「ふぁぁ~~」
始業式の朝、小波は隠しもせずに大きなあくびをする。
「お前も徹夜か?」
「いやそこまでは・・・って好雄、お前大丈夫か?」
隣の席、早乙女好雄はぐったりと机に横たわっていた。
「フッ、燃え尽きたぜ。真っ白によぉ・・・」
「写しただけなのに徹夜なのか?」
夏休みもあと数日という時に好雄が泣きついてきたので、自力でやったのではないという事はわかっていた。もっとも小波もギリギリにならないとやらないタチなので、貸す事はできなかったのだが。
「お前も友達がいのないやつだよなぁ・・・」
ああ、あと何日かあれば。とかブツブツ言っている。
「何日あっても変わらないと思うけど」
「その分だけ遊べるだろ」
「あ、そっちね」
「聞いてくれよー。休みの間中ウチに親戚の子供が来ててやれ海だー遊園地だーと付き合わされて、ずっとガキのお守だぜ。まいったよ」
「そー言うわりには、いい色だけど」
苦笑しながら小波は言う。
紫外線に気を遣う昨今、小学生でもそんなに焼かないだろうってぐらい、好雄の肌はこんがり焼けていた。
「そりゃ出かけるからには、キッチリ遊ぶに決まってんだろ。これが可愛い女の子と一緒とかだったらもっと良かったんだけどなー」
「へいへい」
「そーいう満はどっか行った?」
「いや、お前がらみで出かけた以外は・・・」
少しずつ、声が小さくなる。
「合宿ぐらい・・・かな」
「で、どーするんだ?」
部活で悩んでいる事は好雄も知っていた。
「うーーん」
相変わらず夜の練習は続いていたし、3本入ったら辞めると決めたフリースローもまだ成功していなかった。
「あ、藤崎さん。そのヘアバンド新しいのでしょ」
答に詰まる男を尻目に好雄は、席に近づいてきた女生徒に声をかける。
「前のも良かったけど、これも夏服に合ってていいんじゃないかな」
「そう? ありがとう」
藤崎詩織は微笑む。
学年のアイドル・・・いや、すでに学校全体のアイドルとなろうとしている詩織の笑顔だったが、幼なじみの小波は見慣れたもので、それよりも好雄の発言に不思議そうな顔をしていた。
「おいおい、これぐらい判れよ! 男なら細かい所にも期を配るもんだぜ」
「ふふ、ムリよ好雄君。昔からこういう事にはまるで気が利かない人なんだから」
全てを把握したような口調に、幼なじみってのは羨ましいもんだな、と改めて好雄は思う。
ちなみにヘアバンドは、濃い目の水色からパールホワイトといえるような白に近い水色に替わったのであるが、小波は「わかるかンなもん」と一言だった。
「そうそう満君、私の英語のノートは?」
「さっき一緒に出してきたけど、なんかまずかった?」
「ううん、それならいいの。今度はちゃんと自分でやりなさいね」
「いやー課題2コあったのすっかり忘れててさ。助かったよ」
今度は好雄が首を傾げる番だった。
「プリントと、教科書の長文を訳すって課題だったろ」
「あーそういえば」
「そういえば・・・って、好雄君やってないの?」
「出さないとあいつうるさいぜ」
「大丈夫大丈夫、授業の時までにやっときゃいいだろ」
「でも明日、英語の授業あるわよ」
「ウソ!?」
「いやホラ」
新しい時間割を見せると、好雄は奪い取ってまじまじと見る。
「ーーー満! ノート貸して!!」
胸の所で手を組んで、潤んだ目で小波を見つめる。
「悪い、出した」
「藤崎さん!!」
「・・・ごめんなさい」
「だから一緒に出したって」
「がぁぁぁ~~~ん」
多少大げさに頭を抱えて好雄は机に崩れた。
「いや、まだ出してない奴がいるはずだ!」
ガバッと起き上がったかと思うと、教室中を駆け回る。
「・・・相変わらずだなぁ」
そんな好雄を見ながら呆れたように言うと、横から笑い声がもれる。
「好雄君が急に『こいつを何とかしてくれ』って家に来た時は驚いたわ」
「ああ、伊集院のパーティーの時か。ごめんな、俺は別にいいって言ったんだけど、好雄が・・・」
落ち込む小波を見兼ねて、気分転換にとムリヤリ連れ出されたのだ。詩織もその理由までは知らなかったが、彼が気を落としているのには気づいていたので、パーティーに出るための服を見立てるのを手伝った。
