの狂った研究だって、いつかだれかの役に立つのかもしれない。

 

 

「髪、濡れてるよ」

 

 

 シャワーを浴び終えたルアン・メェイは当然ながら髪を下ろしていて、いつもとはかなり雰囲気が違った。

 黒髪だと思っていたけど、角度によっては茶色に見えないこともない。

 足音も出さずに近づいてきた姿は、怖いというよりはどこか悪戯を仕掛ける子どものようで親近感が湧いた。

 目だけで尋ねてきたルアン・メェイに軽く頷き、彼女が座るスペースを空ける。

 同じシャンプーを使ったはずなのに、ルアン・メェイは私とはだいぶ違う匂いがした。

 

 

「ドライヤーが故障していまして、乾かせなかったのです。あなたはどうやって乾かしたのですか?」

「こう、存護の炎でぶわっと……」

 

 

 他人にやったら消し炭にする可能性があるから気軽に提案はできない。

 それを理解したからか、ルアン・メェイも深く尋ねてはこなかった。

 アプリを落としてスマホをポケットにしまい、隣に腰かけたルアン・メェイを見る。

 水滴が滴るほどには濡れていないけど、髪が長いから乾くまで時間がかかりそうだ。

 

 

「ルアン・メェイってさ」

「はい」

「なんか、いい匂いするよね。それなんて香水?」

 

 

 綺麗なお姉さん特有の謎の芳香には前々から興味があった。

 ──ヘルタ? リネン室のスタッフに訊いたけど教えてくれなかった。

 こんなこと銀狼に言えばまたドン引きされただろうに、ルアン・メェイは首を傾げてほほえんでいる。

 

 

「あなたがそう感じたのは、きっと私たちの遺伝子が遠い関係にあるからでしょう。……知っていますか? 遺伝子がそうあるほど、魅力的な匂いに感じると」

「へえ、それなら私はたくさんの人から遠いところにいるみたい」

 

 

 他意なく言ったつもりが、そういう言葉ほどたやすく相手を傷つける。

 尤も、ルアン・メェイの場合は傷ついたというよりは気分を損ねたという具合だったけど。

 口説いてきたわけでもないなら不機嫌になる意味がわからないのに、この世はだいたい理不尽にできている。

 冷たく細められたその目が、突き刺すように私に向けられる。

 たまにヘルタが見せる目に似ていて、宇宙ステーションが恋しくなった。

 

 

「あなたは、不思議な人ですね。正直なところ、この調査に同行したいと聞いたときにはかなり驚きました」

「それはさっき聞いた」

「はい、言いました。もう一度、今度は面と向かって伝えたかったのです」

 

 

 そう言ったわりに、すぐにルアン・メェイは私の輪郭に沿って手を伸ばし、湯上がりのくせに冷たい唇を重ねてきた。

 何度目だろうか、こうして彼女からくちづけされるのは。

 他には特になにもしてこないから、ルアン・メェイは口唇期とかそういうところで止まっている気がする。

 

 

「ちょっと……」

 

 

 触れた唇より、濡れた髪の方が冷たい上に肌に貼りついてきたから、私は身を捩って彼女を拒絶していた。

 離れたところに座り直したルアン・メェイが、少しだけ寂しそうにほほえんでいる。

 

 

「……嫌、でしたか? それともこういうことには、厭きましたか?」

 

 

 言うが早いか、ルアン・メェイの手がそのフリースのファスナーを下ろそうとしていた。

 しかし髪を下ろしていたことが災いし、ファスナーに挟まっていた。

 それを見た瞬間、手が勝手に動いていた。

 既に挟まった分はどうにもならないけど、これ以上被害を増やさないために、ファスナーを下げるのではなく上げた。

 するりと外れた髪の一房はありえないほど凹凸ができていて、放っておけば枝毛にでもなりそうだった。

 ──もったいないけど、仕方ない。

 

 

「これはもう切っておかないと、髪が痛むだろうね」

 

 

 直毛のその髪の先は、なにかのデータなんかの矩形のようになっている。

 まあ、これだけ髪が長いなら多少切ったところで本人以外は気づきそうにもないけど。

 改めてそのファスナーを下ろしてみると、ルアン・メェイは薄く唇を開いたまま、ぼうっとした表情で私を見上げていた。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 ルアン・メェイは惚けた顔で自分の頬に指先を添えていた。

