ピックアップガチャ(固定)スキル持ちの転生TS美少女が行く、激動昭和なお話   作:葛城

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第139話: さすがに、動けませんでした……by千賀子

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………さて、そんな中で、だ。

 

 

 時系列は前後するが、実は菊花賞が開かれる一ヶ月前。

 

 10月半ばにて、ついに……そう、ついに、1973年の10月半ばにて……恐れていた事態になっていた。

 

 

 ──石油輸出国機構による石油戦略……すなわち、経済制裁である。

 

 

 一つの国ではなく、加盟国が足並みを揃えて一緒になってやった事なのだが、その内容を簡潔にまとめると、だ。

 

 原油生産を段階的に削減しつつ、原油価格を1バレル約3ドル→約5ドル……なんと、約70%も一気に引き上げたのだ。

 

 どうしてそうなったのかと言えば、巻き添えである。

 

 しかし、国際社会においてまったくの無関係なんて都合の良い話はなく、向こうからすれば、どちらにも付かないなんてのは、敵以外の何物でもなかったのである。

 

 

 ……当たり前だが、この影響は日本だけでなかった。

 

 

 エネルギーを石炭から石油に切り替えていた国は例外なく強烈なダメージを受け、どの国も一気に景気を減退させることになった。

 

 当の日本にいたっては、それまでジリジリと右肩上がりだった物価が跳ね上がるように上昇し、『狂乱物価』と名付けられるほどの歴史的な物価上昇となった。

 

 これが、後に『オイルショック』と名付けられた、数ある戦後の困難の中でも上位にランクインする国難であった。

 

 

 さて、そんな国難を前にして、だ。

 

 

 通達を受けた田中内閣は11月に入って、石油緊急対策(いわゆる、節約令である)を立てて、様々な法を公布、施行した。これは後に、『総需要削減政策』と呼ばれた。

 

 この政策を簡単にまとめると、だ。

 

 これまでの消極的な方法ではなく、部分的な減税あるいは増税を積極的に行い、自国内の通貨供給量を減らし、財政支出を減らし、消費を一気に抑え込むというものだ。

 

 財政支出を抑えるということは、公共事業を凍結したり縮小したりする、ということ。

 

 この政策は過度なインフレが起こっている時に行うモノなのだが、リスクの高い劇薬である。下手すれば、そのまま長期的な不況に陥ってしまうぐらいの劇薬である。

 

 

 しかし、政府はそうするしかなかった……何故ならば。

 

 

 1バレル約5ドルに上がっただけでも致命的なダメージだというのに、12月には『1974年1月には、1バレル約12ドルまで引き上げる』という通達がなされたからだ。

 

 これに対して、政府関係者は軒並み顔色を青ざめた。

 

 なにせ、日本は万が一を備えて数十日分の石油を備蓄していたが、それの大半は機械関係(工場など)を動かすための石油であり。

 

 一般市民の生活関係に回せる量は、おおよそ10日分にも満たない量しかなかったのだ。

 

 

 そう、たったそれだけ。

 

 それを過ぎたら、文字通りのすっからかん。

 

 

 1バレルあたり4倍にも跳ね上がった原油価格を受け止められる余力など、今の日本には残っていない。

 

 しかも、12ドルで終わる保証はまったくない。

 

 下手したら、15ドル、17ドル、上げられる可能性もあり……そうなれば、日本経済はほとんど停止してしまう。

 

 

 それも、当然である。

 

 

 単純計算で、これまでの料金では25%分しか国内に入ってこないのだ。楽観的に考えても、個人の細々とした節約で賄える数字ではない。

 

 なにせ、今の日本は、ありとあらゆるモノが石油を前提にしているのだ。

 

 国民の大半は、一時的に戦前……どころか、下手すれば大正や明治の時代にまで生活を退行させなければならない可能性がでてきた。

 

 ゆえに、『外交は苦手』と言われていた田中総理も、すぐさまアラブ中東へと人員を派遣し、とにかく経済制裁から外してもらおうと尽力するのであった。

 

 

 ……だが、しかし。

 

 

 これもまあ、当たり前の話だが……現代とは違い、即日のレスポンスが可能な時代ではない。

 

 相手側に連絡し、承諾を貰い、飛行機を手配し、移動して、そこから会談を行い……結果が出るまで、相応の日数が掛かる時代だ。

 

