序盤ボスの悪役貴族に転生したので裏ボスに媚び売ってたら婚約することになった件 作:三つ眼の荒木
時間を女将との交渉の時にまで巻き戻す。
脱出の時――ではなく、ユリさんと卓球に興じたその晩のことだ。
ユリさんが寝入ったのを見計らって、俺は一人、迷宮の奥へと足を向けた。行き先には当てがあった。斬り殺されて死体だけが消えた女将のもとだ。
迷路の一室で俺を待っていたのは、あの着物の女だった。首を落とされたはずの女が、何事もなかったように正座して茶を啜っている。
「あらあら。よく、ここが分かりましたねぇ」
「難しい話じゃありません。あなたが生きていると踏んだ根拠なら、はっきりしている」
俺は向かいに腰を下ろした。
「ある時から、この迷宮の様子がおかしくなった。マッピングした道が勝手に組み変わり、決まって俺とユリさんが妙な具合に近づけられる。決め手は温泉でのラッキースケベイベント。死人に迷宮はいじれないし、ましてやラブコメにうつつを抜かさない。あなたが生きているとしか考えられない。卓球イベントを意図的に起こしてさらに確信しました」
女将は湯呑みの縁越しに、うっとりと目を細めた。
「――ええ、ええ。そのとおり。若い二人の初々しいのを見たくて、つい、はしゃいでしまいましたの」
悪びれもしない。この女は正真正銘の変人だ。
「一つ聞きたい。あの死体には何があったんですか? 間違いなく、あなた本人のものだった」
「もちろん。あの公爵令嬢は、確かにわたくしの首を落としましたわ。……ただ、わたくしね、あらかじめ己に時限式の魔法をかけておりますの。ある時が来ると、わたくしの時間だけが勝手に巻き戻る。死ぬ前の刻限まで、するりとね」
逆行の魔法。自分の時間を、死んでいなかった頃へ戻したのか。時空間を極めた者ならではの出鱈目な保険だ。おかげで俺たちの今後の人生も助かったわけだが。
○
用件ははじめから決まっていた。
「あなたの時空間魔法を、俺に教えてほしい」
「まぁ。それはまた、欲張りな坊やですこと」
「対価は二つ。一つ、あなたが生きていることも、その力のことも、俺は会長には話さない。もう一つ――いずれ、あなたの気に入るような二人連れを、この旅館へ案内します」
女将は笑みを崩さずこちらを見つめる。
「その交渉に私がのるとでも?」
「乗りますよ。カップルの観察はあなたの生きがいですし、それに死にたくはないでしょう」
「先ほどの言葉を忘れたかしら。私は死んでも生き返ることができる」
「ユリ・スーン・アムストラクトを甘く見ていますね。彼女は最強です。それはもはやこの世界を作った神が決めたような理に近いものなんですよ。あなたの詳細を知れば彼女は確実にあなたを追い詰めることができる。少なくとも俺はそう信じて疑いません」
女将の顔がぱっと輝き笑い出した。
「うふふ、冗談よ。私だって何度も死ぬ思いをするのは嫌だし、彼女ならそれ以上のことをしそうで恐ろしいものよ。……ただし、条件に一つ、足させてくださいな。連れてくるのはカップルを。それも、あなたがた二人で、ね」
二人で来い、というのは単に道案内の頭数の話だろう。俺はそう受け取って、深くは考えなかった。
「で、何を教えてほしいの?」
「俺が知りたい、時空間魔法を使った剣技は二つ」
俺は指を二本立てる。
「一つは、【次元傷】。もう一つは【時間加速】」
【次元傷】。相手に決して癒えることのない傷をつける剣技。
斬るのは肉ではない。その人間を形づくっている時空そのものに傷を入れる。すると「傷を負った」という事実がその一点に固定される。時が流れても決して過去にならない。常にたった今斬られたばかりの状態が居座り続ける。
だから塞がらず癒えない。回復魔法をかけようが、そこにあるのは「傷ついているという確定した事実」だ。血は止まず、魔力が尽きて術が解けるまで永遠に流れ続ける。
もう一つは【時間加速】。これは言葉通り己の時間を早める術。これも一通り習ったが、今回はほんの触りだけにしておくつもりだった。こいつの本当の使いどころは決闘なんかじゃない。いずれ避けようのない相手、この学園で最強のあの人を相手取る羽目になった、その時のためだ。
○
場面は決闘へ戻る。
「上等」だのと威勢のいいことを言ってはみたが、勝算の中身は至って地味なものだ。
三ヶ月やそこら鍛えたところで、五年生に正面から勝てるわけがない。魔力量の壁は努力でどうにかなる代物じゃない。それは旅館へ籠もる前から分かりきっていた。
ならば、格上を倒す手は昔から相場が決まっている。割合ダメージか、継続ダメージだ。相手の体力がどれだけ多かろうと、その一定割合を削るか、時間で確実に削り続ける。
今回選んだのは継続ダメージ。裂いた傷から血を流させ続ける裂傷のデバフだ。
問題は一つ。ただの裂傷なら回復魔法であっさり塞がれてしまう。だから俺は塞がらない傷――【次元傷】を仕込んできたわけだ。
