タクティカル祓魔師 十河病院探索   作:西口

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 正門は開きそうになかったが、フェンスの一部が切り取られていて、中に入ることは容易だった。しかし、ぬかるんだ地面を這うように進まなければいけないのはなんとも不愉快で、幾人か、特に女子たちは不平を口にする。

 

 全員がくぐり終わったところで、寒い、と誰かが言った。

 夏の盛りも近い七月の末、夜になってもじめじめと蒸し暑い季節であるというのに、たしかに妙な肌寒さがあった。呼気が白く染まるほどではなかったが、まるで秋風に晒されているかのように、肌が粟立つ。

 

 ひどく気味が悪かったが、帰ろうといいだす人間はいなかった。桜田(さくらだ)奈央(なお)だけは内心でそう願っていた。このとき、ただ一人彼女だけが正しく危険を察知していた。

 が、声に出すことはしなかった。和を乱すこと、もっと言えば輪の中心にいる菰田遥(こもだハルカ)と意見が対立するのを恐れていたためだ。

 

 そうして、一行は敷地の奥へ奥へと進んでいく。目の前には、かつて十河病院といわれたものがそびえたっていた。

 

 コンクリートで固められた、三階建ての建物が二つ。部屋数の多さから、どうやらそこが入院棟らしいことがうかがい知れる。

 二階部分から渡り廊下が伸びていて、それぞれ診療棟へとつながる構造をしているようだったが、その渡り廊下が両方とも半ばからへし折れていて、今は吹き抜けの残るばかり。残骸は撤去されているのか、周囲には見当たらなかった。

 

 荒れ果ててはいるものの、五〇年間放置されていたにしては、不自然なほどに形を保っている。しかしひと気のなさがうつろな印象をより強めていて、病院というよりも巨大な墓標を思わせる。

 

 院長室見てみようぜ、と提案したのは榎宮俊(えのみやシュン)だ。「ここまで来たんだし、しかたない」といった態度の一行の中で、彼だけが乗り気だった。

 人慣れした快活さと相反するように、インターネットに投稿された怖い話を読むのが趣味だった彼は、人生初めての肝試しに浮かれていた。誰よりも先頭を歩き、誰よりも怖がり、誰よりも楽しんでいた。だから、誰よりも先に死んだ。

 

 扉が撤去されていた診療棟の中には、いくつか落書きが散見される。一行が初めての侵入者ではないことがうかがえた。いつの時代も「心霊スポット」という言葉は人を引き付けるようだ。先人の痕跡は、俊以外の人間も仄かに勇気づけた。

 

 懐中電灯のわずかな光が照らす中を進んでいく。室名札がないため、どこが何のための部屋かはわからないが、最上階の奥まったところがきっと院長室だろう、と適当にあたりをつけた。

 薄汚れた木造の階段を上る。それは不気味な軋みをあげるものの、やはり崩落することはない。果たしてたどりついた二階の突き当りには、それらしい重厚な扉があった。

 

 ここでもやはり先頭に立っていた俊は、意気揚々と扉に手を掛ける。

 しかし、それを引き開けるよりも早く、内側から飛び出してきたものに押し倒された。

 

 友人たちの目に、それは大げさに驚いてひっくり返ったように見えていた。つまんないからね、と相澤(あいざわ)千絵(チエ)は冷めた声をかける。しかしくぐもった悲鳴を上げ、手足をばたつかせる俊を見て、徐々に状況を理解し始めた。

 

 それは、一見してただの影にしか見えない。しかし懐中電灯のライトに晒されると、それ自体が後方に影を投射する。実体があった。厚みがあった。そして人の形をしていた。それは今、人間で言えば頭の部分を、俊の口の中に無理やり押し込んでいる。

 

 その直径は彼の口のそれを明らかに上回っていた。みし、みし、ぶち、という生々しい音が、俊のもがく騒音に混じって響く。呆けていた友人たちも、尋常でないことが起きていることだけは肌で理解し、何が何かもわからぬまま、それを引きはがそうとした。

 

 しかし、無駄だった。

 遥が俊の体を引っ張ろうとしても、まるで張り付けられたかのように微動だにしない。離れろ、と叫んで影を蹴り飛ばそうとした宮坂(みやさか)浩二(コウジ)の足が空を切る。

 そのままバランスを崩した彼を、新たに一体、二体を現れた影が引きずり倒した。

 

