序盤ボスの悪役貴族に転生したので裏ボスに媚び売ってたら婚約することになった件 作:三つ眼の荒木
思えば遠くまで来たものだ。
この迷宮で朝を数えて、もう90日を超えた。懐中時計の針はあいかわらず瞬きほどしか進んでいないというのに、私たちの体感ではゆうに三月が過ぎている。
90日、朝から晩まで私はこの男と過ごしている。剣を交え、迷路を歩き、下らないことを言い合う。おかげで私はもう、彼の前で公爵令嬢の面をかぶるのをすっかり忘れてしまった。
もっともアイン君のほうは、いまだ律儀に一線を引いている。私がどれだけ砕けても、彼は決して無礼のほうへは踏み込んでこない。ただ私が距離を詰めた分だけ、その分きっかり歩幅を合わせてくる。
……その「きっかり」が少しだけ憎らしい。合わせられるということは、こちらの浮ついた足取りなど彼にはとうに見透かされているということだから。
○
この迷宮には質の悪い癖がある。
迷路の法則はある程度分かり確実に攻略されている。けれど時折その法則を平気で踏み越えて、この空間は――まるで私たちを「そういう異変」へ追い込んでは面白がっているのだ。
その日おかしかったのは水だった。
探索の途中、私が何気なく開けた襖の先が膝まで水に浸かった廊下だった。踏み込んだ足が滑る。「きゃっ」と声を上げる間もなく私は前のめりに水へ突っ込む……前に、咄嗟に前へ出たアイン君の胸元へと突っ込んでいった。
「大丈夫ですかって、うわ――」
すると今度は私を支えたアイン君が転び、結局は二人とも水に突っ込む羽目になった。
……お互い実力者。水の中であろうと滑って転ぶなんていう醜態をさらしたことがまずありえないが、問題はその後だった。
びしょぬれになった私たちは、着替えるために衣服を置いてある部屋に戻ろうとするのだが、なぜかマッピングしたはずの迷路が変化しており戻ることができない。
濡れた服では体が冷える。私たちは近くの部屋で火を熾し、着替えを乾かすことにした――までは、よかった。
乾かすあいだ着るものがない。
私は火の傍で備え付けの薄い浴衣一枚を素肌に羽織り、膝を抱えて座っていた。濡れた髪が首筋に張りついて冷たい。
その向かいで。
アイン君もまた同じ浴衣一枚で、私の服を火にかざしている。
……こういうとき、この男は本当に隙がない。
私の視線に気づくと、彼はすぐ自分の乾いた羽織をこちらへ寄越そうとする。自分が寒かろうと、まず私だ。それが分かっているから、私は先回りして突っぱねた。
「いらないわ。……あなたこそ風邪をひくでしょう」
「私は鍛えていますから」
「私だって、そこらの騎士よりは丈夫よ」
売り言葉に買い言葉。詰まらない意地の張り合い。
なのに火に照らされた彼の、浴衣からのぞく鎖骨だとか、濡れて額に張りついた前髪だとか、そういうものを視界の端に入れまいと、私は必死で炎ばかりを睨んでいた。
パチ、と薪が爆ぜる。
沈黙がやけに長い。
「……あの、ユリさん」
「な、なによ」
「少し……髪が跳ねています」
彼の指がそっと伸びて、私の額の髪を耳へと流した。
ただそれだけ。それだけのことで、私はきっと火よりも赤くなっていた。
「――っ、じ、自分でやるわ!」
弾かれたように私は両手で髪を押さえる。彼はきょとんとして、それからばつが悪そうに手を引っ込めた。
○
剣を措けば私はてんで役立たずだった。
その最たるものが料理だ。私が鍋を任されれば、湯は吹きこぼれ、干し肉は炭になる。生まれてこのかた厨房に立ったことなど一度もないのだから致し方ない。致し方ないのだけれど。
「ユリさん。それはもう炭です」
「……分かっているわ。言わないで」
結局、菜箸は彼が握り、私は横で切った野菜をお椀へ移すだけの係に落ち着く。公爵家の令嬢が、伯爵家の子息の下働き。この構図の情けなさには今だ慣れない。
