地下鉱区にいすぎた蛍が露天風呂に入る話。
蛍は久しぶりにモンドへ戻ってきていた。
稲妻に到達してからというもの、やれセイライ島だ鶴観だ淵下宮と、気が滅入る天候続き。
とどめに層岩巨淵の地下鉱区での探索である。
心身共に疲弊するのも無理はなかった。
というか、最後の一撃となったのは沐寧に事後報告を受けた刻晴による猛烈な追跡だった。
蛍が層岩巨淵に立ち入ることは元々七星が黙認していたことであり、実際に許可を待たずに地下にも下りたのだが、一応その報告は必要だったらしい。
おかげで沐寧のところまで刻晴が物申しに来て、たまたまその場にいた蛍は層岩巨淵を半周するはめになった。
背後で星辰帰位を連発された蛍は、稲妻の忌々しい落雷や瘴気のせいもあり、雷元素の苦手意識が強まったのは言うまでもない。
とまあ──そこまでの経緯はいいとして。
ティミーが帰った橋を渡ろうとしていた蛍は、いつもより早くハトが飛び去ったので違和感を覚えた。
妙だと思いつつも先へ進む。
門の先に見えたモンド城の中は既に明かりが灯っており、酔っ払いの笑い声や吟遊詩人が爪弾くライアーの音で賑やかだった。
門番のスワンたちがこちらに気づき、恭しく敬礼している。
そのさらに向こうで、マージョリーとキャサリンがいつもどおりに佇んでいるのが見えた。
長らく無人の場所を探索してきた今の蛍には、懐かしすぎてどこか遠い光景に思えてならなかった。
まずは騎士団のみんなに挨拶しよう。
そう考えた蛍の目の前に、突然なにかが降ってきた。
「あいったー……」
頭に大きなリボンをつけた、アンバーその人だった。
かなり久々の遭遇に蛍が感極まっていると、墜落してきたアンバーがぎょっとした顔で立ち上がった。
「久しぶり! 会えて嬉しいよ!」
蛍に向けて破顔一笑したアンバーだが、なぜかすぐさまその表情を濁らせる。
もしかしてなんらかの悪事がバレたのだろうかと身構える蛍。
たとえばアカツキワイナリーで干し草を燃やしてモコとヘイリーをクビにさせかけたり、ドゥラフのハトを鳥肉に変えたり、パラドが魔物に囲まれているのにスルーしたり。
思い出すときりがないので途中でやめる蛍。
そして首を傾げてアンバーの言葉を待ってみる。
アンバーはなんだか言いづらそうな感じだったが、意を決したように口を開いた。
「蛍、アンタすごく泥くさ……いやあの、火薬臭いよ」
「えっ……」
嗅覚疲労という言葉がある。
要するににおいがわからなくなる状態のことである。
蛍はここのところしばらく地下鉱区に入り浸っており、新鮮な空気など嗅いでいなかったため、普通に嗅覚が麻痺していた。
最近料理の味がしなかったのは心理的なものではなかったらしい。
アンバーが言葉を選んだのはもちろん蛍に対する配慮もあったが、実際に泥か火薬かと言われると火薬の臭いの方が強かったからである。
そのせいで橋のハトもすぐに逃げたのだった。
一流の冒険者である蛍は別に臭いなど気にしていなかった。
ピンばあやから塵歌壺をもらうまでは野宿だったのだ、気にするはずもない。
だからこそ、ショックだったのは、アンバーに気を遣わせてしまったことだった。
アンバーも野外偵察などで水浴びもできない日が続くことはあるため、毎日入浴ができるのが贅沢なことだとは理解していた。
だが、それにしたって泥と火薬が入り交じった臭いは、不快というよりは危険そのものである。
爆発物を所持しているのはアンバーの方だが、不思議な話だった。
「わかった……」
そう言いながら、シードル湖に飛び込もうとする蛍。
それをアンバーは慌てて止めた。
飛び込んだまま浮かび上がってこない予感がしたからである。
「待って、待ってよ! ごめんね! 今の言い方はよくなかった! だから一旦考え直して! 火薬の臭いって水洗いじゃ落ちないから!」
手っ取り早く臭いを消せるかと思ったのだが、蛍の考えは甘かったようだ。
蛍は無言でアンバーを振り返る。
久しぶりに会えたというのにこれでは、よけいに気が滅入るというものである。
蛍は無理やり笑ってみた。
アンバーに体調を心配される結果に終わった。
「お風呂に入れないくらいに忙しかったの? ちゃんとベッドで寝てる? ご飯食べてる?」
