序盤ボスの悪役貴族に転生したので裏ボスに媚び売ってたら婚約することになった件 作:三つ眼の荒木
扉が閉まり、彼の足音が遠ざかっていく。
それを聞き届けてから、私はようやく詰めていた息を吐いた。
……油断していた。
認めたくはないけれどそうとしか言いようがない。ハイターとの婚約は破棄し、彼を阻む障害はもうどこにもない、と。あとは順を追って彼と結ばれるだけ。そう決まったつもりで、私はどこか浮ついていた。地に足のつかないまま、ふわふわと幸せな予定表を眺めていた。
その隙を突かれた。
どこの馬の骨とも知れない辺境の男爵家。名前も知らなかった娘。そんな相手に彼を掠め取られかけた。
自分の甘さに腹が立つ。そして、勝手に横から手を伸ばしてきた相手にそれ以上の怒りが湧く。
「ま、まあまあ、ユリちゃん」
私の顔色を読んだのだろう。ザネがいつもの軽い調子で間に入ってきた。
「アイン君に、その気はなかったんや。話を聞いたやろ。あれはただの親御さんの早とちり。情報の伝達ミスってやつやん。アイン君の父親かて事情を知ればそら公爵家との縁のほうを選ぶに決まっとる。せやから、そう気を揉まんでも――」
「その男爵家のご令嬢。名前は」
「え? ああ、確か……リーゼ・ゼーバルト嬢、やったかな」
ぱきん、と乾いた音がした。
私の手のなかで握っていたペンが真っ二つに折れていた。
ザネが口をつぐむ。
「……続けて?」
「いや。もう、ええわ。うん。何も言わへん」
私は折れたペンをそっと机に置く。
思い返せば彼は報告のなかでその娘のことをやけに褒めていた。
素直でいい子で器量も良かった、と。
……いい子。ええ、さぞ、いい子なのでしょうね。
彼は良識がある。この一連の原因は父にあり相手は悪くないと気を遣っているのは分かる。
しかし今はその良識に苛立ちを覚えてしまっていた。
けれど、その口で彼はこうも言った。顔合わせは、退屈だった、と。
――退屈。
その言葉が妙に胸に残る。
私の人生はずっと退屈だった。何をしても思い通りで驚きも悔しさも何もない。予定通りに進むだけの味気ない日々。
それが彼と出会って変わったのだ。
そんな彼との時間を私はどうしていたか。
これからの関係をそろそろきちんと話さなければ。
そう思って、二人きりになろうとして――そのたびに、恥ずかしくなって逃げていた。
ありもしない用事をこしらえて背を向けて。せっかくの時間を自分からつまらないものにしていた。
愚かにもほどがある。
「私は自分に腹を立てているのよ」
私は二人に静かに告げた。
「彼をこんな回りくどい騒ぎに巻き込んで。守れるはずのものを危うく取りこぼしかけて。……全部、私の詰めの甘さのせい」
「そ、そんなことないって。ユリちゃんは悪ないで。うん」
「ええ。会長は最善を尽くしておられました」
「取り繕う必要はないわ。これは私に対しての戒めとして言っているだけだから」
二人がうんうんと調子を合わせてくる。
「それはそれとして、こいつらがしたことは許されることではないわ。しっかりと痛い目にあってもらう」
二人の額には玉のような汗が浮いていた。私が抑えているつもりの怒気と漏れ出す魔力が、部屋の空気をじわじわと軋ませているらしい。
感情を整える。今は動くときだ。
「ザネ」
「は、はいっ」
「ゼーバルト男爵家について、今すぐ、洗いざらい調べなさい。家格も、内証も、弱みも、何もかも。朝までに」
「了解や。任しとき」
「ベリエル。明日の私の予定は、すべて空けて。会議、視察、来客、全部に断りの手配を」
「……明日の予定を、すべて、ですか」
ベリエルが、珍しく、目を見張った。
「さすがに、それは……。いったい何を――」
「なにってゼーバルト領に行く必要ができただけよ。少しお話を、ね」
その一言でベリエルは口をつぐんだ。長年私に仕えてきた男だ。「お話」がどういう性質のものになるか、正しく理解したのだろう。
「……かしこまりました。すぐに、手配を」
いい返事だ。
もう、迷わない。
彼だけは、絶対に、渡さない。
あの子は私の退屈を壊してくれた。私の人生を初めて面白いと思わせてくれた人。その彼との縁を、私の意思を飛び越えて、勝手に踏み荒らそうという者がいる。
――私が、かつて、そうされたように。
あの、ハイターとの婚約。家と家で勝手に決められ、私の気持ちなど誰も一度も尋ねなかった。あの理不尽を今度は彼に味わわせるつもりは微塵もない。
そのためなら手段は選ばない。公爵家の当主として使えるものは、権力も、財も、この剣も、何もかも使い尽くす。
「私も明日のために準備を進めるわ」
私は席を立った。
「ザネは朝いちばんに報告できるように。ベリエルは、こちらの準備を進めておいて。……いいわね」
返事を待たず私は生徒会室を出た。
○
――のちに、ザネとベリエルは口を揃えてこう語ることになる。
魔王軍の四天王と刃を交えたことも、命からがら逃げ延びた死地も、数えきれないほどあった。
それでも、あの日、生徒会室で会長の怒気を間近に浴びたあの瞬間ほど死に近づいたことは、後にも先にもなかった、と。
あの日を生き延びられたことのほうがよほどの奇跡だった、と。
○
会長に呼び出されたのは、それから三日後のことだった。
またあの時の続きかと身構えて生徒会室に入った俺に、会長は拍子抜けするほど落ち着いた声であっさりと告げた。
「例の縁談だけれど。先方からの申し出で破談になったわ。もう気に病むことはないから安心なさい」
破談。先方から。
どういう風の吹き回しか知らないが、あのゼーバルト家のほうからこの話を取り下げてきたらしい。
あれほど父が「もう動かせない」と言い張っていた話が、たった数日できれいに消えた。
……まぁ、十中八九というか確実に会長が何かしら手を加えたのだろう。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「それと、もう一つ」
会長は続けた。
「今週末、私が当主となったことを披露するパーティを開くの。あなたも父君を伴って出席なさい」
「承知しました」
「それから」
会長はほんの少しだけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
「あなたも、その場で社交界デビューをしなさい。……いいわね。悪いようにはしないから」
妙な念の押し方だと思ったが、逆らう理由もない。俺は素直にうなずいた。
○
その足で、俺はパーティの件を伝えに実家へ戻った。
ところが、屋敷で出迎えた父の様子がどうにもおかしい。
どこか思い詰めたような妙に落ち着かない顔で、俺と目が合うたびに何か言いかけては口をつぐむ。
「父上? どうかされましたか」
「……いや。今は、まだいい」
父は、重々しく首を振った。
「アインよ。今度の社交界の当日。お前に大事な話がある。……覚悟をしておきなさい」
覚悟。
何のことかも知らされず覚悟もないけれど、いったい何のことだろうか。
縁談は無事に片づいた。会長の機嫌もどうやら直ったらしい。厄介事はあらかた過ぎ去ったはずだ。それなのに父のこの深刻な顔は、どうしたことだろう。
俺はほっと胸を撫で下ろしながらも、その一方で頭の隅で必死に考えを巡らせた。
大事な話。覚悟。社交界の当日。
……駄目だ。いくら考えてもまるで見当がつかなかった。
次回最終回