 どれだけ急ごうが、どれだけ頭を下げようが、できないモノは、できない時代で。

 

 このオイルショックを契機にして、日本は……戦後から長らく続いていた高度経済成長の終焉を、完全に迎えてしまったのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………それは、おそらく戦後になってもっとも大多数の者たちが暗い気持ちで迎えた年末年始なのかもしれない。

 

 あまりにも一気に跳ね上がった物価高によって、例年では当たり前にあった様々な催しは中止され、おせちなどを用意できない家庭が続出していた。

 

 大小様々な工場が一時的に閉鎖され、再開の目処は立たず。

 

 頼みの綱の公的事業も次々中止・凍結されたことで、寮を追い出されたり、家賃を払えずアパートを強制退去させられたり、あるいは社長が夜逃げして会社が倒産……なんて話が続出した。

 

 電車賃を工面することすらできなくなった者が、県境の国道途中で凍りついた状態で発見されたというニュースがいくつも流れてくる。

 

 都会での職が無くなり、かといって田舎にも職は無く、電車賃も無くなり、それでも当ても無くさ迷い歩き……そのまま行き倒れ、力尽きたというニュースだ。

 

 

 ……影響は、それだけではない。

 

 

 そもそも、石油という現物がとにかく足りないのだ。

 

 それゆえに、即日決定されて即日実施された石油緊急対策……いわゆる、節約令が発令されたわけである。

 

 都市部の街灯・ネオン・東京タワーは消灯され、エスカレーターやエレベーターも停止。冷暖房の温度調節(そもそも、使えないところも続出した)、テレビも深夜放送が中止された。

 

 遠洋漁業に出ていた漁船は燃料を補給出来ずに動けなくなってしまい、救助のためにタンカーが出動し……個人タクシーがガスを購入できず、休業を余儀なくされた。

 

 当然、節約の対象は企業だけではない。

 

 国民の日常生活においても様々な自粛を求められ……いや、それは、もはや求められたなんて生易しい話ではなかった。

 

 マイカーでのドライブの自粛に合わせて、全国のガソリンスタンドの営業時間短縮、石油を使った暖房品の代わりに、石炭や木炭などを使った七輪が爆発的に売れ出した。

 

 また、生活物資の泥棒が急増した。

 

 主に灯油とガソリンが狙われたが、価格高騰していた建材や、砂糖やしょう油、トイレットペーパーが盗まれる事件が多発し、『物資ドロ』という呼び名が付いた。

 

 石油不足からくる保安上の問題から、ヒグマが数十頭間引きされるという話があったぐらいだから、いかにこの時期の混乱具合が酷かったのかを窺い知れるだろう。

 

 

 そして……いや、当然というべきか。

 

 

 国民の気質というか精神的な部分も、少しずつ、それまでのどこか浮ついていた好景気の熱から冷め始めていた。

 

 それは、経済活動がストップしたわけではない。

 

 経済制裁が解除されるまでの間にも、日本では様々なモノが生まれ、スタートし、ロングセラーとなる商品もこの年に姿を見せたりしている。

 

 けれども、それは前年まで続いていた好景気の余熱でしかないのかもしれない。

 

 がむしゃらに走り続けた日本という身体が歩調を緩め、歩いている。けして止まっているわけではないが、再び走り始めるには、新たな起爆剤が必要なのかもしれない。

 

 

 ……そんな中で、政府も傍観していたわけではない。

 

 

 当時の政府は万が一を想定して、いくつものルートから石油を買付できるようにしていたのだが、そのルート全てが一度に潰される形になったのだ。

 

 石油産出国のさじ加減一つで、ここまでダメージを受けているのだ。

 

 一つの国に依存するのはあまりにも危険過ぎると思い知った政府は、新たな石油買付ルートの模索をしておかなければならないという認識が生まれていた。

 

 また、皮肉な話だが、歴史的に見れば、この国難は日本にとってキッカケでもあった。

 

 再びコレが起こった時に備えて、ただ右から左に石油を動かしてエネルギーを無頓着に消費し、生産するのではない。

 

 原子力や風力、太陽光などの石油を使わないエネルギーの活用を模索し、より少ないエネルギーを効率的に使用して消費量を減らす必要がある。

 