「食べてるけど味がしない。アンバーの作ったステーキが食べたい」
「えぇ、あれも焦げてるけど……」
そういえば、いつでも洞天に行けるのを忘れていた。
いつからか調度品を配置できなくなり、やきもきして最終的に放置したのだった。
稲妻風の絵綺の庭には露天風呂も設置し、そのうち泳ごうなどと考えていたというのに、日々やることが多すぎて完全に忘れていた。
「ああほらもう、とりあえず塵歌壺出して」
アンバーに言われるままに蛍は塵歌壺を取り出し、蓋に手をかけた。
一緒に入るときには手を繋ぐのだが、蛍が差し出した手にアンバーは小瓶を載せていた。
「この前リサさんにいい匂いがするオイルをもらったから、使ってみて」
「……来てくれないの?」
しょんぼりした顔を向けられたアンバーは軽く絆されかけたが、ぶんぶんと頭を振ってその誘惑を断ち切った。
たとえ泥臭くて火薬臭かろうが、蛍はだれが見ても美少女なのである。
服装も相まって、宵闇の中でも光り輝いているように見える。
ひとたび戦いになれば先陣を切り血飛沫を浴びる様はまさに夜叉のようで、危ういとさえ思った。
そんな蛍に想われているとも知らず、アンバーは明後日の方向を向いてごまかした。
「ごめん、ちょっと用事があって……でもその代わり、それが終わったら食事にでも行こう?」
「わかった」
蛍はアンバーに渡されたオイルを持って、名残惜しそうに塵歌壺の中へ入っていく。
それを見届けてからアンバーは、囁きの森方面へ駆けていった。
近頃蛍と知り合ったという弓使いがあまりに有能らしく、狩りの腕では負けたくないからであった。
なお、アンバーを筆頭とした弓使い同盟で今後の対策を考えてはいるのだが、水中の魚まで狩れるその女性に勝てる見込みがあるのはフィッシュルしかいないと結論づけられて、プレッシャーに負けたフィッシュルが探索派遣から帰ってこなくなったのが一週間ほど前の話である。
*****
塵歌壺の中へ入った蛍がまず目にしたのは、収穫されないまま育ったキノコの群れであった。
キノコといえばキノコ肉、そしてザマラン、キノコン。
地下鉱区のことは思い出したくないというのに、たとえキノコを収穫しても洞天内は紫色で嫌でもあの場所を思い出してしまう。
とりあえず露天風呂を目指して歩き始める蛍。
邸宅の中からは数人の話し声が聞こえてくるので、稲妻のだれかが来ているのだろう。
*****
辺りを木々に囲まれた場所に露天風呂はある。
蛍が広場に露天風呂を設置したところ、風情もなにもないという理由で神子が勝手に木を植えまくっていた。
そこはトーマが剪定をし、一斗が木材採取トレーニングをし、たまに早柚が寝ている林である。
その林の奥にある露天風呂には一応目隠しも立てているのだが、裟羅でさえ服を着たまま浸かるため、着衣で入浴がここでのルールだった。
なのでだれが来ても気兼ねなく湯浴みできる、はずだった。
「…………なんでここに」
蛍が露天風呂の前に到達したのと同じタイミングで、反対側の場所から刻晴がやってきていた。
その表情は険しく、層岩巨淵で追いかけてきたときとまったく変わらない。
「こんばんは」
挨拶は大事だが、蛍は声が出なかった。
刻晴は小脇に湯桶を抱えており、さらにその中には手拭いだなんだと入浴用品一式を揃えていた。
入る気満々。
しかしなぜこのタイミングで。
どこから情報が漏れたのかと考えてしまいたくもなる。
もしくは刻晴のみ蛍の行動を予測できる高度な機能が備わっているとしか思えなかった。
そう、たとえば任務目標の情報と位置がわかるあれのような感じに。
蛍に警戒されていると知っているのか知らないままなのか、刻晴は露天風呂の縁に湯桶の中身を取り出していく。
「琉璃百合から作った薬剤を持ってきたわ、髪を洗うのに使ってちょうだい。それからこれは白駒逆旅指定商店から買い取った手拭いね、吸水性が高いのによく絞れて速乾性もある優れものよ。あと……」
自分用ではないらしいことがさらに驚きだった。
これがアンバー相手であれば、蛍は喜んで受け取っていただろう。
だが刻晴である。
アンバーと刻晴のなにが違うのか?