回復魔法にも限界がある。傷口を接ぐことはできても、「失われたもの」そのものを取り戻すのは、それこそ高位も高位、俺たち剣士の手には到底あまる魔法の領分だ。この決闘の場にそんな術者はいない。
決闘のルールに「第三者からの一切の助力を禁ずる」と刻ませたのは俺だ。表向きは公正な一対一を装って。その実、狙いはただ一つ。場外から誰かにハイターを回復させる、その芽をあらかじめ摘んでおくためだった。
この一戦は始まる前から、盤面がこちらに傾くよう組んである。
○
もっとも、傷さえ入れれば勝ち、という単純な話でもない。
血が抜けきって相手が倒れるまでには時間がいる。長い持久戦になるのは目に見えていた。ならば、その時間をどう安全に稼ぐか。
護神流をわざわざ会得して受けの主導権を渡さなかったのも、奥義を狙っていると匂わせて膠着に持ち込んだのも、毒を疑わせて審判に足を止めさせたのも――何のことはない。全部、時間稼ぎだ。血が静かに抜けていくのを待つための。
種明かしを済ませた今は、もう取り繕う必要もない。
俺は護神流を捨てた。
攻撃を受ける必要がそもそも無いからだ。受けなければ返し技もいらない。俺はただ闘技場を軽く走り回り、ハイターの間合いから体一つぶん外へ、外へと逃げ続ける。
「ちょこまかと……! 逃げ回るしか能がないのか、貴様っ!」
ハイターの剣が空を斬る。届かない。当然だ。
やがて、あの男も気づいたらしい。自分が着込んだ上等の鎧。あれがいま致命的に重い。守りには申し分ないが、逃げる的を追うには鈍重にすぎる。
――そう。だから俺は、あんたに鎧を勧めたんだ。
「防具はご自由に」と下手に出て、あの一式を選ばせた。攻めきれない相手には過剰な守り。追いつけない足枷。この構図まで、盤の上にはとうに描いてあった。
「卑怯だぞ、タレント! 貴族の決闘で、逃げ回るなど恥を知れっ!」
いくらでも喚けばいい。恥も外聞も勝ってから拾えばいい。俺は表情を変えず、また一歩、間合いの外へ滑る。
○
時間が経つほど、ハイターの剣は荒れていった。
届かない苛立ちに、あの端正な護神流がみるみる崩れていく。しまいには守りも型もかなぐり捨てた、ただの力任せの振り回しだ。名家の剣とはとても呼べない。見るに堪えない。
だが、荒れた剣は荒れた剣で軌道が読みにくい。存外、厄介ではあった。
それでも俺の体は危なげなくさばききる。剣を弾き、いなし、逸らす。
――ああ、そうか。
ふいに腑に落ちた。
これは会長がつけてくれた稽古だ。旅館の後半、あの人は俺に護神流対策ではなく、剣術に頼らない地力をみっちり叩き込んだ。相手の型が崩れても、無手同然になっても、体だけで捌けるように。あの死ぬかと思った地獄のような特訓が今こうして俺を生かしている。
……会長には感謝しかないな。
旅館では散々、妙な役回りを押しつけられた。男であるのにヒロインよろしく、ラッキースケベをされる側にばかり回された。あれは正直、逆に助かった。もし逆――俺が迫る側だったなら、あの人はきっと俺を旅館ごと吹き飛ばしていただろう。指の一本でも触れれば消し炭にされる、あの緊張の中で、俺は毎晩、命の心配ばかりしていた。恋だの愛だのを気取る余裕なんてあるはずもない。
受け身で本当に良かった。心の底からそう思う。
会長をこのイベントの相手にした理由は、旅館に来るまでに会長の戦い方を目に焼き付けておきたかっただけだったのだが、一緒に閉じ込められたのは嬉しい誤算だな。
○
どれほど走り回っただろう。
ハイターの剣の振りが目に見えて鈍くなる。息が上がり、顔からは血の気が引き、剣先がふらりと下を向いた。
立っているのがやっとだ。当然だった。この一時間あまり、あの男はずっと頬から血を流し続けている。
「なぜ……当たら……」
最後まで言い終わらなかった。
糸が切れた人形のように、アブファイル・ハイターの巨体が鎧を鳴らして崩れ落ちた。ぴくりとも動かない。
しん、と静まりかえった闘技場に、審判の声が静かに響いた。
「――勝者、アイン・タレント」
会長の凛とした声だった。
その一言を聞いた途端。
張り詰めていたものがぷつりと切れた。
膝から力が抜ける。視界がぐらりと大きく傾いだ。……ああ、まずいな。継続ダメージだの何だのと偉そうに言っておいて、俺自身、【次元傷】に注ぎ込んだ魔力でとっくに空っぽだったらしい。強がりもここまでだ。
地面が迫ってくる。
受け身を取る力ももう残っていない。
――と。
倒れ込む体を誰かがそっと支えた。
やわらかく、それでいて揺らがない腕だった。顔を上げると、いつのまに審判の位置を離れたのか、会長が俺を抱き留めている。
いつもの生徒会長の澄まし顔ではなかった。もっと素の、ほっとしたような、それでいてどこか誇らしげな顔だ。
「――よく、頑張ったわね」
その一言で。
俺の意識は糸が切れたように暗転した。