工業排水を温水として利用する話。
ベロブルグに着いて早々、まるで見計らっていたかのごとくブローニャからメッセージがあったときには正直嫌な予感しかしていなかった。
クリフォト城警備をフリーパスで抜けて彼女に会いに行くと、単刀直入に切り出された。
「星の外から来た者の立場として率直な意見を聞かせてほしい」
ブローニャはいつになく真剣な顔つきをしていた。
ナナシビトとしてはあんまり重要なことを相談されても困るんだけど、無下に扱うわけにもいかないから私は黙って聞くことにした。
「工業用冷却水を入浴に再利用するという行為は、合理的だと思う?」
ブローニャの説明によると、こうだった。
今までは暖房器具というと、地髄を加工して用いた加熱器が主流だった。
加熱器の熱は柔らかいと言えば聞こえはいいけど、足下に小動物が戯れてきているくらいの暖かさしかない。
その程度の暖房器具しかない理由は一つ。
なにしろ薪を燃やそうにも資源がないのだから、わずかなぬくもりであっても加熱器がどれほど重宝されていたか想像に難くない。
ところが今回の一件で、局地的にではあるが氷雪が溶け出しているため、何百年も凍りついていた木々が、私たちの言葉で言うところのフリーズドライとして利用できるようになったらしい。
木造建築なんてまだまだ先の話みたいだけど、燃料として使う分の木材は手に入ったのだから、薪としてのみならず、手つかずだった分野の工業やら産業用途に資源を投入しているのだという。
さらに膨大な雪解け水が山から流れ出し、以前までなかった場所にいくつも河川が生まれたため、そこに架ける橋が必要となった。
当然、その場所までの移動手段がなければ意味がない。
つまりは大型車両の製作に当たる。
そういうわけで需要が需要を呼び、ベロブルグは上層部も下層部も技術革命を迎えようとしていた。
それらに伴い都市全体の温度も上昇しているので、暖房用の薪の消費は激しくないのだという。
その辺で話をやめたブローニャが、カップに注がれていた飲み物を口にして一息ついた。
「長々と説明してしまって、ごめんなさい。とりあえずあなたにはこれ以上の過程を伝えても意味もないし興味もないだろうから、本題に戻ろうと思う」
そう、問題は雪解け水が変質した冷却水だった。
「その水ってなにを冷却してたの?」
美しき青き原子炉とか答えられたらさすがに「あんたもう大守護者降りろ」と言わざるを得ないけど、ベロブルグにそこまでの科学力はないだろう。
ブローニャは答えに悩んだのか、しばらく唸っていた。
「熔鉱炉の……なんというか……要するに、赤熱した金属」
ざっくりした説明から推測するに、おそらく冷却水とやらは製鉄所で使われるのだろう。
「それを冷やした水って、人体に影響はないの? なんか危なそうに聞こえるけど」
「今のところは確認されていないけど、なんにでも悪影響というものはあるから、完全に無害とも言い切れない。だからこうしてあなたに相談しているの」
ブローニャとしては限りある資源をムダにしたくないのだろう。
核とか考えたら止めたくなるけど、焼却場に入浴施設が併設してあると思えばそう不思議な話でもない。
「それで、どこで使うの?」
「うん……まずは下層部で使用する手筈になっているんだけど……」
廃水にすぎないそれを供給する先が貧困層の巣窟と言えなくもない下層部とは、なかなか趣味が宜しいようだ。
完全に人体実験な気がして、つい眉をひそめてしまった。
ブローニャがハッとして首を振る。
「あなたが考えているような思惑はないから。下層部の衛生環境改善になるし、上層部でも公衆浴場の設置計画が進められている……」
どうもブローニャが言っているのは、古代ローマのテルマエみたいなもののことらしい。
都市計画はさておき、下層部の健康状態を向上させる意見には私も賛成だった。
ついでに宿のクオリティーも向上してほしいところだけど。
「今聞いた限りだと、上層部だけじゃなくて一応下層部のことも考えてる偉大な指導者って感じがして好印象を抱ける」
工業用水でなければさらによかった。
「……あなたに褒められるとつい深読みをしてしまう」
同行していたときにさんざんからかったから、警戒されているようだ。
気の置けない友人同士の会話だし本気にはしないけど、こっちこそブローニャにそう言われると深意を探りたくなる。
「入浴施設はどこに建設するつもり? まさかそれも相談したいとかじゃないよね?」
「ちょっと待って」
ブローニャは見慣れたボルダータウンのマップを取り出し、ナターシャの診療所辺りを指し示した。
──あれ……もしかして地炎が全員出動する展開になる?