ぐつぐつと鍋が鳴る。彼が味見の匙を差し出した。
「味を見ていただけますか。塩が足りているか」
私は口を開けかけて――止まった。
匙は一つ。今しがた彼が口をつけたばかりの。
……べつに。べつにどうということはない。ただの味見だ。同じ匙の一つや二つ、気にするほうがどうかしている。
そう己に言い聞かせて、私はその匙を口に含んだ。
……塩気はちょうどいい。ちょうどいいのに、なぜだか味がまるで分からなかった。
「……ど、どうですか」
「ええ。……ちょうど、いいわ」
彼はほっとしたように笑った。何の含みもない、ただ料理の出来を喜ぶだけの笑み。
その屈託のなさが今はただ、少しだけ憎らしい。
○
ある晩のことだ。
ふと目を覚ますと隣の布団がもぬけの殻だった。
襖を細く開ける。魔道具の乏しい灯りの下で、アイン君が一人木刀を振っていた。昼にあれだけ私が地へ沈め、立てなくなるまで扱いてやったというのに。
その傍らに見覚えのある小瓶が転がっている。彼は喉を鳴らして、その中身を一息に飲み干した。
「――アイン君」
声をかけると、彼はばつが悪そうに木刀を下ろした。
「起こしてしまいましたか。すみません」
「そうじゃないの。……あなた、寝たあとに起きて、こんなことを毎晩?」
「はい。少しでも時間を無駄にしたくなくて」
私はその小瓶を拾い上げる。鼻をかすめる覚えのある匂い。
――ああ。
思い出したくないことを私は思い出してしまった。
この匂いの薬を彼が入学の前に店の在庫ごと買い占めたという噂。それを聞いた私とザネが顔を真っ赤にして、「初夜のためだ」だの「盛りすぎだ」だのとさんざん囃し立てた――あの薬だ。
精力剤。
……では、なかったのだ。
これはただの、疲れを抜くための霊薬。夜を削って剣を振るための。私たちが下衆の勘繰りではしゃいでいた頃、この男はきっとこうして己の体を苛め抜く、その姿しか思い描いてはいなかった。
……うん。あの日のことは忘れましょう。きれいさっぱり記憶ごと。私は何ひとつ勘違いなどしていない。いいわね、私。
「体を壊すわ」
私は小瓶を握りしめ、努めて厳しい声を作った。
「眠りを削って積んだ力は、いざという時まっさきに君を裏切るものよ。……私が言うのだから間違いないわ」
「……はい。おっしゃる通りです」
神妙な顔をしながら彼はうなだれる。
私は空になった瓶を拾いながら前から疑問に思っていたことを彼にぶつける。
「アイン君、長い間一緒に暮らす中で私たちはそれなりに気が合う仲になれたと思うの」
「はい」
素直な相槌。それがかえって切り出しづらい。けれどこの胸の奥でずっとくすぶっていた問いを、私はもう抱えたままではいられなかった。
「だから、すべてを話さなくていいから正直に答えてほしい。いったいどこまで分かっているの?」
彼の顔がこわばる。
――ああ、やっぱり。その反応ひとつで、私の勘は当たっていたのだと知れてしまった。
「今回の遠征の前にあなたがこの霊薬を大量に買いこんでいたことは分かっていたわ。だからあなたは最初からこの状況を想定していたはずよ。でもすべてが想定通りとも思えない。だから聞くわ。どこまで分かっているの?」
「お見通しみたいですね。ある程度私は今回のようなことが起こるのは分かっていました」
やはり。背筋にあの冷たいものがまた走る。この理不尽な牢獄を、この男ははじめから知っていた。
「じゃあ知っているのね。ここから脱出する方法を」
「はい。しかし脱出はできません」
「どういうこと?」
知っているのにできない。その矛盾に私は眉を寄せる。
「私が知っている脱出方法はただ一つ。女将と交渉し満足させることです。私はそこで長期間ここに滞在し修行させてもらえるよう交渉するつもりでした。しかし――」
