月夜の魔法   作:さとうばけ

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2年生 4月 ふたつめの魔法

「せんぱーい!」

 振り返ると、廊下の向こうからしっぽ・・・ポニーテールを振って、女の子が駆けてきた。

「先輩、今日も部活出ないんですか?」

 バスケ部の後輩、早乙女優美は髪をゆらしながらたずねた。

「だって、コレだし」

 そう言って小波は右腕を上げてみせる。が、肩の辺りまでしか上がっていない。

 優美はしっぽをたれ下げ、「ガッカリ」の文字を背負った。

「でも・・・こないだは来てたじゃないですか」

「軽いアップだけね。全然ついて行けないし、こんな状態で部活に参加しもジャマになるだけだから」

「そんなことないです!」

 優美はにぎりこぶしを作って力説する。

「優美、お兄ちゃんから先輩のこと聞いてて、ゼッタイいっしょにプレイするんだって、思ってたんです。だから・・・」

「でも、女子と男子だから、一緒にプレイはできないと思うけど」

「あ、そっか。・・・でもいっしょにバスケしたいんです!!」

「あ・・・う、うん」

 優美の迫力に押されて、なんとなく返事してしまう。

「ケガが治ったら、優美とプレイしてくださいね。約束ですよ!」

 なぜか指切りまでしてしまった。

「みつるー。ゲーセン行こうぜー」

「出たなーショアクのコンゲン!!」

 優美は光線でも出すように、クロスした腕を現れた男に向けた。

「誰が悪だ。誰が」

 優美の兄であり小波の悪友、好雄が眉をよせる。

「先輩をダラクの道に引きずりこまないでよ!」

「なに言ってんだ。ケガしたときぐらい、ゆっくり休ませるのがコイツのためってもんだろ。たまにはまっとーな高校生活ってのを味わわせてやろうじゃないか。

バスケバスケバスケ、そんな人生なんてむしろ健全じゃないぜ」

「お兄ちゃんみたいな不健全のカタマリが言っても、説得力ないもん! 先輩は、優美とバスケの星を目指すんだから」

「なにィー」

「べぇーだ」

「・・・・あ、俺、用事思い出したから。それじゃ!」

 くるり、と背を向けて逃げ出す。

「おい、満!」

「センパイー!!」

 

 

