序盤ボスの悪役貴族に転生したので裏ボスに媚び売ってたら婚約することになった件 作:三つ眼の荒木
「先方からたっての申し出があってな。願ってもない良縁だ。私の一存で承諾しておいた」
――は?
父が机の上に一枚の絵を滑らせてきた。若い娘の肖像画だ。俺はそれをしばらく眺めてから顔を上げた。
「誰ですか、これ」
本当に誰だよ。
「隣のゼーバルト男爵家のご令嬢だよ。リーゼ嬢という。お前の婚約者だ」
婚約者。その単語が頭に馴染むまで、たっぷり数秒かかった。
「ゼーバルト家とは先代からの長い付き合いでな」
父は上機嫌のまま続ける。
「辺境ではあるが、あそこは海に面していて海産物が豊富だ。爵位のわりによほど稼いでいる。うちが困ったときには何度も助け合ってきた仲でもある。その家と血縁を結べるんだ。願ってもない話だろう」
俺は膝の上で拳を握った。声が少し低くなる自覚があった。
「父上。手紙で事情はお伝えしましたよね」
「ああ、読んだとも。お前が学園でずいぶん活躍しているそうじゃないか。生徒会に入ったと書いてあった。いやあ、さすがは私の息子だ。あの神童ぶりは伊達ではなかったな」
「褒めていただくのはありがたいですが、話はそこではありません」
俺は肖像画を机に押し戻した。
「私が生徒会に入ったということは、アムストラクト公爵家の実質的な傘下に入ったということです。あの家の駒になったも同然だ。その駒の縁談を、主家に一言も通さず勝手に決められては困るんですよ」
「傘下だの駒だの、大げさな」
「大げさではありません。常識で考えてください。傘下に入った以上、私の婚約相手はアムストラクト家の差配で決まるものになるはずだった。それを飛び越えて別の家と縁を結べば、あちらの面子を潰すことになる。……どこの馬の骨とも知れない男爵家との絆より、公爵家との縁のほうがはるかに重い。分かりますよね」
我ながら、いい子ぶった言い方ではないと思う。だが本音だ。命がかかっているのだから、遠慮している場合ではない。
ところが父は、まったく譲らなかった。
「馬の骨とは失礼だぞ、アイン。ゼーバルト家は誠実な良家だ。あそこの塩漬けと干物はな、王都の店でも引く手あまたで――」
「ただの海産物が、公爵家との縁より魅力的なわけがないでしょう!」
思わず一蹴してしまった。父は一瞬きょとんとして、それから困ったように眉を下げる。
「……そう言うがな。私はもう、先方に良い返事をしてしまったんだ」
そら来た。
「今さら断れば、ゼーバルト家の顔に泥を塗る。長年助け合ってきた家に、伯爵家として不義理はできん。この話は、もう動かせないんだよ」
昔ながらの、義理と絆の人だ。こういう相手に理屈を積んでも無駄だと、俺はもう知っている。押せば押すほど、意固地に守りを固めるだけだ。
俺は短く息を吐いて、引くことにした。
「……分かりました。一度だけ、そのご令嬢にお会いします。先方の顔も立てましょう」
「おお、そうか! 分かってくれたか」
喜ぶ父を眺めながら、俺は頭の隅でまったく別の算段をしていた。
この件は俺の手には余る。勝手に断れば会長の計画とどこでどう噛み合うか読めないし、勝手に進めればそれこそ会長の不興を買って首が飛ぶ。ならば答えは一つ。持ち帰って、上に判断を仰ぐ。一度、学園へ戻ろう。
○
顔合わせそのものは、拍子抜けするほどつつがなく終わった。
リーゼ・ゼーバルト嬢は、おとなしい娘だった。辺境の男爵家の令嬢と聞いていたが、存外に整った顔立ちをしている。俺が学園の話をすると、大きな目を輝かせて身を乗り出して聞きたがった。都のことも、生徒会のことも、何もかもが珍しいらしい。悪い娘では決してない。むしろ素直でいい子だ。
いい子なのだが。
どれだけ頭をひねっても、この婚約に利点が一つも見つからない。海産物の売り上げがいくら立派でも、それで会長の機嫌を損ねる危険と釣り合うはずもない。天秤にかけるまでもなかった。