 離せという言葉は、瞬く間に助けてという哀願に変わる。次に布瀬(ふせ)隆則(タカノリ)が駆け寄ろうとした。しかし恋人の千絵がそれを押しとどめる。危ないからやめろ、と。その言葉だけで、布瀬はしつけられた犬のように足を止めてしまった。

 

 浩二の哀願は続く。ゴキン、と顎が外れて、冗談のように広がった俊の口の中に、影はとうとう肩をねじ込もうとしている。それをとどめようとする遥の奮闘は何一つ実を結ばない。

 逃げよう、と奈央が言い出す前に、千絵と隆則は逃げ出していた。しかし彼女はそちらを見もしなかった。その言葉はただ一人、遥だけに向けられていた。

 

 信じられない、といったような表情を浮かべる遥。しかし奈央は無理やり肩を引っ張って立たせる。抵抗はなかった。目の前の異常な光景は、頑固な彼女をして俊はもう助からないと理解させるものがあった。

 

 そして、まもなく浩二もそうなる。それは明らかだった。

 

 奈央に手を引かれるまま、遥はその場から走って逃げだした。ごめんねという呟きに、浩二は罵声で返した。しかしそれもすぐにくぐもったうめき声に変わる。

 

 遥は涙を流しながら、奈央の手を強く握る。

 それは場違いなまでに温かかった。

 奈央は顔色を蒼白に染め、混乱しながらも、同時に出どころのわからない高鳴りも感じていた。

 

 

 

『ご不便をおかけして申し訳ありません。こちら、境界対策課です。現在、当地域は境界異常発生の疑いにより【六時二四分】まで立ち入りを制限させていただいております。ご了承ください。ご不便をおかけして申し訳ありません――』

 

 深夜一時の暗闇の中で、式神(ドローン)が唱える人払いの(しゅ)が殷々とこだまする。O市の郊外に広がる雑木林は、常ならぬ喧騒と明るさに包まれていた。

 

 道の半ばに数台の車が止まっている。

 

 幾人かの人間が忙し気に、あちこちを行ったり来たりしている。ある者は投光器を設置して視界を確保し、ある者は電話やメールで外部とのやり取りをし、またあるものは金属探知機にも似た機材を持って、周辺を歩き回っていた。

 

 彼らは揃いの白い防穢服(ぼうえふく)に身を包み、『境対』と書かれた腕章を付けている。それが環境庁神祇部環境対策課――境対の職員の証であると、多くのものは一目でわかるだろう。

 そんな彼らの間を縫って、踏み鳴らされた道を行けば、突如としてそれは現れる。

 

 診療棟が一つ、通常のものと、産婦人科専用の入院棟が合わせて二つ。そこに非常用の発電施設を合わせた合計四棟の建物が、広い敷地内に点在している。往時は一〇〇人の婦人が、そこで出産までの準備を、あるいは産後の不調を癒すための静養をしていたという。

 

 もう、五〇年も前の話だ。

 今やそれらの建造物は、見る影もなく朽ちて、崩れている。

 

 かつて十河病院と呼ばれた廃墟は、今は崩れた塀ごと錆の浮いたネットフェンスに囲まれて、外界から隔絶されている。正門は固く閉ざされ、さらに南京錠と鎖によって戒められていた。

 

 鎖には看板がぶら下げられていた。

「私有地につき立ち入り禁止」「施設老朽化につき危険」となんとか判読できる。

 風雨にさらされたせいかインクはほとんど流れ、木の下地は半ば腐っている。流れた年月がうかがい知れる有様で、長い間、ここに人の手が入っていないことを表していた。

 

 しかし、それらの更に外周をぐるりと囲う、一本の縄は場違いなまでに真新しい。

 

 一見すると麻縄のように見えるが、塗装でそれらしく装っているだけのビニール製。そこからは、糸字型に切られた紙垂(しで)が等間隔に垂れ下がり、風にあおられてひらひらと揺れている。

 

 注連縄。それによって区切られた空間の、内と外を区別するための祭具。結界の主要な構成要素の一つだ。それも、境対のそれとは違って、かなり古式ゆかしい様式の。

 

 それは神祇部によって「丙種結界」と定義されるものの一つだった。

 視覚を欺瞞する認識阻害の結界。本来ならば、外部にいる人間はそこに結界があることすら知覚できないはずだった。

 明らかに、十全な効果を発揮しているとはいいがたい。立ち働く職員たちは、一人の例外もなくその存在を認識している。

 

