序盤ボスの悪役貴族に転生したので裏ボスに媚び売ってたら婚約することになった件 作:三つ眼の荒木
夜中にふと目が覚めた。
いや、正しくは覚まされたというべきか。
布団のなかにもう一つ熱があった。衣擦れと畳を這うようなひそやかな重み。それが私のすぐ隣まで来て止まり、息が首筋にかかる。
アイン君だ。
――え。
寝ぼけた頭が状況を呑み込むより先に、心臓のほうが勝手に大きく跳ねる。約束したはずだ。指の一本でも触れたら迷宮ごと吹き飛ばす、と。私自身がそう言って彼を安心させ、寝かしつけたばかりだ。
なのに。
彼の手が私の肩に触れる。ゆっくりとこちらを仰向けにさせる。薄闇のなか、彼の顔が影になって近づいてくる。唇に吐息がかかった。
……ま、待って。心の準備が。ああ、でも。彼なら――
――と。
その目を見た。
全身の熱がすっと退いていく。
彼の目には何も映っていなかった。私も、闇も、なにも。焦点の合わない濁った目だ。昼間あれほど律儀に畳へ手をついて「不埒な真似をしたら叩きのめしてくれ」と頭を下げた、あの男の目では断じてなかった。
それにこの気配。彼の体に薄くべったりと、血の色をした覚えのある魔力が絡みついている。
――あぁ、なんだ。
なんだ。彼じゃないじゃない。
「――離れなさいっ」
私は身をひねりざま、彼の鳩尾へ膝を叩き込んだ。手加減はした。寝ぼけて覆いかぶさる男を引き剥がすには十分すぎる一撃だ。アイン君の体が短く呻いて、布団ごと部屋の隅まで転がっていく。
その勢いで、彼に絡んでいた血の色の魔力が剥がれ落ちていく。
私は跳ね起きて剣を抜く。
「【王の剣】」
刃が黄金に灯る。
――奥だ。
闇の澱んだ部屋の、そのさらに奥。襖の向こうの暗がりで、着物の裾がゆらりと揺れた。
ずっとそこにいたらしい。私たちが寝入るのをじっと待っていたのだ。
「――ごきげんよう。女将さん」
挨拶がわりに私は踏み込んだ。
【神脚】。一足で間合いを消し、黄金の刃をその白い喉へ薙ぐ。
手応えはなかった。
着物の女は柳が風に流れるように、上体だけをたおやかに反らして私の斬撃をかわしている。
「あらあら。おはようの口づけも待てないなんて、無粋なお嬢さん」
女将は口元だけで笑う。あの晩と同じ、腰の低い接客の声。けれど纏う魔力は旅館ぜんたいを濁らせるほどの、人外のそれだ。
「せっかく、いいところでしたのに。ねぇ?」
――誰が。
二の太刀を繰り出そうとした、その時。
女将の背後の闇から音もなく白刃が伸びた。
アイン君だ。いつのまに立ち上がったのか、隅から一足で肉薄し、女将の背を袈裟に斬り下ろしている。見事な一撃だった。
なのに、その刃は女将に届かなかった。
確かに斬った。しかし手応えなく、彼の剣は女将の体をするりと通り抜けている。そこにはじめから何もなかったかのように。
彼は目を見開く。自分の斬撃が空を切ったことに、彼自身理解が追いついていない顔だ。
でも、私には見えた。
彼の刃が女将の肌に触れるその刹那。女将のまわりの空間がぐにゃりと歪んだ。水面に落ちた一滴のように景色がたわみ、彼の剣はその歪みに沿って女将の輪郭を舐めるようにつるりと逸れていったのだ。
「――ふふ。それにしても」
女将は通り抜けた刃には目もくれず、私だけを見ている。
「よく断ち切れましたわねぇ。あんな可愛い坊やの、寝込みの誘惑を」
「当然でしょう」
私は鼻で笑ってやった。
「アイン君は、こんな真似、死んでもしない子よ。指一本でも私に触れたら吹き飛ばしてくれと、昨夜自分から頭を下げたくらいの男だもの。あなたに操られでもしない限りね」
だから迷いなく吹き飛ばせた。――と、あくまで凛と生徒会長の声で言ってのける。
……言ってのけたけれど。
内心はそれどころではない。
だって。もし、もしもよ? あれが操られてなんかいない、素のアイン君だったとして。私はきっとあんなに綺麗に蹴り飛ばせやしなかった。
……いえ。むしろ。
こういう時、我慢が利かずに先に手を出すのは、どう贔屓目に見ても私のほうだろう。
なんてことは言えるはずもない。
「無駄よ、坊や」
女将は振り向きもしない。アイン君が二度、三度と斬りつけるが、そのことごとくがあの歪みによって剣が逃がされていく。