 中庭からグラウンドに抜ける小さな階段に腰かけ、小波は何ともなく景色をながめていた。

 すぐ目の前の球技場ではサッカー部が練習している。

「・・・・はあ」

 出るのは、ため息ばかりだった。

 グラウンドに見える運動部、小波も一ヶ月前までは同じような毎日を過ごしていたはずなのに、今では遠く切り離された世界のようだ。

 時々にぶく痛む腕が気を重くさせる。

左腕や脚の痛みは引いたが、右腕は「痛みに慣れた」だけだ。少し動く程度では、普通の生活にもほど遠い。

こうしていると、もう一生まともに動かないのではないかと思えてくる。

好雄に連れ出されて気がまぎれたのも始めのうちだけで、思うようにならない日々は、部活どころかこの世界から取り残されたような気さえした。

 練習に打ち込む光景を見て、またため息をつく。

「・・・ごめんなさい、そこ、どいてもらえるかな?」

「え?」

 ふり返ると、ジャージ姿の女子が大きなヤカンを抱えて立っていた。

 小波が座っているのは階段の途中だ。

「あ、ごめん!」

 あわてて立ち上がって場所を空ける。

 大きな目が印象的な女生徒はニッコリと笑った。

「ありがと・・・きゃあっ」

「おっと」

 彼女がつまずいたので右手で支えようとした。しかし痛みが走って腕が上がらず、体全体と左手で受け止める。

それは、ほとんど抱き合う形だった。

「ご、ごめんなさい!」

「あ、いや、その。こちらこそ」

 二人は赤くなって離れる。

「えっと・・・それ、グラウンドまでだろ。持つよ」

 小波は照れかくしに、彼女の持っていたヤカンに手をかける。

「あ、ダメ! 満くんケガしてるんじゃなかったっけ!?」

「平気平気。左手は大丈夫だから、ほら」

 小波はヤカンを持つと、さっさと球技場へ進む。

「そんな・・・ゴメンね。それじゃ部室まで・・・」

 サッカー部の部室にヤカンを運び終えると、彼女・・・マネージャーの虹野沙希は心配そうに小波をのぞき込んだ。

「ゴメンね。ケガしてるのに運ばせちゃって」

「なーに、これくらい持ったウチに入らないって。片手でできる仕事ならなんでも請け負うよ」

 力こぶを作っておどけてみせると、虹野は心配そうなまま微笑む。

「それじゃ、イスを二つ出してくれるかな?」

「あいよっ」

 左手と足を使って、パイプイスをならべる。

 虹野は小波に座るよううながすと、コップを差し出した。

「お礼と言ってもスポーツドリンクぐらいしかないけど」

「ありがとう」

 小波はそれを左手で受け取った。

 虹野も座ってドリンクを口にすると、上目づかいにたずねる。

「・・・ねえ、ケガ大丈夫? 筋痛めたんだよね」

「大丈夫大丈夫、あんまり痛まなくなったから生活にも困らないよ」

「でも、右腕使えないって大変でしょ」

「いやー、意外と左手だけでもなんとかなるもんだよ。ハシも少しは使えるようになったし。

始めのうちは笑っちゃうぐらい腕動かなかったけど、いったん動くようになったら日ごとに良くなってきたし、来週ぐらいには部活にも出られるんじゃないかな」

 明るく答える小波と対称的に、虹野の表情は不安げなままだった。

「治りかけってムリして逆に痛めたりするから、気をつけてね」

「少しマシになった時にちょっと部活に出たら、医者にしかられてさ・・・いや、しかるとはちょっと違うかな」

「?」

「体痛めてる時って自然とそれをかばうように動くから、姿勢悪くなったり変なクセついたりするけど、『さらに痛めたり選手生命縮めたところで、お前の責任だから好きにしろ』だってさ」

「・・・すごいお医者さんね」

「バスケするなって言われるよりよっぽどこたえたよ。

ま、右腕以外はほとんど治ったからさ、サッカー部の助っ人ならいつでも呼んでよ」

「ふふ。満くんならいつでも歓迎するわよ」

「・・・そういや去年、サッカー部に勧誘されたよね。いきなり『国立競技場を目指しましょう!』だもんな」

「そ、その話は忘れて」

 虹野は恥ずかしそうに顔に手をあてる。

「あの時は一所懸命な人がいるって聞いたから、ぜひサッカー部に!って思っちゃって。

ゴメンね、バスケ部に入ってるなんて知らなかったから」

「あの頃は俺も、バスケ部でちっとも活躍してなかったからな。・・・今もそんなに変わらないけど」

「そんなことない! 満くんがんばってるじゃない。三学期ごろから試合で活躍してるって評判だよ。あの時うちの部に勧誘できなかったのが残念なくらい」

 虹野は身を乗り出して力説する。 

「大丈夫、ケガが治ったらまた活躍できるよ、がんばって!」

「・・・うん、ありがとう」

 その言葉に、沈みっぱなしの心が軽くなった。

 突然、虹野は口を押さえる。 

「ああーっっ、いけない!」

「な、なに?」

「あんまり『がんばれ』って言わない方がいい、って言われたばっかりだったのに」

「・・・どうして、がんばれって言っちゃいけないんだ?」

「プレッシャーをあたえる言葉でしょ。頑張りたくても頑張れない人もいるし、一所懸命やってる人にさらに頑張れ、とか。無責任な言葉じゃないかって言われたの。

私が皆にプレッシャーかけてたと思うと、なんだか言うのがこわくなっちゃって。今だって、ケガしてるのに『がんばって』なんて・・・」

「俺はそうは思わなかったけど」

 少なくとも今は、その言葉に元気づけられた。

 小波は左手で頭をかく。

「がんばれって言葉には『ハッパをかける』ってのと『応援してる』って二つあると思うけど、虹野さんは応援してくれてるのが分かるし、結局は受け取る側の問題じゃないかな。

『がんばって』って言葉がプレッシャーに感じるなら、他の言葉をかけても同じことだと思うよ」

「そう・・・なのかな」

「言葉だけだったら確かに無責任な感じもあるけど、虹野さんはそれだけじゃないだろ?