 

 

「今──……あなたから、愛のようなものを感じました。それがなんだか、奇妙で」

「愛って……」

 

 

 ただの親切心からだけど、なぜそんな誤解をされたのか不思議だった。

 ルアン・メェイのフリースの下はシャツではなくなぜか下着で、暖かい部屋の中にいても寒そうに見えた。

 リゾットの効果は既に切れていて、ルアン・メェイの顔が赤くなることもないのに、その目に戸惑いが浮かぶのを見た。

 

 

「この気分にもう少し浸っていたいので、協力してもらえますか?」

「なにしろっていうの」

 

 

 私が言い終える前に、ルアン・メェイが突然胸の中に飛び込んできた。

 完全に不意打ちだったのでそのまま背中から倒れ込み、ついでに後頭部を壁に打ちつけた。

 そのせいで目の前が暗くなったのかと錯覚していたらそうではなく、またルアン・メェイが唇を重ねてきていただけだった。

 それにしてもいつもと違い、息をする間隔も設けずにめちゃくちゃにしてきている。

 

 

「ルア、待っ、息できなっ」

 

 

 下唇を夢中で甘噛みしているルアン・メェイに私を気遣う余裕などなさそうで、さらに言うと私より乱れた呼吸をしていた。

 いつもなら重ねるだけで終わるはずのくちづけは今に限って柔らかいものに変わり、無心でねぶられて気持ちいいやら気持ち悪いやらで大変だった。

 重力に従って垂れてきた濡れた髪が冷たく貼りついてくるのがただただ不快で、それから逃れるために足に力を入れて体勢を逆転させても、頭を抱かれて余計に面倒なことになっただけ。

 

 

「~~っ」

 

 

 ようやくルアン・メェイが腕の力を抜いたのはそれからどれだけ経ってからのことだったのか、酸欠に近い頭では正確に計れなかった。

 

 

「こんなの、最初読まされた項目に、書いてなかったッ」

 

 

 唾液にまみれた口元を乱暴に拭いながら、呼吸の合間にそう叫んだ。

 ふらつきながらなんとか上体を起こしてルアン・メェイを睨みつけるも、その表情は快楽に呑まれたような笑みに充たされていて、今はなにを言われても効かないだろうと確信していた。

 それなら、彼女に言葉をかける必要はない。

 私はルアン・メェイの顔に枕を押しつけ、脱いだ上着の袖でその両手を縛り上げた。

 顔を動かして枕から逃れたルアン・メェイが、自分の現状を眺めて短くため息をついていた。

 

 

「外してもらえませんか?」

「あんたなにするかわからないから嫌」

「決定的なことは、なにもしていないと思うのですが……」

 

 

 確かに事実だけを述べると、ルアン・メェイはただくちづけしてきただけだ。

 しかし、程度がある。

 

 

「それともこういった嗜好がある、とか」

 

 

 ルアン・メェイは私に乱暴されるなんて思いもしていないらしく、そうは言うもののまったく深刻そうにしていなかった。

 

 

「だとしたらどうするの?」

 

 

 その体の上に陣取り、わざとらしく腕を突いてみたけど、冷ややかに笑われるだけだった。

 

 

「あなたは私に性的衝動を向けません。自分がそういった対象にないことは、充分理解しています。私はあなたの好みから遠い場所にいる……だから私は、先ほど驚いたのです」

 

 

 恥じらいというほどでもないけど、その顔は上気していて目も潤んでいるように見える。

 挑発しているつもりか、ルアン・メェイは顔を傾けながら、言った。

 

 

「構いませんよ、触れても。ただし、傷跡が残るようなことはしないでくださいね」

 

 

 初対面のときとはまるで違った反応をされて、警戒してしまう。

 私がファスナーを下ろしたせいで、ルアン・メェイは下着を晒すように腕を縛り上げられている。

 フィールドワークに来たにしては洒落たそれを見て、普段からこういう装いをしているんだろうかと疑問に思った。

 

 

「なにを言われても今夜は自由にさせないから」

「腕を縛っておきながら観察もしないつもりですか?」

 

 

 晒されたその上半身の様子を確認したのは数秒にも満たなかったから、ルアン・メェイからすればそういう感想になるらしい。

 