「私が殺してしまったのね」
言葉にした途端、胸の底がすとんと落ちた。交渉すべき相手を私はこの手で斬り伏せてしまったのだ。
「はい。ある程度時間を空けてユリさんには事情を話そうと思っていたのですが、それより早く女将の正体に気づき処理されるとまでは想定できていませんでした。まさかユリさんが本気を出すなんて」
その言い草にかっと頬が熱くなる。……だって、あれは。
「……あの時はアイン君がいなくなってカッとなっちゃったのよ」
言ってしまってから、しまった、と思う。これではまるで。
「私なんかがいなくなったくらいで怒った事実がびっくりですけどね」
――この、鈍感。心底不思議そうな顔をして。あなたのために我を忘れたなんて、口が裂けてももう言ってやらない。
「ともかく、じゃあ脱出方法は分からずじまいか。まぁ、そんな予感はしていたわ」
「なぜですか?」
「修行の身の入り方よ。初めにしていた護神流剣術対策ではなく、むしろ剣術に頼らない地力を上げる訓練を頼むことが増えてきたわよね。脱出方法が分かっていたら期限をつけて成果が出るような修行をするはずよ。すぐに脱出できないものとして考えるような長期的な修行内容をあなたが提案してきたから」
「そうですね。でもすぐに脱出できないかどうかは分かりませんよ」
「どういうこと?」
「女将が生きている可能性があります」
思わぬ言葉に私は目を見張った。
「そんなことはないわ。私は確実に女将の首をはねて殺した。あなたも見たでしょう」
あの手応えを忘れようはずもない。確かに私は斬った。
「ええ。それは間違いないはずです。しかし不自然な点があります。あの日以降女将の死体を私たちは見ていません。迷宮の法則性がある程度わかり最近はマッピングも効率的に行えています。かなりの部屋を見てきましたがあの部屋に再びたどり着けていない可能性は低いと思います」
言われてぞくりとした。首を落とした。なのに亡骸だけがどこにもない。
「死体が消えた、か何らかの方法で生きていた可能性があるということね」
「まぁこの迷宮が解けていないのも女将が実は生きていたからの方が納得しやすいですしね」
わずかに胸の内に灯りがともる。あの忌々しい女将が生きているなど、喜ぶ筋合いの話ではないのに。それでも出口の糸口が断たれていないのなら。
「ユリさん、改めて申し訳ございませんでした。個人的な目的であなたをこんな状況に貶めてしまいました。どんな処罰でも受ける所存です」
深々と下げられたその頭を私は見下ろす。この期に及んでまだ律儀に頭を下げる。
「……別に構わないわ。この状況は想定外の事態ですし女将を殺した私のせいでもあるもの。でもそうね。申し訳なく思っているなら一つだけ正直に答えてくれる?」
「はい」
これを訊くのはずるいと思う。処罰の代わりだと言って、逃げ道を塞いでおいて。それでも――どうしても確かめたかった。
「なんで私だったの?恋人のふりをするなら私以外にもいたでしょう?むしろこの状況を考えると女将を殺してしまう可能性がない存在の方が良かったはずよ。それこそザネでも良かったはず」
「もともと女将と交渉できたらユリさんには先に帰ってもらうはずでした。だからユリさんを選んだ理由は何カ月もここで訓練することになる前に、あなたを目に焼き付けておきたかった。それが理由になります」
――だめ。今の言葉をまっすぐ受け止めてしまったら、私はもう。頬が熱い。きっと耳まで。とっさに顔をそむけたけれど、隠しきれた気はまるでしなかった。
「でもユリさんとここに閉じ込められてよかったなと思うこともあるんですよ」
「何?」
訊き返す声が我ながらみっともなく上ずっていた。