そう、なにを隠そう地炎の真のボスはナターシャだ。
秘技を放つときの声なんて凄みがあって怖いし、それを知ってか知らずか、子どもたちの一部はナターシャを怖がっている。
しかし、診療所が失われる事態になったらゼーレはナターシャに付くのかブローニャに付くのかが楽しみで仕方ない。
衝動的にブローニャと敵対して後から唇を噛むのか、はたまたブローニャを選んだはいいものの果たして自分の選択は正しかったのか葛藤するのもいい。
そんな私の波瀾万丈な考えを見透かしているのか、ブローニャが苦笑していた。
「診療所の近くに使われていない建物があるから、とりあえずそこを借りて試験的に運用することになったの。もうほとんど決定事項のようなものだけど……その後に正規の施設を作る予定。建設資材が増えれば、新しい住居を建てることだってできるはず……」
下層部に寄り添う姿勢は崩さないブローニャはさすがと言うべきか。
そのうちに上下を意味するその名称も撤廃されたらいいのに。
「診療所に近いならいざというときも安心だし、私はいいと思う」
軽く言い放たれたのが意外だったのか、ブローニャは唖然としている。
「……あなたの知識の中では、こういう提案は突飛ではないの?」
その発言は、ブローニャとしては承諾せざるを得ない状況に追い込まれていたことを物語っていた。
指導者としては若すぎるブローニャを疎ましく思う輩は一定数存在するはずだ。
ステファンに懐柔され、没後は愚者と呼ばれたセリルのようにならないとは言い切れない。彼女の最期は悲惨だった。
ただ、そんな懸念がなくてもすべてが新たな試みなのだから、ブローニャでなくとも二の足を踏んでしまうのだろう。
普段の冷静沈着なさまが崩れて幼い表情をするブローニャは、やはり少しもカカリアに似ていなかった。
「別に突拍子もなくはないかな。ブローニャが言ったように、合理的だよ」
それ以上の助言は与えない。
開拓者は、神ではないから。
私たちの祖先が歩んできたような道を歩むのを阻害しようとは思えない。
少し離れたところから見守っていく……許されるのはそれだけだ。
ブローニャは困ったように笑っていた。
「ありがとう。この決断を後悔しないように、存護の名の許──懸命に努力すると誓う」
*****
それからしばらく経ち、私はボルダータウンを訪れていた。
なんでも、ファイトクラブでなにかイベントがあるらしい。
とりあえず相手を倒せばいい系なら得意だし、参加しようかな。
そう思ってファイトクラブに向かおうとしていると、診療所近くに人だかりができていてドキッとした。
まさかまたナターシャが失踪しそうになっているとか。
今度はなにがなんでも車両に乗せてやると考えながらそこに近づいていく。
人混みの中にナターシャは見当たらず、群衆は診療所ではなくその近くの建物から出てきたり入ろうとしていただけだった。
出てきた人々は血色が良く、なにやらスッキリした顔をしている。
──そういえば、ブローニャが下層部に入浴施設を作ると言っていたような……。
どうやら彼女のプロジェクトは進行しているらしい。
診療所近くの仮入浴施設は一見するとただのアパートメントだけど、入口は開放されていて、奥に受付のようなものが見える。
そこを人が出たり入ったりしていた。
──なるほど、これが被験者たちか。
実際に悪影響があるのかないのかわからないけど、少なくとも今ここにいる人たちは健康そうに見える。
ケミカルな冷却水でできた入浴施設に興味があったため、私は人がまばらになる時間帯までその辺のゴミ箱に背を預けて眠りについた。
おそらく夜半と思われる時分に目を覚ますと、周囲から人だかりが消えていた。
炭鉱帰りの人とか見回りの地炎メンバーなんかは通るけど、無人と言っても差し支えない。
──まずい、寝すぎた。
入浴施設がしまっていては意味がない。
慌てて診療所近くのその施設前まで行き、だれか残っていないか中を確認する。
すると、そこにはゼーレとナターシャがいた。
二人ともつい先ほどまで仕事中だったのか、なんだか疲れている様子だった。