それは蛍が恋しているかどうかである。
蛍は別に刻晴を嫌ってはいない、ただ苦手なだけだ。
甲斐甲斐しく世話を焼いているといえば聞こえはいいが、一挙一動を支配されているようで良い気持ちはしなかった。
それが完全な好意から来たものなのでたちが悪く、あしらうこともできない。
刻晴が努力家であることは知っているし、言い方があれなだけで中身は普通の女性だということも理解していた。
だからこそ、蛍は対処に困っていた。
元々寡黙な蛍が輪をかけて無言を貫いていることにさすがに気づいたのか、刻晴は一式の説明をやめて困ったような顔つきになった。
「ごめんなさい、説明なんかより実用性の有無を知りたいわよね」
そういう問題ですらないのだが、悪意なく手を差し伸べられると取ってしまうのが蛍という人物だった。
刻晴はにっこりと笑い、
「君の手は煩わせないわ。今日は私が洗ってあげるわね」
などと言ったのであった。
*****
洞天形態で国を分けて滞在者の差別化を図っているが、別にそれは絶対的なものではなかった。
たとえばモンドをモチーフとした清玉の島にはエウルアが来るが、彼女に会いに煙緋が訪れないこともない。
要は各形態は各国の寮のようなものなのである。
関係ない者からすれば訪れにくい場所ではあるが、行こうと思えば行ける。
だからこそ、特に関係のない刻晴が稲妻モチーフのこの場所にいるのである。
雷元素で片手剣を使うという点を鑑みるに、雷電将軍と類似しているとは言えるが。
「さあ、洗いましょうね」
刻晴は今、至福の表情で手に洗髪用の薬剤を塗りたくっていた。
傍に座らされた蛍は虚無の表情を浮かべている。
蛍が以前にバーバラから髪を切ってもらった際に最後まで不満そうだった刻晴である、いつかやらかすのではとは思っていたがまさかこのタイミングとは。
怖くなってきた蛍は少しでも時間を稼ぐために話しかけてみることにした。
「刻晴。私は今、火薬臭くて泥臭いと思う」
蛍を湯船の段差に座らせて自分は縁に座っている刻晴は、そう言われても特に表情を変えることもなかった。
「そんなの現場に出ていたなら当然のことじゃない? だからここに来たんでしょう?」
そういえば玉衡は、おもに土木工事を担当する役職だ。
しかも刻晴は労働者に扮して不正事業の偵察をするような現場主義者。
歯に衣着せぬ物言いで損をしている部分があるとはいえ、特別気を遣ってこないその様に蛍はなんとなく救われた気持ちがしていた。
そう、アンバーショックが大きすぎたのである。
「ありがとう、刻晴」
「ほあ──!?」
奇妙な声を上げてのけ反り、刻晴は湯船に薬剤の瓶を落としてしまった。
反射的に発動された星辰帰位が水面に当たり、二人揃って感電したのは言うまでもない。
そういえば電気風呂なんてものがあったな、と思い出す蛍。
流れていきそうだった瓶をとりあえず掴み、刻晴のところへ戻した。
「私は別になにも…………いきなりなにを言うの!」
刻晴は、普段どれほど追いかけても逃げまくる蛍から突然歩み寄られて、見るからに狼狽していた。
初めて蛍に会ったとき以上に鼓動が速まって仕方ない。
だがそれは不安や焦燥ではなく、いっそ快感に近い感覚に変じた。
あの日以来、刻晴はそれまでの何倍も努力するようになった。
結果を伴わなければ努力などムダだと言う輩もいるが、刻晴が今まで培ってきた経験は決してムダではなかった。
経験が刻晴を強くし、揺るぎない自信を与えていた。
層岩巨淵を封鎖したのは刻晴一人の指示ではないが、それによりこの状況が作り出されたというのであれば、刻晴の努力は実を結んでいる。
なにしろ、あの蛍が多少なりともデレているのだから。
「群玉閣に行くときもお世話になったし、尋ね人の貼り紙とか作ってもらったよね。お礼が言いたくて」
「ああ、あれね。でも、たいしたことはしていないわ……」
オセル襲来の件で、刻晴には七星として、また剣客としての負い目があった。