「えっと……その……あなたのことをたくさん知れましたから」
「~~~っ!」
だめ。もう、無理。この男はどうしてこう、狙ってもいない一撃でこちらの心臓ばかりを的確に射抜いてくるの。声にならない声が喉の奥で潰れた。
「まぁそれに、ザネ先輩と恋人のふりするとか死んでも嫌ですけどね」
「それはそう」
それは本当にそう。
〇
「ユリさん。一つ、相談が」
木刀を壁に立てかけた彼は私に向き直った。
「この三月、夜のあいだに私たちの寝床が別々の部屋へ飛ばされてしまうことが何度もありました」
言われて思い当たる。朝、目覚めると隣に彼がいない。慌てて襖から襖へと探しに出る。この迷宮では離れることそのものが危うい。一度はぐれれば、次に巡り会えるのがいつになるか知れないのだから。
「ですから、いっそ――同じ部屋で休みませんか。そのほうがはぐれる危険は減ります」
同じ部屋で。
――一緒に、寝る。
その言葉の並びだけで、心臓が勝手に一つ跳ねた。三月も同じ屋根の下にいて今さら何を、と自分でも思う。思うのに頬にのぼる熱を止められない。
「そ、それは……ええ。理には適っているわね」
私が上ずった声をどうにか絞り出すと、アイン君は――ひどく真剣な顔をした。
そうして畳に手をつき、深く頭を下げる。
「その上で、お願いがあります。もし万一、私が寝ぼけてでも、魔が差してでも……ユリさんに少しでも不埒な真似をしようとしたら」
一度言葉を切って。彼は顔を上げた。
その目には冗談の色が一片もなかった。
「迷わず叩きのめしてください。手加減も遠慮も一切いりません。……何が起こるか分からない場所ですから」
何が起こるか分からない。
その一言に、私は不覚にもどきりとした。まるで彼の内にそういう衝動が眠っていると告げられたようで。
――と、そこまで考えて私は気づく。
違う。この子はそういう意味で言っているのではない。
彼の額にはうっすらと汗が滲んでいた。声は必死だった。まるでその「万一」が本当に起きることを心の底から恐れているような。あってはならないと身を削って己に言い聞かせているような。
剣を交えるときですら、彼はこんなに切実な顔を私に見せなかった。
私はなんだかおかしくなってしまった。
「ふふ」
「……ユリさん?」
「分かったわ。約束する」
込み上げる笑いを噛み殺して私は頷く。
「もし君が私に指の一本でも触れたら――そのときはこの迷宮ごと君を吹き飛ばしてあげる。だから」
私は彼が一等見慣れた生徒会長の笑みを作ってやった。
「安心して、お眠りなさい」
彼はようやくほっと息を吐いた。
その大真面目な安堵の顔がまた少しおかしくて。そしてなぜだか少しだけ――嬉しかった。
○
灯りを落とした部屋で、彼の寝息はすぐに規則正しくなった。剣を振り疲れた体は正直なものだ。
私は暗い天井を見上げる。
出口はまだ見えない。この途方もない迷宮の地図をどれだけ攻略できているかも分からない。外へ帰れる保証などどこにもない。――そのはずなのに。
いつからだろう。この閉じ込められた日々を、私が囚われたものだと感じなくなったのは。
隣で眠るこの男は、こんな出口のない場所でさえ呆れるほど泰然としている。焦りも絶望もその横顔には見当たらない。まるでこの迷宮の果てまでもう見えているとでもいうように。
そのくせ私に触れないよう、こんなにも必死になる。
……本当に、変な男。
もしこのまま二人、ここから出られなかったとして。
それはそんなに恐ろしいことなのだろうか。
――そこまで考えて、私は勢いよく寝返りを打った。だめ。今のはだめ。
彼の穏やかな寝息を聞いているうちに、いつしか私も眠りに落ちる。
この、ひどく静かで満ち足りた夜が、迷宮で数える最後の夜になるとはまだ知らないまま。