「ブローニャが言うからわざわざ来てやったっていうのに、ほとんど水の温度なら入る気もしないわね」
ゼーレが悪態をついているのはいつものことだ。
長い付き合いだし、ゼーレが拗ねているとわかっているナターシャは慈愛に充ちた表情でそちらを見ていた。
「ええ、それも貴重な報告資料になるわ。ともかく中に入りましょう」
「ふん……」
そのまま二人が奥へ行くのを黙って見ていた。
見かけたから急いで追いかけてきた、なんていうのはちょっと変だし、少し時間を空けてから私も入ろうか。
そう思って踵を返そうとしていたら、目ざとく施設の担当者に声をかけられて、「どうぞごゆっくり」なんて背を押されたのだった。
そこは私が思い描いていた入浴施設とはたいぶ異なった造りをしていた。
居住用に作られた建物なので仕方ないのか、隣室との壁をぶち抜いて広さを確保した空間に、冷却水を通しているパイプと簡略化された大きな浴槽がある。
源泉かけ流し宜しく、途切れたパイプの先から生ぬるそうな冷却水が浴槽に流れ落ちている。
浴槽に排水機能はないのか、ぬるま湯が溢れて床に設けられた排水溝に流れていく。
浴槽とは反対側には、石で組まれた低い階段がある。
星全体からすれば暖かくなってきたとはいえ、ベロブルグはまだまだ寒冷地なので、どうも半分くらいはサウナ形式で作ったらしい。
まあそれも中途半端で、湯気が少なくてだれが座っているのか見えるほどだったけど。
「え? あんたも来たの?」
なにも隠す気もなく、ゼーレは階段状のそこに腰掛けて私に膝を向けている。
体にいくつか大きな傷跡が残っているのが印象的だった。
……少しは隠せばいいのに。
ゼーレの場合、同性とかそういう理由の前に性格がそうさせているのだと思う。
「うん、興味があって」
ブローニャがどんなヤバい廃水を使わせているのか、とか言えば平手打ちされそうだし続きは言わなかった。
ゼーレは私には特に不快そうにはしていなかったけど、やはり冷却水が生ぬるいのが気になるのか、チラチラとパイプの方を見上げていた。
そういえばナターシャと一緒に入ったように見えたのに、彼女はどこへ行ってしまったんだろうか。
「どうせあんたもブローニャの口車に乗せられたんでしょ? 『下層部の健康改善のため』とかなんとか……」
ゼーレは不満そうだった。
ここにブローニャがいないからかもしれない。
「あいつ、こんな時間に大鉱区から戻ってくる人間はいないとでも思ってるのかしら? だったら見通しが甘すぎたとしか言いようがないわね。常時温かい水を出せないなら、試験的運用にならないじゃない!」
的確なことを言うアドバイザーだ。
それが聞きたくてブローニャもゼーレを呼んだのかもしれない。
それにしても、冷却水と呼ぶくらいだから絶えず温かい廃水が流れてきているのかと思っていたけど、時間帯によって温度が変わるというのはどういうことなんだろうか。
ゼーレから離れて浴槽に手を入れる。
そこに溜まっているものは、決して温かいとは言えそうになかった。
「だから言ったでしょ」
少し遠くでゼーレがそう言うのを聞いた。
彼女の言い分は尤もだし、ブローニャに打診してみようか。
浴槽に張られたお湯は、想像していたものとは違ってケミカルな臭いはしない。
元々が雪解け水なんだしミネラルは含んでいるのか、若干鉱物臭い気がする程度だった。
いや、もしかしたら今まで浸かった人たちに染みついた地髄の臭いなのかもしれない。
あるいは、製鉄に用いる素材に不純物が混ざっていた。
ともかく、その辺りの報告もブローニャにしておこう。
手で冷却水を掻き混ぜていたら、いつの間にか隣にゼーレが立っていた。
「そういえばあんたって炎の力も使えたわよね? それでこの中途半端な温度の水を温めればいいんじゃない?」
「私はいいけどクリフォトはどう思うかな」
言わずと知れた存護の星神のことだ。
星神はそんな些細なことを気にしないとは思うけど、普段アレなゼーレもわずかにためらっている様子だった。