そばにいて、サポートして、心から『応援してる』ってのが分かるからさ、虹野さんに励まされた人も多いと思うよ。

言葉にしなくても分かることってあるし、近くで見守ってくれるだけで支えになるけど、それに言葉がプラスされるともっと力になるんじゃないかな。せっかくしゃべれるんだから。

俺みたいにケツたたかれないとやらない人間だと、プレッシャーかけられる『がんばれ』でもいいんだけど。

それに・・・」

 いったん言葉を切ると、虹野を見て笑う。

「それに、運動部のマネージャーが、がんばれって言わないのは変じゃない?」

「そうね・・・うん、そうだよね」

 虹野はかみしめるようにうなずいた後、ふふっと笑う。

「なんか、逆に励まされちゃったな」

「励ましてくれてたんだ」

「あ、そんなつもりじゃないけど、・・・ちょっといつもと違ってたから」

(まいったな・・・)

 弱音を冗談でごまかすのは小波のクセだ。

毎日顔を合わせているわけでもないのに、落ち込んでいる所を見抜くのはさすがマネージャーと言うべきか。

彼女が運動部のアイドルと呼ばれるのも分かるような気がした。

 虹野は立ち上がると、小波の手元をのぞき込む。

「おかわり、どう?」

 コップの中は半分以下になっていたが、軽く手を上げて断る。

「・・・そういえば、これって手作り?」

「サッカー部特製ドリンク! ・・・なんてね。先輩から教わったのを少しアレンジしただけで、基本は売ってるスポーツドリンクなんだけど」

 座りなおすと、ほとんど減ってなかった自分のコップに口をつける。

「市販のドリンクって甘味が強いから、水を倍にして薄めた方がいいのよ」

「ふーん、そうなんだ」

 改めて飲むと、たしかに甘味はおさえられている。

 運動後なら、何杯でも飲めそうだ。

「・・・あのさ、ほとんど甘くないスポーツドリンクってある? 塩味が少しするぐらいの」

「うーん、どうかな? 最近はあんまり甘くないのも出てるみたいだけど・・・。そういうのを探してるの?」

「あ、いや、ヒトからもらったんだけど、名前とか分からないし」

「私も探してみようか?」

「いいよいいよ。ちょっと気になっただけだから」

 練習の時に「彼女」が持ってくるドリンクが、自分の体に合っているような気がして探してみたけど、それらしきものは見つからなかった。

 残りを飲み干すと、小波は腰を上げる。

「ごちそうさま」

「私もそろそろグラウンドに行かなきゃ」

 二人で部室を出ると、サッカー部員が土煙の中で懸命に走っている。

 素直に、「うらやましい」と思った。

「サッカーか・・・腕使わないでも、できることっていくらでもあるよな」

「あっ、うちの部に来てほしいってのは冗談だからね。たしかに満くんだったら戦力になるだろうけど、せっかくバスケがんばってきたんだから、その・・・」

 虹野が必死になるものだから、小波は吹き出す。

「いや、・・・・脚もほとんど治ったから右腕使わない練習ならいいかな、って話だったんだけど」

「ごっごめんなさい! 私ったら」

「ううん、ありがとう。バスケ部の補欠にあきたら、サッカー部に来るよ」

 さっきまでの不安を隠した冗談ではなく、本当の笑顔に、虹野も微笑む。

「うんっ」

 ピピィィーーッッ

 笛の音がして、「休憩ー!」という声が聞こえた。

「あっ行かなきゃ! それじゃ、満くんもがんばっ・・・・」

 虹野はハッと言葉を止め、小波と目を合わせて笑う。

「がんばってね!」

 