「君にも見えているな、伊澄(いすみ)祓魔師?」

 少し離れた位置から、それらを観察する二つの人影。彼らにも、やはりそれは見えている。

 一人はスーツ姿の男。三〇代も終わり際といったところだが、無精ひげを伸ばし、ネクタイを緩めたさまは、いささかだらしなく映る。後頭部で括ったぼさぼさの髪が、しっぽのように揺れている。

 

「はい、確認しています。高槻(たかつき)神祇官」

 そう応じたもう一人は、まだあどけなさの残る少女だった。

 歳の頃は十代半ば。まだ高校生になったばかりといったところだろうか。背丈はやや小柄で、短く切りそろえられた髪と、化粧っ気のなさが、幼げな印象をより強めていた。

 しかし、相貌だけは不相応なほどに鋭く、そして冷めていた。

 名を、伊澄(いすみ)夜刀(ヤト)という。

 

 両者とも、職員たちと同様に境対の腕章を身に帯びている。しかしその場においては、ヤトのみが純白の狩衣(ジャケット)を羽織っていた。

 

「祭具の状態からみて、あの結界が施工されたのはここ数年のあいだと思われる。当然神祇部は承認していない。数日前に発見され、地権者と接触しようとしていたところだったんだが」

 男――高槻(ひのえ)はちらと視線を動かす。その先には、境対の公用車に混じって、一台のミニバンが停車していた。

「何者かが結界を突破した。君には侵入者の正体を探ってほしい」

 

「結界の即時解体を具申します。その方が安全に接触できると愚考いたしますが」

 違法に施工された結界であれば、たとえ私有地内であろうと、強制的に解体する権限が境対にはある。しかし高槻はヤトの提案を却下した。

 

「清掃班でもマル呪でもなく、祓魔師(キミ)が派遣された理由を考えてほしい。現在、結界内部では境界異常――『界異』が発生している疑いがある。漏出してきた「穢れ」が、結界外でも検知されているからな。同時に、「境界」は安定している。いま結界を解体すれば、さらなる「穢れ」の漏出を招く恐れがある」

 

 結界には、主たる目的がどうあれ、内と外を隔てる性質がある。幽世(あちら)から流れ込んできた「穢れ」を、内側に押しとどめるように働くことも、決して珍しいことではない。

 

「境界異常の原因調査、および修祓。そして侵入者との接触。これを並行して進めるのが、今回の君の仕事だ。理解できたか?」

「……考えが至りませんでした。撤回します」

 ヤトが軽く頭を下げた。気にするなと高槻は応じながらも、彼女の表情を見て言うまでもないことだと察した。すべて承知のうえで、形式的な確認をしたに過ぎないと。

 

 ――異様なまでに、落ち着いている。

 

 高槻がヤトと会ったのは今日が初めてだったが、その簡単なプロフィールは知っている。

 血筋(バックボーン)なし、特定神性の加護なし、特筆すべき祭具適性もなし。だというのに、歳は祓魔師の下限年齢である一六歳。何らかの才能はあるのだろう。

 しかし不相応な全能感、高揚感。それとは逆の恐怖や緊張感。特に若い新人にありがちな、そういった気負いが彼女からはまるで感じられない。本来ならば数度の実戦、一度の死線を経て削ぎ落されるべきものが、初めからないのだ。

 

 身内を『界異』に殺された復讐、というのとも違う。そういう手合いも珍しくはないが、往々にして戦闘に対する昏い喜びを覚える傾向にある。しかし、ヤトにはそれすらない。

 子供としては不気味極まりなく、祓魔師としては申し分ない。そして神祇官の職掌において、必要なのは後者だった。

 

 高槻は余分な思考を打ち切り、一枚の紙片を取り出す。

 

 人型に切り抜かれた紙だった。形代紙(かたしろがみ)という、式神をはじめとした様々な呪術の媒介となる祭具である。高槻が放り投げられると、まずはひらひらと風に舞い、次に徐々に燐光を帯び、やがてそれに逆らいはじめ、ついには宙を泳ぎだす。

 そしてヤトの肩口に乗るような位置で、静止した。

 

「連絡用の式神(ドローン)を一柱、随行させる。定時連絡は欠かさないように。……以上、質問はあるか?」

「一つだけ」

 ピンと立てた人差し指で、ヤトはベルトに差した「得物」を叩いた。

 

「侵入者が呪詛犯だった場合、対応は一任されていると認識してもよろしいでしょうか?」

 

 その言葉も、やはりただの確認作業なのだろう。どこまでも平坦な響きだった。

 内心を悟られないように、高槻はただ一言だけ「かまわない」と返した。

 

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