 

「観察しないでキスに夢中になってたのは、どこのどいつ?」

 

 

 普通の人間は事実を指摘されたら怒るか黙りこくるものだけど、ルアン・メェイは天才だからかそれを素直に認めていた。

 

 

「確かに、本分を忘れていました。今度はきちんと観察するので、これを外してもらえますか?」

「……次やったら許さないからね」

 

 

 ルアン・メェイの手首を縛っていた服を解いて自由にする。

 即座に反撃が来るということもなく、彼女は手首の具合を確かめていた。

 

 

「就寝予定時刻まで、まだしばらくあります。その間にゆっくりと、あなたを堪能させてください」

「お願いだからもう変なことはしないで」

 

 

 言ったそばからルアン・メェイが手のひらを重ねてきた。

 その手から力が抜けて、指の間に滑り込むように指を絡められる。

 どういう意図か把握できずに困惑していると、性懲りもなくまた唇が近づいてきたから顔を背けた。

 

 

「なぜ避けるのですか?」

 

 

 その声は不満そうだった。

 

 

「さっき一生分してたでしょ」

「なるほど、唇は……厭きたのですね」

 

 

 勝手に納得したらしきルアン・メェイがフリースを脱ぎ捨て、さらにはレギンスまで外していく。

 それをぽかんと眺めている間に、そのへんからやってきた小さなロボットがルアン・メェイの脱いだ衣類をさっさと片づけてしまった。

 

 

「……待って、もしかしてその格好で寝るつもり?」

 

 

 反応に遅れてロボットを振り返るも、浮遊したそいつは既にランドリーへ消えていた。

 ルアン・メェイは濡れた髪が邪魔なのか、その辺りからペンを取り出して簪のように髪に挿していた。

 上下揃った下着姿の彼女が、ゆっくりと私を押し倒していくのを他人事のように見上げていた。

 

 

「最新バージョンにアップデートしてなお融通が利かないとは、根本的に問題があるようですね。カスタマーセンターに苦情を入れておくとしましょう」

「それには同感なんだけど、なにするつもり?」

 

 

 ルアン・メェイは私の上に跨がったまま、ごく自然にシャツに手をかけてきていた。

 

 

「唇以外にキスしてほしいものかと」

「大人しくしててくれない?」

「おや、激しくした自覚はないのですが……」

「あんた忖度できないの? 肉体的接触をやめろって言ってるの」

 

 

 その細い手首を掴み、体を起こす。

 ルアン・メェイはしょんぼりした様子で私から離れると、肩を抱いて俯いた。どうやら寒いらしい。

 

 

「他の着替えは?」

「ありますが……出すのが面倒ですね」

 

 

 わりとずぼらなことは知っていたつもりだけど、今のこれはおそらく、寒くて眠いから動きたくないだけだろう。

 先ほどまではあんなにも積極的だったくせに、ルアン・メェイは幼児のようにうとうとしていた。

 フィールドワークに来たのが初めての私より眠そうにしているとは……普段彼女がどれだけ無防備なのか心配になってきた。

 

 

「着替えはどこにあるの? 代わりに取ってくるよ」

 

 

 二度目の親切心からそう伝えたのに、なぜかルアン・メェイは半眼閉じた目を、要するに不満そうな顔で私を見上げた。

 

 

「今夜はあなたで暖を取りながら眠るとしましょう。そういうわけなので、横になってもらえますか?」

「……本気?」

 

 

 倫理観が狂っているルアン・メェイと寝床を共にするなんて、一夜どころか人生における最大の過ちにでも発展しそうだけど、本人がこのまま眠るだけのつもりなら問題はないと信じたい。

 とりあえず、小さなロボットに回収されなかった私の上着を彼女に羽織らせ、一緒に横になってからその頭を胸に抱いた。

 腹の辺りになにか冷たいものが触れたと気づいて視線を下げると、それはルアン・メェイの乳房だった。

 胸なんてものは脂肪の塊でもあるわけだし、シャワーの後に髪も乾かさずにいる彼女の体の中では三番目くらいに冷えているのかもしれない。

 指を通していれば早く乾くだろうかと、その髪に刺さったペンを外して頭皮に直接手を当てる。

 

 

「……星」

 

 