跋掣のときも事前に対策を立てることができたとはいえ、空を衝くほど巨大な津波が押し寄せてきたときは茫然とするしかなかった。
隣にいた甘雨は矢をつがえていたのに、なんと情けないのだろうと思っていた。
そして申鶴に助けられ、自分はまだ努力が足りないのだと痛感していた。
尤も、水辺の雷元素は元々最悪に近い立場にあるのだということは刻晴以外でも気づいていたことだが。
とりあえず刻晴は襲来の件然り蛍の知り合い然り、氷元素とは切っても切れない仲にあった。
そんな刻晴の心中を察した蛍は、一度ため息をついて、刻晴を振り返った。
「髪、洗ってくれる?」
毛先から水滴を滴らせながらそう言ってきた蛍に、刻晴は、無言で頷いた。
*****
細くてキレイな金髪だと思っていた。
手触りはどんなものだろうと想像していた。
だから、その髪が伸びて切られることになったとき、これは好機だと考えていた。
結果は言わずもがな。
だがしかし、洗髪剤越しとはいえ、刻晴は今、蛍のその頭皮に指を這わせていた。
指先に感じるのは蛍のあたたかい地肌と頭蓋の感触。
そして薬剤越しに手に絡みついてくる金の髪。
まるで産毛のように細くて柔らかい、というのが刻晴の素直な感想だった。
凝光も柔そうな髪色をしているが、だからといって彼女の髪に触れたいなどとは思ったことはなかった。
惹かれるのはひとえに蛍のものだからだろう。
好きな人に触れたいと思うのは自然なことだ。
刻晴の念願はついに叶い、散髪どころか地肌を直接指圧するという偉業を成し遂げていた。
「痒いところはない?」
「特にない」
刻晴は他人の頭を洗うのは初めてだったが、意外と上手くやれていると自分でも感心していた。
本当は予行練習を甘雨に頼むつもりだったのだが、角に触られるのを頑なに拒まれ、最後は奥蔵山に帰ると脅迫されたため断念していた。
角はそれほど敏感な箇所なのかと逆に興味が湧いた刻晴である。
それはそれとして。
薬剤で汚れが落ちるのでわかったが、蛍の髪は泥というよりは煤で汚れていたらしい。
地下鉱区ではガス爆発の危険性があり基本的に晶石灯を使うはずなので、おそらく拠点で火を焚いていたのだろう。
以前自分が贈った『雷元素に反応して光る明かり』を使用すれば、なんてことはなかったはずだというのに。
刻晴が一度断ってから湯で薬剤を洗い流すと、元通りの月のような金色が現れた。
それを再度、洗っていく。
汚れは落ちたがまだ火薬の臭いが取れていない。
冒険者である蛍を止めることなどできはしないが、やはり心配なものは心配だった。
「地下は、空気も悪くて咳なんかも出たんじゃない? 少し静養した方がいいと思うわ」
「……私もそう思う」
刻晴のその提案に、蛍は層岩巨淵で出会った一人の冒険者を思い出していた。
彼女は彼女の進みたい方へ進んだのだ、そこに悔いなどありはしないだろう。
ただ、いつの日かまた会えたらいいと祈ることは許される気がしていた。
いけない、また地下鉱区のことを思い出してしまった。
なにも知らない刻晴がうんうんと納得しながら頭皮を指圧していく。
なお、「やりやすいから」という理由で蛍の体は刻晴の足で挟まれており、遠目に見れば誤解されそうな構図になっていた。
*****
満足した刻晴に蛍が解放されたのは小一時間経ってからだった。
体まで洗ってきそうだったので布石を打ち、一人ゆっくり浸かってから数分過ぎた。
その間に刻晴は職務に戻り、最初に紹介していた一式を手土産として置いていった。
「……」
静かである。
時折風が吹いて周囲の木の葉がざわめく音しかしない。
絵綺の庭の空は夕方か夜しかないため時刻の把握が難しく、影が目指していた永遠不変を体現しているとも言える。
モンドに到着したのが夜だったので、一応今は夜なのだろう。
ちりん、という鈴の音に気づいたのは、風が止んで辺りが静まり返ったからだった。
位置的に目隠しの向こう、こちらからは見えない場所から聞こえてきた。
聞き間違えるはずもない彼女の鈴の音である。