「やっぱりブローニャに直談判するしかないか……」
そのままゼーレは出ていってしまった。
浸かった気配もなかったし、あれでは体を冷やしただけではなかろうか。
この状態からブローニャがどう改善していくのか、それが問題だ。
惑星なんだから絶対どこかに火山があって温泉があると思うけど、それを見つけ出すよりはこういった設備を備える方が合理的だ。
工業施設を一日中稼働させているわけでもないのだから、真夜中に流れてくる廃水は生ぬるいのかもしれない。
もう少し詳しいことを聞いておけばよかった。
──とりあえず浸かろう。
ザブザブと水を掻き分けて隅の方に座り込む。
大きな浴槽はさすが仮決定のものということもあり、石を組んで隙間を埋めただけの簡素な作りをしていた。
これなら石鍋の要領で、地下で薪を燃やした方が効率的ではなかろうか。
いや、それだと拷問になるか……。
浸かった肌の近くだけ水の温度がわずかに上がっているけど、なんの意味もない。
やはり何事も最初は上手くいかないものだとぼんやりしていると、先ほどまでゼーレが座っていた方向からなぜかナターシャがやってきて、目を見張った。
隠れる空間なんてなかったはずだけど、今までどこにいたのか。
必然的に目が合ったナターシャは、相変わらず優しげな笑みを浮かべていた。
「こんばんは、と言うべきかしら? それとも『おはよう』?」
ナターシャはそう言いながら、ごく自然に浴槽に入り、生ぬるい水の中を進んでくる。
私は角に座り込んでいたため、最初から逃げ場がなかった。
近くで止まったナターシャは、よく見るといつもは結んでいる髪を無造作にまとめていて、なんだか印象が違って見えた。
「スマホを置いてきたから、何時なのかわからない」
真面目に答えて後悔した。
ナターシャは初めからそんなこと気にしていなかった。
今のは会話の掴みというか、そういうものだった。
「しばらく診療所にも来なかったけど、その後変わりはなかったかしら? 旅先で怪我や病気はしていない?」
「…………大丈夫。ナターシャがいなくても元気でやれてる」
疲れているのか寂しそうにしているのかわからない表情でナターシャが頷いていた。
怪我をしないように気をつけているのも本当だけど、ナターシャ以外の豊穣の持ち主と出会ったことが大きかった。
もちろんそんなことは言えないから、言葉を濁すしかない。
冷静に考えれば秘密にしておくことでもないのにそう選択せざるを得なかったのは、ナターシャが気負う素振りを見せるからだった。
今だってそうだ。
主治医でもないのに、頼まれてもいないのに、もはや本人の魂に染みついた反応としか思えない言葉をかけてくる。
それが嫌なわけではないけど、こういうときくらい、リラックスしてほしいとも思う。
「ああそうそう、そういえばゼーレには会った?」
「会ったけど……」
むしろそのときナターシャはどこにいたのか訊きたかった。
彼女から憂いを帯びた表情が返ってくる。
「今回の件でまたブローニャと口喧嘩になるでしょうから、もし君に時間があったら……なるべく穏便に済むように仲介してほしいの」
医者というよりは教師のような言動をするのは、ナターシャが孤児院でも働いていたからだろう。
リベットタウンの孤児院の壁にあった落書きを思い出してしまい、少し目元が弛んだ。
「私もブローニャに報告したいと思ってたから、別にいいよ」
試験的なものとはいえ、指摘したい点が多すぎる。
ありがとう、と呟いたナターシャは私から視線を逸らすと深く吐息をついた。
ほとんど水のような温度で入浴していても、ベロブルグの人間には耐えられるものなんだろうか。
「寒くないの?」
私がそう問うと、ナターシャは「少しだけ」と答えた。
医者の不養生とかいうし、このままではいけない。
ゼーレに提案されたようにこの生ぬるい水をお湯に変える手段がないわけではないけど、加減を間違えたら沸騰させそうだし、どうしようか。
とりあえず手で水を掬って試していたら、ナターシャから視線を感じたのでそちらを向く。