「でもすごいパーティーだったわよね」
「まぁ、暇つぶしとしては面白かったけど」
詩織は今の小波を見て、安心したように微笑む。
「しっかし当の好雄が服装チェックに引っかかって、中に入れなかったのは笑ったよな」
「だめよ、そんな事言っちゃ」
そう言いながら、詩織も笑っていた。
* * *
「満・・・おい」
好雄は体をゆする。
「・・・好雄、お前は左サイド行けよ・・・・」
つぶやく小波の席へと長身の男性が近づいて来たので、好雄は急いで体を前に向ける。
「小波」
男は机に伏せている生徒の名を呼んだ。
「パスっ!!」
(あちゃー)
好雄は天井をあおいだ。
「こーなーみ!!」
「はい!?・・・・あれ? 先生・・・」
目を覚ますと、教師が腰に手をあてて目の前に立っていた。
「小波、夢の中まで練習か?」
教室中がどっと笑う。
「は・・・はははは・・・」
「部活は?」
「えーと・・・バスケです」
小波はやっと、自分の状況を飲み込む。
「そうか、ほどほどにしとけよ」
ポンと教科書で頭を叩いて、教師は黒板の前へと戻っていった。
(ふぅ、助かった)
小波は痛くもない頭をさすって前を見る。
いつもなら話の面白い教師の授業なのだが、今はただ覚えられそうもない人物の名前や年数が眠りを誘うだけだった。
「ふぁぁ~~~」
やっと休み時間になり、大きな伸びをしてそのまま机に倒れる。
「よくこんな所で眠れるものだ」
「ふぇ?」
小波は夢の世界へ入りかけていた意識をムリヤリ現実に引き戻す。顔を上げると伊集院レイが彼を見下ろしていた。
伊集院はわざとらしくため息をつくと、いつもの調子で言葉を続ける。
「どうせ睡眠時間を削ってまで、無駄な努力をしているのだろう。そこまでしなければいけなんて庶民とは悲しいものだな。しかし、授業中に寝るなんて繊細な僕には考えられないね。その図太い神経を僕にも少し分けてもらいたいくらいだ。いやはや、まったく関心するよ」
「・・・はぁ、そりゃどうも」
間の抜けた返事だった。
「なっ・・・・」
伊集院は絶句する。
隣で一部始終を見ていた好雄は、笑いをこらえるのに必死だ。
「失礼する!」
「・・・なんだかなぁ」
去っていく伊集院を、好雄は呆れながら見送った。
「満、お前もいつものように何か言い返せよ」
「なにが?」
本人はいまだよく分かっていなかった。
(まだ公園に通っているのか)
早足に廊下を移動しながら爪を噛む。小波の反論がなかったことが、何故かレイを苛立たせていた。
(・・・ほんの戯れだ)
夏休み中で、時間に余裕があったから行っただけの事だ。それも片手で足りる回数。
(どうせすぐに忘れる)
彼も・・・自分も。
* * *
「・・・今日も、来ないのかな」
寝転んで見上げる月は、日々その身を増していた。
「うしっ!」
かけ声を上げて、ぴょんと飛び起きる。
「もういっちょやっていくかぁ」
コートに再びボールの音が響くのだった。
* * *
「それじゃ、5分休憩ー」
コーチの言葉に、部員はそれぞれコートを離れる。
小波も体育館の端で仰向けになった。
鉄骨の天井とそこに引っかかったボールが1、2コ見えるぐらいの味気ない景色に、小さくため息をつく。
「ぐえっ」
「あ、悪ィ」
腹部に衝撃を受けて体を起こすと、バスケ部でもとりわけ小柄な男が立っていた。
「わざとでしょ雪沢さん」
「だと思ったら、踏みやすそうな腹オレの前にさらすなよ」
腰に手をあてて、何故か得意げだ。
中学生と言っても充分通用する容姿だが、これでも小波の1コ上、二年の中でもけっこうな実力の持ち主である。
年上を「さん」で呼ぶのはバスケ部内の慣習だった。試合中に「先輩」では長すぎるからだ。しかし補欠にすら入れない小波にとっては、今のところ慣習以外の何物でもなかったが。
「・・・すいませんね」
小波は避けるように壁側を向いて横になる。
「なんだよソレ」
雪沢は壁を蹴った。
「なんで雪沢さんが怒るんスか。踏まれたのはこっちですよ」
