星が列車で自室を得たらナターシャが来た話。
星穹列車に乗って以降、あちこち走り回っていたので忘れかけていたことがある。
なのに以前「一両丸ごと自分のものにできるよ」と言われたというのに、一両どころか一室さえ与えられていない。
ラウンジのソファーが快適すぎて本気で忘れていた。
それをなんでいまさら思い出したかというと、アスターを始めとする女性の訪問客が、私の部屋はどんな様子なのか質問してきたからだった。
部屋なんてないとか答えようものなら列車での立場を勘違いされそうだったので、その場は適当に濁しておいたけど、このままではまずい。
そんなわけで私は姫子に相談していた。
「自室が欲しい」
今日もラウンジで優雅にコーヒーを嗜んでいた姫子がゆっくりと顔を上げる。
優雅というか、はっきり言ってやることがないから暇を持て余しているのかもしれない。
まあ平和なのはいいことだ。
「そういえばあんたの部屋を準備していなかったわね」
「ヤリーロ-Ⅵに停車してた段階で気づいててほしかった」
「ああ、あのときは一応外から様子をうかがっていたから、あまり余裕がなくてね……」
確かにそれがなければカカリアにやられていたのだから、それ以上文句は言えなかった。
姫子は少し考え込む素振りを見せた。
「三月ちゃんや丹恒とは別の車両になるけど、三両目から空いているから、どこでも好きに使ってくれて構わないわ」
「私だけ一人なのか……」
「あら、寂しがり屋さんね。丹恒はともかく、私やヴェルトはだいたいラウンジにいるし、あんたが頼めば三月ちゃんの部屋に泊まれるでしょう? なにも寂しいことなんてないわよ」
一人だけ別の車両になるのは寂しいけど、そう言われたらなんだか気が紛れる。
「そうそう、なにか必要なものはある?」
「自分で調達してくるよ」
「へえ、どんな部屋になるのか楽しみね」
*****
三両目の一室が私の部屋になった。
そこには、アスターやブローニャを言いくるめて獲得した新品のゴミ箱がいくつか並べられている。
なんと、宇宙ステーションのゴミ箱とベロブルグのゴミ箱が夢の共演をしている。
現代的なデザインの隣に無骨な鉄のものが佇む様を見ると、なにやらうずうずしてくる。
しかも、これらを倒して上に横になれば、簡易ベッドが出来上がる。
「我ながら完璧」
しかしそのコーナーは部屋全体からすればほんの一部でしかなく、他は至って普通の家具が並んでいる。
道中で手に入れた書籍を収めるための大きすぎる本棚とか、ブローニャのスノードームを置いた机とか。
そういえばこれって、返さなくてよかったんだろうか。
*****
しばらく冷たいゴミ箱を背にくつろいでいたら、だれかがドアをノックする音が聞こえて、現実に引き戻された。
「入ってます」
そう答えたのに、ノックの主が平然とドアを開け放った。
「こんにちは。ここにいると聞いて来たんだけど、入っていいのかしら?」
落ち着いた女性の声に顔を上げる。
そこに立っていたのは、まさかのナターシャだった。
好奇心旺盛に開けてきたものだから、てっきりセーバルかアスターらへんを予想していたのに、とんだドッキリだ。
完全にだらしなくくつろいでいたところを見られて軽く笑われたのが恥ずかしくて、慌てて立ち上がろうとしたら、ゴミ箱の蓋に思い切り後頭部をぶつけた。
「大丈夫?」
傍に膝を突いたナターシャが私の顔というか、今し方ぶつけた部分をちらりと見る。
医薬品の独特の香りとナターシャ自身の大人びた匂いが漂ってきて、わずかに心が揺れた。
「大丈夫。こんなのいつものこと」
「まったく、そそっかしいんだから……」
などと言いながらそっと差し出された手を取るべきか否か迷っていたら、対面に鎮座していたリモート人形が目について硬直した。
ナターシャも不審に思ったのかそちらを向いて、少し驚いた様子だった。
「あの子……」
よく見ればそれが人ではなく人形だと気づいただろう。
医者として人体を知り尽くしているナターシャにとっては容易だったらしく、またこちらを見て困ったように笑っていた。
「君にああいう趣味があったなんて意外ね」
趣味というかなんというか。
オフラインの人形をラウンジに置いておくとパムの掃除の邪魔になるので、今までは二両目のイスに座らせたり無意味に抱き抱えて運んだりしていた。
今回私も自室を得ることになったから、ちょうどいいしヘルタ用の部屋を用意しようとしたんだけど、別に列車でなにかするわけでもないからと本人に断られてしまった。
意訳すると「私を置き去りにするの?」ということだろう、たぶん。
そういうわけで、普通の家具が並んだ箇所に人形は座らせてある。
事情を知らない人が見れば大型の人形を飾っているようにしか思えないだろう。
「ナターシャだって……ぬいぐるみを持ち歩いてるでしょ」
ヘルタについて言及されるのが面倒だったから、若干話題を変える。
ヘルタの錠前とかも謎だったけど、ナターシャもナターシャで謎の装飾をしている。
クマのぬいぐるみの他にも、菌糸類が入った試験管とか、謎の液体が詰まった容器とかを身に着けている。
「私のこれは、縫合の練習のためにもあるようなものだから」
戦闘に入ると空高く放り投げられて撃ち落とされるそのぬいぐるみは、確かに頻繁に縫われる必要がありそうだった。
私が立ち上がらないせいでナターシャもその場に膝を突いたままなのが居たたまれなくて、どこか腰を下ろせる場所でもと室内を見回したけど、そういえば普通に座れるところはリモート人形の根城と化している。
あとは…………うん。