     ***

 

「・・・で、岩城センセ。右腕使わない練習ならいいでしょ? 脚もほとんど治ったんだからさ」

 寝グセのついたごま塩頭の医師は「ふうん」とつぶやき、老眼鏡をずらして患者を見る。

 立ち上がって右腕を取ると、水平に持ち上げた。自分で動かすことはむずかしいが、動かされることに対して痛みはない。

 今度は背中側へとゆっくり動かす。

「いでででっっ」

「こっちはまだ痛いか」

「いやでも、普段の痛みはマシになったし、夜中に目を覚ますこともなくなったから」

「ほう、」

 ぐいっ、と太ももをつかむ。

「鍛えてるな」

「・・・軽い筋トレは、少し」

 強い痛みが引いてからは、腕にひびかない程度のトレーニングはしていた。鍛えるというより、そうしていないと不安だったからだ。

 医師は興味なさそうにイスに戻り、カルテに何か書き込む。

「ま、いいだろ」

「ホントに!?」

「右腕使わないで、てのはムリな話だけどな。動くときには必ずバランス取るようになってるから。

激しい運動じゃなきゃそれほど右腕にひびかないだろうが、ま、痛い思いするのは自分自身だからな」

 ひと言多い。

 けれどいまの小波には「体を動かせる」という喜びの方が大きい。バンザイでもしたい所だったが、いまはムリな話だ。

「岩城先生」

 両ひざに手を置き、改めて医師に向き直る。

「なんだ、キモチ悪いな」

「・・・俺が、ここに来た日のことなんだけど」

 あの日、小波が意識を取り戻したのはここの待合室だった。

 そして小波の横には、不良たち。

 ほどなくして目を覚ました不良は、口々に「もうしません!」「今日のことはサッパリ忘れました!」と、逃げるようにして出て行った。

 いったい、小波が気を失っている間に何があったのか。彼女はどうしたのか、と。

「前も言ったが、物音がすると思って見たらウチの前にお前らが倒れてた。それだけだ」

「人影とか、どんな物音だったとか、何かなかった?」

「さあな」

「それじゃ・・・・」

「あのな、ここは治療する所だ。用がないなら帰れ、ジャマだ」

「・・・すいません、お願いします」

 あきらめて素直に治療を受ける。

 赤外線を照射されながら小波は、もう一つ突破しなければならないものを思い出して気が重くなった。

 

 

「また練習、始めるって!?」

「・・・・うん」

 歓迎ムードにはほど遠い母親に、言葉をにごす。

「まだ腕痛いんでしょ。治ってからじゃダメなの?」

「右腕使わないで練習するんだよ。センセからも許可出たし」

「本当に?」

「・・・ああ」

 するどい眼差しに、たじろぎながらも目を見返す。

「どうしても、行きたいの?」

「どーしてもってワケじゃないけど・・・」

 けれど、その目には「行きたい」と書かれている。

「・・・・・・早めに、帰ってくるのよ」

 あきらめたように母は言う。

 決心したら、そう簡単に折れないのはよく分かっていた。

「母さん、おかわり」

 ブレイクしたところで、父親がビール瓶を持ち上げる。

 母はひとつため息をついて、台所へと消えて行った。

「あれで母さんも、いろいろ言いたいのをガマンしてるんだ」

「・・・ああ」

 ケガして帰って来た後に根掘り葉掘り聞いてきたが、「ケンカに巻き込まれた」としか言わない息子に、一応は納得したようだった。もちろん、夜の外出禁止は忘れなかったが。

 一方父親は、「勝ったのか?」の一言だけだった。しかも嬉しそうに。

「次は勝てよ」

 父は握り拳で息子を見送る。

「次はないって」

 多分、と心の中で付け足して玄関を出た。

 自転車にまたがり、グリップを確かめる。

(・・・大丈夫、)