小波は起き上がって雪沢を見下ろす。一応言葉はていねいだが不機嫌極まりない顔で、ともすればつかみかかりかねない雰囲気だ。
「オメーのその態度を言ってんだよ」
雪沢も負けずににらみ返す。
「ちょ、なっ、何やってるんですか」
長身の男があいだに割って入った。二人を軽く見下ろせる身長だが、おろおろと視線を往復させるだけだった。
彼の腕の隙間から雪沢は言う。
「お前、やる気あんのか」
「・・・・・・」
小波はそれに答えることはできない。
「オレには、ただ部活に出てりゃいいっていう風に見えるけどな」
「雪沢さん、それは言いすぎじゃないですか?」
「森岳は黙ってろ。いいか小波、そんなんじゃ部活に来ても来なくても同じじゃないのか」
小波は無言でうつむく。
「雪沢さん」
「うるさい、黙ってろって言ったろ!」
「あの・・・練習始まりますけど」
「あ、やべっ」
コートには部員が集まり出していた。
コーチの言葉を待たずに、それぞれ次の練習の準備をしている。
「・・・小波」
体育館の隅には一年生二人が残る。
「お前も行けよ」
「でも」
「いいってば」
「・・・わかった」
森岳は振り返りつつコートに戻っていった。
いい奴だ。
けれど、小波より背が高く、小波よりジャンプ力があり、小波よりプレイが上手い・・・。今はその優しささえも
恨めしく感じられた。
小波はコートに背を向ける。
出口へ向かおうとしたところを、後ろから呼び止められた。
「小波、ちょっといいか」
「キャプテン・・・」
二人は体育館横で日陰に腰を下ろし、中庭を眺めていた。キャプテンは静かに口を開く。
「どうした、合宿の辺りから調子悪いみたいだけど」
「・・・雪沢さんにも言われました。練習に来なくても同じだって」
キャプテンは困ったように笑った。
「あいつも思ったことすぐに口に出すからな。悪いな、あれで悪気はないんだ」
「いえ、本当の事ですから。・・・それに、俺みたいにヘタな人間がいたら迷惑ですよね」
「・・・それ、本気で言ってるのか」
小波はゆっくりと顔を横に向ける。キャプテンは先程までの柔らかな印象はどこにもなく、真剣な顔つきで小波を見つめていた。
視線を中庭の方に戻して、小波は言う。
「だって・・・だって皆上手いじゃないですか。森岳だって中学の時から強いチームでやってきてるし、俺なんかじゃ逆立ちしても追い付けないですよ」
「そうかな、オレにはそんな格差があるとは思えないけど。小波はスタミナもあるしセンスも悪くないと思う」
「でも・・・」
「でも、本人がそう思うなら一生追い付けないだろうな。雪沢が言いたかったのは、そういう事じゃないかな。それに強くなりたいって気持ちは大事だけど、それだけじゃないだろ?」
「・・・・・」
「あれ、もう帰り?」
昇降口、聞き慣れた声に振り向く。
「部活フケてきたとか」
好雄に痛いところを突かれ、小波は「まあね」と曖昧な返事をする。
「んじゃ、なんか喰ってこうぜ」
好雄の提案に特に異論もなく、二人は近くのファーストフード店に入る。場所と時間的にもその客のほとんどが制服姿だった。知り合いの顔を見つけ、軽くあいさつをかわしながら二人は奥の席に腰を落ち着ける。
学校の事、テレビの事、とりとめのない雑談をする。そんな中、ふと会話が途切れた。
好雄はイスの背に持たれてコーラをすすり、まっすぐ小波を見る。
「で、どーすんだ」
「・・・なにが?」
がしゃ、と氷の音をさせてコーラを置き、好雄はふたたび口を開く。
「今日の授業もほとんど寝てただろ。かと思えば、うつろな目で部活行くし・・・なんか、取り憑かれてるみたいだぜ」
「取り憑かれてる・・・」
「そーだよ、やつれてきたし・・・ホントどーしたんだ?」
「・・・・・」
彼女が来ない。
学校が始まった頃から一度たりとも姿を見せていなかった。もう少ししたら来るかもしれない、あと少し、あと少し・・・と思ううちに、3時、4時を過ぎることも少なくなかった。
「悩み事があるんなら、いつでも聞くぜ」
「好雄・・・」
小波はまっすぐと好雄を見つめる。
「金、貸してくれる?」
「そーだ、オレ急用あったんだ!!」