 後に、現代では当たり前の感覚である、『省エネ』という言葉が生まれ、人々の間に意識が芽生えたのも、実はコレがキッカケであった。

 

 

 ……そう、客観的に、この出来事を見るならば、だ。

 

 

 日本人に限らず、ほとんどの人間は痛みを伴うことで、初めて自分の事として認識する。良くも悪くも、自分の身に降りかからない限りは他人事なのだ。

 

 公害だって、大多数の自分の身に降りかかったから、徐々に改善していった。そうでなかったら、今も大多数の者たちは知らんぷりである。

 

 だから、『オイルショック』という戦後トップクラスの危機を国民全員が等しく肌身で感じたことで、だ。

 

 それまで幾度となく警鐘が鳴らされていた『エネルギー問題のリスク』を国民自身が……まあ、うん。

 

 それでもまだ、暢気に政府の対応が悪いと思考を停止する者はいるけど、それでも、これまでに比べたら……間違いなく、大事な一歩なのであった。

 

 

 

 

 

 ……。

 

 ……。

 

 …………さて、そんな、これまでにはなかった、何処となく気落ちするような正月を大半の者たちが迎えている最中、千賀子は何をしていたかというと。

 

 

 

『 ──? ──? ──? ──? 』

 

「はぁぁ!! 全力! フルパワー! 絶対に逃さん!!!」

 

 

 

『山』の中に引きずり込んだ『恐怖の大王』を前に、巫女服を着込んだ千賀子は──全力を持って立ち塞がっていた。

 

 いったいなにが──経緯は単純だ。

 

 積み重なった物価高への不満、そこに重なるようにして起こったオイルショック、戦争時の物不足を覚えている人たちの、いい表せられない不安、それらの負の感情。

 

 加えて、米国内では色々な経緯が重なった事で、日本以上のインフレ+不景気が起こっているだけでなく、威信に陰りが見え始め。

 

 そこに、石油を武器にした石油産出国からの経済政策によって、アメリカのみならず、世界中の国々が巻き添えを食う形でダメージを……その結果、1974年を迎えて間もなく、『恐怖の大王』が具現化したのである。

 

 2度目となる恐怖の大王は、1度目とは違って、その大きさは人のそれと同じくらい。

 

 違うのは、見た目が真っ黒であるということ。

 

 どこから見ても真っ黒で、パッと見た限りでは、黒い人型の影が立って歩いているようにしか見えないだろう。

 

 

 だが、違う。見た目は怖くないけれども、中身は『恐怖の大王』である。

 

 

 この黒い影は、万物の魂を食らう。黒い顔に真っ赤な穴が開いた瞬間、そこに──誰もが気付けないまま、肉体より魂だけを吸い取られ、食われてしまう。

 

 傍目には、原因不明の大量の突然死が起こったようにしか見えないだろう。そして、この吸い込みから常人が逃れる術は、射程距離の外に出るしかない。

 

 仮に、この『恐怖の大王』がアマゾンのジャングルに出現していたら……一ヶ月と経たず、ジャングルには突然死した亡骸と、見た目には分からないが、後は枯れるだけの自然が残り。

 

 雑菌すらも食われたゆえに、ゆっくりと水分が蒸発してミイラになってゆく亡骸と、夥しい勢いで枯れ落ちてゆく枝葉が……しかし、それはIFの話だ。

 

 既に、1973年12月の段階で『恐怖の大王』を察知していた千賀子は、その時より『山』にこもって準備をし、待ち構えていた。

 

 それが、戦況を決したと言っても過言ではないだろう。

 

 数多の魂を食らって力を付けるまえに、己のテリトリーである『山』の中に引きずり込んだ千賀子の前では、その力を十全に発揮することはできず。

 

 疲労で2ヶ月以上寝込み、体調が戻るまでにさらに日数を要することにはなったが……それでも、なんとか千賀子は2度目の『恐怖の大王』を撃破したのであった。

 

 

 ……そうして、千賀子の1974年は『恐怖の大王』との戦いから始まり、長期間の静養と続くことになったわけである。

 

 千賀子は『体調不良により、しばらく静養します』と、実家や兄の和広、明美や道子、そのほか様々な関係者に連絡を取っていた……ん? 