 右腕もヒジから先は動くから、この角度なら問題はないはずだ。食後の痛み止めも飲んだし、気にするほど痛くはない。

 久しぶりの自転車はぎこちなく進み、中央公園へと着く。いつもの専用入口前はなんとなくよそよそしい感じがした。

 いままで来ようと思わなかったわけでもないが、痛みでそれどころじゃなかったのが半分、気が重かったのが半分だった。彼女を守ることができなくて、どんな顔をして会えばいいのだろうか。

 小波は大きく息を吸い込むと、入口前の茂みをかきわける。

「あ・・・・」

 入口はふさがれていた。

 正しくは、壊れた柵が修理されていた。これでは入ることができない。

「・・・・・」

 しばらく立ちつくす。

(・・・・・・入口がないなら、しょうがないじゃないか)

 入れなくたって、

 練習ができなくたって、

 彼女に会えなくたって・・・

(そうだよ、腕が治ってからでもいいよな)

 急に気持ちがゆらぐ。

 母親相手に意固地になっていた理由も、もう思い出せない。

(ずっと来なかったのに、今日彼女がいるわけもないし)

 いいわけを重ねてみても、退がることも進むこともできなかった。

 

『・・・・・・ごめんなさい・・・・』

 

 突然目の前に、あの日の彼女がよみがえる。

 夢か現実かもはっきりしないけれど、

(・・・・・・泣いてた)

 悲しそうな瞳で。泣いていた。

 小波は柵を見上げる。

 高い。

 乗り越えるには少し高いが、今はそれ以上に感じられる。

 それでも、乗り越えなくてはいけない。

 会って、あやまらなくてはいけない。

 左手で右手を持ち上げる。

 目の前の柵をつかみ、左手は上にかけた。

「よし!」

 地面をける、と同時に、背中にぐいっと負荷がかかった。

「おわっ!?」

「きゃあっ」

 手がはずれ、やわらかなクッションに転がる。

「うわ、ご、ゴメン!!」

 下のクッションは彼女だった。

 小波を振り向かせようと手をかけた時に、飛び上がってしまったらしい。

 あわてて立ち上がり、彼女を助け起こす。

「大丈夫?」

 彼女は体をはらい、微笑んだ。以前と変わらぬ彼女がそこに居る。

「その・・・ごめん」

 彼女は笑って首を振る。

「そうじゃなくて・・・・」

 小波は目をふせる。

「・・・ごめん・・・・・・本当に、ごめん・・・」

 ひと月前の感情がよみがえる。

 悔しくて、苦しくて、情けない。

 なにかが手に触れた。見ると、ふたつの手が小波の手を包んでいた。

 彼女はやさしくほほえみ、首をふる。

「・・・・・・・」

 涙が出そうになった。

 あわてて柵の方を見て、鼻をすする。

「そ、そうだ、ここの入口が使えなくなってるんだ」

 茂みをよせて、かつての入口を見せる。

 そこにあった空間は、もうない。

「俺は上を越えて行けなくもないけど、君は・・・」

 小波の服を引っ張ると、ニコッと笑い道路の方を指差す。

「・・・他の入口から入れるとか?」

 首を振る。

 よく分からないまま彼女について行くと、どうやら大きな道路の方へ行こうとしているようだった。

「もしかして、他の場所へ行く?」

 うなずく。

「そこって、ここから遠い?」

 少し考えたあと、首をかしげた。

「ちょっと待って」

 さっきの入口に戻ると、植え込みのカゲから自転車を出す。

 彼女はそれをめずらしい物のように、しげしげと見つめた。

(もしかして、自転車知らない?)