「綾華」
蛍がそう声をかけると、申し訳なさそうに目を伏せながら綾華が姿を現した。
その手には稲妻風の手拭いと小瓶がある。
「綾華もお風呂?」
「は、はい……あの、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
蛍と刻晴が鉢合わせになる直前に来ていた綾華は、気まずかった。
別に二人の間でなにか決定的なことが起きたわけではないのだが、それを盗み聞きする形になってしまったことは事実。
それにはっきり言って、刻晴を羨ましいと思ってしまっていたのが最大の問題だった。
蛍は少しだけ黙り、湯の中から立ち上がった。
「私は充分温まったから、そろそろ行くよ」
そう言われたときの綾華のなんと悲痛な表情か。
宵宮の話では綾華は銭湯に行くのも恥ずかしがっていたようなので退散した方がいいのだろうという考えで蛍もそう言ったのだが、なるほど、着衣入浴では違うらしい。
友人が少ない綾華に酷なことをしたと盛大に勘違いする蛍。
「そうですよね……蛍さんは多忙の身。引き留める真似をして申し訳ございませんでした」
泣きそうな顔をされては前言撤回するしかなかった。
「うん、せっかくだし、もうしばらく浸かっていようかな」
途端に花が咲いたような笑みを作る綾華のことを、表情がころころ変わっておもしろいなどと思う蛍であった。
同席を許された綾華はさっそく懐からなにかを取り出す。
「それなに?」
薄紅色で雨粒のような形、どこかで見たような植物だった。
手のひらいっぱいにその植物を盛った綾華は淡くほほえみ、それらを湯船に広げていく。
気になった蛍が近づいてみると、その植物が広がった部分だけわずかに水泡が発生し、湯に触れると少し手が痺れた。
このような効果がある植物は稲妻限定だろう。
「もしかして、天雲草の実?」
「はい。水の中にこうすると、わずかに電気を発生させて、不思議な感触を楽しめます」
天雲草の実は近くで聞くと小さな稲妻の音がするため帯電しているとは思っていたが、それを湯船に浸けるという発想はなかった。
「っ……!」
と、縁から湯を汲んでいた綾華が押し殺した悲鳴のようなものを上げたものだから、蛍は瞬時に振り返った。
綾華はこめかみの辺りを押さえており、どうやら傷口に湯が沁みたらしかった。
咄嗟に蛍は綾華の手を取り、傷口の様子を確認していた。
そこまで深くはないが、刃物で斬られた傷跡が一つあった。
「だれにやられた?」
恐ろしい形相でそこを見ている蛍に綾華は一瞬だけ恐怖を感じたものの、すぐに表情を綻ばせた。
「深刻にならないでください。ただのかすり傷ですから」
「……」
綾華はそれ以上なにも言わず、緋櫻毬から作ったらしい洗髪剤を髪に撫でつけ始めた。
それを見ながら、とりあえず稲妻中の海乱鬼を根絶やしにしようと考える蛍。
「あの……本当に大丈夫ですから。ですからその、そんな怖い顔をしないでください」
「わかった」
眼光だけで人を殺せそうな蛍である、そう言われるのも無理はなかった。
ところで、料理だなんだで散々緋櫻毬を使っているのでわかっていたことだが、やはり香りがいい。
刻晴が持ってきた琉璃百合の洗髪剤の匂いは玉京台を想起させ、あまり落ち着かなかった。
ところがこの緋櫻毬の匂いを嗅ぐと、どうも空腹を感じてならない。
「天ぷら……」
「はい?」
「緋櫻毬の天ぷらが食べたい」
蛍が突拍子もない発言をするのはいつものことである。
だが、直後に空腹を訴える腹の音がしたため、綾華は一瞬の間を置いて噴き出してしまった。
「どうやらいろいろとお疲れのご様子ですね。そろそろ朝食の時間になりますから、湯浴みを済ませたら食事に致しましょう」
最近料理の味がしていなかった蛍にとって、天ぷらなど名前を聞いただけで涎が出てきそうな代物だった。
珍しくうずうずしている蛍をほほえましく思いながら、髪を洗い終えた綾華も湯船に浸かる。
蛍はいまだに天雲草の実が気になるのか、指先でつんつんと突いたり摘まんだりしている。