彼女は抱えた膝に顎を載せて、一瞬なにかを言いかけたようだったけど、結局その言葉は呑み込んで別のことを言ってきた。
「その……上層部でゴミ箱を漁っているっていうのは、本当なの?」
だれがバラしたのか見当がつかず、いやそもそも目撃者が多すぎるし、ボルダータウンにもケーブルカーが通ったうえに、ナターシャ自身は上層部に実家があるから噂を聞いたとしてもおかしくないとか、どうでもいいことを瞬時に考えてしまった。
なぜなら、私を多少動揺させるくらいには、ナターシャの表情があまりにも痛ましかったから。
憐れんでいるいうよりは、またこの人は私の過去になにか悲しい出来事があってそんな奇行に走っているのだと思い込んでいる様子だった。
だからもちろん、否定した。
「違う」
簡潔に述べすぎて、真意が伝わらない。
案の定ナターシャは怪訝そうにしている。
「そう、それなら……所詮は虚実入り交じった噂話だったということね」
そうは言いつつもまったく納得している気配がなかったので、普段この人が私をどう見ているのか思い知らされる。
「漁ってるのは本当だけど、ナターシャが思ってるような悲しい理由とかは一切ないから。好きでやってることだよ」
ナターシャの表情がどんどん暗くなっていく。
うん、普通の人はゴミ箱を漁ったりポストを覗いたりしないから仕方ない。
私が開拓者だからという言い訳は、なのや丹恒が常識的すぎるので却下された。
つまりこれは私の特性だろう。
この前なんかとうとうヘルタに「模擬宇宙の破壊可能なオブジェクトの外見をゴミ箱に変えたら、壊せる?」とか残酷なことを訊かれたし。
なんて答えたか覚えていないけど、しばらくヘルタからメッセージが返ってこなかったのは記憶している。
自分のことでは泣けないわりには他人に関する勘違いで泣きそうになっているナターシャの肩を掴んで、容赦なく揺さぶった。
「だれもがゴミって思ってるものにこそ、価値があるかもしれない。私はそういうものを発掘するのが好きなんだよ」
半分は嘘だった。
しかしナターシャはなぜか納得してしまい、柔らかくほほえんだ。
「なるほどね。……それはそれとして、まだ髪を洗っていないでしょう? そこに座って。洗ってあげる」
感情の切り替えが早すぎる、というのが率直な感想だった。
割り切っているというか、情緒不安定というか。
また子ども扱いされているとかなんとか不満はあったけど、ナターシャの好意を無下にできなくて、私は素直に従った。
この施設に用意されていた洗髪剤や石鹸は最初に入浴しに来た人間が使いきってしまったのか、あるいは持ち去ったのか空で、ナターシャが取り出したのは新品だった。
どうやら私がゼーレと話していた間、ナターシャは入れ違いで受付の人から細かい施設説明を受けて、医者ということで予備を渡されていたらしい。
──疲労した医者に与えられるのが仕舞い湯って……。
ゼーレが半ギレになっていたのはナターシャに関してのものもあったのだろう。
「それじゃ、洗うわね」
浴槽の縁に座ったナターシャに背後を取られたまま、その指先が頭皮をマッサージしていくのを内心ソワソワしながら受け入れていた。
洗髪剤に香りはなく、私はただこの生ぬるい冷却水の鉱物のような臭いに充たされたまま。
ナターシャの指遣いはまるで赤子に触れるかのように優しい。
孤児院やその延長でもある診療所で、子どもたちにこうしているのかもしれない。
「痒いところはない?」
記憶にはないけど母親が子どもに言いそうな台詞だと思って、なんとなく恥ずかしい。
だから返事をせずにいた。
背後でナターシャが苦笑するのが聞こえる。
そのまま静かに時が流れてくれればよかったのに、襟足を洗おうとしてきたナターシャの手が止まったので、何事かと身構えてしまう。
「この
その指先が触れたのは首筋だった。
触れられてくすぐったいだけで、痛くも痒くもない。
努めて平常心を装う私の後ろから、ナターシャが小さく声をかけてきた。
「首のところに三ヶ所ほど発赤が確認できるんだけど、どこかで虫に刺されたのかしら?」