「わたくしに刃は届かないの。時も、空間も、ぜんぶわたくしのものだもの」
私はさっきの一部始終を頭のなかで巻き戻す。
アイン君の斬撃はすり抜けたけれど、私の【王の剣】はどうだった。
あれはすり抜けなかった。この女は身を反らして避けたのだ。
「……ねぇ、女将さん」
私は黄金の刃をだらりと下げてやった。わざと隙だらけに。
「あなた、さっき私の剣は『避けた』でしょう。……歪みに逃がせるものを、わざわざ体で避ける道理はないのにねぇ」
女将の笑みが初めてぴくりと強張った。
「逃がせないから避けた。当たれば効くから避けた。――そうでしょう?」
思い出せばいい。初めてこの女に会った晩、私はこの首を確かに一度斬り飛ばしている。当たらないわけがないのだ。
「安心なさい。今度は殺さないであげる。あなたにはまだ吐いてもらう話があるもの。この前は手足四本首一つだったけれど、もっと細かく見れば体を欠けさせるものはいっぱいあるわ」
【王の剣】を振りかぶる。
その瞬間だった。
「――ま、待って! 待ってくださいましっ!」
女将が悲鳴を上げた。
あの旅館ぜんたいを呑むような魔力が、嘘のようにしゅるしゅると萎んでいく。着物の女はその場にへなへなと膝を折り、あろうことか畳に額を擦りつけた。
「降参! 降参いたしますぅ! どうか、それだけは、それだけはご勘弁を……!」
……は?
私は振り上げた剣を行き場なく持て余す。
ついさっきまで「時も場所もぜんぶ私のもの」だの、人を坊や呼ばわりで見下していた女が、今や鼻の頭に汗を浮かべんばかりの平身低頭だ。
「命ばかりは、命ばかりはっ。わたくし、まだ、見届けておりませんの。まだ、たくさん、たくさん残っておりますのよ……!」
そのあんまりな豹変ぶりに、振り上げた黄金の刃が我ながら間抜けに見えてきた。
○
剣は抜いたまま。ただし切っ先は下ろした。
畳に這いつくばる女将を私は見下ろす。うしろでは我に返ったらしいアイン君が、剣を構えたまま私と女将を交互に見比べている。
「アイン君。あなた、正気に戻ったのね」
「……はい。すみません、私はいったい」
「覚えていないならいいわ。あとで話す」
私は女将に向き直った。
「さて。洗いざらい吐いてもらうわよ。あなたが何者なのか。この旅館は何なのか。そして私たちを閉じ込めたその目的もね」
女将はおずおずと顔を上げる。斬り飛ばしたはずの首が、今はきちんと据わっている。
「……もう、隠しても仕方がありませんわねぇ」
観念したのか、女将はぽつり、ぽつりと語りだした。
曰く、自分は歳も名も忘れるほど長く生きた、時と空間を操る魔法使いであること。魔力が尽きるということがもうないこと。魔王軍とは縁もゆかりもないこと。
そしてその途方もない力を――。
「わたくし、ただ……見ていたいだけ、なんですのよ」
「見る?」
「若い殿方と、お嬢さんが。恋をして、すれ違って、頬を染めて。……そういうのを、こう、間近で、心ゆくまで」
女将は両手を頬に当て、うっとりと身をよじった。
「そのために、この旅館を。お二人を、ゆっくりじっくり煮詰まっていただける素敵な迷宮に仕立てて。ときにはちょいと、いい雰囲気になるよう背中を押して差し上げて……」
背中を押す。
――今夜の、アイン君。
そういうこと、ね。
私はこめかみを押さえた。
この女は、国が束になっても抑え込めるかどうかという魔力を持ちながら、行方不明者を百人からこしらえて隣国を騒がせて。そのあげく。
やっていることが逢引きの覗き見だ。
「……それだけ?」
「それだけ、とは失礼な。愛ですのよ、愛。人の心の壁を貫く、唯一の――」
「もういいわ」
あの晩はなにやら仰々しく聞こえた「愛の観測者」も、こうして命乞いのついでに聞かされると、ただの暇を持て余した女の、質の悪い道楽にしか聞こえない。
拍子抜けとはまさにこのこと。斬る気も失せた。
○
交渉はアイン君が引き取った。
我に返るなり、彼はもういつもの淡々とした敬語に戻っている。ついさっきまで人形のように操られていた男とはとても思えない。……この切り替えの早さも大概、化け物じみている。