それを眺めながら綾華は、幸せだと感じていた。
鎖国令が解かれてからは稲妻を離れることが多くなった蛍と会えるのはこうしたひとときだけであり、これほど近くで長く過ごしたのは祭りのとき以来だった。
永遠にこの時間が続けばいいのに、と綾華が思っていたとき、蛍が顔から湯船にダイブした。
潜ったのだろうと推測して笑みをこぼした綾華は、蛍が一粒の空気も漏らさずに沈んだままでいると察知し、慌ててその体を引き上げた。
「蛍さんッ」
すくい上げられた蛍はわずかにまばたきをしたが、意識を失っていた。
*****
星空さえ見えない暗闇の中に蛍の意識はあった。
潮騒のようなものが聞こえていると思ったら、それは耳の中で血が流れる音だと気づいた。
体は熱かったが頭部から首筋にかけて涼しい風が送られてきていて、なんだか好い匂いがしていた。
そして後頭部に、なにやら柔らかい感触。
「気がつきましたか?」
頭上から降ってきたのは綾華の心配そうな声だった。
真っ暗だった視界が徐々に鮮明になり、こちらを覗き込む綾華の濡れた目と目が合う。
どうやら、膝を貸してもらっていたらしい。
綾華は扇を扇ぎながら蛍の頭部に冷たい風を送っていた。
蛍が無事目を覚ましたことで心底安堵したのか、綾華が目を閉じた拍子に涙がこぼれ落ち、それは蛍の頬の上に落ちた。
風と違ってあたたかい涙だ、と蛍は思った。
「この状況は?」
「ええと、湯船でのことは覚えていらっしゃいますか?」
「……」
そう問われて、馬鹿なことをしたなと自己嫌悪に陥る蛍。
疲弊して、さらには空腹のときに長湯などすれば倒れるに決まっている。
しかし綾華は自分にも責任の一端があると思い込み、小さな声で何度も謝っていた。
確かに綾華を悲しませたくなくて長湯したのは事実だったが、別に綾華が気に病む必要はない。
だから蛍は綾華の頬に手を伸ばし、涙の跡を指の腹で拭った。
「心配かけてごめんね」
「謝るのは、わたくしの方です……!」
「綾華は悪くない。自分の体調管理もできない私が悪い。冒険者失格だ」
ですが、となおも食い下がる綾華の唇に指を当て、黙らせる蛍。
それから、いたずらっぽく笑ってみせた。
「それなら今度からは、入る前に綾華が作った緋櫻餅を食べようかな」
それを聞いて綾華は、涙ながらに笑ったのだった。
*****
茶の間として使っている一室の机上には、既に天ぷらを始めとした稲妻の料理が所狭しと並べられていた。
まず目が行ったのは、稲妻のソウルフードたるおにぎり。
それは裟羅の名目上の大好物である。
その横にはトーマ特製の味噌汁が置かれており、作りたてを意味する湯気が立ち上っている。
主菜は刺身の盛り合わせだろうか。
彩りもさることながら姿造りとは、豪勢な朝食である。
副菜には若竹煮と玉子焼き。
タケノコを見ると刻晴を思い出すため、蛍は若竹煮からそっと目を逸らした。
玉子焼きは二切れあり、甘いものと辛いものの二種類に分けられている。
箸休めには五宝漬物。
蛍は特に好き嫌いはないのだが、神子はなぜか漬け物が嫌いらしい。
変わり種はカツサンドだろう。
この中で唯一稲妻料理ではなく、なおかつ箸で食べなくて済むイレギュラーである。
これら料理を作ったトーマの思惑がよくわからず、カツサンドだけは放置しようと決める蛍。
気を取り直して蛍は座布団の上に行儀よく座り、向かいに綾華が座るのを待った。
てっきりすぐ箸を取るのかと思いきや、綾華はどこからか取り出した急須から湯呑みに茶を注いでいた。
それを見て蛍は、リサが紅茶を淹れる所作とまったく違うことに興味を示した。
リサはなぜか高く持ち上げたティーポットからカップに中身を注ぐという曲芸のようなことをしでかしていたが、対照的に綾華はとても静かに茶を淹れている。
璃月の作法とも違うようで、なかなか奥深い。
蛍は気づいていなかった。
まじまじと見つめられていた綾華が、内心ドキドキしていたことに。