「ごめん、冗談だって」
トレイを持って帰ろうとする好雄を引き留める。
気持ちは嬉しかったが、彼女の事だけは好雄にも言えない気がした。それに説明しろと言われても、小波は練習する、それを彼女が見る、ただそれだけの事だった。
好雄は振り返りつつ横目で小波を見る。
「そりゃ、バスケの事はオレにゃ分かんねーけどさ」
「バスケ・・・」
「あれ、違った?」
「あ、いや。・・・そうだな、もうすぐキリつけるよ」
「やっぱり辞めんのか?」
「・・・多分」
「そっか」
好雄は席に戻り、びしっと指を突きつける。
「何でもいいけどな、お前に寝られると隣のオレまで寝るワケにいかないだろ!?」
「・・・お前なぁ」
小波が苦笑するとそれを見て好雄も笑った。
「・・・さんきゅ」
そう小さくつぶやくと、聞こえたのか聞こえてないのか、好雄は壁の方を見ながらゴゴッとコーラを飲み干す。
いつも通りの友人に、小波も普段の自分をやっと取り戻した。
「なんだか喰い足りないな。もう1コ食べようかな」
「オレもオレも。あ、でも金あったっけ?」
好雄が確認しようとすると、いやに可愛らしいキーホルダーがサイフからこぼれた。小波は身を乗り出す。
「ああコレ? ホラ前に親戚のガキが来てたって話しただろ。遊びに連れてった時に『土産』って買ってよこしたんだけど、地元の人間に土産はやらないよな、フツー」
「可愛いとこあるじゃん」
「冬休みにまた来るんだとさ。ヒトん家を旅館か何かだと思ってやがる」
そう言うわりには、まんざらでもなさそうな顔だ。なにより、その土産をわざわざ付けて歩いてるのが言葉と矛盾している。
好雄はサイフをポケットに戻しつつ立ち上がった。
「さて、オレはポテトだけにしとくけど、お前は?」
「それじゃ、とんかつバーガー」
「オッケー」
小波の分の代金を受け取ると、好雄はレジの方へと向かう。
(・・・休みの間だけ遊びに?)
「あ!!」
「ど、どうした?」
「休みだから・・・この街に来てたんだよな」
「は? そりゃそうだけど」
(彼女がきらめき市の人間じゃない・・・)
ひどく現実的な答えだった。
(でも、そう考えてみればそうだ)
9月に入ってから全く来なくなったし、街で見かけたことなど一度もない。現実的じゃなかったといえ実体だ。ただの人間なのだ。
「ははは・・・そっか、そうだ帰っちゃったんだ・・・」
肩を落とす小波に、好雄は「ガキ共が?」と不思議な顔をしていた。
* * *
「今日も出かけるの?」
玄関で靴を履いていると母親が声をかける。
胸のところで腕を組んで、どう見ても好意的ではなさそうだ。
「別にいいだろ」
「今朝だって起きられなかったでしょ。毎晩3時とか4時に帰って来て、いい加減体壊すわよ」
「・・・うるさいな」
小波はボールを持って立ち上がる。
「せめて、朝早く行くとかできないの」
「それじゃ意味ないんだよ」
「?」
「・・・行ってきます!!」
「あ、満!」
(なにも今日言わなくてもいいだろ)
ムカムカとしながらウィンドブレイカーを脱ぎ捨てる。
いつものように軽くストレッチをして体を整えるが、心の中は乱れていた。
雑念を振り切るように頭を振る。そのとたん、めまいを起こし膝をつきそうになった。
「・・・取り憑かれてる、か。そうかもな」
体力も限界にきている。
「くそっ」
ボールを投げるとリングの真ん中を通り抜けた。
自分でも何に対して苛立っているのか分からなかった。
ただそれをボールにぶつける。
体調が悪いわりにシュートは良く入った。
『やる気あんのか』
(畜生)
『いい加減にしなさい』
(俺の気持ちなんて分かんないくせに)
『無駄な努力はやめたまえ』
「うるさい!!」
ボールは音もなくリングに吸い込まれた。
小波は跳ねるボールを見つめる。
「入った・・・・」
三本連続のシュートが。
「入った」
決まったら部活を辞めようと思っていたフリースローが。
「入れて・・・しまった」
判っていた。
半月以上通っていて、確率から言っても入らない方がおかしい。これを入れたら終わりだという想いが、無意識にシュートを外させていたのだ。