 ルアン・メェイが、私の腕の中で小さく声を上げた。

 嫌だったのかと思って手を離そうとしたら、彼女の方から強く胸に顔を押し当ててきた。

 

 

「おやすみなさい。明日も、よろしくお願いします……」

「え? ああ、うん、おやすみ」

 

 

 それきりルアン・メェイがなにか言うことはなく、私の腹に触れたその胸が規則的に上下するのを感じたことにより、眠りに落ちたと知った。

 他人を信用していないと告げてきたわりには無防備な姿を晒すんだなと、少し意外に思う。

 それとも私を手懐けたつもりにでもなっているのか。

 自分が性的衝動の対象にならないと言い切ったから実際にそう捉えているんだろうし、なにかにつけてご褒美とか言ってお菓子を与えてくるから、対等に接してきているとは思えない。

 どんな相手ならこの人の隣に立てるのか考えてみたけど、彼女が執着している両親でさえあんなことになっているのだから、だれも並び立つ者などいないのではなかろうか。

 ──ヘルタはなんか違うし。

 ルアン・メェイを知れば知るほど、ヘルタがいかに正常だったか理解できてなんともいえなくなる。

 天才クラブの中ではまともな方だと自負していた通り、無愛想減らず口唯我独尊なところを除けば、ヘルタはスクリューガムの次くらいにまともだ。

 スティーブンは交流が少ないからよくわからないけど、模擬宇宙の初回でわざわざ挨拶してきたからいい子なんだと思う。

 あと、オーバーオールを着たおじさんという設定のアバターが、おそらく実際の本人の姿と似合っていなくて可愛い。

 ──そういえば模擬宇宙の中でルアン・メェイが祝福をばらまいてたの、ヘルタ怒ってたっけ。

 銀狼の件然り、ヘルタはチート行為が大嫌いらしい。

 本人の潔い性格を考えれば頷ける内容だ。

 そんなことをしでかしたルアン・メェイが今は無防備に眠っていると知ったら、ヘルタはどう思うんだろうか。

 ……どうも思わないんだろうか。

 ルアン・メェイを手伝ってここへ来ると告げたときも、特に反応はなかった。

 ヘルタは本当に模擬宇宙関係以外では私に興味がない。

 そういう淡泊なところが好きではあるけど、たまにはデレてくれてもいいのではなかろうか。

 

 

「はあ……」

 

 

 ルアン・メェイの髪はすっかり乾いてしまって、そっとその体を就寝スペースに横たわらせても起きる気配はなかった。

 その開いたままの上着のファスナーを上げてから毛布を掛ける。

 それから自分だけ床の上に横になり、眠りについた。

 

 

*****

 

 

 氷に覆われた大地の端に、いつまでもいつまでも青白い恒星が転がり続けている。

 大気が凍えているから熱を感じないのか、その青い光はなにも溶かすことはできず、天から墜ちて迷走したまま。

 

 

「星、あまりその場にとどまっていては──」

 

 

 足下に、炭酸のように気泡が弾ける音を聴いていた。

 耳に心地好いと思ったのも数秒のことで、いきなり世界が揺れて浮遊感を覚えた。

 足下の氷が溶けたのだと気づいたときには、既にルアン・メェイの腕の中にいた。

 目だけでゆっくり今し方立っていた場所を見ると、あの恒星のように青い奈落が口を開けていた。

 仮に落ちていても、下が水なら助かっていただろう。

 ただ私は、氷を溶かす炎を宿している。

 それならきっと、どこまでも落ちていくしかない。

 

 

「歩けますか?」

 

 

 私はカフカと違って、恐怖を知っている。

 だからこんなにもみっともなく手を震わせていた。

 体を離したルアン・メェイが眉をひそめて私を見ている。

 

 

「ごめん……あと、大丈夫」

 

 

 なにが大丈夫なのかもわからずそう口にする。

 ルアン・メェイはまだ怪訝そうにしていたけど特に追及してくることもなく、麻酔銃で仕留めていた大型の獣からサンプルを採取した。

 存護の炎が宿っているとはいえ、その力を無意識に使用するほどこの星は寒いのか。

 ──リゾットを食べたときより、体が熱い気がする。

 ルアン・メェイを見つめながら、思う。

 その体は冷たいんだろうか、と。

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