だからといって、その場で断る決定的な口実もない。相手に非は一つもないのだから面と向かって「あなたと結ばれる利点がない」とは、さすがに言えない。俺は当たり障りのない世間話でその場をやり過ごし丁重に礼を述べて辺境を後にした。
○
学園に戻り、俺はまっすぐ生徒会室へ向かった。
扉を開けると、会長のほかにベリエルとザネがいた。書類を挟んで何やら打ち合わせの最中らしい。
「ユリさ――会長。少しお時間をいただけますか。……できれば、二人だけで」
言った途端、会長がほんのわずかに強張った気がした。
「ここで話せないことなの?」
いつもの澄んだ生徒会長の声だ。けれど、こちらの目を見ようとはしない。……また、これだ。二人きりを避けられている。
「彼らは信頼できるわ」
ザネがにやりとし、ベリエルが小さく会釈した。
「ならば、この場で申し上げます」
どうやら二人きりにはさせてもらえそうにない。俺は腹をくくって、事の次第を話すことにした。
実家に呼び戻されたこと。父が俺に一言の相談もなく、隣の男爵家との縁談を勝手にまとめてしまったこと。
「これは、断じて私の本意ではありません。私は生徒会の一員であり、アムストラクト家の傘下の身です。その私の婚約を主家に諮りもせず進めるなどあってはならないことだ。父の暴走です。本当に申し訳ありません」
俺は頭を下げた。
「父はどうしても譲らず、私一人では止めきれませんでした。ですから判断を仰ぎに参りました。この件、どう処理すべきか。会長のご指示をいただければ、私はそのとおりに動くことができます。断れと言われれば断りますし、進めろと言われれば進めます。絶対にそのとおりにいたします」
とにかく俺は会長の駒だ。勝手なことは何一つしていない。その一点をこれでもかと強調しておく。
ちらりと会長の様子をうかがった。
表情は静かだった。ただ、その静けさの奥にひやりとするものがある。声を荒らげるでもなく眉を吊り上げるでもない。それでいて、部屋の温度が二、三度下がったような、確かな怒気。……恐ろしい。機嫌が良くないのは確かだ。
だから、念を押しておく。
「ユリさん、私の思いはあなたに会った時から変わっていません。決してあなたを裏切るつもりはありません」
俺の会長への思いは、初めて会ったあの日からこれっぽっちも変わっていない。
この学園でいちばん強く、いちばん恐ろしい後ろ盾。生き延びるために媚びを売り、その庇護のもとで安全に暮らす。それが俺にとっての会長という存在だった。
「重ねて申し上げますが、これは親が勝手に決めたことで、私の意思はどこにもありません。私は――」
「相手は」
会長が俺の言葉をぴたりと遮った。
「どんな人だったの」
俺は少し面食らいながら、リーゼ嬢のことを話した。おとなしくて、辺境の令嬢にしては器量が良く、学園の話を熱心に聞きたがる素直な娘だったこと。顔合わせそのものは正直退屈だったが、相手に落ち度が一つもなく、その場で持ち出せるだけの明確な断り文句がなかったので、あの場では断りきれなかったこと。
会長はそれを最後まで黙って聞いていた。
そして、一言。
「――私が、何とかするわ」
それだけだった。
「あなたは余計なことは何もしなくていい。追って通達するから、それまでおとなしく待機していなさい」
「……承知しました」
「話は以上よ。今日は早めに帰りなさい」
俺は一礼して逃げるように生徒会室を出た。
背中で扉が閉まると、詰めていた息がどっと漏れた。
生き延びた~~。
許してもらえたかはともかくこの場で処分されることはなかったようだ。これは会長の機嫌が直るまではなるべく視界に入らないでいるに限る。
……それにしても。あれだけ怒っていたということは、なにかしら思うことがあったということ。
俺も駒としてそれなりに評価されているんだろうか。
余計な仕事が増えて怒っているとかそんな緩い感じですむならいいが。