「女将さん。あなたを殺せば、この迷宮ごと私たちは永遠に閉じ込められる。……違いますか」
女将がびくりと肩を跳ねさせた。図星らしい。
「あなたも無闇に殺されたくはない。私たちも出たい。ならば話は早い。取引をしましょう」
アイン君は、まるで最初からこうなると知っていたような澱みのなさで条件を並べていく。
私たちを外へ帰すこと。かわりに――と彼は言った。
「いずれ、あなたのお眼鏡にかなう二人をここへお連れします。あなたが心ゆくまで見届けられるような。……それで手を打っていただけませんか」
女将の濁った目がぱぁっと輝いた。
「まぁ! まぁまぁ、それは、それは……! ええ、ええ、もちろんですとも!」
二つ返事だ。よほど退屈していたのだろう。
「では、約束よ。きっとまた、ここへ来てね」
その言い方は、なんだか妙に含みを持たせるような粘つく響きで、私はうっすら鳥肌が立った。
……この女の言う「また来て」は、なんだかあまりいい予感がしない。
けれど、それきり深く考える間もなく、女将が指をぱちんと鳴らした。
部屋の景色が崩れる。畳が、襖が、闇が、水にといた絵の具みたいに混ざり合って――
○
気がつくと、私たちは森の中に立っていた。
湿った土と夜露の匂い。頭上には見覚えのある枝ぶりの木々。旅館などどこにもなく、虫の声だけがしんと響いている。
空を見上げれば、月の位置は――ほとんど動いていない。
三月。あの迷宮で確かに三月を私たちは過ごした。剣を交え、粥を分け、他愛のない意地を張り合って。なのに、この世界ではまだ同じ夜が続いている。
私はなんだかうまく息ができなかった。
自由だ。ようやくあの理不尽な牢獄から出られた。喜ぶべきなのだ。喜ぶべきなのに。
――いつか、あの旅館にもう一度。
誰か見知らぬ二人を連れて戻らなければならない。その約束を思うと憂鬱でたまらない。……たまらない、はずなのに。
その憂鬱の底にほんの少しだけ、あの出口のない日々がもう終わってしまったことへの――名前をつけたくない未練のようなものが澱んでいる。
……本当に、私はどうかしている。
隣でアイン君が大きく伸びをした。何食わぬ顔で、まるでただ長い散歩から帰ってきただけのような顔で。
その屈託のなさが今はやっぱり少しだけ憎らしくて、そして少しだけ羨ましかった。
○
森を抜けるころには、東の空が白みはじめていた。
ここで私たちは別れる。彼は決闘のために煌都へ。私は片づけねばならない用が実家にある。
「ユリさん。……その、今夜のことは」
「言わなくていいわ」
律儀に切り出そうとする彼を私は遮った。これ以上あの布団のなかの話を蒸し返されたら、今度こそ平静を装いきれる自信がない。
「あなたのせいじゃない。分かっているもの。……忘れましょう。お互いに、きれいさっぱり」
私が言うと、彼はほっとしたような、けれど少しだけ物足りないような妙な顔をした。……なによ、その顔は。
私は彼に背を向けかけて――ふと足を止める。
アブファイル・ハイター。侯爵家の五年生。一年生の彼と埋まる差ではないと誰もが言うだろう。実際、生半な相手ではない。
それでも。
「アイン君」
「はい」
「――君なら、勝てるわ」
振り返らずに私は言った。
「気休めで言っているんじゃないの。私がこの目で三月あなたを見てきて、そう思うのよ。だから」
一度だけ肩越しに振り返り、私は精一杯の生徒会長の笑みを作ってやる。
「胸を張って、勝ってらっしゃい。私は信じているから」
彼が何か言い返すより先に、私は今度こそ背を向けて歩きだした。
……顔が見られたものではなかったから。
○
アムストラクト公爵家の屋敷に着いたのは、陽が高くのぼりきった頃だった。
久方ぶりの我が家。使用人たちが慌ただしく出迎えるのを片手で制して、まっすぐ父の書斎へと向かう。
道すがら、頭のなかは驚くほど静かだった。あの迷宮でのことも彼のことも、今だけは遠い。
やらねばならないことがはっきりと見えている。
扉を叩く。返事を待たずに開ける。
執務机の向こうで父が顔を上げた。娘の突然の帰りに目を丸くしている。
私はその前に立ち、まっすぐに父を見据えた。
「お父様」
努めて静かに、けれど一分の隙もなく。
「――大切な、お話がございます」