ピックアップガチャ(固定)スキル持ちの転生TS美少女が行く、激動昭和なお話 作:葛城
1972年(昭和47年)の、1月末。
年が明けてからまだ一ヶ月と経たないうちに、日本の男性たち(あと、女性も)にとって中々にショッキングなニュースが流れたのを、御存じだろうか。
それは、『日活ロマンポルノ事件』である。
まず、日活ロマンポルノとは、1971年(昭和46年)から1988年(昭和63年)にかけて映画制作&配給されていた成人映画レーベルである。
つまり、成人向け映画(エロい意味で)を主に作っていた会社である。
実は、1960年代の映画界は、その歴史においてはかなりの苦境に立たされた時代であった。
1950年代では黄金期と言われるほどに人々は映画館に通い、映画館を建てれば紙幣がジャンジャン入ってくると言われたぐらいに盛況であった。
しかし、1960年代に入り、テレビが一家に一台は当たり前の時代になり、車を所有できる人が増えてくると、その状況は一変した。
有り体に言えば、大衆の間で娯楽の選択肢が急増したのだ。
映画は映画の良さがあるが、1950年代の映画はほぼほぼ大人向け。子供向けもあるにはあったらしいが、物価などの関係から、基本的に映画は大人のモノだった。
1960年代に入って子供向けの映画も作られたが、それでも基本的には大人向けであるのは変わらず……そこに来て、人々は買ってしまえば何時でも見られるテレビに夢中になってしまった。
また、大人たちは『モーレツ社員』と揶揄されたり、長時間労働や休日出勤をいとわず、身を粉にして働く姿勢がとにかく評価され、企業戦士とも呼ばれたりしていた。
子供は子供で、この頃から徐々に『詰め込み教育』が成されるようになり、また、映画館はお金が掛かるので連れて行ってもらえないという事情もあった。
他にも、この頃の映画館は個人経営(すなわち、ワンマン経営)をしているところが多く、時代の変化に追い付けないで経営不振に陥るところが非常に多く。
それまで映画界を支えてきた俳優や女優たちも、先細りし始めていた映画界に見切りをつけてしまい、テレビ業界へ移ってしまう者が多かった。
それゆえに、だ。
1960年代の末頃にもなるとすっかり映画業界は下火になり、戦前からあった映画会社の『大映』が1971年に倒産してしまったぐらいに、映画業界には冷風が吹き荒れていた。
……そんな映画業界が起死回生の一手として出したのが、エロ路線を全面的に押し出したポルノ系映画……すなわち、ロマンポルノと言われる、成人向け映画である。
この映画の利点はなんと言っても、男性を集客がさせやすかった事と、一般向け映画に比べて収録時間や製作費が半分ぐらいに抑えられたという点である。
これによって、寂れるばかりであった映画界はなんとか息を吹き返し、『テレビではなく、映画を撮りたい!』という熱意ある有志たちによって、巻き返しを図る……ところで起こったのが、冒頭の事件である。
要はロマンポルノを『芸術』と見るか、『わいせつ』と見るかという話であり、映画制作関係者が次々に逮捕され、裁判へと発展した……という内容である。
この裁判は約9年続いたが、その間にも様々な作品が作られては興行的に成功を収め、映画業界は再び活気を取り戻し始めるのだが……で、だ。
なんで、始まったばかりでそんな長ったらしいご説明を入れたかと言うと、だ。
「──ですので、秋山千賀子さん! 私たちと一緒に、映画の世界に行きませんか!?」
「帰れ、二度と来るな」
「そこをなんとか! 貴女ほどの美貌を私は見たことがありません! 貴女ならトップを取れます! 大金持ちになれますよ!」
「鬼は~外ぉ!!」
「あいたたた、元気が良くてますます良い! ぜひ! 銀幕のスターを目指しましょうよ、ね!?」
「しぶといわね、鬼なんだから空気を読んで帰りなさいよ」
何処から聞きつけたのか、もしくはどこで千賀子を見たのかは知らないが、そのポルノ映画のスカウトマンが、朝から千賀子の実家に押し掛けて来たのである。
しかも、2月4日の節分の日である。小賢しいことに、実家へ戻っている可能性を考慮して押し掛けてきたのである。
さすがにいきなりキレる事はないが、芸能界志望でもない妙齢の女性に『ポルノ映画に出ませんか?』なんて申し出は失礼を通り越して無礼なので……千賀子の返答は、持っていた豆の全力投球であった。
……あ、ちなみに。
日活ロマンポルノは前世の世界の名称であって、千賀子の生きるこの世界では、『日勝ロマーンポルノ』という名前であったことを、先に記載しておく。