崩れるように寝転がると、目の前にはバスケットボールのような月が出ていた。
まっすぐと手をのばす。
握ってみても、手のひらは空をつかむばかりだった。
「届かない・・・か」
手には届かぬもの。
そのどちらも諦めねばならない時が来ていた。
「・・・・・」
眩しすぎる月を腕でさえぎる。
目をつぶってみても、月はそこに映っていた。
* * *
満月の下。
彼女が降り立つ。
俺の元へとゆっくりと歩く。
「・・・どうして」
膝を折り、顔を覗き込む。
「どうしてそこまでするの」
悲しげな瞳。
「体壊したら何にもならないのに」
ウインドブレイカーを俺に掛ける。
微かに、甘い香りがした。
「・・・・・」
彼女は立ち上がる。
長い髪が流れ落ちる。
「私は月に帰らなければなりません」
彼女は背を向け、空を見上げた。
「月を見たら私を思い出して下さい」
いやだ。
そう叫びたいのに声がでない。
振り返り、彼女は笑った。
「さようなら」
体も動かない。
「・・・・・」
彼女はゆっくりと歩き出す。
待って・・・。
「待って!!」
「きゃぁ!」
小波が起き上がると、目の前には目を丸くした彼女が座り込んでいた。
「え・・・」
小波はただ彼女を見つめる。
視線を止めたまま、右手をゆっくりと顔に近付ける。
バチッッ
「!?」
「・・・夢じゃない」
ヒリヒリと痛む頬をさすりながら静かにつぶやいた。
立ち上がって、改めて彼女を見る。
バサ、とウインドブレイカーが落ちた。
「来てくれたんだ」
「・・・・」
彼女は目をそらしてうつむいた。
「よかった、てっきり帰ったんじゃないかと」
「?」
「君がこの街の人じゃ・・・いや、いいんだそんなこと」
彼女がここにいる、今はただそれだけだった。
* * *
「満、満!!」
ドンドンとドアが叩かれ、小波は重いまぶたを上げる。
「はいはい、起きるよ、起きるってば!」
右手で枕元の目覚ましを探りながら返事をする。
やっとのことで目当てのものをつかみ、顔の前に持ってくると一気に目が覚めた。針はとっくに8時を過ぎている。
「ごめん、母さんも今起きたのよ」
急いで着替えをして居間に降りると、母親もバタバタと朝食の支度をしていた。
「いいよ、朝メシなんて」
「少しでいいから食べていきなさい」
「そうだ、朝御飯はすべての基本だからな。と言うわけでオレは途中で買ってくから」
「いってらっしゃい、気をつけて!」
父親が走り抜けるのを見送った後、母親はもう一度息子に言う。
「授業に間に合えばいいでしょ、食べていきなさい」
「・・・それもそうかな」
腰を下ろすと、昨日の残りの煮魚とみそ汁が目の前に出される。
いつもは見る事のないテレビ番組が流れ、台所からは母が家事をしている音が聞こえる。なんだか先ほどまでの慌ただしさがウソのようだった。
母は二人分のお茶をテーブルに置き、自分も座る。テレビを見ながら小さくあくびをした。
「・・・ごめん」
「なにが?」
母親は持っていたお茶を置いて微笑む。その目は赤かった。帰宅時間を知ってるというのは、当然自分もその時間は起きているということだ。
小波はご飯をかき込んだかと思うと、茶碗を置いてその手元を見つめる。
「・・・俺、夜の練習やめたほうがいいかな」
ズズ、とお茶をすすり母は息子を見る。
「昨日みたいに早く帰ってくるなら、母さんは構わないけど」
早いと言っても1時ではあったが。
「それと朝はちゃんと起きる、授業も真面目に受けること、いい?」
「・・・わかった」
連日の居眠りが親の耳に入っていないはずがなかった。
こういう時にしっかり持ち出してくる辺り、母親には適わないなと小波は思う。
「それから赤点は取らないこと」
「ちょ、ちょっと待った! それは関係ないだろ」
「なに言ってんの、期末テストもギリギリだったでしょ。それぐらい約束してもらわないと」
「・・・せめて赤点2コまで!」
「却下します」
「それじゃ1コ!! これはまけられない!」
腕を振り上げて必死に抵抗する息子に、母は大きくため息をつくのだった。