 浮世離れした彼女のことだ、それも考えられると小波はサドルに座り荷台を軽くたたいた。

「ここに座って」

 おそるおそる腰を下ろし、小波の上着をつかむ。

 それを確かめると、小波はゆっくりとペダルをこぎだした。

「!」

 速い。

 彼女が初めて乗った乗り物は、歩くよりは速く自動車よりはずいぶんと遅い、その程度の認識しかなかった。実際にそれほどスピードは出ていないはずだが、流れる景色と風に驚かされる。

 「体感速度」という言葉と共に、知っていたのはその単語の表面だけだったと気づく。

 小波と出会ってからたくさんの初めてと出会った。世の中のことはほとんど知っていたはずなのに。

 そう、彼女は「知っていた」だけだった。

 いくら本を読んでも、この景色と風を知ることはなかっただろう。

(・・・・不思議)

 つかんでいた小波の服をぎゅっとにぎり、もたれかかる。

 何ヶ月か前までは触られるのも嫌だったはずなのに、今こうしているのは不快ではない。

 それどころかみずから手をにぎるなど、以前の彼女には考えられないことだった。

(はっ!)

 景色が車窓と違って見えるのが印象のせいだけではないことに気づき、あわてて服を引く。

「ん、なに?」

 ゆっくりと自転車は止まり、小波はふり返った。

 彼女は頭の中の地図をたどり、右の方を指す。

「むこう、に曲がるの?」

 ハンドルを切って方向を変える。

 ガタン!

「きゃっ」

「ぐわっっ」

 段差で自転車がゆれ、上着をつかんだまま彼女の体がかたむいた。

 それは小波の首をしめる結果になる。

「あの、できれば腕をまわして、俺につかまってくれないかな。ゆれて危ないし」

 むしろ危ないのは小波の方だ。

 前を向き改めてハンドルをにぎると、彼女はそっと腰に手をまわしてきた。

 走り出すとまもなく、また段差がある。

 ガタン!

 ぎゅっ、と抱きつく。

(・・・む・・・・・・・・・・・)

 ペダルをこぐ脚に力が入る。

 自転車は加速し、ライトの動力がギュウウウウーとうなりを上げる。

 振り落とされないように彼女はさらにしがみついた。

(む・・・・・むむむむむむむむ胸がっっ!!)

 背中の感触に全意識が集中され、自転車はどんどんスピードを上げる。

「きゃ・・・」

 景色はめまぐるしく流れ、曲がるはずだったカーブも後へ飛んでいく。

 彼女はあわてて服を引いた。

 しかし小波は気づかない。

「・・・えいっ!」

「ぐあっ!?」

 キキーッ!

 急ブレーキで自転車は止まった。

 再び首をしめられて我に返る。あわてて振り返ると、彼女は涙目になっていた。

「ご、ごめん! 俺・・・その、考えごとしてて!」

 彼女は大きく息を吐くと、後ろの方を指す。

「曲がるとこ過ぎちゃったのか。ごめん」

 気づくと街灯も減り、すっかり郊外に来ていた。

 小波は自転車の向きを変えると、左ほほをバシッとたたく。

(落ち着け、俺!)

 両手でたたくより威力が小さい分、右手の使えないもどかしさをこんな所でも思い出す。

 今度はスピードをおさえて走り出した。極力、背中に当たるものを気にしないようにして。

 彼女の教える方へ曲がる。と、その景色を見て小波はあることを思い出した。

(あれ、この辺って・・・・)