万が一ゴミ箱が破損して簡易ベッドとして機能しなくなったときのために、本物のベッドは置いてあるけど……家族に近いなのとか姫子ならともかく、ナターシャをそこに座らせるのには抵抗があった。
診療所のベッドなら問題ないかもしれないけど、ここって一応私の部屋だし。
しかし、さすがに私自身がイスになる勇気はないし、どうしたものか。
「なにか思い悩んでいるようね。聞かせてくれる?」
そんな優しい声と表情で言われたらなんでも暴露したくなってしまう。
初めてこの部屋を訪れたのがナターシャだったことも意外で、落ち着かない。
それは彼女が医者だからということもあったし、見るからに年上の女性ということもあった。
フックじゃあるまいし、怖がるなんて馬鹿らしい。
「せっかく来てもらったのに、イスの準備もできてないのが申し訳なくて」
ナターシャは目を丸くした後、朗らかに笑った。
「急に押し掛けてきたのは私なんだから、君がそんなこと気にする必要もないのよ」
「でも床に座るのは冷たいでしょ……」
そこまで言って、ヤリーロ-Ⅵはこれとは比べ物にならないほど冷たく凍てついていたことを思い出した。
ナターシャもそれがわかっていたのか、ゆっくり首を振っていた。
「あの雪原に比べたら、なんてことないわ」
ヴァフが眠るあの場所のことだろう。
彼女の気持ちを考えて押し黙っていたら、無理に明るくほほえまれた。
「そんな顔をしないで。すべては終わったことだし、取り戻すこともできないんだから……」
責任を死者に押しつけても、なにも解決しないことはわかっている。
それでも、ナターシャが兄の分まで償おうとするのがなぜだか腹立たしくて、納得できなかった。
この人にはこの人なりの信念があって、それを私は覆すことができない。
そのやるせなさのせいで、彼女との距離感が掴めないでいる。
「ほら、笑って?」
ナターシャが自分の口の端に指を当てて、口角を上げるように促してくる。
痛ましいとしか言いようがない。
この人がすべての
あるいは、その手伝いをできる人は、いつ現れるんだろうか。
──少なくともそれは今じゃないし、私じゃない。
視線を落とす私を見かねたのか、ナターシャが完全に座り込み、その裾が床の上に広がった。
「今日は、悲観的な気分の日なのね」
「私はそもそも悲観的な方だよ」
そう、ただ諦めが悪いだけだ。
ナターシャの不格好に伸びた前髪の奥で、春色をした目が小さく揺れていた。
「今の気分が心地好いなら、私は君の傍でうたた寝でもしようかしら。でも、もしも心地好くないのなら……近くで手助けがしたい」
あまりにも真摯な眼差しを向けられたので、失笑してしまった。
「どっちにしたって傍にいるってことにならない?」
ナターシャが軽く首を傾げて「そうね」と呟く。
医者としてか個人的な感情か、いや、そもそも割り切れない本心からそう言ってくれているのだろう。
まだまだ苦労が絶えなそうなナターシャの長く伸びた前髪を軽く摘まむ。
反射的に目を閉じる様子がなんだか可愛らしかった。
「前髪を切る暇もないのにこんなところまでやって来て、私のカウンセリングなんかしなくてもいいのに」
指先でその髪を弄んでいたら、珍しくナターシャは目を逸らしていた。
心なしかその頬に赤みが差している。
「あ、あまりふざけないでちょうだい……」
ナターシャは恥ずかしそうに目を閉じていた。
髪が目に入らないようにする意味もあったのかもしれない。
一本取ってやった気分でさらに前髪を掻き分けて額に触れたとき──向こう側に見えていたリモート人形と目が合って、時が止まった。
ヘルタはなにも言わない。
なにも言わずにただこちらを見ていた。
それがたまらなく怖かった。
「どうしたの?」
ナターシャは背後のことに気づいていないらしく、ごく自然に私の腕に手を添えてきた。
ヘルタは一度まばたきをし、そのままオフラインになったようだった。
間違えて接続したのか、それとも不愉快なものを見せられたから切断したのか。
尋ねようにも私の手はナターシャに掴まれていて、スマホを弄ることすらできない。
私の手に前髪を掻き分けられて全体がよく見えるようになったナターシャは、思ったよりもあどけない顔立ちをしていた。
「ナターシャって……けっこう可愛い顔してたんだね」
どこかのだれかには「聞き飽きた」と言われたような言葉だけど、それを聞かされたナターシャはむず痒そうな表情でそっと目を伏せた。
「大人をあまり、からかわないで」
──まんざらでもなさそう。
苦難の人生を歩んでいるのに前向きな彼女を痛ましく思っていたけど、そんな顔ができるなら、私が心を痛める必要もないのかもしれない。
*****
数日後。
ゴミ箱ベッドの上で幸せに寝ていたら、突然なにかが体の上に降ってきたから、飛び起きた。
明かりをつけて凝視してみると、それはオフラインらしき例のリモート人形だった。
なぜそんなことになっているのか。
考えられる原因は三つ。
一つ、人形に自我が芽生えた。
二つ、ヘルタの嫌がらせ。
三つ、だれかが人形を投げた。
部屋は密室で何者かが侵入した形跡はない、つまり容疑者はこの中にいる。
この人形、ヘルタの知らないところで列車に乗り込んでいた不可解な過去があるし、最初の可能性も捨て去れない。
わざわざヘルタが操作してダイブしてきたとは考えづらいから、私が無意識に連れ込んだとかそんなのだろうか……。
そんなことをしていたらますますヘルタに侮蔑の眼差しを向けられることになるのだろうし、この件は黙っておくことにしよう。
人形を元のようにイスに座らせて、私はまたゴミ箱の上で眠りについた。
……目覚めて腕の中に人形がいることなど、そのときの私には想像もできなかった。