 

 

 ──分身を代用させないのかって? 

 

 

 残念ながら、分身をまともに維持できなくなるぐらいに消耗してしまったのだ。

 

 4号だけはエマの面倒を協力してもらうために意地で維持しているが、2号と3号を維持できるだけの精神力が千賀子に残っていなかった。

 

 なんとか気力を振り絞って分身を出しても、その見た目はせいぜい5,6歳ぐらい。時間も、一日に30分ぐらいしか維持できない。

 

 それならば、無理して分身を出さずに少しでも体力気力精神力の回復に努める方が良いわけである。

 

 ちなみに、回復方法自体は、特に何かをしているというわけではない。

 

 消化が良く、栄養価の高い物を食べて、身体が鈍らないようロボ子監修の下でリハビリを行い、入浴やマッサージを行って、たっぷりと睡眠を取る。

 

 やっている事は、それだけ。いや、というか、それ以外に回復する方法は無いのだ。

 

 女神様のようなミラクルヒーリング(意味深)による回復ならともかく、自身の回復は、自身の回復力に委ねるしかないのだ。

 

 なので、だいたい全快に至るまでのプロセスは同じである。

 

 最初の頃は倦怠感が強く、1から10までロボ子の世話になり、エマに対しても、布団から出した指先で、なんとか頬を摩ってやれるぐらいだった。

 

 その際、エマの小さな手でギュッと手を握り返された時、思わず失神しかけるぐらいに嬉しかったが……とにかく、そんな調子であった。

 

 体調が徐々に回復傾向になるにつれて、重湯(おもゆ)とビタミンその他諸々&カロリー点滴処置だったのが、お粥と量を少なくした点滴処置に変わり。

 

 柔らかく解した固形物が食べられるようになれば、点滴処置の替わりに、経口栄養ドリンクが追加されるようになり……という具合であった。

 

 リハビリも同様に、最初は布団の上でロボ子によるリハビリが行われていたが、食べられる量が増えるにつれて、立って、歩いて……という具合で、強度が増してゆき。

 

 

「……ひとまず、日常生活を送る分にはまったく問題ないでしょう。さすがにいきなり飛んだり跳ねたりするのは駄目ですけど」

「それぐらいは分かっているよ」

「分身を出しても大丈夫かと。ただ、くれぐれも、暴れ回るのは駄目ですからね」

「分かっているよ──っていうか、ロボ子は私を何だと思っているのか……」

 

 

 ようやくロボ子から、『ひとまず完治デス』と診断された千賀子は、実に晴れ晴れとした顔で大きく伸びをして……それから、3歳を超えてポテポテと歩き回るようになったエマを抱き上げた。

 

 合わせて、音もなく2号と3号も千賀子の傍に出現する。

 

 2人は分身なので、説明するまでもなく状況を理解している。

 

 2号は冴陀等村の様子を見に、3号は競馬関係者に、ロボ子は世間の情勢を確認しに……そんな感じで、千賀子は無事に復活したのであった。

 

 

 

 

 

 ──そうして、3日後。

 

 

 時は1974年の4月。千賀子は、ロボ子や分身たちから、己が臥せっていた約4ヵ月分の話(つまり、出来事)を聞いていた。

 

 療養中はとにかく疲労感やら何やらで、起きている間は常に何かをしている時で、それ以外は目を瞑ってすぐにストンと寝てしまう状態だった。

 

 テレビやラジオ、その他の情報媒体が傍にあると千賀子が気になってしまって心身に良くないので、ロボ子の手でシャットアウトされていた。

 

 とにかく、回復を最優先にして、他は後回し。

 

 家族や友人への物資の融資は、決められていた量を定期的に送る……という、事前の方針の結果である。

 

 なので、現在の千賀子の感覚としては、浦島太郎みたいな感じであり……正直、たった4ヶ月だから、そこまで変化はしていないだろうと楽観視していた……のだが。

 

 

「……え? 酷くない? え? 石油代は田中総理が動いたおかげで価格はある程度は落ち着いたんだよね?」

 

 

 改めて、楽観視していただけである事を、思い知らされていた。

 

―――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 




※ どれぐらいヤバいかって、戦後になって当時では最大規模になる、零細&中小企業倒産数を記録したってぐらい
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