「もしかして、こっち?」

 彼女の合図の前に分かれ道を右に入る。そうするとまもなく、大きな建物が見えてきた。

 自転車を止めると、ここが答えだったように彼女は荷台から降りた。

 小波は建物を見上げる。

「・・・ここでバスケができる、とか?」

 丸みの帯びた建物の中ほどに、施設の名前が書かれてある。

 『伊集院総合スポーツセンター』

 たしかにここならバスケットコートの一つや二つはあるだろう。

 けれど建物は沈黙していた。大きなガラス戸から見えるエントランスは、ところどころ小さな誘導灯がついているだけで、営業時間はとうに過ぎているようだった。

「あ、ちょっと!」

 彼女は入口前を素通りし、わきにある小道を奥へと入って行った。

 小波も自転車を置いて後を追う。

 建物の横を抜けると、ストライプの模様が入った透明のカベの向こうにバスケコートが見えた。

 すぐそこにある入口に手をかける。

 ガチャガチャ、とノブを回してみるがやはり開かない。他に入口はないかと見回すと、彼女は向こうの角にうずくまっていた。

「どうし・・・」

 小波が近づくと、彼女はそっとカベを動かす。

「あっ」

 小さな空間ができた。

 模様にかくれた小さなドアは、ゴミ箱のカゲになっていて普通ならまず気づかないだろう。

 目を丸くしていると、彼女は人差し指を口にあてていたずらっぽく笑う。

 その微笑みは星明かりに照らされ、小波はまばたきを忘れた。

「・・・・・・・・・」

 はっ、と気付くと彼女はカベの向こうにいた。小波もあわてて後につづく。

 しゃがんでやっと通れるぐらいの戸を抜け、ゴミ箱の後ろに立ち上がる。

 ハーフコートが2面、奥の建物側には通常のコート、右手にはテニスコートがいくつもあるようだった。

 彼女がコートに踏み出すと、パッと電気が灯る。

「!?」

 反射的にゴミ箱のカゲに身を隠す。

「もどって! 誰か来たのかも!!」

 しかし彼女は隠れる気配もなく、小波は連れもどそうと走り出て腕をつかむ。

 彼女はクスッ、と笑った。

「へ?」

 小波の腕を払い、右手にゆっくりと歩き出す。

 バスケコートの辺りだけついていた明かりが、一歩踏み出すと同時にテニスコートにも灯る。

 一歩、また一歩と、彼女の歩くままに体を照らした。

 まるで、舞台の照明のように。

 まるで、魔法のように。

「・・・・・・・・」

 途中で足を止め、ふわりとスカートをひるがえして振り返る。

 ゆっくりともどってくると、小波の前で微笑む。

 そういえば、誰も出て来ない。

 建物も暗く沈黙したままだ。

「・・・・そうか」

 小波は駆け出す。

 暗闇に足を踏み出すとライトが照らしだす、彼女が歩いた時と同じように。

 半分以上暗かったテニスコートが、小波と共に光の面積を増やしていった。

 答えが分かれば何のことはない、動く人を感知して電灯が点くようになっているだけのことだった。

 小波はコートの端まで行ってカベに手をつくと、彼女のもとにもどってくる。

「・・つっ・・・」

 右腕に激痛が走る。

「大丈夫大丈夫」

 泣きそうな顔で駆け寄ってきた彼女に、何でもない、と両手を振る。

 二の腕を動かさないようにしたところで、痛みが治まるはずはなかった。しかし、あの時のケガがまだ痛むなんて思わせてはいけない。

(・・・嘘・・・・・・・)

 彼女は知っていた。それが虚勢だということを。

「えっ!?」

 小波の右手を両手で包む。

「い、いや、ホント、ケガとかじゃないから」

 彼女は知っていた。痛みで苦しんでいた日々を。

「そのっ・・・・」

 自分のせいで痛めてしまった右手をほほに当て目を閉じる。

「・・・・・・・」

 祈るような彼女に何も言えず、小波はただ見つめる。

 右手から伝わってくる温もりと、その謝罪を、小波は受け止めることしかできなかった。

 

「!?」

 突然、視界が暗くなった。

 あわてて見上げると・・・・星があった。

 透明な天井の向こうに、星空が広がっている。

 そういえば、空を見上げることを忘れていた。右手をかばって前かがみになり、うつむき、下ばかり見ていた。

「・・・すげー」

 久しぶりに見た星空はやけに美しくて、少しだけ泣きたくなった。

 倒れこむように地面に転がる。

 と、同時にライトが点いた。

「あ、そうか」

 ははっと笑って、ぎこちなく体を起こす。

 改めて空を見上げると、うっすらと星はそこにある。

「ここ気に入ったよ。ありがとう」

 笑いかけると悲しげだった彼女もゆっくりと目を細め、笑顔を返してくれた。

 小波はまた寝転がり、空を見上げた。

「よし、またがんばるぞー」

 

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