「…………私のゴミ箱は新品のはず」
なにを言っているのかわからないと思うけど、それが事実だ。
しばらく互いに沈黙が続いた。
私の部屋になにがあるか知っているナターシャには伝わる高度なギャグだと思ったのに、なぜか不穏な空気が伝わってくる。
──しまった。そういえばついさっき、似たような話題で暗い雰囲気になったんだった。
数秒置いてナターシャが「流すわね」と言って私の目元を手で覆い、頭上から生ぬるい水を一気にかけてきた。
洗髪剤はなんの匂いもしないはずなのに、いつだったか風に乗って届けられた初雪八落の清純な香りが鼻腔から肺まで一気に入り込んできた気がして、つい振り向こうとしてしまった。
「今は、見ないでちょうだい」
でも、ナターシャに頭を抱かれて、振り返ることができなかった。
また泣きそうに震えているのがわかって、ためらいがちにその頭を撫でる。
……ナターシャの前ではゴミ箱の話はやめておこうと、心に誓った。
*****
「落ち着いた?」
「ええ……ごめんなさい、取り乱してしまって」
湯冷めか湯中りかよくわからない状態のナターシャをとにかく立たせてタオルを放り投げる。
また笑われる覚悟でテキトーに髪を拭いていたというのに、ナターシャはいまだに暗い表情で身支度を整えていた。
やはりあんな生ぬるい水では疲れが取れずに、逆に体力を奪われたのではなかろうか。
冷却水を入浴に使うには課題が多すぎると思考する傍ら、様子のおかしなナターシャから目を離せなかった。
スマホを確認してみると、現地時刻は午前三時で、とっくに寝ていてもおかしくはない時間帯だった。
「すぐそこだけど、診療所まで付き添うよ。なんか具合悪そうだし」
「ありがとう……」
ものの十数秒ほどで診療所の前まで辿り着き、今は無人の室内へ二人して入る。
てっきり座るかと思ったら、ナターシャは窓際に立って外を眺め始めた。
少し心配だし、私はイスに座ってその様子を観察することにした。
ただ、考えていたのは目の前の彼女のことではなく、今後の対応で。
寝食を削ってでも診療所で働くナターシャは、そのうち倒れるだろう。
その前に医者の一人でも派遣されればいいのに、ナターシャの話によると下層部の人々は上層部の医者を信用していないらしい。
ともかく、地炎とシルバーメインが手を取り合ったように、他のことも円滑に運ぶことを願う。
そんなことを考えていると、珍しくナターシャがこちらを見ずに口を開いてきた。
「医者として……友人として、こんなことを尋ねるべきではないのかもしれない。それでも君が許してくれるのなら、どうか訊かせてほしいの」
「なに……?」
振り返ったその目を見て、まばたきを止めてしまった。
いつもは優しくほほえんでくるナターシャが、一切の感情を感じさせない目で私を見つめている。
まるで施術中のような、間違いを許さない目つき。
……私のゴミ箱は本当に新品なんだけど、どうやら虫刺されの跡なんかがあると信じてもらえないらしい。
私は黙って続きを待っていた。
薄暗い室内ではその目が何色に染まっているのかも曖昧で、ただ眼差しだけが強くて、それが普段の彼女とはあまりにかけ離れていたから、なんだか怖かった。
やがて、覚悟を決めたらしいナターシャが、ある言葉を吐き出した。
「──だれが君の首筋に、そんな痕を残したの?」
困惑を隠せない私の応答より先に唐突に伸ばされた手が、いくらか強く頬を掴んでくる。
迫る眼差しに射貫かれて瞬時に狂ってしまいそうになる。
息遣いが妙に濡れているのは先ほどまであんな場所にいたからか。
揺れる前髪は長く伸びていて鬱陶しい。
──ああいけない、ダメだ。
息が詰まったのは心理的な要因か、はたまた別の理由か。
下層部に文字通りの意味で夜明けはなく、窓の外は暗いまま。
「……っ」
浸かっていた湯船はあんなにも生ぬるかったのに、彼女はなんて熱い。
真意を問おうとしても私の口は開かない。
「診察までは、まだ時間があるから──」
足下に、カドゥケウスのエンブレムボタンが落ちる音を聞いた気がした。