いくら社奉行の姫君として確かな立場にあろうと、綾華は友人を招いて食事するなどという普通のことをしたことがなかった。
だから余計に緊張していた。
「お待たせしました。それでは召し上がりましょうか」
蛍のところに湯呑みを置き、綾華はそう言って箸を取ったのだった。
*****
綾華と二人きりの食事の席で、特に会話が弾むということはなかった。
なにしろ向こうが緊張しているのが目に見えており、無理に話そうとして軽くむせているのを慌てて抑えたくらいである。
だが蛍は、それを嫌だとか迷惑には感じていなかった。
距離感がおかしい刻晴や、いつでも元気いっぱいのアンバーを知っているため、綾華くらい落ち着いた相手と過ごすのも心地好かった。
友人との付き合い方がわかっていない綾華を導く手助けになれているならそれでいいし、少しでも肩の力を抜いてもらえるなら嬉しかった。
「本日はどうもありがとうございました。おかげさまでとても幸せな時間を過ごすことができました」
「よかった」
「……、……」
蛍を見送るために邸宅の前に来ていた綾華の目は、なにかを訴えかけてきているようだった。
アンバー相手であれば狼狽させる一言でも投じるところだが、あいにく綾華にはその手の冗談が通じそうにない。
「じゃあ、またね」
少しだけ頬に朱の差した綾華に軽く手を振り、蛍は塵歌壺の蓋を開けた。
蛍の姿が消える寸前、綾華はなにか言おうと口を開いたが、言葉は喉に詰まって出てこなかった。
──行かないで、もう少しだけ傍にいてください。
そう告げれば、優しい蛍はきっとその言葉通りにしてくれただろう。
だが、だからなんだというのか。
綾華は、蛍には想う相手がいるということをなんとなく察していた。
その気持ちを踏みにじってまで自分の願いを通そうとは思えない。
しかし、蛍に幸せになってほしいのも事実だが、彼女のことを特別に想う自分の気持ちに見て見ぬ振りをすることもできそうにない。
せめて特別な友人という立場でいられたらいいのに、その友情が別のなにかに変じるのだけは、どうしても止められそうになかった。
「……お待ちしております。いつまでも、いつまでも」
*****
塵歌壺から出ると、そこは朝焼けのモンドの橋の上だった。
蛍は朝イチでハトを乱獲しに走ったが、殺気に気づかれ一羽も捕らえることができなかった。
と。
「蛍ー!」
満面の笑みを浮かべたアンバーが橋の向こう側から全速力で駆けてきた。
狩りでもしていたのか、背中にイノシシやらハトやらを担いでいる。
これが刻晴相手であれば見計らったかのように現れるのを訝しく思うところだが、アンバーなので特にどうとも思わない蛍。
強いて言えば運命である。
蛍も駆け出し、アンバーの前まで来るとわずかに笑った。
アンバーは息を整えながらも笑みを絶やさずに言った。
「昨日は、ごめんね! あ、お腹空いてる? 朝ご飯に、しようか?」
朝日を受けてその額の汗が眩しくきらめいていた。
よく見ればその髪には木の葉が引っ掛かり、衣服のあちこちは汚れていた。
狩りをおこなっていたようなので当然といえば当然だが、入浴した蛍にとって、今のアンバーは泥臭くておまけに獣臭かった。
鼻がもげるほどではないものの、その目映い笑顔とのミスマッチが半端なく、昨夜と逆の立場になった蛍は、アンバーがああいう態度だったことを納得していた。
朝食は済ませた、と蛍が答えようとした矢先のことだった。
ふとなにかに気づいたらしいアンバーの顔から、どんどん笑みが消え失せていく。
それを目の当たりにしたときの蛍の心情たるや、極寒ゲージが最高になって凍りつくときに酷似していた。
無表情のアンバーはまさに狩人のようで、純粋に恐ろしい。
確かに心を射止められた気はするが、肉体もそうかというとそうでもない。
思わず一歩後ずさる蛍の肩に手を置き、アンバーが言った。
「知らない匂いがする」
そう言われてから蛍はようやく思い出した。
リサが作ったというオイルを、アンバーに渡されていたことを──。